世間的には3連休の中日、私には連休どころか休日そのものがありませんが……、2013年(平成25年)12月22日の話。
「比叡山が真っ白」、「北山が真っ白」、そういった話が朝から次々と私の耳に入ってきます。
午後から少し時間が空いたため、どうしたものか思案し、能勢の剣尾山(けんびざん)へ向かうことに。
現地は雪が降ったり止んだりのようですが、なんとかなるでしょう。
道中、立ち寄ったJR山陰本線の亀岡駅から真っ白な愛宕山が見えており、こちらにも惹かれるものがありましたが、山頂は雲に隠れており、現地はガスの中でしょうか。
目次
JR亀岡駅から雪で白い愛宕山を望む
亀岡駅北口から牛松山と愛宕山を望む。
この日は風も強く悪天候、駅2階の展望デッキは閉鎖されていたため、駅から出て北口の外から撮影しています。
目立つ左の山が牛松山で、真っ白な右奥の山が愛宕山です。
剣尾山の山頂は大阪府豊能郡能勢町にあたりますが、この日は京都府亀岡市畑野町の土ヶ畑口(どんがばた)を起点として京都府側から入山し、笠山(かさやま)コースを利用して剣尾山を登ることにしました。
起点となる土ヶ畑口の標高が約430m、笠山コース登山口の標高が約600m、剣尾山の標高が784mですので、土ヶ畑口から笠山コースの登山口まで詰めるだけで全行程の半分ほどの高さを登ることに。
京都府亀岡市側から剣尾山を登山
笠山コース登山口
登山口とは申し上げても、ここに至るまで谷を渡り湿地を越えしています。
写真では雪が少なそうに見えますが、京都府寄りの山野には雪が積もっていました。
閉所となった大阪府立総合青少年野外活動センターが近いため、大阪府だと勘違いなさる方もいらっしゃるでしょうが、この登山口は京都府亀岡市(畑野町土ケ畑)にあたります。
登山口から南、京阪の府境を越えると大阪府豊能郡能勢町(宿野)です。
郷土史を拝見するかぎり、大阪側(摂津国能勢郡)と京都側(丹波国桑田郡)は古くから往来があったようですね。
私が歩いてきたコースの脇には炭焼き窯跡も見受けられます。
剣尾山八合目の積雪状況
踏み跡ひとつない新雪の上、軽いスノーハイクを楽しみます。
先に述べたように、笠山コースの登り始めは亀岡市にあたりますが、この八合目付近から大阪府と京都府の府境となります。
また、この日、もっとも雪が深かったのがこの八合目から次の國界碑の間で、この区間に限ってはコース上でも足首あたりまで雪が積もっていました。
笠山の山頂
笠山山頂の積雪状況。標高719m。大阪府豊能郡能勢町・京都府亀岡市。
剣尾山の八合目でもある笠山は、地形図に見える標高点719m峰。
「笠山 719m」の山名標も設置されていますが、おなじみ、某ピークハンターさんの標は見当たりません。
一度、笠山から鞍部に下り、登り返したあたりで他の方の踏み跡が合流します。
どうやら横尾山方面からのようですが、踏み跡は尾根から逸れており、謎が残るコース取りでしょうか。
ここまで踏み跡ひとつなく、私だけが独占していた新雪ですが、それも終わり。
やや雪が深かったため、先行者さんのトレースを利用することに。
摂丹國界碑
有名な國界碑(国界碑)、これはもちろん摂津国と丹波国の国境を示す碑ですが、この地点で剣尾山から横尾山に連なる尾根と合流します。
過去に剣尾山から横尾山、深山も縦走していますが、当時と今では山中の風景や展望の環境、あるいは開発光景もやや変化していると聞きますので、久々に歩いてみたいものです。
登ってきた剣尾山笠山コースを振り返ります。
これより先、剣尾山の山頂方面は踏み跡だらけの上、八合目付近と比較して雪が少なかったです。
横尾山~剣尾山の尾根から
木々の合間にこちらも雪化粧した深山が覗いています。
亀岡市最高峰(亀岡市に山頂を置く山としては最高峰)の横尾山を経て、北摂最高峰の深山へと摂丹国境尾根が連なっています。
