逢坂山(相場山)から「旗振り通信」の山々を望む 大津市

昨日、2013年(平成25年)12月8日は滋賀県大津市に所在する逢坂山(相場山)をトワイライトハイキング。
京都市内は曇りがちの空模様だったものの、近江盆地や琵琶湖の上空は雲も少なく、空気も澄み、珍しく遠く白山(加賀白山)まで望むことができました。
天気予報では滋賀県は曇りでしたが、なかなか分からないものです。

大津市 逢坂山(相場山)をハイキング

「相場山」の山頂から白山を遠望

相場山から白山、横山岳、竹生島、琵琶湖大橋を遠望 大津市 2013年12月
大津の相場山(逢坂山)から白山、横山岳、琵琶湖、竹生島、琵琶湖大橋などを遠望する。
撮影地点から白山御前峰(石川県白山市、岐阜県大野郡白川村)まで153.0km。
横山岳(滋賀県長浜市)まで76.5km。

逢坂山から琵琶湖大橋の向こうに白山を望む 大津市 2013年12月

大津の逢坂山から琵琶湖の奥に石川の白山を遠望 2013年12月

2013.12.11

標高400mに満たない低山ながら、この山からの眺めはなかなかのものです。

逢坂山と相場山

324.7m峰は逢坂山ではない?

大津市の西部、大津市神出開町と大津市藤尾奥町の境に所在する三角点324.7m峰(点名「神出」)。
近年は「逢坂山」と呼ぶ人が増えたこの山、明治時代には「相場山」を称しており、いわゆる逢坂山とは別の山と見なされていました。

相場山と逢坂山が別の山と見なされていたことを裏付ける例として、1890年(明治23年)の『琵琶湖疏水線路全景二万分一之圖』(琵琶湖疏水線路全景二万分一之図)や、1903年(明治36年)の『訂正大津市街新地圖』(訂正大津市街新地図)、1914年(大正3年)の『名所旧趾大津市街地圖』(名所旧趾大津市街地図)などがあります。
これらの図では、現在、俗に逢坂山と呼ばれている山を指して「相場山」としており、それとは別に「大谷射的場」の東の山を指して「逢坂山」としています。
大谷射的場(陸軍大津大谷射撃場)(陸軍歩兵第9連隊の大谷射撃場)は、かつて大谷駅の北に所在した射撃場で、これらの図に従えば、当時は大谷の東の山を逢坂山と見なしていたことになります。
この「大谷の東の山」は、旧逢坂山隧道西口跡の上に建つ「逢坂山とんねる跡」碑の裏山であり、大谷駅側から見れば蝉丸神社さんや「逢坂山関址」碑の裏山、あるいは上栄町駅や大津駅側から見れば安養寺さんや関蝉丸神社さんの裏山ともいえます。
現代においては長等公園から東海自然歩道のコース上に位置しており、山の南麓には「東海自然歩道 逢坂山歩道橋」が架かり、国道1号(東海道)を跨いで東海自然歩道が音羽山へと続いています。
住所地名で申し上げれば、大津市逢坂1丁目あたり。
今はこの山の山腹を名神高速道路の蝉丸トンネルや京阪京津線の逢坂山トンネルが貫いていますが、これらの図が描かれた当時は東海道本線の旧逢坂山隧道(旧逢坂山トンネル)が安養寺さんの南(東口)から大谷(西口)の間を通っていました。

1909年(明治42年)の『新撰近江名所圖會』(新撰近江名所図絵)には、

「逢坂山」
市の南西にあり一に手向山又關山とも云う
(中略)
今山麓を穿ちて東海道鐵道を通せり
『新撰近江名所圖會』

と見え、やはり、東海道鉄道(東海道本線)の旧逢坂山隧道が通る山を逢坂山、あるいは手向山、関山としています。
これは前述の絵図類の描写を裏付けるものです。
現在の逢坂山トンネル(新逢坂山トンネル)が開業するのは1921年(大正10年)ですので、1909年当時、「山麓を穿ちて東海道鉄道を通した」山は、現在、逢坂山と呼ばれている山ではありません。
明治時代頃には、かつて、伝説の関「逢坂関」が置かれていたのは、この山の上ではないかとも考えられており、当時、逢坂山や関山と呼ばれていたのも、それに由来するようです。

