丹波太郎と愛宕山 ハルカスを遠望 2020年~2025年の千日詣

一昨日、2015年(平成27年)7月21日の話。Aさんと愛宕山を登山。
台風が遠ざかったからというよりは、新たな台風が近付いている影響でしょうか。
7月19日頃から遠くまで見えやすい日が続いており、この日も朝のうちはとくに条件よく、知人が六甲山系から撮影した写真には大峰山脈の稜線が明瞭に写っていました。
私たちが愛宕山を登ったのは、それよりやや遅れ、お昼頃から午後にかけての時間帯。
今にも雨が降りそうなお天気ではありましたが、雲間に覗く空の色は青く、空気そのものは澄んでいることが窺えます。
当初は山の上から台高山脈や大峰山脈まで見えていましたが、涼むために風通しの良い場所を求めながら、あちらこちらと展望地めぐりをしているうちに、遠くの高峰は雨雲に巻かれて姿を消していきます。
Aさんが「1時間ごとに見える山が減っていく」と評されていましたが、まさにそのような1日となりました。
見えていた時間帯に紀伊山地の高峰を撮影しておけばよかったと後悔しましたが、その後も京都の街並みはクリアに見えており、暑い夏場としては十分すぎる展望を楽しむことができました。

愛宕山 三角点峰からの展望、眺望

夏の京都を一望

愛宕山の展望 三角点峰から眼下に夏の京都を一望 2015年7月
愛宕山の三角点峰から眼下に夏の京都を一望する。

主な山距離標高山頂所在地
大文字山16.9km465.3m京都市左京区
音羽山22.1km593.1m京都市山科区
(滋賀県大津市)
千頭岳
(東千頭岳)
23.9km600m京都市伏見区
滋賀県大津市
本宮ノ峰
(奥醍醐山)
23.9km476.0m京都市伏見区
空鉢峰
(鷲峰山)
36.0km682m京都府相楽郡和束町

やや分かりにくいですが、大文字山の「大」の字跡(火床)も見えていますね。
大文字山の後方には湖南の阿星山が、醍醐山地の遠方には布引山地や青山高原なども写っていますが、今回は京都盆地(山科盆地を含む)を囲む山々のみ山名を示しておきます。
京都タワーは本宮ノ峰の手前(さらに東山の連なりの手前)ですが、広角で撮影した写真では分からないでしょう。
愛宕山から見ると、大文字山と如意ヶ岳の山頂が重なって見え、より後方に所在し、わずかに標高も高い如意ヶ岳のほうが目立ちますが、上の写真では手前の大文字山を示しておきます。

今年の台風第11号が四国や本州を縦断して、すでに数日が経ちますが、うねる桂川(大堰川)の流れがいまだに濁っています。
この前日(7月20日)、つまり、「海の日」に金勝アルプスを登りましたが、台風通過から2~3日程度では水量も衰えておらず、落ヶ滝や白糸の滝もいつになく激しく打っていました。

愛宕山の三角点は京都を広く一望できる好展望地ですが、生駒山や金剛山が見えません。
続いて、月輪寺分岐から少し下った地点、俗に「京見岩」などと呼ばれる展望地にも立ち寄ります。
こちらからは生駒山や金剛山が見えていましたが、それより遠くの大峰山脈は見えなくなっていました。
この「京見岩」の展望地からは、視界の右端(南西)ぎりぎりに大阪の「あべのハルカス」やOBP周辺のビル街が見えますが、それより西の高層ビル群やコスモタワー、大阪湾の海は見えません。

すでに蓬莱山や武奈ヶ岳の山頂域は発達した雲の中に隠れており、愛宕山の上空も不穏な黒い雲が広がっています。
ここは迷いどころ、雨が降り始めたら下山する予定でしたが、「京見岩」の展望地から「あべのハルカス」らしきビル影が見えていたため、近年、私がよく訪れている大阪方面の展望地へ向かうことに。