撮影地点からは直線でせいぜい5km程度の距離にすぎず、剣尾山とは標高も大差ない山ですが、向こうのほうが雪は深そうです。
山頂の手前で大阪府立総合青少年野外活動センターからのコースを合わせます。
踏み跡は見当たらず、この日はこちら方面を歩いた方はいらっしゃらないようです。
少し登ればいよいよ山頂です。
剣尾山の景色・眺望 大阪府豊能郡能勢町
山頂南側の展望地からは木々の合間に遠く小豆島が見えており、これは見晴らしのよい岩場に登って撮影するしかありません。
ところが、日没が近付き、どの岩も薄く積もった雪が凍結しており、危険このうえない状態に。
アイゼンやチェーンが必要になるとは考えてもおらず、少し足をかけただけで滑る岩に躊躇します。
さらに、風も強く吹き始め、嫌がらせのように細かなアラレ(霰)が降り始めます。
ここに至るまで雪が降る気配はなく、油断していましたが、山の上の天気は変わりやすく。
それでも、小豆島だけは撮影しておかねばと思い、意を決して適当な岩の上に登ります。
剣尾山や行者山の山中や山頂には大きな岩がいくつも見られますが、大日岩やミロク岩といった、今も仏教的な名が残る岩以外にも、古くは天狗岩や唐櫃岩、白蛇岩など、それぞれに固有の名が付いていたらしい。
天狗岩は修験の山でよく見る呼称ですが、今のトビ岩かも?
剣尾山には天津鰐(あまつわに)という大きなワシ(鷲)の姿をした神様がいたという伝説があります。
小豆島を遠望
剣尾山から小豆島、家島諸島、播磨灘を遠望する。
撮影地点から小豆島最高峰の星ヶ城山(香川県小豆郡小豆島町)まで113.3km。
長時間、岩の上に立っているのは気が進まず、手早く小豆島を撮影し、さっさと展望地に戻ります。
小豆島や家島の右手には高御位山が見えていましたが、写真は撮影していません。
大阪湾方面の展望
雪積もる剣尾山。六甲山や大阪湾方面の展望。
撮影地点から六甲最高峰(六甲山最高峰)(神戸市北区、東灘区)まで28.1km。
六甲山はもちろん、大阪湾の対岸、遠く和泉山脈まで見えていました。
雲が多く、写真映えしませんが、どちらかといえば好条件と言えるでしょう。
しかしながら、激しく降りそそぐアラレに撮影意欲を削がれてしまいます。
関西国際空港を遠望
剣尾山から関西国際空港、和泉山脈西部を望む。
撮影地点から和泉飯盛山(泉南飯盛山)(大阪府泉南郡岬町)まで80.6km。
日没直後に撮影しています。
多奈川第2発電所や、和泉山脈西端の高森山はぎりぎり見えません。
手前に見えているのは兵庫県川辺郡猪名川町のあたりです。
大阪港の夜景
剣尾山から大阪港、コスモタワー、南港スカイタワーなどの夜景を望む。
撮影地点から堂鳴海山(和歌山県有田郡有田川町、海草郡紀美野町)まで98.7km。
コスモタワー(大阪府咲洲庁舎)(大阪市住之江区)まで40.5km。
おおむね真南を向いて撮影しています。
和泉山脈の向こうには、堂鳴海山、生石ヶ峰といった長峰山脈の山々もうっすら見えていました。
いずれ、条件のよい日に落ち着いて撮影してみたいものです。
石切山や釣鐘山の手前や左は兵庫県川西市のあたりです。
おなじみ、あのビルの姿も剣尾山から見えており、あと少し待ち、超高層ビルの数字 を撮影してから下山するべきか迷いましたが、無理をする必要はないと判断し、この日はひとまず撤退することにしました。
少し標高を下げればアラレは降っておらず、どうやら山頂のみ降っていたようです。
またいずれ数字を撮影する機会もあるだろうと考えながら、真っ暗な雪山を駆け下りました。
…数字を撮影する機会は意外に早く訪れました。
続きは上の記事に。
余談
剣尾山の読みは「けんびざん」? 「つるぎおやま」とも呼ばれていた?