手向山の異称は、近江と山城の境にあたる当地に限らず、境の峠に見られる呼称で、たとえば、1902年(明治35年)の『帝國地名大辭典』(帝国地名大辞典)では、「手向山」を山城と丹波の境に所在する大枝山(老ノ坂)の別称としています。
『小倉百人一首』にも選定された、菅原道真による「此たびは幣もとりあへずたむけ山紅葉の錦神のまにまに」の歌はよく知られるところですが、江戸時代中期の国学者・歌人の賀茂真淵によると、この歌に見える「たむけ山」(手向山)は、大和と山城の境に所在する奈良坂(今の平城山あたり)を指すとしています [1]
旅路において、(集落の境界に置かれる)道祖神に「幣(ぬさ)」を散らして「たむける」(ささげる)風習がありました。

クリック(タップ)で逢坂山周辺の旧版地形図を表示

「今昔マップ on the web」タイル で、明治末期頃の逢坂山や大谷射撃場周辺の地形図を表示しています。

一次ソースは1909年(明治42年)測図、1912年(大正元年)発行の正式二万分一地形図「膳所」。

陸測時代の地形図から現代の地理院地図に至るまで、逢坂山の山名は地形図に表示されません。
「大谷射撃場」の左(北西)に見える325.0mの基準点が、現在、逢坂山と呼ばれている山で、かつての相場山です。
「おほたに」駅の右(東)、「蝉丸祠」の右(北東)に見える245.0mの基準点付近や、その北側の連なりが、明治時代頃に逢坂山(手向山、関山)と呼ばれていた山です。
当時は山中を東海道本線の「逢阪山隧道」(逢坂山隧道)が通っていました。
京津電車(現在の京阪京津線)の逢坂山隧道が貫通したのは1911年(明治44年)、三条大橋~札ノ辻間が開業したのが翌1912年(大正元年)8月ですので、1909年に測図された上の地形図にはまだ描かれていません。

東海道鉄道の旧逢坂山トンネル碑

「旧東海道線 逢坂山とんねる跡」碑 滋賀県大津市 2013年11月
旧逢坂山隧道西口跡の上に建つ「旧東海道線 逢坂山とんねる跡」碑。
大谷駅から徒歩数分、0.15kmほど。

現在ではこの直下を名神高速道路の蝉丸トンネルが通っています。
名神高速道路の建設に伴い旧逢坂山トンネル西口は消失しましたが、往時をしのぶ碑が建てられています。
なお、東口側はトンネル跡が現存しており、「旧逢坂山ずい道東口」として鉄道記念物に指定されています。

明治十三年日本の技術て初めて作った旧東海道線逢坂山トンネルの西口は名神高速道路建設に当りこの地下十八米の位置に埋没したここに時代の推移を思い碑を建てて記念する

西口跡の上に建つ碑の裏面には上のように記されています。
この碑が建つ裏山こそが、明治時代当時に旧逢坂山隧道が通っていた山です。

こういったことをご存じの方ももちろんいらっしゃる、たとえば、この方の2001年(平成13年)当時の山行記録 でも、追分駅の上にある「この辺りで一番高い山」の「相場山」とはまた別に、「長等公園より南」で「下を名神高速道路が通っていて」、「国道1号をまたぐ歩道橋より北」の東海自然歩道のコース上に「逢坂山の山頂」があることが読み取れます。
この方は地元か、あるいは近くにお住まいですので、情報の精度が高いと見て差し支えないでしょう。
よく読むと、私がよく利用している追分駅からのショートカットコース(追分駅~摂取院さんの奥の墓地から取り付く直登路)を今から15年ほど前に整備なさったのもこの方らしく、頭が下がる思いです。
(※補足しておきますと、リンク先の記事を記されたのは「芦生短信」の福本繁さんで、私にとっては大先輩にあたる方であり、私の山友だちさんの山友だちさんでもあります)

東海自然歩道「逢坂の関跡」紹介 逢坂山歩道橋の北側 2016年7月

東海自然歩道 長等公園~逢坂山歩道橋~音羽山が復旧 通行可

2016.07.19

明治時代頃に逢坂山と呼ばれていた山の山頂(東海自然歩道のコース上にある逢坂山の山頂)と考えられる地点の話は上の記事に。
現地の写真も掲載しています。
上の記事でも触れていますが、明治時代頃の一部の絵図や、あるいは東海自然歩道の道標では、音羽山の最北端を逢坂山と見なしており、峠の周辺を広く「逢坂山」とする考えもあるようです。