愛宕山・地蔵山分岐 亀岡・大阪展望地から

あべのハルカス、OBPビル群を遠望

愛宕山の亀岡・大阪展望地から和泉山脈、あべのハルカスを遠望する 2015年7月
愛宕山の亀岡・大阪展望地から和泉山脈、あべのハルカスを遠望する。

主な山、建築物距離標高
(地上高)
山頂所在地
三国山
(一乗ヶ岳)
79.0km885m大阪府和泉市
和歌山県伊都郡かつらぎ町
(大阪府河内長野市)
大石ヶ峰
(大石ノ峰)
80.9km860m大阪府岸和田市
大阪府和泉市
和歌山県伊都郡かつらぎ町
葛城山
(和泉葛城山)
81.5km858m和歌山県紀の川市
大阪府岸和田市
大阪府貝塚市
あべのハルカス47.6km(300m)大阪市阿倍野区

暗い写真ですが、OBPビル群、あべのハルカス、大阪長居スタジアムなどが写っています。
とくに示していませんが、OBPビル群は中央にTWIN21、その右にクリスタルタワー、逆の左にキャッスルタワーなど。
あべのハルカスとクリスタルタワーの隙間に大阪城の天守閣も写っていますが、上の写真では分からないでしょう。

視点を少し右に動かすと、中之島や梅田の高層ビル群が見えますが、そこは端折り、さらに視点を右へ。

関西国際空港、コスモタワーを遠望

愛宕山から紀泉アルプス、関西国際空港、コスモタワーを望む 京都市 2015年7月
愛宕山の亀岡・大阪展望地から紀泉アルプス、関西国際空港、コスモタワーを望む。

主な山、建築物距離標高
(地上高)
山頂所在地備考
雲山峰92.1km489.9m和歌山県和歌山市紀泉アルプス最高峰
大福山93.1km427m和歌山県和歌山市
大阪府泉南郡岬町
俎石山92.5km419.9m大阪府阪南市
大阪府泉南郡岬町
和歌山県和歌山市
飯盛山
(和泉飯盛山)
(泉南飯盛山)
94.4km384.5m大阪府泉南郡岬町
りんくうゲートタワービル
(→SiSりんくうタワー)
78.6km(256.1m)大阪府泉佐野市
大阪府咲洲庁舎51.3km(256m)大阪市住之江区コスモタワー

やはり暗い写真ですが、なかなか興味深い山や構造物が数多く写っています。
参考程度に場所を示しておきましたが、りんくうゲートタワービル(→SiSりんくうタワー)は分からないでしょう。
りんくうタウンから関西国際空港を繋ぐ関空連絡橋が写っており、右端の海上には関西国際空港も写っています。
紀泉アルプス(紀泉高原)の雲山峰と大福山の間、上空には飛行機の姿も。
「関空連絡橋」と示している文字の手前には、目立つ2本のお洒落な煙突、おなじみ、舞洲スラッジセンターと舞洲工場の煙突も見えています。
大阪港、大阪南港の周辺では、コスモタワーは見えますが、天保山大観覧車が見えません。

やや引いて広角気味に大阪方面を。

亀岡盆地、大阪平野 方面

愛宕山・地蔵山分岐から眼下に亀岡盆地、遠くに大阪平野を望む 京都市 2015年7月
愛宕山・地蔵山分岐から眼下に亀岡盆地、遠くに大阪平野を望む。
手前が亀岡盆地、間に摂丹国境・北摂の山々を跨いで、その向こうが大阪平野です。

