日野岳(日野山)ハイク 供水峠~パノラマ岩 鴨長明と遠景

如意ヶ岳から御嶽山や白山を遠望した記事……、

京都の如意ヶ岳(如意ヶ嶽)から琵琶湖の向こうに白山(加賀白山)を遠望 2014年1月

京都の如意ヶ岳から石川の白山と琵琶湖を遠望 大文字山

2014.01.09

上の記事で、「久々に日野岳(日野山)を訪れました」と述べたことを覚えていらっしゃるでしょうか。
すっかり間が空いてしまいましたが、今回はその話です。

日野岳(日野山)と鴨長明について

日野岳(ひのだけ)は京都市伏見区日野と宇治市炭山を繋ぐ供水峠の北に所在する標高点373m峰。
『方丈記』に「日野山の奥に跡を隠して」と名が見える山であり、その作者である鴨長明が晩年を過ごし、『方丈記』を著した隠棲の地として知られています。
その山腹には「外山の庵」長明の閑居跡とされる、いわゆる「長明方丈石」が所在します。
この外山については、記事下部の「雑記」で補足しています。

鴨長明は平安時代末期~鎌倉時代前期の人で、賀茂御祖神社(下鴨神社)(下社)の神職の子として生まれましたが、神職としては望んだ地位につけず、出家した後、僧名を蓮胤と称し、都の中心から離れてしまいました。
『方丈記』では「むなしく大原山の雲にふし」た後、日野山に移ったとしています。
歌人としても優れており、「越兼ねし逢坂山を哀れ今朝歸るをとむる關守もがな」(越兼ねし逢坂山を哀れ今朝帰るをとむる関守もがな)などの歌を残しました。
引き合いに出したのは、逢坂山を歌枕とした典型的な恋歌ですが、『方丈記』から受ける長明の印象、たとえば、世をはかなんだ(すねた)人のイメージとは異なるのではないでしょうか。
また、長明が残した随筆的な歌論書『無名抄』は、後世に少なからず影響を与えました。

宇治市・京都市伏見区 日野岳を登山

2014年(平成26年)1月6日、この日は地下鉄(京都市営地下鉄東西線)の石田駅を起点として、京都市日野野外活動施設の奥から入山しました。
時間帯的に、いわゆるサンセットハイキング、トワイライトハイキングとなります。

石田駅から日野までせいぜい1km少し、歩いても大した距離ではありませんが、京阪六地蔵発、石田駅経由、日野誕生院行きの京阪バスも利用できます。
バスの場合、日野の停留所で下車するほうが道は太く分かりやすいですが、日野薬師の停留所が日野野外活動施設まで最短です。
終点となる、親鸞聖人ゆかりである日野誕生院の停留所で下車して、バス停から北上し、道標を目印に萱尾神社さんの角で東に曲がっても良いでしょう。
萱尾神社さんの奥、日野野外活動施設の付近を流れるのは合場川(あいば川)で、日野岳を下って日野川に合わさり、やがては山科川に流入します。
古くは「逢場(あいば)」や「藍葉」とも呼ばれた地や琴弾山について、記事下部の「雑記」で少し取り上げています。

「長明方丈石みち」歴史ハイキング

長明方丈石みち 日野岳(日野山) 京都市伏見区 2014年1月
取り付いてすぐに分岐があり、右が方丈石を経由する「長明方丈石みち」です。
左は地形図に見える破線路ですが、直線距離にして約0.2km、高さにして約60mほど登ったあたりで両コースは合流します。
どちらの道を取るにせよ、コースタイムに大きな差は出ません。

日野岳 「長明方丈石」の上に建つ石碑 京都市伏見区 2014年1月
「長明方丈石」の上に建つ石碑(石標)。
右の碑は明和9年(1772年)建立といいますから、今から240年以上前のもの。
明和9年は迷惑年の駄洒落で知られます(災害続きで安永に改元)。

「長明方丈石」
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hu030.html

裏に記された碑文の内容については、京都市歴史資料館さんが運用するサイト、「フィールド・ミュージアム京都」の「いしぶみデータベース」 に詳しく。
個人的に補足しておくと、撰文の作者である巖垣彥明(巌垣彦明)は京都出身の儒学者・漢学者、岩垣龍渓(三善彦明)。
当時、京都では非常に人気があった皆川淇園にも師事しています。
龍渓は書者(筆者)である岡部長啓と共に、祇王寺さんの境内に建つ祇王祇女仏刀自旧跡碑の碑文も担っており、この碑(と祇王寺の成立経緯)は多くの方々から関心を集めていますね。

日野山に「ひとまの庵」を結んだ鴨長明の心情が『方丈記』に表れています。

今淋しき住居。一間の菴。みづからこれを愛す。
『方丈記』

この大岩の上に草庵を結んだのが事実であるかは別として、この地は鴨長明ゆかりの地として知られており、江戸時代には観光名所となっていたようです。

「日野」
ひがしの山のかたはらに鴨の長明がすみたりし方丈のあとに大石あり
『京城勝覧』

石碑が建立される以前、たとえば、享保4年(1719年)の『京城勝覧』では上のように紹介しています。

「長明方丈石」
日野村のひがし五町許外山の山腹にあり
(中略)
此地甚だ絶景にして遠近の佳境一眼の中に遮る地勢の風景
方丈記にくはしければここに略す
『都名所圖會』

石碑の建立からやや遅れて、安永9年(1780年)の『都名所圖會』(都名所図会)では上のように紹介しており、さらに、『方丈記』からの受け売りではあるものの、この山から見る風景は「甚だ絶景」だとしています。

「長明方丈石」から少し登り、先ほど岐れた破線路を合わせます。
しばらく急登が続くため、少しペースを落としてのんびり登っていくと、供水峠へ向かうコースと、日野岳の山頂を巻き、ユウレイ峠(ユーレイ峠)(ユウセン峠)へ向かうコースの分岐に着きます。
この日の最終的な目的地へ向かうだけであれば、山腹の道を利用するほうが早く着きますが、日没まで時間に余裕もあるため、供水峠を経て日野岳の山頂を踏むことにしました。

供水峠のお堂にお参り 洪水峠? 香水峠?