逢坂山と逢坂関について

「逢坂山」と「逢坂関」について少し補足しておきます。
この補足における「逢坂山」は、現在、逢坂山と呼ばれている三角点324.7m峰ではありません。
必ず、上の本文に目を通したうえでお読みください。

1894年(明治27年)の『近江名所案内』に、

逢坂山ハ京街道ニ在リ
古ヘ關門ヲ設ケ逢坂ノ關ト称ス
『近江名所案内』

と見えるように、明治時代頃には、かつて、いにしえの関門「逢坂関」を設けた山が逢坂山だと見なされていました。
歌枕における「あふさかやま」や「あふさか」は「あふさかのせき」と同義です。
これは歌枕における「鈴鹿山」が鈴鹿関を指すのと同様です [2]

後朝「戀」
越兼ねし逢坂山を哀れ今朝歸るをとむる關守もがな
『鴨長明集』 [3]

ものより上りしに、みのの守何事にか、關がためてしばしあらせしを、これも同じほどに上りあひて、京にていひたりし
あふ坂を君もみしかばいとゞしく今より後はたのまるゝかな
返し
逢坂もゆるさじとこそ思ひねのせきはかたむる物としりにき
『相摸集』 [4]

雪いみじくふりたりしに、石山に涅槃會にまうでしに、打出の濱にていと深くつもりたりしに
せきこえてあふみぢとこそ思ひつれ雪の白濱こゝはいづこぞ
『赤染衞門集』 [5]

それぞれ、「逢坂山」を歌枕とした例、「逢坂」を歌枕とした例、打出の浜への道のりで「せき(関)」を越えた歌の例ですが、いずれも「逢坂関」を指しています。
個人的に好む歌人の私家集から引いてきましたが、「逢坂(山、関)」は「逢う」と掛けやすいこともあり、古くから多くの歌に詠まれてきました。

話を戻します。
「古ヘ關門ヲ設ケ逢坂ノ關ト称ス」(いにしえ関門を設け逢坂の関と称す)、『近江名所案内』がいう「逢坂関」は、「いにしえの関門」(古代に設けられた軍事的な施設)としての「逢坂関」であり、より後世の関所とは少し役割が異なります。

いわゆる「三関」(愛発関、不破関、鈴鹿関)と並び、逢坂関は古くから軍事的な要所でしたが、その存在が通利の便を失い、公私の往来を妨げているという理由で、延暦8年(789年)には「三関」が停廃され、『日本紀略』が『日本後紀』から引く(『日本後紀』の当該部分は散逸)、桓武天皇の延暦14年(795年)8月己卯(15日)の条には「廢近江國相坂剗」と見えることから、平安時代のはじめには逢坂関も廃止されたと考えられています。
養老令の注釈書『令集解』によると、「剗(せん)」は柵としており、通行を阻む目的の施設。
しかしながら、その後、大同元年(806年)の桓武天皇崩御の際や、大同5年(810年)に発生した薬子の変(平城太上天皇の変)に際し、廃止されていた「故関」の守りを固める措置が取られました。
とくに、嵯峨天皇が坂上田村麻呂を送って鎮めた薬子の変に際しては、「三関」が越前ではなく近江の関となっており、越前の愛発関が「三関」ではなくなり、おそらく近江の逢坂関に置き換わっていたと考えられています。
さらに、『日本文徳天皇実録』(文徳実録)の天安元年(857年)4月庚寅(23日)の条には、古昔の旧関であった相坂に加え、近江国の関所として大石と龍華の3ヶ所に置くと見えます。

この伝説的な逢坂関については、寛政9年(1797年)の『伊勢參宮名所圖會』(伊勢参宮名所図会)に、

「逢坂關舊跡」
【日本紀略】云延暦十三年桓武天皇近江國逢坂關剗とは見へたれ共、其始て置く所不詳、
(中略)
關屋の跡は此山上に有しとも、又大津の市中有しともいひて未詳。
昔の關はかならず國境に置て、是を關戸・關津と言へり。
『伊勢參宮名所圖會』

と見え、いにしえの廃された逢坂関が初めて置かれた所在地について、江戸時代には「不詳」であったことが伝わります。
「關屋の跡は此山上に有しとも、又大津の市中有しともいひて未詳」(関屋の跡は逢坂山の上に有ったとも、また大津の市中に有ったとも言われていて、詳しいことは知られていない)としています。