木々が伐採されて以降、この撮影地点は見晴らしがよくなり、ちょっとした高原気分を味わえるようになりました。
きわめて風がよく通るため、強い風が吹く日であれば夏場でも涼しく、三角点や「京見岩」の展望地と異なり虫も少なく、個人的にお気に入りの場所です。
樒原や神明峠から巡礼峠を経て愛宕山を登るコース上、地形図ではこのあたり
標高にして約870m前後、愛宕山の三角点峰や竜ヶ岳から巡礼峠へ向かう道中、地蔵山との分岐点と申し上げれば、「ああ、あそこか」と思い浮かぶ方も多いでしょう。
厳密には展望地ではなく、あくまでもコース上であり、また、このコースは愛宕神社さんのジープ道でもあるため、食事をするといったことには不向きですが、休憩がてらに亀岡や大阪を見晴らすにはもってこいの場所です。
現状、展望地としての知名度は低く、決まった呼称も無いようですので、こちらでは「亀岡・大阪展望地」としておきます。
より厳密に申し上げるとすれば、「巡礼峠・愛宕山・地蔵山分岐の亀岡・大阪方面展望地」でしょうか。

また、この展望地は保津川で行われる夏の催しや、それに、雲海に覆われる亀岡盆地を撮影する適地でもあります。
亀岡盆地はきわめて湿度が高く、霧が発生しやすいことで知られていますが、それが遠望にも悪影響を与えるようで、愛宕山からは大阪方面がすっきり見えにくい印象を受けます。
この地点から過去に何度も「あべのハルカス」を撮影していますが、今まで当サイトで写真を公開しなかった最大の要因でもあります。
今回、掲載している写真も写りとしては今ひとつで、いずれ、もう少しましな写真を撮影したいものです。

この構図の左には金剛山、生駒山が重なるように見えます。
和泉葛城山と金剛山の中間地点あたりには、今年も近付いてきたPLさんの花火大会(教祖祭PL花火芸術)で打ち上がる花火も見えます……が、その開催前夜となる千日詣の夜など、特別な例を除き、現状、愛宕山を大っぴらにナイトハイクするのは好ましくありません。
近年、遭難が相次いでいるため、コースによっては明確に夜間の登山が禁止されています。
撮影地点からPLさんの花火大会の打ち上げ地点まで約62kmですが、京都からであれば70km以上離れて見える地点もあるため、「京都からの遠望」の観点では中途半端とも言えます。
千日詣の夜に、また別の花火大会を楽しむ程度に留めておくのが無難でしょう。
PLさんの花火について気になさる方がいらっしゃるようですので、こちらで述べておきます。

さらに視点を右へ。

六甲山、妙見山を遠望

愛宕山の展望 六甲山、能勢妙見山を望む 京都市右京区 2015年7月
愛宕山から六甲山を「裏から」望む。

主な山距離標高山頂所在地備考
ごろごろ岳
(ゴロゴロ岳)
(雷岳)
45.0km565.3m兵庫県芦屋市
兵庫県西宮市
林山45.3km745m兵庫県芦屋市
六甲山最高峰
(六甲最高峰)
46.4km931.3m神戸市北区
神戸市東灘区
六甲山地最高峰
湯槽谷山47.4km801m神戸市北区有馬三山
妙見山
(能勢妙見山)
21.4km660.1m大阪府豊能郡豊能町
大阪府豊能郡能勢町
兵庫県川西市

六甲山の山頂域は雲の中に隠れています。
北摂の剣尾山や摂丹国境の横尾山などから六甲山を「裏から」望めますが、愛宕山からも眺めることができます。

桟敷ヶ岳の山頂 標高895.7m 京都北山 京都市北区 2014年12月

桟敷ヶ岳の展望 都眺めの岩 京都市北区最高峰 京都北山

2014.12.21

過去に写真を撮影、掲載していますが、京都市内からであれば、たとえば京都北山の桟敷ヶ岳といった山々や、あるいは比叡山から六甲山まで見通すことができます。

間を端折っていますが、この構図の左(東)には石堂ヶ岡の姿を眺めることができます。
大阪府に所在する数少ない一等三角点(補点)を有する山であり、どこからでも見えるにもかかわらず、妙に知名度が低いことでおなじみの山。
愛宕山から見ると、きわめて平坦な山容ですが、山上にゴルフ場(茨木高原CCさん)があることも納得できます。