供水峠の西 石仏群と弘法大師堂 日野岳(日野山) 2014年1月
供水峠の西に並ぶ石仏群や祠、弘法大師堂にお参りし、少し登って供水峠の頂へ。

「こうすい」とも「こうずい」とも読まれる供水峠ですが、やや変わった呼称です。
1909年(明治42年)測図、1912年(明治45年)発行の正式二万分一地形図「宇治」では「洪水峠」の表記ですが、要は音さえ合っていれば構わない古い日本語表記のあり方なのでしょうか。
1881年(明治14年)の『京都府管内地誌畧 山城之部』では「香水峠」としており、1882年(明治15年)の『京都府管内地誌略字解 山城之部』で「香水峠」に「カウズイトウゲ」(現代仮名遣いでは「コウズイトウゲ」)と振り仮名を振っています。
峠のやや西、石仏や祠の脇から石清水が湧き出ており、これが現代における「御供水(御香水)」と言えます。

供水峠の由来

ここから追記。

本記事の初稿時に、

供水峠
御供水(御香水)は神仏にお供えする水を意味しています。 祠の脇から石清水(御供水)が湧き出ており、これが峠名の由来となっています。

といったことを書いて放置しておいたら、後年、本記事をご覧になられたと思わしき方が、全文のうち、上記部分のみを抜粋なさり、そのままお写しになられて、現地に紹介板を設置なさったようで、これには少しだけ困っています(念のために申し上げておきますが、私が設置したわけではありません)。
あるいは、本記事をご覧になられた方が転載なさったものが目に留まり、さらに孫引きとして広まったのかもしれません(これは私が公開する記事においてよくある出来事です)。
本記事では故意に「岩清水」ではなく「石清水」としておきましたので、いずれにせよ、そのまま書き写されたのは明白でしょう。
残念ながら、上の文だけでは正確な内容とは言えないので、できれば、その続きに書いておいた弘法大師の伝説や、現代における観点であることまで合わせて紹介していただけるとありがたかったです。
当地において弘法大師の伝説は重要な扱いを受けていたと考えられます。
たとえば、京都市消防局さんの記事 でも、「弘法大使にゆかりの供水峠」としています(大使はご愛敬ということで)。
ただ、今となっては昔の石清水の場所を特定するのは困難ですから、あくまでも「現代においては」祠の脇から出る石清水を「御供水」と見なしておけば良いでしょう、といったニュアンスで書きました。
しかしながら、当地は醍醐山も近く、弘法大師を熱心に信仰なさる方は今でもいらっしゃいますので、伝説そのものを無かったことにはできません。
全文を通して読んでいただければ、そう伝わるように書いたつもりでしたが、方々に気を遣いすぎた結果、曖昧な書き方に終始してしまい、どうやら上手く伝わらなかったようです。
本件については中途半端な書き方をした当方にも問題があり、責任のようなものを感じています。
少しばかり記事の構成を変更しておきます。

たとえばの話ですが、もし、今の私が由来を書くのであれば、

供水峠
昔、この峠の東の谷には大きな岩があり、弘法大師がその岩を穿つと石清水が湧き出したと伝わります。いつの頃からか、この谷を供水の谷と呼ぶようになり、これが峠名の由来となりました。今は峠の祠の脇から石清水(御供水)が湧き出しています。御供水(御香水)は神仏にお供えする水を意味しています。

といった感じでしょうか(こう改めてはどうか、という意味ではなく、ただ分かりやすくまとめただけです、念のため)。

調査したかぎり、供水の谷が供水峠の由来であることは確かですが、その供水については、石清水の話は後世の創作で、谷の水が湧いた枯れたを「供水」に託したのか、「コウズイ」の音が先にあって、「供水」は音を借りただけの仮名なのか、本当のところはどうであるか、私も断定はできません。
この件に限らず、『都名所圖會』には大げさな描写が見受けられますので、あくまでもそういった話もある、程度の内容です。
これは他の記事でも何度か申し上げていますが、『都名所圖會』は先行する他の地誌から引用して派手にアレンジしたと思われる記事が多く、あくまでも観光ガイドブックのようなものです。
もっとも、江戸時代には「弘法水」なる水が湧いており、方丈石と合わせ、炭山道の名所となっていたのではないか、とは考えています。
峠の東の谷を「供水の谷」と呼んでいたことは下の雑記を読んでいただければ分かります。
地元の方による戦後期の記録では、弘法大師を祀る御堂や水場がある峠の頂上に対しては特定の呼称を使用していないのに、上炭山へ下る東の谷には「供水の谷」の呼称を使用しています。

私は地権者でもなく土地の人間でもないので、必要以上に口出しする気はありません。
ただ、個人的に、日野や宇治といった土地には思い入れのようなものがあり、本記事を元にした微妙な誤解が広まるような事態だけは避けたいとも考えています。
まさか、なんの連絡もなく、出典も示さず、一部を抜粋して、そのまま書き写されるとは思わなかった、というのも正直な気持ちです。
書き写された方は、これが私のオリジナルな文章とは思わず、どこかのガイドブックから引いてきた文章だと勘違いなさったのかもしれませんが、私は引用や転載に際しては典拠を分かる形で明示しています。
もちろん、当サイトの記事に対するリンクは自由であり、出典を明示した引用も自由です。