1911年(明治44年)の『謠廻國記』(謡廻国記)では、

「逢坂山」
逢坂の關の跡はいづこならんか、口碑に依れば、今の大津街道に沿ふたる山の上にありたる由にて、通行の人は手形を出して示したりとのことなるが、果たして如何にや、學者の垂教を待つ。
『謠廻國記』

としており、あくまでも口伝によれば、「今の大津街道に沿ふたる山の上にありたる」、つまり、これは逢坂山を指していますが、明治時代頃には、やはり、逢坂山の上に関が設けられていたとも考えられていたようです。
ただし、「はたしていかにや、学者の教えを待つ」としていますので、これが事実かどうか、当時の人にも分からなかったのでしょう。

近代になり、東海道が整備されると、(逢坂山の上ではなく、)大谷駅の東、街道沿いに建立された「逢坂山関址」碑のあたりに逢坂関が置かれたと見なされるようになったようです。
俗に「逢坂峠」と呼ばれるあたりに「東海自然歩道 逢坂山歩道橋」が架かり、その南側(音羽山側)に旧建設省の逢坂山見張所があるのはその名残です。
ただし、東海自然歩道の「逢坂の関跡」案内板は、逢坂山の上、歩道橋と蝉丸神社さんの分岐点付近に設置されています。
近年は、より大津寄りの地に逢坂関が置かれた、たとえば関寺付近に置かれたとする説も有力視されています。
『伊勢參宮名所圖會』でも「大津の市中有しともいひて未詳」としていますので、市中に置かれた可能性もあるでしょう。
ただし、これは勢多関なる、他の関と混同している可能性があります。

平安時代中期に編纂された『口遊』(ただし、現存写本は鎌倉時代中期のもの)、これは当時の子ども向けに記された基礎教養書のようなもの、あるいは平安時代末期に編纂された『掌中歴』や、南北朝時代には成立していた『拾芥抄』(略要抄)、これらは当時の百科事典のようなものですが、いずれも「三関」を「勢多 鈴香 不破」(口遊)、「勢多 鈴鹿 不破」(掌中歴、拾芥抄)としており、いつの頃からか、三関が愛発関や逢坂関から勢多関(瀬田関)に置き換わっていたようです。
『掌中歴』では「三関」とは別に、「四堺付四角」で、都の四方の境として「相坂関門。大枝龍花。」を挙げており、「今按」(照らし合わせて考えるには、)相坂を「東在近江国」、関門を「南在摂津国」、大枝を「西在丹波国」、龍花を「北在若狭国」と紹介しています。
丹波との国境の「大枝」はもちろん老ノ坂(大枝山)ですが、摂津との国境ですので、「関門」は山崎と推定され、若狭との境としていますが、「龍花」は近江との国境にある途中峠(龍華越)だろうと考えられます。
「三関」勢多関は文字どおり勢多(瀬田)に置かれたのでしょうが、「四堺」相坂(逢坂)とは明確に異なる地です。
百科事典的な性質であることや、「今按」の描写から見て、『掌中歴』が編纂された平安時代末期には、「三関」や「四堺」はすでに古い伝承となっていたことも察せられます。
あくまでも個人的見解ですが、勢多関は『文徳実録』に見える大石関(現代における関津峠に比定)を指す可能性があると考えています。

室町時代、『三井續燈記 巻第十 三井寺年表下』(三井続灯記)の寛正元年(1461年)の段に「先停廢大谷逢坂兩關所。」と見えることから、京街道(東海道)の通行上の関所として、大津寄りの地には逢坂関が置かれ、それとは別に、逢坂山を越えた大谷側にも関所が置かれていた時期があるようです。
いにしえの逢坂関と、室町時代の逢坂関では所在地が異なる可能性もあります。
たとえば、室町時代の京街道における逢坂の関所は大津寄りの関寺付近に置かれていたが、いにしえ伝説の関である逢坂関は山の上に置かれていた、など。
中世の関所は権威を持つ土地の勢力者が独自に設けたもので、主に通行税の徴取を目的としていましたが、戦国時代になると、戦国大名による領国支配の構造と合わなくなり、織田信長により廃止が進みました。
補足終わり。

なぜ相場山?