ここまでの写真を撮影した地点、つまり、地蔵山の分岐の前からは見えないものの、そこからわずかに愛宕山方面へコースを登れば、丹波や播磨方面、西や西北西の山まで見渡せます。
ただし、愛宕山の山体に遮られるため、金剛山や生駒山は見えなくなります。

三嶽(御嶽)を遠望

愛宕山の展望 丹波篠山の三嶽(御嶽)を望む 京都市右京区 2015年7月
愛宕山から丹波篠山の多紀連山、三嶽(御嶽)を望む。

主な山距離標高山頂所在地備考
西ヶ嶽37.3km727m兵庫県篠山市
三嶽
(御嶽)
36.2km793.2m多紀連山最高峰
小金ヶ嶽34.3km725m

前回の記事で音羽山から愛宕山の肩越しに撮影した多紀連山(多紀アルプス)の写真を掲載しましたが、その補足のようなものです。

音羽山から送電線越しに大峰山脈、八経ヶ岳を遠望する 2015年2月

音羽山の夜景と夕景 台高山脈や大峰山脈を遠望 京都・大津

2015.07.18

おおむね同じ方角から見ていますので、音羽山から撮影した写真と見え方が似ています。
私は南東から望む西ヶ嶽、三嶽、小金ヶ嶽の三座が「山」の漢字のようだと考えており、山好きの心を惹きつける一因だと見ていますが、いかがでしょうか。
三嶽(御嶽)は特徴的な山容を誇っており、大した距離でもないため、見える条件の日であれば見付けるのはたやすいでしょう。
この日は見えそうにはなかったものの、さらに遠くまで見える日であれば、この撮影地点からは氷ノ山など但馬や因但国境の高峰まで見通すこともできます。

巡礼峠から嵯峨樒原方面へ下れば水場がありますが、その水場の前も展望地となっており、そちらからも氷ノ山が見えます。
標高は下がります(約870m→約740m)が、北西方向まで見渡せるようになり、福知山の三岳も形よく見えます。
ただし、ちょうど送電鉄塔が目の前を塞ぐ形となるため、大阪方面は見えにくくなります。
送電鉄塔越しに中之島フェスティバルタワーや梅田スカイビルを撮影済ですが、あべのハルカスが見えるかどうかは微妙なところです。
これは解説すると長くなるので、また別の機会があれば。

愛宕神社の千日詣 丹波太郎と愛宕山太郎坊

けっきょく、私たちが愛宕山に滞在していた間は雨が降ることもなく、涼しく快適な山歩きを楽しむことができました。
7月31日の夜には千日詣(千日詣り)(千日参り)で愛宕神社さんを登拝なさる方も多いでしょう。
10年ほど前に台風が重なった年や、病により床に伏せていた近年を除き、ほぼ毎年のように千日詣で愛宕山を登山していますが、どうも千日詣の日は夕立が降りやすいようで、雨上がりで濡れた山道を登って足を滑らす方をお見掛けします。

そもそも、夏の愛宕山は雨を呼ぶ山として古くより知られており、丹波高地から東進し、愛宕山や京都西山で急発達しながら山を越え、京都盆地や大阪北部に激しい雷雨をもたらす積乱雲(入道雲)を「丹波太郎」と呼んでいました。
他の山でも同様ですが、とくに夏の愛宕山を登る際は雨に対する備えを忘れないほうが良いでしょう。
夏のポンポン山に夕立雲が発生しやすいのも、この「丹波太郎」によるものです。
年々、局地的大雨のような豪雨が発生しやすくなっており、どこに限らず、その影響で山や谷が崩落するケースが目立ちます。
くれぐれもご注意ください。