追記終わり。

この供水峠から東、宇治市の上炭山側へ下る谷を「供水谷」(供水の谷)と呼びます。
供水谷を詰めた上だから供水峠なのであって、どちらが先かといえば谷が先です。
かつて当地を巡杖したと伝わる弘法大師空海が峠を越えた道のり。

「長明方丈石」
(中略)
峠のひがしに巌の中より淸水湧き出る所あり
炎暑の節樵夫の舌を潤はせんがため弘法大師此巌を穿ち給ふとぞ
『都名所圖會』

先ほど引いた『都名所圖會』の続きで上のように紹介しており、弘法大師ゆかりの石清水が湧く山として知られていたようです。
「峠のひがし」ですので、これは現在の供水峠の上ではなく、峠の東の供水谷を指すと考えられますが、かつて、醍醐や日野のあたりは湧水の水量が豊かだったのでしょうか。

本来、「御供水(御香水)」は神仏にお供えする水の意ですが、よく知られる御香宮神社さんに限らず、柳谷観音さん、志明院さんなど、京都の寺社は有名な香水が多く。
寛政5年(1793年)の『都花月名所』では、「名水」として、「小町水 小野随心院」「醍醐水 上醍醐」などと並び、「弘法水(こうぼうのみづ) 日野山」の名前を挙げています。
『都名所圖會』が1780年、『都花月名所』が1793年ですから、そう離れておらず、この「日野山の弘法水」は、おそらく『都名所圖會』に見える「弘法大師ゆかりの石清水」を指すのでしょう。
醍醐の地には「醍醐三水」とされる「弘法水」(弘法大師独鈷水)もありますが、弘法大師ゆかりの地に「弘法水」「独鈷水」の名は珍しくありません(この件については記事下部の「雑記」で補足しています)。
また、改めて申し上げるまでもなく、上醍醐でお祀りされる弘法大師ゆかりの清瀧権現(善女龍王)は雨水の龍神です。

細川幽斎(藤孝)が日野を訪れた際、方丈石にも立ち寄り、

日野といふ所にまかりける次に長明といひし人うき世をはなれて住居せしよし申つたへはへる外山の庵室のあとをたつねてみ侍るに大きなる石のうへに松のとしふりて水のなかれいさきよき心の底さこそとをしはかられ侍る昔のことなと思ひ出て

岩か根になかるゝ水も琴の音のむかしおほゆるしらへにはして

『衆妙集』

鴨長明をしのび、「岩がねに流るる水も琴の音の昔おぼゆる調べにはして」と詠んだ歌が伝わります。
方丈石でのエピソードですので、幽斎が見聞きした「水の流れ」は峠の西だと考えられます。
これが現在の合場川の源頭域なのか、昔は方丈石の下の谷間も水が流れていたのかは分かりませんが、おそらく後者でしょう。
後世において、長明は和歌のみならず、管弦楽の名手としても知られていました。
当地を訪れた幽斎は、このあたりの岩場を流れる水の音を聞き、琴を弾く長明の姿を重ね、昔時に思いを馳せたのでしょう。
幽斎は安土桃山時代を代表する文化人・教養人として知られますが、文だけではなく武にも優れた戦国の武将でもあり、とくに山登りも苦にしなかったようです。

初夏の空也滝(空也瀧) 水量豊富 愛宕山 京都市右京区 2015年5月

京都 愛宕山 初夏の空也滝(空也の滝)で夕涼み ひぐらしの滝

2015.05.27

幽斎の登山については上の記事でも少し取り上げています。

長明と直接的な関係はありませんが、日野岳の山麓にあたる琴弾山(石田岡)の地で、妻との今生の別れを惜しんだ平重衡が「琴を弾いた」物語が伝わります。
この平重衡は長明と同世代の人で、ともに琴の話が日野に伝わるのが興味深いと考えています(この件についても記事下部の「雑記」で少し補足しています)。

先に述べたように、日野から峠を越えて供水谷を東に下れば上炭山で、これは「炭山道」と呼ばれていました。
炭山からさらに笠取を経て岩間山へ、これは現代において東海自然歩道の一部ともなっており、西国三十三所の巡礼道でもあります。
『方丈記』に「峯つゞき炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間にまうで」と見える道のりです。
供水峠から南を登れば北峰を経て天下峰へと向かうことができますが、この日は北の日野岳へ。
炭山における弘法大師の伝説について、記事下部の「雑記」でも触れています。

供水峠 石仏と石清水(御供水) 2016年5月

天下峰を登山 京都府宇治市 豊臣秀吉 日野岳か日野山か

2016.05.13

また別の日に供水峠から天下峰を登った話は上の記事に。
「日野岳」「日野山」の山名標(プレート)の話も補足しています。
「天下峰」の呼称は豊臣秀吉に由来するとされますが、実は、いわゆる「方丈石」も秀吉が伏見城へ移してしまった、とする伝承があります。

日野岳(日野山)の山頂

立派なケルンを誇る日野岳(日野山)の山頂 宇治市、京都市伏見区 2014年1月
立派なケルンを誇る日野岳(日野山)の山頂。京都府宇治市、京都市伏見区。

日野岳の山頂には「日野岳」と「日野山」の山名標が混在していますが、付近の道標も含め、現状は「日野岳」が多数を占めます。
「日野岳」の読みは「ひのたけ」ではなく「ひのだけ」だと考えられますが、『方丈記』には「日野山」と見え、「日野岳」の名は表れません。
明治時代の小学校用の地方誌読本には「香水峠日野岳」と見え、その頃は日野岳と呼んでいたらしきことも伝わります。
地形図(最新の地理院地図)に山名が表示されない山に限り、私は基本的には現地現称を優先する方針ですので、当山も日野岳と呼んでいます。
日野岳(日野嶽)の呼称は紫式部の歌に由来するのではないかと考えていますが、この件は記事下部の「雑記」で少し補足しています(『山州名跡志』に紫式部の歌に見える「日野岳」は醍醐の南の日野とする話が見える)。