剣尾山は当たり前のように「ケンビザン」や「ケンビサン」と読まれていますが、1906年(明治39年)の『日本山嶽志』(日本山岳志)には、
劍尾山 ツルギオヤマ けんびざん (別稱 下樋山 したび、月峰山 げつぽう)
攝津國豊能郡ノ北方ニアリ、西鄕村大字大里ヨリ凡二里ニシテ其山頂ニ達ス、標高二千六百尺、『日本山嶽志』
と見え、剣尾山は「つるぎおやま」とも読まれていたことが窺えます。
別称の「月峰山(げつぽう山)」はいにしえ月峰寺の旧墟に由来しますが、「下樋山(したび山)」の「下樋」は地下に掘られた抜け穴の意味です。
「西鄕村大字大里」は現在の豊能郡能勢町大里(能勢郡大里村→能勢郡西郷村→豊能郡西郷村→豊能郡昭和村→豊能郡西能勢村→豊能郡能勢町)。
経緯が複雑ですが、何度か再興された月峯寺さんの現在の所在地ですね。
豊能郡昭和村の呼称は昭和の元号に由来すると考えられますが、短期間で西能勢村に改称されました。
また、『日本山嶽志』では「けんびざん」だったり「ツルギオヤマ」の読みですが、1893年(明治26年)の『大阪府地誌略』では「けんびさん」と、1922年(大正11年)の『大阪府地理』では「老ノ坂山脈」の「ツルギヲ山」と振り仮名を振っています。
下樋山について
下樋山ハ攝津國風土記云。昔有二大神一云二天津鰐一、化二爲鷲一而下二止此山一。十人往者五人去五人留。有二久波乎者一來二此山一伏二下樋一而屆二於神許一。從二此樋内一通而禱祭。由レ是曰二下樋山一。仙覺抄ニ能勢郡ニアリト云ヘリ。下樋ノ水ニ寄テ上ニ出スト云。
『萬葉代匠記(精撰)』
昔、大神あり。天津鰐(あまつわに)と云う、鷲になりて、此の山に下り止まり。十人往けば、五人は去りて、五人は留まりき。久波乎(くわお)という人あり。此の山に来り、下樋(したひ)を伏せて、神の許に届かしめ、此の樋の内より通りて、祷り祭りき。是に由りて、下樋の山と曰う。
下樋山の旧称については、林道春(林羅山)による『本朝神社考』や、契沖による『萬葉代匠記』(万葉代匠記)が『摂津国風土記』(佚書)から引いたものが知られます。
この下樋山を「能勢郡にあり」としたのは、鎌倉時代初期の仙覺(仙覚)による萬葉集(万葉集)の注釈書『仙覺抄』(仙覚抄)とも見えます。
『仙覺抄』は仙覚による『萬葉集註釋』(万葉集註釈)の異称で、以降の万葉集研究に大きな影響を与えました。
『萬葉集』九の巻で「田邊福麻呂之歌集出」「思娘子作歌一首」とする長歌に「下檜山下逝水乃上丹不出」(下ひ山下行く水の上に出でず)の一節があり、「下逝水乃上丹不出」との関係から、『萬葉集註釋』では摂津国能勢郡に下樋の山があると指摘しています。
「下ひ山」と「下樋山」を関連付ける解釈は、『萬葉代匠記』の影響を強く受けた橘千蔭(加藤千蔭)の『萬葉集略解』(万葉集略解)や、あるいは鹿持雅澄の『萬葉集古義』(万葉集古義)でも採用しており、江戸時代の国学者の間で定説となりました。
剣尾山の由来 下樋山→月峰山(槻峯寺)→剣尾山
能勢町の広報によると、
文化財への道
下樋山(槻峯寺建立修行縁起絵巻より)
昔、能勢に、天津鰐(あまつわに)という恐ろしい鷲の姿をした神様が守る魔の山がありました。久波乎(くわお)という勇敢な人が「下樋(したび)」(地下道)を掘って山の頂上に近づくと、
(中略)