加賀の紫狐はし立へ行く
先に立つ丹波太郎や道しるべ

『俳懺悔』

「先に立つ丹波太郎や道しるべ」は先導者としての丹波太郎を示した句。
この句を作った大江丸(大伴大江丸)は江戸時代中期~の俳人、大坂の飛脚問屋。
本名は安井政胤で、通称は宗二。大伴大江丸は俳号。
回心斎、旧国(ふるくに)や旧州(ふるくに)、あるいは大江隣とも号し、遊俳(本業を別に持つ趣味の俳人)ではあるものの、多くの紀行文や俳句を残しました。
また、歴史的にも珍しい女性の業俳(職業俳人、俳諧師)、諸九尼の奥州旅行を支援したことでも知られます。

この俳諧は「夏の雨」や「江戸の夕立」の句から続いています。
晩唐期の『酉陽雜俎』(酉陽雑俎)や、それを引いた北宋代の『太平廣記』(太平広記)に現れる妖怪・怪異としての「紫狐」ではなく [1]、ここでの「紫狐」は蕪村(紫狐庵)を指すと見ますが、「加賀の」が示すところは分かりません。
蕪村は大江丸や、加賀(金沢)出身の俳人、堀麦水や高桑闌更と交流がありました。
「はし立」は、加賀の橋立ではなく、丹後の天橋立でしょうか。
かつて、蕪村は宮津にある見性寺の竹渓に招かれ、京都から丹波を経由して丹後へ入り、約3年半の間、丹後国与謝郡に滞在していました。
その後、京都に戻り、与謝蕪村を称します。
蕪村は前書きに「丹波の加悦といふ所にて」とある句を作っていますが、後世の人から加悦は丹後だと指摘されており、なぜだか混同していたとも。
また、伊丹の俳人、蕪村の門人である東瓦(伊丹紫狐)も大江丸と交友関係にあり、紫狐庵の号を継ぎました。

「日本民間觀天望氣法の標識としての雲の位置と民謠」
京都では、夏月、晴天續きの後、西方に白雲累積して、其形狀山嶽の如くなるを呼んで丹波太郎といひ、この雲起るは不日雨ある兆とされた。

『日本民謠の流』

1934年(昭和9年)の『日本民謠の流』(日本民謡の流)には上のように見えます。
「不日雨ある兆」は「近いうちに(すぐに)雨が降るでしょう」の意。
序に天保9年(1838年)とある『永代大雜書萬暦大成 天保新選』(永代大雑書万暦大成)の「京師地勢の図」に同様の記述を確認できますので、江戸時代に流行した雑書(大雑書、百科事典的な暦占書)を遡れば、さらなる典拠が見付かるかもしれません。
「その形状、山岳の如くなるを呼んで丹波太郎といい」と見えますが、積乱雲や雄大積雲はその雲容から、とくに俳句の季語としては「雲の峯」とも呼ばれていました。
与謝蕪村の門下にして支援者、京都の寺村百池が作った「山ひとつあなた丹波や雲の峯」の句がありますが、そういった知識が前提にないと、まず意味が分からないでしょう。
日本の暦や季節にも多大な影響を与えた唐代初期の類書『藝文類聚』(芸文類聚)が引く晋顧凱之神情詩に「春水滿四澤 夏雲多奇峰 秋月揚明輝 冬嶺秀寒松」とあり、これが「雲の峯」の典拠と考えられます。
この詩を『藝文類聚』では「晋顧凱之神情詩」、東晋の高名な画家、顧凱之(顧愷之)が作った「神情」詩からの摘句(抜粋)としているものの、後世の『陶淵明集』や『古文眞寶』(古文真宝)では陶淵明(五柳先生)が作った「四時」詩として収録され、(日本ではとくに禅僧の間で)それが広まりました。
しかしながら、確かに陶淵明の作であるかは疑わしく、陶淵明に仮託した可能性や、陶淵明が神情詩から抜粋した可能性、あるいは混同した可能性などが指摘されます。