『方丈記』には「嶺によぢ上りて。遥に故郷の空を望み」と見えますが、木々が茂り、現状、方丈石や日野岳の山頂から遠くを望むことはできません。
日野岳から北に下ると、ユウレイ峠との間に「パノラマ岩」と呼ばれる岩場があり、そちらがこの周辺では屈指の好展望地となっています。

日野岳の山頂は宇治市と京都市伏見区の市境に所在しますが、パノラマ岩は市境から少し外れ、全域が京都市伏見区にあたります。
昔は「パノラマ岩」と記された大きな板がありましたが、久々に訪れてみると失われていました。

日野岳「パノラマ岩」からの展望・眺望

眼下に「絶景」を一望

日野岳「パノラマ岩」から夕日を望む 京都市伏見区 2014年1月6日
日野岳「パノラマ岩」から夕日を望む。日野山とも。京都市伏見区。

主な山距離標高山頂所在地
六甲最高峰
(六甲山最高峰)
54.7km931.3m兵庫県神戸市北区
兵庫県神戸市東灘区
若山18.0km315.2m大阪府高槻市
鳩ヶ峰13.7km142.3m京都府八幡市

「パノラマ岩」を称するだけのことはあり、その眺めはなかなかのもので、眼下には京都市伏見区や宇治市、久世郡久御山町、八幡市などの風景を、あるいは北西に愛宕山、西に京都西山の稜線を見渡せます。
『方丈記』には「谷しげゝれど。西は晴たり。」と見えますので、周辺山域は西向きに開けていたのでしょう。
「嶺によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望」んだ鴨長明は、山の上から「木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見」たようです。
木幡山は伏見桃山の丘陵地を指しており、夕日やハルカスさんを撮影した上の写真の構図には収まりませんが、この日も伏見桃山城が見えていました。

如意ヶ岳や大文字山から遥か彼方まで見通せた前日とは比較にならないものの、この日もぼちぼち空気が澄んでおり、遠くは西に六甲山、南西は紀泉アルプスや和泉山脈西端域、その間には、うっすらと淡路島の島影まで望めました。
上の写真では右端に神戸の六甲山、左端に「あべのハルカス」まで収めていますが、ハルカスさんの右には林立する大阪の高層ビル群も写っています。
今と昔、見えるものは異なりますが、「甚だ絶景」にふさわしい眺望でしょう。

この日は雲が多く、淡路島の向こうに沈む夕日を望むのは厳しいかと思いましたが、雲と淡路島の間にわずかな隙間があり、ぎりぎり姿を拝めそうです。

淡路島の向こうに沈む夕日を望む

日野岳から淡路島北端の向こうに沈む夕日を望む 2014年1月
日野岳「パノラマ岩」から淡路島北端の向こうに沈む夕日を望む。

主な山距離標高山頂所在地
高取山70.2km328m兵庫県神戸市長田区
(兵庫県神戸市須磨区)
栂尾山72.8km274m兵庫県神戸市須磨区
旗振山74.7km252.6m兵庫県神戸市須磨区
兵庫県神戸市垂水区
鉢伏山74.7km246m兵庫県神戸市須磨区
汐鳴山86.1km305.3m兵庫県淡路市

見え方としては今ひとつですが、なんとか夕日も拝めました。
ところで、上の写真、須磨の山々の向こうをよく見ると、2本の影が写っています。
信じられないかもしれませんが、実は、これは明石海峡大橋の主塔なのです。

京都市方面から見ると位置関係がきわめて分かりにくいですが、淡路島の北端近くに所在する汐鳴山の右手前に、須磨浦山上遊園の鉢伏山が重なっており、連なる須磨の山々の後方に明石海峡大橋の主塔の先端が僅かに覗いています。

明石海峡大橋の主塔を遠望

京都市伏見区から明石海峡大橋の主塔を望む 2014年1月
京都市伏見区の日野岳「パノラマ岩」から明石海峡大橋の主塔を遠望する。

主な建造物距離(高さ)所在地
明石海峡大橋 北主塔
(神戸市側主塔)
81.2km(298.3m)兵庫県神戸市垂水区
明石海峡大橋 南主塔
(淡路島側主塔)
82.9km(298.3m)兵庫県淡路市

京都市内から明石海峡大橋の主塔を遠望できる地点は限られています。
比叡山や愛宕山、大文字山といった有名峰からは見えません。
醍醐山地のやや高い地点からであればおおむね見通せますが、大阪湾方面が開けた山は少なく、現状、音羽山から望むこともできません。
上醍醐(醍醐山)の開山堂や、その付近の展望地からであれば……、といったところでしょうか。

誰もいないパノラマ岩の上、私の視線は孤独にそびえ立つビルに対して向けられます。
日も暮れ、いつもの数字も見えるようになってきました。

あべのハルカスを遠望

日野岳から「あべのハルカス」全面開業カウントダウン「60」を望む 1月6日
日野岳「パノラマ岩」から「あべのハルカス」全面開業カウントダウン「60」を望む。

主な山、建築物距離標高
(地上高)
山頂所在地
高森山
(北山)
97.7km284.5m和歌山県和歌山市
大阪府泉南郡岬町
学文字山93.4km212m大阪府泉南郡岬町
あべのハルカス43.3km(300m)大阪府大阪市阿倍野区

遠くに和泉山脈西端の高森山まで見えています。
まだ空が明るさを残しているため、表示された数字が読み取りにくいですが、前夜、私は大文字山から「61」を撮影しており、この夜は「60」となります。