聖徳太子の時代になり、日羅(にちら)上人が仏を祀るにふさわしい所をさがしていました。しかし霊地が見つけられずあきらめて百済に帰ろうと尼崎の長洲浦に着いたところ、漁師たちが「能勢の山が光ると、まぶしくて魚を獲ることができません」と教えました。
(中略)
大きな岩を越えて頂上に着くと、槻木(けやき)の大木から光がさし、
(中略)
ある夜、上人が異国との争いを鎮める祈願をしていたところ、ピカッと鋭い稲光りとともに、一本の剣が“みなを守りましょう”と空から降ってきました。それからは、この山を、「剣尾山(けんびざん)」とよんでいます。「広報のせ 2017年1月号」より
http://www.town.nose.osaka.jp/material/files/group/4/51932227.pdf(リンク切れ)
とのことで、「下樋山」→「月峰山」(槻峯寺)→「剣尾山」と山名が変遷した経緯が分かる、なかなか興味深い伝説です。
(海外の美術館に流出した)「槻峯寺建立修行縁起絵巻」よりとしていますが、元禄14年(1701年)に大成した『攝陽群談』(摂陽群談)や、他の地誌にも同様の話が収載されます。
「槻(つき)」は「槻木(けやき)」で、本来、「月峰」はケヤキの山の意味。
古来、「高月」であった地名が、大きな槻木に由来して「高槻」と改称したという、いわゆる高槻の謂われとは逆でしょうか。
日羅上人は槻峯寺の縁起や、剣尾山の北西方、能勢最北の地、天王集落の由緒に名前が見える百済の高僧で、出自や没後の経緯から九州各地の寺院や、あるいは聖徳太子と関わりがある寺院と縁が深く、たとえば、奈良県高市郡明日香村の橘寺には国指定重要文化財の日羅立像が伝わります(奈良帝室博物館→奈良国立博物館に寄託)。
ただし、『日本書紀』の描写では日羅が僧であるとは読み取れず(父の代に九州から海を渡り、聖徳太子の招聘に応じて百済から帰国した人物)、後世の聖徳太子伝や高僧伝、説話集による伝説的要素が大きい。
ここでは月峰山や剣がピカッと光っていますが、平安院政期に成立したとされる『今昔物語集』や、鎌倉時代の『沙石集』には、百済より来日した日羅上人が聖徳太子を敬礼救世観音、伝灯東方粟散王と扱い礼拝して、その身から光を放つと、それを受けた聖徳太子の眉間が光り朝日のようだといった説話が収録されます。
「広報のせ」を読むかぎり、どうやら、能勢町では「剣尾山」を公的には「けんびさん」ではなく、「けんびざん」と読んでいるようですね。
現代になり、「剣尾山」を「けんぴざん」や「けんぴさん」と読む例も現れ、急速に広まっているようですが、濁音ではなく半濁音とする史料上の論拠は不明。
どうやら、近年のハイカーの間で、「ん」の音の後に「は」行の音が来ると半濁音に変化するケースと見なされているようですね。
江戸時代後期、1796年(寛政8年)に当該巻が刊行された『攝津名所圖會』(摂津名所図会)では「劍尾山」に「けんひさん」や「けんひざん」と振り仮名を振っています。
「剣尾」の音が「剣(けん)」+「ひ」で「けんひ」であれば、「ん」の音の後の「ひ」は「けんぴ」となりえますが、「剣尾」の音が「剣(けん)」+「尾(び)」で「けんび」であれば、「ん」の音の後であっても、「ば」行の濁音「び」から半濁音には変化しません。
たとえば、「鞍部(あんぶ)」を「あんぷ」とは読まないし、「燕尾(えんび)」を「えんぴ」とは読まないでしょう。
