京都では61年ぶりの積雪量となった2015年(平成27年)の年明け。
少しばかり出遅れましたが、観光客さんらに混ざり、1月3日は嵯峨嵐山へ。
亀山公園(嵐山公園 亀山地区)を散歩した後、雪積もる小倉山を登ります。
亀山公園の話は上の記事に。今回はその続きです。
おサルさんの気配は近くに感じるものの、人の姿は見当たらず、貸切となった展望地から雪の京都を楽しみます。
目次
積雪する小倉山からの展望・眺望 京都市右京区
京都の雪景色を望む
小倉山から雪化粧した京都、大文字山、東山を望む。京都市右京区。
主な山 | 距離 | 標高 | 山頂所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
大文字山 | 13.4km | 465.3m | 京都府京都市左京区 | |
如意ヶ岳 | 14.7km | 472m | 京都府京都市左京区 | |
逢坂山 | 16.8km | 324.7m | 滋賀県大津市 | |
阿星山 | 36.6km | 693.0m | 滋賀県湖南市 滋賀県栗東市 | |
竜王山 | 33.3km | 604.6m | 滋賀県栗東市 | 金勝アルプス |
小倉山の展望地から眼下に広がる雪景色。
どんよりした印象を受けた前日とは異なり、この日は晴れ間も覗き、世界を銀色に照らします。
もっとも、この日差しが亀山公園の雪解けを早め、下山時には雪泥と化していましたが……。
白い「大文字」(如意ヶ嶽)を望む 五山送り火
雪で白い五山「大文字」の字跡を小倉山から望む。
「五山送り火」の山のうち、浄土寺の如意ヶ嶽(大文字山)、いわゆる「大文字」です。
残りの山の字跡、火床を撮影した写真は上の記事に掲載しています。
これで五山全山の白い「雪文字」遠景写真が揃いました。
上の写真、「大」の火床の右下あたりをよく見ると、くろ谷さん(金戒光明寺)や真如堂さん(真正極楽寺)の三重塔、その後方には鹿ヶ谷(談合谷)の谷筋が見えています。
(撮影時期は異なりますが、)過去に小倉山から撮影した同じ構図の写真を公開した際に、卒業生さんから指摘されて気付きましたが、某女学院さんらしき建築物も写っています。
くろ谷さんや真如堂さんが所在する山(丘陵)は、いわゆる東山三十六峰では紫雲山にあたりますが、撮影地点から見て紫雲山は真東に近く。
『見た京物語』に見る冬の大文字
東山。送り火の大文字。其跡へ冬は雪降りて。山一面に積りたる時は見えず。春となり雪頹(ゆきなだれ)して解(げ)たる時。大の字の低き所へ積りたる雪。京中へ見ゆる故大の字白く見え渡るなり。
ひがし山大の字白き雪なだれ
との句是より出たり。
『見た京物語』
自序に天明元年(1781年)とある、江戸の幕臣、二鐘亭半山こと木室朝濤(ともなみ)による明和3年(1766年)以降の京都滞在記です。
本名の木室朝濤より、一般的には木室卯雲(ぼううん)や、二鐘亭の後に用いた白鯉館卯雲の号で知られます。
現代と異なり、この当時は冬場を通じて「大」の字跡が雪に覆われていたらしきことが察せられますね。
今となっては考えられない光景ですが、なだれにより浮かび上がる「大」の筆跡は、さぞや美しい字だったのでしょう。
京は砂糖漬のやうなる所なり。一躰雅有て味(あぢはい)に比せば甘し。然れども噛占て美味(うまみ)なし。からびたるやうにて潤澤なる事なし。奇麗なれど何處やら淋し。
『見た京物語』
『見た京物語』は上の冒頭部や、
花の都は二百年前にて。今は花の田舎たり。田舎にしては花残れり。
『見た京物語』
の段がとくに有名で、当該部分の一部を引用し、江戸の人から見て、江戸時代中期頃の京都は「砂糖漬のやうなる所なり(砂糖漬けのようなる所なり)」「然れども噛占て美味なし(しかれども噛みしめてうまみなし)」「今は花の田舎たり」といった扱いを受けていた、当時の京都観が伝わる随筆、などと紹介されるようです。
テンポ良く読みやすい文章であることは確かですが、筆者の木室卯雲は狂歌師でもあり、言葉の端々に風刺や皮肉を混ぜている可能性に留意する必要はあるでしょう。
『見た京物語』が執筆されたのは、「天明狂歌」の時代とまで謳われた狂歌や狂文の全盛期で、木室卯雲はその中心とも言える人物でした。
また、表題の『見た京物語』は、いわゆる「見ぬ京物語」のもじりであり、それに対する当てこすりでもあります(が、そのことを見落とされている方ばかりのようで、個人的に残念に思います)。
「聞きかじりで京について語る」ことを、「見ぬ京物語」や「似ぬ京物語」「知らぬ京物語」などというようになりました。
転じて、「(そういった話を聞いて、)京を訪れてみたら、聞いていた話とは全く違うものだった」ことや、あるいは「実際に見聞きしないことには何事も語れない」ことを指すようにもなります。