この「60」は、現時点で日本一高い超高層ビル「あべのハルカス」のグランドオープンまでの残り日数を示す数字です。
いよいよ2ヶ月後となりました。

稲荷山から「あべのハルカス」カウントダウン「99」を望む 京都市伏見区 11月28日

稲荷山 荒神峰の夜景 京都伏見 ハルカスのカウントダウン遠望

2013.12.01

詳しくは上の記事を参照してください。

大文字山から見える日野岳のことを思い出し、久々に訪れてみましたが、古くより「此地甚だ絶景」と謳われた山だけあって、西向きが大きく開けた展望は素晴らしいものがあります。
すっかり気に入ってしまいました。

ということで、次回の記事に続きます。

京都市から明石海峡大橋主塔の向こうに沈む夕日を望む 2014年1月

京都から明石海峡大橋の向こうに沈む夕日を望む 醍醐山地

2014.01.28

日野岳は京都市内から明石海峡大橋の主塔を見通せる貴重な山であり、大文字山や東山山頂公園、稲荷山荒神峰といった、私にとって馴染みある東山三十六峰の展望とはまた違った趣があります。

雑記

記事本文に掲載する予定でしたが、本題から外れる、あるいは長くなるので端折った部分を「雑記」としておきます。

外山について

「外山(とやま)」は人里近くの山(山域の端や外れで里が近い山)の意味で、歌では「深山(みやま)」や「奥山」と対比されます。
『方丈記』においては日野山の続きで里が近い地を指すと解釈できます。

名を外山といふ。正木のかづら跡を埋めり。
『方丈記』

『方丈記』では庵の所在を上のように示していますが、

神あそひのうた
とりもののうた
み山にはあられふるらしとやまなるまさきのかつらいろつきにけり
『古今和歌集』

これは『古今和歌集』に収載される「深山(みやま)には霰(あられ)降るらし外山(とやま)なる正木の葛(かづら)色づきにけり」の採物歌を前提としています(よみ人しらず)。
「人里から離れた山では霰が降っているらしい。人里近くの山では正木の葛がすっかり紅葉してしまった(から深山の様子を推測できる)」といった意味合いの歌で、「正木の葛」は「真拆の葛」ともされますが、おそらくテイカカズラだろうと考えられています。
上の歌を本歌とした、西行の「松にはふ正木のかづらちりにけり外山の秋は風すさぶらむ」の歌が『新古今和歌集』の冬部に収載されます。
鎌倉時代中期に成立したとされる道行文『東關紀行』(東関紀行)の序文に「みやまのおくの柴の庵までもしばらく思ひやすらふ程なれば。憖に都のほとりに住居つゝ。人竝に世にふる道になんつらなれり。是卽身は朝市にありて心は隱遁にあるいはれなり。」(深山の奥で庵を結ぶには、まだ思いためらいもあるので、都の近辺に住みながら世間並みの生活を送っている。これはすなわち身は都会にあるが、心は遠ざかっている、というようなわけだ)とありますが、これは西行の「いづくにも住まれずはたゞ住まであらん柴の庵のしばしなる世に」の歌などに影響を受けながら、里に住まう作者の心情を表しています。
かつて、『東關紀行』は『長明道記(ちょうめいみちのき)』とも呼ばれ、序文の描写などから鴨長明の作と擬されることもありましたが、紀行年である仁治3年(1242年)の秋に長明が存命したとは考えられず、称する年齢とも合わないため、現在は作者未詳とされます。


物思ひ侍る頃をさなき子を見て述懷の心を
奥山の正木の蔓くりかへしゆふともたえじ絕ぬ歎は
『鴨長明集』

伝本により詞書が置かれる歌が異なりますが、鴨長明は「奥山の正木の蔓(かづら)くりかへしゆふともたえじ絶えぬ嘆きは」の歌も残しています。
幼き子を見て述懐の気持ちで詠んだ歌と詞書に見えますので、また別の子の泣き声を思い出したのでしょう。

合場川と平重衡と琴弾山

平家一門の武将、平重衡にまつわる物語が日野に伝わります。
鴨長明は久寿2年(1155年)生まれ、平重衡は保元2年(1157年)生まれで、ほぼ同世代です。

「平重衡の墓」
日野法界寺の北方五町許佛心寺の舊地なる櫟林の中に朽ち缺けて二尺餘の石塔ありこれ卽平重衡の墓なり、重衡は平相国の息左近衛大將にまで上りしが壽永三年一ノ谷の戰に一敗地に塗るゝや捕へられて鎌倉に送られ後木津の川畔に斬らる恰も重衡の内室日野に在り重衡途中こゝに立寄り面會を約して立出でたるにあはれ果敢なくも討たれたり、室之を聞き往いて其首級を求め歸りて此處に葬れりと云故に此處を俗に武士田と稱す。

「阿以波川」
相場とも書く、法界寺の西一町ばかりの處にあり、重衡はこの畔にて妻に會ひて別れを惜みたりといふ故にあいばの名あり。

「琴弾山」
相場川の東にあり、重衡が別離の情をその琴の音に託したる所といへども又彼の萱尾明神降臨の砌の故事なりと言ふ説もあり。

「石田森」
石田人家より西三町田圃の中に見ゆる一群の靈叢を云ふ
(中略)
石田岡
九条内大臣基家
かりかねも今や越ゆらむ山しろの いは田の岡に月かたむきぬ
琴曳山の一帯の地を云ふ古來和歌の名區なり。