昔の本では、この「丹波太郎」の呼称について、丹後の山椒大夫、丹波の丹波太郎と並び称された悪い人買の人名に由来するといった説も見受けられますが、さすがにこれは眉唾物です。
「三庄太夫」(安寿と厨子王丸)の読み本には、由良二郎や橋立三郎、馴合四郎なる人物が登場する系統がありますが、ここで太郎に相当するのは三庄太夫だと考えられます。
後世によく知られる森鷗外(森鴎外)版の『山椒大夫』では、二郎と三郎は山椒大夫の息子です。
おそらく、丹波太郎については、地名+太郎に多く見られる命名、「際立って大きい」を指す意でしょう。
井原西鶴の『好色一代男』に、水無月末(旧暦6月末)の出来事として、「山々に丹波太郎といふ、村雲、おそろしく、俄かに白雨(ゆうだち)して」と見え、江戸時代前期には用例があります。
寛文2年(1662年)の『案内者』には「六月廿四日 愛宕千日詣 (前略)炎暑に汗水になり苦行して参詣する。これ一たびの参詣は、千日にむかふといひつたへし」とも見えます。
かつて、愛宕の千日詣は旧暦の6月24日に行っており(毎月24日は愛宕の勝軍地蔵など、地蔵菩薩の縁日)、これは『好色一代男』における丹波太郎のエピソードと同時期です。
旧暦の6月24日は現代における7月下旬~8月上旬頃。
「千日詣の頃に夕立が降りやすい」のは、今も昔も似たようなものかもしれません。

丹波太郎の類似に奈良二郎(奈良次郎)や山城二郎(山城次郎)、あるいは比叡三郎や近江小太郎、泉の小二郎といった雨雲があります。
これは京都や大阪の人から見て、「夏雲が立つ方角」を示したもの。
前提として、まず丹波太郎(か、他の太郎)があり、そこから(演目の登場人物のように)二郎、三郎と名付いたのでしょう。

(前略)
假に人間に姿を現はしても、役の行者を筆頭として、春日坊、豊前坊、丹波太郞、奈良二郞、泉小二郞、近江小太郞、日本國中の山神天狗雲男から盆暮の付届けが來て、木精石魂(こだますだま)を腮(あご)で追使ふ、稀代の行者、山の聖、人間に名つけを賴むのは如何にも殘念だが、山法師ならば、神も同じだ、
(後略)
『小品二十五座』

磯萍水による、1914年(大正3年)の『小品二十五座』では、丹波太郎や奈良二郎、近江小太郎を、役行者と並ぶような、山神や大天狗、雲男の名としており、「雲男」なる分類も興味深いところです。
これは高名な愛宕山の太郎坊(栄術太郎)を丹波太郎と重ねているのでしょうか。
後世に多大な影響を与えた林道春(林羅山)の『本朝神社考』では、太郎坊さんの正体を弘法大師空海の高弟、眞済(真済)としていますが、これには諸説あります。
また、雲男は丹波、奈良、泉(和泉)、近江、と地名(国名)を冠していますが、この命名上のルールから外れる、つまり、山名を冠する比叡三郎は、より後世の付け加えだろうと察せられます(近江小太郞を比叡三郎と置き換えた)。
丹波太郎は摂津にも雨をもたらしますので、摂津を冠する雲男はいません(北摂の山々は丹波高地の一部です)。
磯萍水(磯清)は尾崎紅葉や江見水蔭の門下で、1927年(昭和2年)の『日本民俗叢書 民俗怪異篇』などの怪談や妖怪誌、あるいは奇談集などを残しました。