現代では「逢坂山」と呼ばれる三角点324.7m峰が、かつて、明治時代に「相場山」と呼ばれていたのは、大坂堂島で発せられた米相場を各地へと旗振り信号で伝達するための経路……、いわゆる「旗振り通信」 の旗振り山だったことに由来するものです。
伏見稲荷の東に所在する西野山(二石山、二谷山)を経て、相場山から近江へと情報が運ばれたとされます。
たしかに、この山の見晴らしの良さは中継地点にうってつけだったでしょう。

1883年(明治16年)の『近江國滋賀郡誌』(近江国滋賀郡誌)では、相庭山(相場山)を長等山系の山と位置付けています。

同誌の「藤尾村誌」に、

藤尾村誌
「相庭山」
本村東部ニ屹立ス
嶺上二分シ東南本郡神出村ニ屬シ西北本村ニ屬ス
昔時米商此峰ニ登リ小旗ヲ麾テ米價ノ高低ヲ報ス
故ニ各登路二條一ハ本村小關峠ヨリ躋ル
一ハ神出村安然塔傍ヨリ登ル共ニ崎嶇タリ
『近江國滋賀郡誌』

と見え、現在、俗に「逢坂山」と呼ばれる山を指して「相庭山」とし、米相場を伝える旗振り山としての役目を担っていたと伝えます。
五大院阿闍梨と称される安然和尚は高観音近松寺を創建したとされる高僧ですが、この当時、観音堂の付近に安然の塔があったそうです。
この描写を見るかぎり、小関越側から登るにせよ、高観音さん側から登るにせよ、「共に崎嶇(きく)たり」、つまり、それほど険しい道とされていたようですね。

同誌の「神出村誌」でも、

神出村誌
「相庭山」
本村南ニ屹立ス
山脈北比叡山ヨリ來リ長等山猪山天狗巌等ノ群嶺其傍ヲ繞ル
嶺上二分シ西南ハ本郡藤尾村ニ屬シ東北ハ本村ニ屬ス
登路二條アリ一ハ尾蔵谷ヨリ躋ル里程壹拾七町一ハ小關越ヨリ里程壹拾三町
昔時米商此嶺ニ登リ小旗ヲ飄シ以米價ノ高低ヲ遠近ニ報ス
故に相庭山ト號ス
『近江國滋賀郡誌』

と見え、相庭山の呼称は米相場を伝える山に由来すると明記しています。
いずれの村からも、この山を指して「逢坂山」と呼んでいたという話は見えません。

その後、1915年(大正4年)の『大津名勝案内』には、

[長等山]
大津市の西方に蜿蜒起伏する山脈の總稱にして一に志賀山とも曰ふ、比叡山脈より分れ南は笠置山脈に屬する逢阪山に連る。最高部は海抜一二三一尺にして山勢温籍、老松古杉鬱々たり。相場山、明神山、團子岩山等の稱あり、相場山の稱は、安永九年より近年市内電話開通に至るまで大津米會所の旗信號を以て大阪相場の引移しを爲したるに起因す。三井寺、高觀音等、大津屈指の名勝舊蹟を包容し、京都に於ける東山に髣髴たるを感ぜしむ。

[逢阪山]札の辻より約八町は一に手向(たむけ)山とも言ひ、合坂、相阪などとも書し、古來有名なり、笠置山脉に屬し、北は長等山に連る。東海道鐵道及京津電車の隧道は山下を貫通す。往昔山上に官道あり。阪を上下して通行せりと云ふ。

『大津名勝案内』

と見えます。
高観音さんが所在する山(長等公園)まで含めた総称として、長等山の呼称を用いていながら、逢坂山は別の山と見なしていることが伝わります。
繰り返し申し上げておきますが、この頃の東海道鉄道の逢坂山隧道は、現在のJR東海道本線の新逢坂山トンネルではありません。
京津電車(現在の京阪京津線)は1912年(大正元年)に開業しており、1915年発行の『大津名勝案内』には名前が見えます。
『近江國滋賀郡誌』に見える「猪山」や「天狗岩」、あるいは『大津名勝案内』に見える「明神山」や「団子岩山」といった、長等山系の細かな山名は現代ではおおむね失われているのが残念です。
諸誌によると、藤尾で「坊主山」や「道場坊山」と呼ぶ山もあったらしい。
「天狗」や「明神」、それに「道場坊」、このあたりは(おそらく三井寺の)行者さんに由来するのでしょう。