万治2年(1659年)刊版が残る、教義問答形式の仮名草子『見ぬ京物語』、これは延宝7年(1679年)刊版で『一休品物語』と改題されますが、跋文(後書き)で、京の絵図を広げてあれこれ語る内容を「見ぬ京物語にひとしかるへし」として、「ついにまたあしふミたてゝのほり見ぬ京ものかたりとかめたまふな」の歌で〆ています。
これは『萬葉集』(万葉集)の大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の歌を意識した諧謔歌でしょうか。
獻二天皇一歌一首
大伴坂上郎女在二佐保宅一作也
足引乃 山二四居者 風流無三 吾為類和射乎 害目賜名
『萬葉集』
大伴氏の邸宅がある佐保(奈良を流れる佐保川上流の地域)で暮らす大伴坂上郎女が平城京の聖武天皇に献上した歌(解釈本によっては献上品に添えた歌とする)。
一般的に「あしひきの山にしをれば風流(みやび)なみ我がするわざをとがめたまふな」の訓読が知られています。
ここでの「山」は佐保の大伴邸を指していますので、人も住まないような山奥を指しているわけではなく、せいぜい平城京の中心ではない山側の地域という程度の意味合いに過ぎず、郊外暮らしの無粋な私(からの献上品)ですが……、と謙遜した歌です。
佐保から内裏を訪れるなど大した距離ではありませんが、それはそれとして、「見ぬ京物語」も、元はこの歌から生じたのかもしれませんね。
『見ぬ京物語』の作者は未詳ながら、序文に「下官(やつがれ)ハもとさゞなミや志賀のミやこのふるきあとにをひ出て。」と、平忠度が詠んだ「さゞなみや志がの都はあれにしを昔ながらのやま櫻かな」の歌や、その歌に詠まれる近江大津宮や壬申の乱を意識して始まる経歴を示しています。
もと「さざなみや志賀の都」の古き跡に生ひ出て、としていますので、その出身は明らかです。
忠度は平家一門の都落ちに際し、師である藤原俊成に自身の歌を託して京を去りましたが、この作者は近江から上京して修行することになります。
「諫鼓苔むす時ハ。虞芮畔をゆづりて。あらそひをやめ。謗木塵にうつもれぬる世にハ。蠻夷訳を重て貢物をたてまつる。されハ当今の天下しろしめす。」で始まる序文や、仮名草子の主たる作者層から考えても、当時の教養人・知識人であることは確かでしょう。
諫鼓(かんこ)は、古代中国における伝説的な「堯舜の治」の時代、民から天子に諫言ある時に打ち鳴らして知らせるため置かれた鼓。
虞芮(ぐぜい)は、虞の国と芮の国で田の所有権を争った時、周王(周の文王)による裁決を求めて周の国を訪れたら、周では国民がお互いに畔の道を譲り合う姿を見て自らを恥じた「虞芮の訴え」の故事から。
謗木(ぼうぼく)は諫鼓と同様、民から天子への訴えを知らせる投書函(木函)。
『孝経』三才章が説く先王(昔の優れた聖王)の孝道、「先之以敬讓而民不爭」(之に先んずるに敬譲を以てして民争わず)の一節は、「諫鼓謗木」と「虞芮の訴え」の故事によると解釈される。
東山を望む
小倉山から雪積もる知恩院さん、大護摩堂「青龍殿」、遠くに阿星山を望む。
知恩院さん、三門や修復作業中の御影堂の覆い屋(素屋根)の上に雪が積もっています。
リサイズしているため分かりにくいと思いますが、写真では「知恩院」の「院」の字の右下あたり、三門の前面が簾のようなもので覆われています。
瓦が落ちてきたとかで、三門も緊急で修理なさっていることは存じていましたが、意外に大掛かりな作業風景です。
京都東山(華頂山)の山上には大護摩堂「青龍殿」(青蓮院門跡 将軍塚大日堂)。
その後方は逢坂山と音羽山の山間、山科から大津へ抜ける東海道が通じていますが、小倉山からでは見えません。
遠くで目立つ山は湖南の名峰、阿星山です。
その右には金勝アルプスの竜王山も見えていますが、やや分かりにくいでしょうか。
眼下に渡月橋を望む
小倉山から雪積もる嵐山渡月橋、天龍寺、桂川(大堰川)を望む。
渡月橋を渡る京都バス。
渡月橋の左岸は「嵐山公園 臨川寺地区」、渡月橋を渡ると「嵐山公園 中之島地区」。
手前には雪が積もる天龍寺さん、奥には阪急嵐山線の嵐山駅周辺と線路が写っています。
整理の都合で記事を分けます。
続きは上の記事で。
関連記事 2015年1月3日 小倉山スノーハイキング
すべて同日の山行記録です。併せてご覧ください。
- 雪の嵐山公園 亀山から渡月橋を望む 61年ぶりの大雪 京都
- 白い大文字を雪の小倉山から望む 『見た京物語』の大文字山
- 大雪の小倉山から京都の雪景色、伏見桃山城を望む 嵯峨嵐山
小倉山(地理院 標準地図)
「小倉山(オグラヤマ)(おぐらやま)」標高296m
京都府京都市右京区
便宜上、当ウェブサイトでは桂川左岸(右京区以北)を「京都北山」、右岸(西京区以南)を「京都西山」と定義しているため、愛宕山や小倉山は「京都北山」に区分しています。
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