船岡山 建勲神社の貴賓館越しに大文字山と落雷(比叡三郎)を望む 2015年8月

比叡三郎 大文字山と落雷 京都 船岡山 建勲神社から撮影

2015.08.04

丹波太郎から派生したと考えられる「比叡三郎」を撮影した写真は上の記事に。

補足しておきますと、なんたら四郎や、うんたら五郎の呼称はごく近年に付け加えられた呼称。
丹波太郎をはじめとする雲男は、本来、京都のみに限定するものではないのは明らか。
摂津○郎がいない理由は上で述べましたが、河内○郎がいないのは生駒山地の奈良二郎が河内にも雨をもたらしていたから?
播磨では積乱雲を「黒ぐも」と呼んだらしい。
奈良の子どもは植物のスミレ(菫)を「治郎坊太郎坊」という、といった話が、江戸時代中期の終わり頃に刊行された方言辞典『物類稱呼諸國方言』(物類称呼)に見え、『古事類苑』植物部でも引いています(治郎坊は次郎坊)。
スミレを「ジロボウタロボウ」と呼んだ奈良(の子ども)と異なり、伊勢ではスミレを太郎坊、ジロボウエンゴサク(次郎坊延胡索)を次郎坊と呼んだともいわれ、牧野富太郎博士もジロボウエンゴサクの図説で「次郎坊は伊勢の方言」としています。

他の記事でも軽く触れていますが、「泉小二郎」は和泉国や和泉山脈の和泉と、鎌倉執権北条氏に戦いを挑んだ伝説的な武将で、昔は人気があった「泉小二郎」(泉小次郎)(泉親衡)を掛けている可能性があります。
ただし、信濃源氏の泉親衡は和泉国とは無縁です。
江戸時代後期、文化6年(1809年)頃に刊行された、福内鬼外(二代目)による読本『泉親衡物語』は、(本来は泉小二郎と無関係な)泉小太郎伝説や、いわゆる源義経の伝説も織り交ぜており、とくに好まれました。
1935年(昭和10年)の『義經傳説と文學』(義経伝説と文学)によると、こういった義経物をなぞらえた作品を「准義経物」と区分するらしい。
初代福内鬼外(平賀源内)の門人、桂川甫粲(森島中良)の数あるペンネームのひとつが二代目福内鬼外で、晩年に称しました。
平賀源内の戯作者としてのペンネーム、天竺浪人に対し、桂川甫粲は天竺老人と号したことも知られます。
他に知られるところだと、京都の祇園祭の長刀鉾は泉小二郎(泉親衡)の人形を祀りますが、これは暁鐘成(初代)の随筆『晴翁漫筆』(晴翁漫筆)における長刀鉾と親衡の話が詳しい。

となると、近江小太郎も泉親衡と近い時代の武将で、源頼朝に仕えた佐々木小太郎(近江源氏の佐々木広綱か定重の兄弟)からの可能性は?
やはり文化6年(1809年)から刊行された、高井蘭山による読本『星月夜顯晦録』(星月夜顕晦録)(星月夜鎌倉顕晦録)には「佐々木小太郞広綱」と見えます。
『東鑑』(吾妻鏡)の建久2年(1191年)4月5日条には「佐佐木小太郎兵衛尉定重」と見え、広綱の弟である定重を「小太郎」としているものの、同年5月20日条では「佐佐木小二郞兵衛尉定重」とあり、なぜか一定しません。
これについては、5月8日条に「左兵衛尉広綱 号小太郎」とあることから、4月5日条は誤りで、兄の広綱が小太郎であり、弟の定重は小二郎(小次郎)だろうと見ています。
4月に近江国の佐々木荘と比叡山延暦寺の間で諍いが発生し、山門の強訴に屈して父の佐々木定綱は薩摩へ、広綱は隠岐へ、定重は対馬へ、その弟の定高は土佐へ流罪と決まったものの、5月20日に辛崎(唐崎)で定重が山徒に梟首される事件が起きました(これは山徒をなだめるため定重の引き渡しを梶原景時が承ったとされる)(建久二年の強訴)。
無常観ではなく虚無感から世を捨てる姿を描いた岡本綺堂の戯曲『佐々木高綱』では、佐々木定重を小太郎としており、甲賀六郎なる高綱の付き人も登場します。
宇治川の戦い(木曾義仲と源義経の合戦)における先陣争いの影響もあり、佐々木氏ではとくに高名な佐々木四郎高綱と、佐々木広綱・定重の兄弟は、叔父と甥の関係。
甲賀〇郎系の命名は、いわゆる甲賀三郎伝説でとくによく知られる。
なお、佐々木広綱は承久の乱で後鳥羽上皇方に属して、鎌倉方に属した弟の佐々木信綱と争うことになり、最期は宇治川の戦い(承久の乱における同名の合戦)で敗れて処刑されました。