『宇治郡誌』

1923年(大正12年)の『宇治郡誌』から引いておきます。

伊勢平氏正盛流(六波羅流)を中心とした、いわゆる平家一門の重鎮として活躍した平重衡は、源義経らが率いる源氏に一ノ谷の戦いで敗れて捕らわれの身となり、鎌倉に護送されました。
鎌倉では源頼朝と謁見し、その優雅な振る舞いや器量を惜しまれますが、平家が壇ノ浦の戦いで敗れて滅亡した後、南都の宗徒から身柄の引き渡しを要求され、奈良へ送られます。
過去、父である平清盛の命を受けた重衡らが、平家と対立した近江の三井寺や奈良の興福寺、東大寺を焼き討ちしており、南都から仏敵と見なされていたのです。
道中、京都を通ることを許されず、大津から山科、醍醐の道を選び奈良へ向かいますが、その道筋で重衡の奥方が侘住居としていた日野の近くを通るため、最期に逢わせてもらえることになりました。
日野での重衡と奥方の再会と別れ、その後、奥方が躯を引き取り日野に重衡の墓を設け、尼となった話は、いわゆる『平家物語』の「重衡被斬」(重衡斬られ)の回で描かれています。

「琴弾山」の呼称は平重衡に由来する説ばかり広まっているようですが、広く流布している『平家物語』に琴弾山のくだりは見えません。
『吾妻鏡』では、元暦2年(1185年)6月23日のくだりで、「今日前三位中將重衡。於南都。殞頸云云。」と見えますが、道中の話は語られていません。
『玉葉』では、同じく6月23日条に「傳聞、重衡首於泉木津邊、令奈良坂云云」と見えます。
『愚管抄』では、6月23日のくだりで、「大津ヨリ醍醐通リヒツ川ヘイデ、宇治橋渡リテ奈良ヘユキケルニ」の道中に、重衡の妻が「日野ト醍醐トノアハイニ家作リテ有リシニアイグシテ居タリケル」ので再会できた、といった話が見えますが、やはり琴弾山の名前は見えません。
「ヒツ川」は櫃川で、現在の山科川と推定されます。
『愚管抄』の筆者である慈円は後の天台座主で、『玉葉』の筆者である九条兼実の実弟。
後白河院(後白河法皇)の護持僧となり、兄の強い意向で有力寺院の別当や執印の座を歴任しました。
この翌年には宇治平等院の執印を兼ねることになりますが、京都で起きた話を耳にする機会は多かったのでしょう。
慈円の置かれた立場が強く反映された内容ではあるものの、個人的に『愚管抄』の記述には一定の信頼を置いています。

当時、伝わっていた話を見るかぎり、日野と醍醐の「あわい(間)」に重衡の妻が住んでいたのは事実かもしれませんが、別れを惜しんで琴を弾いた云々は後世の創り話の可能性もあるでしょう。
琴弾山の呼称について、『宇治郡誌』が重衡説以外の可能性として指摘している、「かの萱尾明神降臨の砌(みぎり)の故事」に由来する説は失われつつあるようで、現状、インターネット上では触れた記録が1件も見当たりませんので、こちらに残しておきます。
「萱尾明神」は現在の萱尾神社さんにあたり(日野の野外活動施設の下)、日野の産土神(産沙神)として古くよりお祀りされていました。

『宇治郡誌』では石田岡を「石田森」の内で紹介していますが、1979年(昭和54年)の『京都市の地名』では、琴弾山について、「相場川の東の小山をいう。平重衡の妻は夫と別離後、この山に登って琴を弾き、夫を見送ったという伝承を持つ。また、この山一帯は石田岡(いわたのおか)とも呼ばれ、古来、『石田杜』とともに和歌の名所であった」としており、石田岡と石田杜を明確に区別しています。
確かに「相場川の東にあり」では、現代における石田駅の西、天穂日命神社さんの鎮守杜に比定される、いわゆる「石田杜(いわたのもり)」とは場所が合いませんね。
また、大正時代の『宇治郡誌』では重衡が琴を弾いたとしていたものが、昭和の『京都市の地名』では妻が弾いたことになっているのも興味深いところです。
『平家物語』を読むかぎり、この場面で重衡が琴を持つ可能性は低そうではあります。

弘法水はどこ?

記事本文でも述べましたが、寛政5年(1793年)の『都花月名所』では、京都の「名水」として、日野山の「弘法水(こうぼうのみづ)」の名前を挙げています。
これは日野岳(日野山)の供水峠や付近の谷から湧き出した、弘法大師ゆかりの石清水を指していると考えられます。

ところが、1923年(大正12年)の『宇治郡誌』では、

「獨鈷水」
小字中山山腹に在り老杉の下淸水常に絕えず醍醐三水の一なり此地昔時寺あり極樂寺と稱せるも明治維新前廢絕す今傍に小宇を建て賽者弘法の水と稱す。
『宇治郡誌』

と見え、「獨鈷水」(独鈷水)が「小字中山の山腹」にあり、これが「醍醐三水」のひとつだとしています。
いわく、昔はこの地に極楽寺を称する寺があったが、明治維新の前に廃絶した、今は傍に小さなお堂を建て、お参りする人が「弘法の水」と称している、と。
(原文の「小宇」は軒や屋根のある小さな家としか訳しにくいですが、おそらく堂宇を指しているのでしょう。後に現地を訪れて確認しましたが、今も山腹に小さなお堂があります)

そこで、このもうひとつの「弘法水」について調べてみると、1913年(大正2年)に建立された「独鈷水」碑が、醍醐寺さんの北西の地に今も残ることが分かります。
小字中山(現在の醍醐中山町)より僅かに北ですが、当地を指しているのでしょうか。