また、1891年(明治24年)の『琵琶湖疏水工事図譜』に掲載される、1890年(明治23年)に撮影された「大津閘門」と題する写真に地名等が示されており、「三保神社」の左奥(左上)、「隧道東口」の奥(上)に「相場山」が写っています。
ここでの「三保神社」は「兎神社」として知られる三尾神社さんを指しており(琵琶湖第1疏水の取水口が「三保ヶ崎」)、「隧道東口」は琵琶湖疏水の長等山隧道(琵琶湖第1疏水の第1トンネル)の東口です。
したがって、撮影地点や山姿から、この写真における「相場山」が現在の逢坂山を指すことは明らかです。
同じ写真が1920年(大正9年)の『京都都市計畵 第一編 琵琶湖疏水誌』(京都都市計画 第1編)にも掲載されており、長等山隧道(第1トンネル)の軸上が「相場山の北の裾を横ぎる」としています。
これらは琵琶湖疏水工事に従事した田辺朔郎によるものですが、いずれも相場山とのみ見え、逢坂山とはしていません。

長々と述べてきましたが、三角点324.7m峰は俗に「逢坂山」と呼ばれているものの、明治時代や大正時代には「相場山」と呼ばれており、当時、逢坂山と呼ばれていた山とは異なる山です。
その影響もあるのか、現状、国土地理院さんの成果においても山名が表示されません。
以前は三角点324.7m峰の山頂に「相場山」の山名標がありましたが、それも失われてしまい、今は「逢坂山」の山名標が残るのみです。

かつては相場山と呼ばれていた山を指して逢坂山と呼ぶ人が増えたのは、けっきょくのところ、東海道本線の現在の逢坂山トンネルが山中を通っているため、小関越より南、大関越(逢坂越)より北の山域を指して広義の逢坂山ととらえる人が増え、相場山であったことを知らない方々らがそれを広めたからでしょう。
当サイトでは地形図に山名の表記がない山については現称に従うケースが多いため、広く知れ渡った「逢坂山」とする現称を採用していますが、個人的には「相場山」の名前も忘れ去られることなく残って欲しいと考えています。
ただし、相場山としての歴史もせいぜい200年程度のものであり、「相場山の呼称が絶対に正しい」と考えているわけではないことも申し添えておきます。

「旗振り通信」については柴田昭彦さん が大変お詳しく、年若く、浅い知識しか持ち合せていない私が語ることなどありません。
参考程度に、逢坂山(相場山)からの他の「旗振り山」に対する展望、遠景の写真を掲載しておきます。

相場山(逢坂山)から「旗振り通信」の山々を眺望

逢坂山(相場山)から「旗振り通信」の山々を望む 滋賀県大津市 2013年12月
逢坂山(相場山)から「旗振り通信」の山々、鈴鹿山脈を望む。
撮影地点から鈴鹿山脈最高峰の御池岳(滋賀県東近江市)まで55.3km。
安養寺山(滋賀県栗東市)まで14km、田中山(滋賀県野洲市)まで19.4km。
小脇山(滋賀県近江八幡市、東近江市)まで32.5km。

天山から眼前に近江富士、琵琶湖などを望む 湖南市・野洲市

「近江富士」三上山、天山、「甲西富士」菩提寺山 登山と展望

2013.10.15

先日登った「近江富士」三上山、「甲西富士」菩提寺山も写っていますね。

1995年(平成7年)の『藤尾の歴史』には、当初、旗振り山としての役目は伽藍山(大津市石山寺)が担っていたとあり、続けて、

奥藤尾から上った長等山系三井寺領の山に移った。
文化十二年(一八一五)山中に一間半(三メートル)四方の山小屋を造って、大阪から各所の中継を経て送られる旗の信号を浜大津に知らせた。
“相場山”或いは“旗振山”の名が残っている。
『藤尾の歴史』

とあります。
この文だけでは「長等山系三井寺領の相場山」がどの山を指すか分かりにくいですが、『藤尾の歴史』の附図(藤尾学区イラストマップ)には「相場山(旗振山) 325m」の呼称と絵が描かれており、ここでいう相場山(旗振山)が、現在、逢坂山と呼ばれている山であることを示しています。
「地元である藤尾では、この山を指して『相場山』や『旗振山』と呼んでおり、逢坂山とは呼ばない」ことが分かります。