追記

2020年(令和2年)の千日詣

2020年(令和2年)5月27日、追記。
愛宕神社さんより、本年の千日詣に関わる諸行事の日程が変更されるとのお知らせがありました。
「密を避ける」観点から、(7月31日の夜間ではなく、)7月23日~8月1日までの昼間を千日詣とする、夜間早朝の神符授与・社頭応対は致しません、とのことです。

また、

本年は参道に明かりがつきません 夜間参拝はご遠慮下さい。
http://atagojinjya.jp/imagebase/sennichi.pdf

とのことですので、皆さま、ご協力ください。

2021年(令和3年)や2022年(令和4年)の千日詣

2020年と同様、2021年(令和3年)や2022年(令和4年)も夜間の神事と参拝を中止なさってます。

2022年(令和4年)の千日詣の詳細は、

http://atagojinjya.jp/imagebase/r4sennichi.pdf

でご確認ください。

2023年(令和5年)の千日詣

2023年(令和5年)は4年ぶりに千日詣の夜間参拝が再開されますが、状況を鑑みて、従来の日程である7月31日の夜間に加え、7月23日~7月30日の昼間(午前9時~午後4時まで)も、千日詣に伴う神符授与等の社頭応対がなされます。
また、一部の特殊神事も中止されるとのこと。

詳細は、

http://atagojinjya.jp/imagebase/r5sennichi.pdf

でご確認ください。
夜間参拝に伴い参道に明かりがつくのは7月31日の夜間(翌8月1日の朝まで)だけですので、くれぐれもお間違えないよう。

2024年(令和6年)の千日詣

2024年(令和6年)6月3日、追記。
愛宕神社さんによると、千日詣の夜間参拝について、「新たな法改正と現下の社会事情により夜間の通電並びに設営が困難となり中止とする運びとなりました」とのこと。
代わって、7月23日~8月1日の昼間(午前9時~午後4時まで)に、千日詣に伴う神符授与等の社頭応対がなされます。
千日詣の夜間参拝が中止される理由らしき「新たな法改正」は消防法関連か、あるいは電気事業法関連でしょうか?(聞いた話では根本的に人手不足だとか?

詳細は、

http://atagojinjya.jp/imagebase/r6sennichi.pdf (リンク切れ)

でご確認ください。

追記。
京都新聞さんの記事によると、「参道に設置する照明への電力供給に支柱などの設備更新が必要になった」「来年はなんとか復活できるよう尽力したい」とのこと。

2025年(令和7年)の千日詣

2025年(令和7年)6月3日、追記。
愛宕神社さんによると、「長らく中止を重ねて参りました千日通夜祭、夜間参拝を本年より再開致します」とのこと。
2023年(令和5年)と同様の形式となりそうです。

詳細は、

http://atagojinjya.jp/imagebase/r7sennichi.pdf

でご確認ください。

愛宕山 三角点峰(地理院 標準地図)

クリック(タップ)で「愛宕山」周辺の地図を表示

「愛宕山(アタゴヤマ、アタゴサン)(あたごやま、あたごさん)」
最高峰 標高924m
三角点峰 標高889.8m(三等三角点「愛宕」)
京都市右京区(山域は京都府亀岡市に跨る)

脚注

  1. 『酉陽雜俎』所収「諾皐記」や『太平廣記』狐八に「舊說、野狐名紫狐、夜擊尾火出、將爲怪、必戴髑髏拜北斗、髑髏不墜、則化爲人矣。」とあります。[]

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Maro@きょうのまなざし

京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!