「弘法大師独鈷水」
独鈷水は,高僧が密教の法具である独鈷で地面をついたところ水がわき出たという伝承をもつ井戸のことである。とくに弘法大師空海の事績とする場合が多い。この碑は空海の独鈷水を指すものであるが,江戸時代の地誌類には記載を見ない。あわせて醍醐地区の道標にもなっている。
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hu175.html

京都市によると、当地の「独鈷水」は「江戸時代の地誌類には記載を見ない」としています。
私が調べた範囲内でも、江戸時代以前の当地に「独鈷水」や「弘法水」があった記録は見当たりません。
「独鈷水」や「弘法水」の伝説は各地で見られますが、やはり、醍醐周辺で「名水」と謳われた「弘法水」は、本来、日野山の水を指していたのではないでしょうか。
あくまでも個人的な見解ですが、「こうぼうのみず」が「こうずい」に転じた可能性もあると考えています。

供水(洪水)と「大根洗いの伝説」について

『都名所圖會』にも見えるように、かつて、峠の東(供水谷)には弘法大師ゆかりの岩清水が湧いていたとされており、現代においては弘法大師堂の湧き水を「御供水」と見なしておけば良いでしょう、といった話を記事本文で述べておきました。
日野山の水が「弘法水」として名水扱いを受けていたのは事実ですから、これも別に間違ってはいませんが、東麓の炭山ではまた別の弘法大師伝説が伝わっています。
これは上炭山にゆかりある方にとってはあまり気持ちの良い話ではないかもしれないので、雑記として分けておきます。
また、近年、水害を受けた地でもありますので、この話を追記するかはかなり悩みましたが、あくまでも過去の伝説の類として。

大根洗いの伝説
平岡博次
(前略)
 木幡より平尾山を経て方丈記の里日野に入り、お宮さんのすぐ右を弘法大師の巡杖された道を辿ります。こゝの急坂を上り切ると二かかえ位ある山桜がある頂上に着きますこゝには弘法大師をまつる一寸した御堂があり水もあり、春は是非訪れて見たい所です。こゝで一息入れて下りにかゝります。この谷を供水の谷と言います。落葉をかさこそ踏む静かな道です
 下り切ると、上醍醐寺のすぐ下の水晶谷に源を発する炭山川の合流点の上炭山の里に出ます。こゝは六戸余りの極めて静かな部落です。
 暮やすい秋の日のつるべ落しに山里は西の広みよりも一刻早く暮れ淋しさは又一層あわれを感じます。旅に行き悩む貧僧のトボ――とつかれた足どりで供水の谷よりたそがれる里の方へ。地味のあまり豊でない山畑で育つた大根であまりよい出来ではないが、里人の川にて大根を洗うを見て、
旅の僧「里の衆や拙僧は旅に行き暮れ空腹に堪え兼ねるによつて憐れと御ぼしめしどうか大根の一本を喜捨願えないでしやうか?」
里の衆「………………」
旅の僧「あまり一生懸命で聞えぬのかなー、それともいやなのかなあー」
里の衆「俺には貴様の様な乞食坊主にやる大根は一本もないワ!!下の里にはもつと奇特な人が沢山あるはトツ――とうせて終え!!」
旅の僧は重い足を引づりながらナムアミダブツ――――夕霞の彼方炭山の方へ去つて行きました。ところが、
 今の今まで水音を立て、流れていた水晶の様な水は、スツト引きあたりは一面河原! 不思議なことがあればあるものと唯々あきれるばかり、此の事あつて以来今に到るも大根を洗う季節が来ると、上炭山の在所のみは水が枯れ、その下流の炭山はなに事もなく水は豊に流れています。
 炭山の人々はその旅の僧は弘法大師の化身だと伝えています。小生にこの話をした后に南無大師遍照金剛――と称名を唱えました。

『宇治市政』 1957年(昭和32年)12月10日号より

※内容は原文まま。「――」は原文では縦書き「くの字点」。

「日野に入り、お宮さんのすぐ右」は、南の平尾山(戦後に宅地開発が進むまで、御蔵山や平尾台は「山」でした)から歩いてきた筆者が、右に萱尾神社さんを見て右折したのでしょう。
こういった「水が枯れる」伝説も、「供水」だったり「洪水」だったりに影響を与えた可能性もある、と考えています。
ただし、この話じたいは、あくまでも上醍醐から流れる水晶谷の水が枯れた、枯れないの話です。
いずれにせよ、(そもそも弘法大師ゆかりの地ですから、当たり前の話とはいえ、)醍醐や日野の周辺では弘法大師と水にまつわる伝説が見受けられ、いえ、これは日本中で見られる伝説でしょうが……、それが地名にも影響を与えた可能性を考えると、なかなか興味深いものがあります。
また、この大根洗いの伝説は、福岡県の古賀市を流れる大根川に伝わる話と酷似しています。
弘法大師が「ナムアミダブツ(南無阿弥陀仏)」の六字名号を唱えるのはありえない、という点まで共通していますので、なにかしら関連性があるように思いますが、いわゆる「弘法の井戸」伝説と同様、他の地域にも大根洗いの話が伝わるのでしょうか。
上醍醐でお祀りされるのは、弘法大師が唐の青龍寺から日本に招いた清瀧権現ですが、大根川の源流域の地名も清滝です。

「秋の日のつるべ落しに山里は西の広みよりも一刻早く暮れ」の「西の広み」は、宇治の山の人が宇治の里を指していう言葉なのだそうです。
炭山は山間の集落で、西には日野山や天下峰、五雲峰といった山々がそびえますから、当然ながら、宇治の里より早く日が暮れるでしょうね。
記事本文で、『方丈記』の「西は晴たり」について触れましたが、「西の広み」にも通じるものがあるように感じます。
山間部ゆえ、上炭山や炭山は自然が残された地でもあり、かつてはギフチョウの姿も見られたそうです(1980年代頃まで?)。

『方丈記』鴨長明は本当に日野で隠棲した?