大坂堂島から大阪、京都の山々を経て相場山へと運ばれた米相場の情報は、眼下の浜大津に知らされるだけではなく、『神出村誌』に「遠近ニ報ス」とあるように、さらに遠くへと送信されていました。
具体的には、相場山から野洲・甲西の菩提寺山(櫻山)や栗東の安養寺山へ、さらに彦根へ送るため、安養寺山から野洲の田中山(かぶと山)や旗振山(相場振山)へ、そして近江八幡・東近江の岩戸山へと伝達されていたそうです。
いずれの山も過去に登っていますが、低山ながら見晴らしが良い山ばかりでした。
雲が発生しやすい高峰は避け、それでいて靄や霧が溜まりやすい平地でもなく、適度な低山であり、里に近く、見晴らしが良い山であることが「旗振り山」に選ばれるポイントなのでしょう。

逢坂山の展望地から、それら中継地点を担う山々を見通せますが、木々に遮られるため、上の写真の構図では安養寺山はぎりぎり見切れそうになっています。
岩戸山は小脇山のすぐ西に所在しますが、写真では分かりにくいため、山名は示していません。
よく見ると、小脇山のすぐ右に赤神山(太郎坊山)のご神体たる岩場も写っています。
岩戸山の岩場に旗振り場の痕跡とされる方角指針の矢印が刻まれていると知り、一緒に登った山友だちさんと探したのも懐かしい思い出です。

整理の都合で記事を分けます。

逢坂山から琵琶湖大橋の向こうに白山を望む 大津市 2013年12月

大津の逢坂山から琵琶湖の奥に石川の白山を遠望 2013年12月

2013.12.11

続きは上の記事に。
この日は遠くの山並みまで条件よく見えていました。

余談・参考

追分山(菱形基線測点の山)

三角点324.7m峰の南、菱形基線測点が残る約300m小ピークを「追分山」として、逢坂山や相場山とは別の「山」と見なしている古いハイキングマップもあります。
今も大文字山の深い谷間は競技オリエンテーリングで利用されていますが、当時は相場山周辺もポイントとなっていたようです。

追分山(逢坂山)の山頂 菱形基線測点 点名「追分」 2013年12月
追分山の山頂。菱形基線測点(点名「追分」)。約300m小ピーク。

上の写真では右奥が逢坂山(相場山)方面、手前が追分駅方面。
広域的には相場山の一部に過ぎませんが、追分駅も近く、菱形基線測点の点名も「追分」ですので、追分山と呼ばれることも納得できます。
ただし、これは相場山を逢坂山と呼ぶのと同様、あくまでもハイカー間における俗称のようなものだと考えられます。

『大津名勝案内』によると、藤尾の西北に「龍神山」と呼ばれる山と、その山上に小池があったとされ、雨乞いにまつわる悲しいお話も伝わりますが、この山や池もどこを指しているのかよく分かりません。
あくまで私見ですが、藤尾の北西ですので、おそらく如意ヶ岳の雨社を指しているのだろうとは考えています。

昔の逢坂山トンネル東口跡の様子

昭和期の旧逢坂山トンネル東口跡の様子
映像資料『鉄道の歴史~栄光の115年~』から、昭和期の旧逢坂山トンネル東口跡の様子。
トンネル跡そのものの姿は現在とさほど変わりません。

旧逢坂山ずい道東口 1960年(昭和35年)に鉄道記念物に指定
1960年(昭和35年)、旧逢坂山ずい道東口は鉄道記念物に指定されました。

鉄道記念物
旧逢坂山ずい道東口

このずい道は明治11年10月5日東口から、又同年12月5日西口からそれぞれ掘さくを始め、約1年8ヶ月の歳月を費やして明治13年6月28日竣工したもので、大正10年8月1日線路変更により廃線となるまで、東海道本線の下り線として使用されていたものであります。
全長664.8mにおよぶこのずい道は日本人技術者が外国技術の援助を得ずに設計施工した、我が国最初の山岳ずい道として歴史的な意義をもつものであります。
坑門上部にある石額は竣工を記念して時の太政大臣三條実美の筆になるものであります。

日本国有鉄道
昭和36年10月14日建設

この「鉄道記念物 旧逢坂山ずい道東口」の紹介、(私の勘違いでなければ、)近年まで残っていたように記憶していますが、いつの間にやら、新しいものに置き換わったようですね。
当然のことながら、この当時は「日本国有鉄道」の所有となっています。