しかしながら、「安(あん)」+「否(ひ、ふ)」で「安否(あんび)(あんぴ)」や、あるいは「安否(あんぶ)(あんぷ)」と半濁音に変化したり [1]、「猿(えん)」+「臂(ひ)」で「猿臂(えんび)(えんぴ)」と半濁音に変化するのは確かです。
もっとも、『攝津名所圖會』で「劍尾山」に「けんひさん」や「けんひざん」と振り仮名を振っているから、本来、「剣尾山」は「けんひさん」や「けんひざん」と表記していた、この「ひ」は半濁音に変化するので「けんぴさん」や「けんぴざん」と読むのが絶対的に正しいといった仮説を唱えたとしても、これはあやしく、『攝津名所圖會』に先んじた『攝陽群談』の現存刊本では「劍尾山」に「ケンビ」と振り仮名を振っています(ので、それだけではとても断定できません)。
現状、国土地理院による「電子国土基本図(地名情報)」の「自然地名情報」では、「剣尾山」の読みを「けんびざん(Kenbi Zan)」としています。
また、地理院地図では複数の読みが考えられる山名や、あるいは通例から外れた読みの山名(難読山名)には振り仮名を振ることがあり、たとえば、剣尾山の北に連なる「深山」の「深」には「み」と振っていますが、「剣尾山」には振っていません。
私見も述べておくと、「けんびざん」は月峯寺さんの山号の読みで(寺名や山号は音読みとなりやすい)、山としては「つるぎおやま」と呼ばれていた可能性もあると考えています。
現在の月峯寺さんでは、その山号を「剣尾山(けんびざん)」となさってます(どなたでも現地で確認できます)。
月峯寺さんは城山(鷹爪山)の南麓に所在しますが、かつて、この山に大町右衛門の鷹爪城(山邊城)があり、織田方の䀋川伯耆守(塩川長満)に攻められて落城したといった話が『大阪府誌』に見えます(西麓の解説板もおおむね同じ内容)。
そもそもで申し上げれば、山としての剣尾山は「月峯山」と呼ばれていた時期が長いのではとも。
たとえば、元禄国絵図の「摂津国図」(元禄摂津国絵図)では「月峯山」の山名となっています。
島上郡の(現在の高槻市の)神峯山と同様、かつて、山岳修験の山であったことは想像にたやすく。
また、1894年(明治27年)の『大阪府地理案内』のように、剣尾山の山名を採用せず、月峯山の山名のみを掲載する地理書もあります。
本記事の初稿は2013年(平成25年)に公開しましたが、2017年(平成29年)に能勢町さんの広報記事が公開されたのを受け、山名の由来について追記しておきます。
再追記しておきますと、2023年(令和5年)4月頃の更新で、「広報のせ」の古い記事(バックナンバー)がネット上から消えてしまいました。
関連記事 冬の剣尾山 展望と遠景
同時期の山行記録です。併せてご覧ください。
- 積雪する剣尾山・笠山 大阪港や小豆島を遠望 剣尾山の由来
- 北摂 能勢の剣尾山から鈴鹿の御池岳や京都の大文字山を遠望
- 剣尾山の夜景 ハルカスや通天閣、関西国際空港を撮影 北摂山系
剣尾山(地理院 標準地図)
「笠山(カサヤマ)(かさやま)」標高719m
大阪府豊能郡能勢町、京都府亀岡市
「剣尾山(ケンビザン)(けんびざん)」
標高784m
大阪府豊能郡能勢町(山体は京都府亀岡市に跨る)
脚注
- 「否」の漢音は「ひ」で、表外呉音は「ふ」。「ん」の音の後に続く呉音「ふ」が半濁音「ぷ」に変化する用例として「運否天賦(うんぷてんぷ)」。[↩]
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