『大阪中央電信局沿革小史』『大阪市史』に見る「旗振り通信」

旗振信號沿革及仕方 附・傳書鳩の事
https://dl.ndl.go.jp/pid/1237186
『明治大正大阪市史 第七巻 史料篇』

1933年(昭和8年)発行の『明治大正大阪市史 第7巻』のリンク。
第5巻に「大阪の旗振り通信」と題した論文(いわゆる近藤論文)が収録される(が、現状、国立国会図書館デジタルコレクションでは送信範囲が限定される)。

大阪表の旗振り通信
https://dl.ndl.go.jp/pid/1094528
『大阪中央電信局沿革小史』

1928年(昭和3年)発行の『大阪中央電信局沿革小史』のリンク。

他地域における「旗振り通信」(旗振信号)

俎石山から「あべのハルカス」、「りんくうゲートタワービル」を望む 2012年12月

桃の木台~俎石山を登山 関西国際空港、あべのハルカスを遠望

2013.01.14

1916年(大正5年)の『増訂印南郡誌 後編』に見える旗振山の話を(本題とは無関係な)上の記事で取り上げています。

桑名と岐阜の相場山

1915年(大正4年)の『北方町志』に、

舊幕府時代商業地としての北方
(前略)
東西の相場を桑名に集め同地の延べ問屋より大旗の振り方信號を以て多度山上の信號所に移し同山より岐阜の相場山(権現山の東の山)に移し同所より北方延會所屋上の受信臺へ移すを以て毎日報道時刻に至れば係員は「目鏡(めがね)」と呼ぶ舊式の望遠鏡と手帳とを以て受信臺に登り岐阜相場山の旗振信號を視て手帳に記載し
(後略)
『御大典記念 北方町志』

桑名から岐阜、北方への伝達経路が記録されています。
「多度山」は三重県桑名市と岐阜県海津市の県境付近に所在する山で、「北方」は岐阜県本巣郡北方町。
「岐阜の相場山」の存在は他誌でも確認できますが、どうも権現山と同一視する描写が多く、「相場山は権現山の東の山」として区別する『北方町志』の記述は貴重だと考えています。
岐阜には多くの「権現山」が所在しますが、相場山と関わる権現山については、1941年(昭和16年)の『岐阜市の産業』の「權現山の時の鐘」や、同年の『岐阜県観光誌』に、市電「今小町」が最寄りで、金華山の南に連なり、頂上に東照宮を祀ってあるので此の名がある、日清戦役記念の時鐘堂があり「時の鐘」として知られる、などと見えますので、金華山の南西域を指すようです。

相場山と権現山を別の山と扱う描写として、1901年(明治34年)の『断霞録』に収録される、1900年(明治33年)の紀行文「長良の鵜飼」があり、長良川の屋形船からの眺めとして、「右側には金華山、權現山、瑞龍山、相場山などの積翠が近く並んで」と見えます。
瑞龍山は金華山の南西端にあたり、かつて、山頂域にプラネタリウム館やお化け屋敷などの遊園地があった瑞龍寺山(水道山)を指すと考えられます。
『断霞録』の作者は正岡子規の高弟、寒川鼠骨。

関連記事 2013年12月8日 逢坂山(相場山)の歴史と展望

すべて同日の山行記録です。併せてご覧ください。

逢坂山(相場山)(地理院 標準地図)

クリック(タップ)で「逢坂山(相場山)」周辺の地図を表示
「逢坂山(オウサカヤマ)(おうさかやま)」
別称として「相場山(ソウバヤマ)(そうばやま)」
標高324.7m(三等三角点「神出」)
滋賀県大津市

脚注

  1. この歌に見える「たむけ山」を奈良東大寺の手向山とする説について、真淵は「よしなし」=根拠が無いと強く否定しています。[]
  2. ただし、平安時代以降の歌枕における「鈴鹿山」。これは話が長くなるので別の記事 で。[]
  3. 鴨長明は平安時代末期~鎌倉時代初期の随筆家・歌人。当サイトでは日野岳関連の記事 でも取り上げています。[]
  4. 相摸は平安時代中期~後期の女性歌人。中古三十六歌仙。女房三十六歌仙。[]
  5. 赤染衛門は平安時代中期の女性歌人。中古三十六歌仙。女房三十六歌仙。[]

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Maro@きょうのまなざし

京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!