『方丈記』と日野について補足しておきます。
本記事の上のほうで「この大岩の上に草庵を結んだのが事実であるかは別として」と述べたのは、当地に鴨長明が「ひとまの庵」を結んだのは、ある種の創作ではないかと考える方が少なくないからです。
『方丈記』には「廣本」(普通本)と呼ばれる一般に広く流布された版と、数種類の「略本」(異本)と呼ばれる版が存在しますが、「廣本」と「略本」は内容が異なっており、たとえば、「略本」では日野山や外山の名前や、それにまつわるエピソードは見えません。

鎌倉時代中期頃に成立した説話集『十訓抄』の「第九 可停懇望事(懇望を停むべき事)」で、鴨長明や『方丈記』について触れていますが、その中で「此人後には大原に住けり」、つまり、長明は大原で隠棲したとしています。
もし、『十訓抄』の編者や、その周囲の人間が、『方丈記』の「廣本」を読んでいたのであれば、「鴨長明は大原山の後に日野山で晩年を過ごした」とするはずで、「後には大原に住けり」で鴨長明の生活を締めているのは不自然です(『十訓抄』の編者は未詳ながら、序文に「草の庵を東山の麓にしめて」と見えることから、京都東山に庵を結んだとされます)。
つまり、『十訓抄』が成立した鎌倉時代中期頃には、『方丈記』の「廣本」は一般に広く知られていなかったことが窺えます。

これらをもって、1925年(大正14年)の『校註 日本文學大系 第三巻』(校註 日本文学大系)における『方丈記』の解題では、日野山や外山の名前が無い「略本」こそが『方丈記』の原本で、後に改作された「廣本」の内容が世間に広まった可能性を指摘しています。
この解釈や成立時期については諸説あり、今となってははっきりしない部分も多く、そのため、本当に鴨長明が方丈石の上に「ひとまの庵」を結んだのかは分かりません。
しかしながら、後世には「廣本」の流布系が世間に広まり、細川幽斎が「外山の庵室のあとをたつねてみ侍る」と「大きなる石」があったと伝え、江戸時代にはその地が「方丈石」として観光名所となっていたのは確かです。
記事本文でも触れましたが、「廣本」の編者は日野山からの眺望を理解しており、事実はどうであれ、私としても、その点に感嘆するばかりです。


残菊
冬来れば星かとみゆる花もなしみな紫の雲がくれつゝ


對泉戀人
おもひ出て忍ぶ涙やそひぬらむ色に出づなる山の井の水


對月忘西
朝夕に西をそむかじと思へども月待つほどはえこそむかはね

『鴨長明集』

こういった歌を、長明はどの地で詠んだのか、どういった気持ちで詠んだのか、思いを巡らせてみるのも良いかもしれません。
通説として、『鴨長明集』に収載される歌は、長明が若かりし日に詠んだものとされます。

『方丈記』には「西は晴たり。觀念のたよりなきにしもあらず。春は藤波を見る。紫雲のごとくにして西方に匂ふ。夏は(後略)」と見えます。
「観念のたよりなきにしもあらず」は浄土往生信仰における日想観の思想、西の空に沈む夕日を見つめながら西方浄土(極楽浄土)を想うことが(西向きが開けているので)できる、といった意味合い。
「対月忘西」の雑歌は、西に対して西方浄土を願う思いと、東から昇る月を待つ俗な思いを対比させ、自身の心情を詠んだと(私は)解釈しています。
西を向こうと思っているのに、ついつい気持ちは東を向いてしまう、これはまず西ありきです。
長明は西が開けた地を選んだと考えるのであれば、後の『方丈記』に通じるものがありますね。

随筆的な歌論書『無名抄』で、長明は三室戸の奥にある宇治山の喜撰法師を贔屓しています。
1891年(明治24年)の『日本歌學全書 第十貳偏』(日本歌学全書)における『無名抄』の解題では、長明について、「和歌管絃に達し、又老莊の道を極む」としています。
「老荘の道を極む」が事実であるかはさておき、都から離れて隠棲した人を老荘思想や仙聖と結び付ける風潮がありました(日本における隠者伝)。
喜撰法師と自身を重ねる部分もあったのかな、とも考えていますが、地図を開いて、日野山や三室戸、宇治山の位置関係を見ると……。

宇治川・塔の島に架かる喜撰橋から十三重石塔越しに仏徳山(大吉山)と朝日山を望む

宇治 朝日山と大吉山を登山 県祭 名勝「宇治山」 喜撰法師

2016.06.22

長明が残した『無名抄』や宇治山の喜撰法師については、上の記事で取り上げています。
実は、いわゆる方丈石は「仙人石」とも呼ばれていたようで、後世の人が長明をどのように見ていたか分かりますね。
鳩渓(平賀源内)の作と伝えられる『そしり草』(楚し里草、譏草)に「外山に石床有り方丈石と名く或は仙人石という」と見えます(が、作者が鳩渓であるかは疑わしい)。

『方丈記』じたいは日野の周辺で原型が作られたが、「外山の庵」を方丈石の上に結んだのは後世の創作ではないかとする説も、現代に至るまでよく見られます。
後世、「鴨長明が石の上に庵を結んだ」と考えられたのは、仏者や行者が岩場の上で山籠もりする光景が重ねられたのかもしれません。

 日野と云ふと、方丈記を思ひ出す。鴨の長明が、日野山の奥に方丈の室を營んで、世をすねたところである。長明と云ふ男は、悟つたやうで、悟れぬ男である。從つて方丈記は名文だが、彫琢の痕が多い。多いが、兎に角和漢を旨くこねまぜた、國文學中での名品である。殊に叙景の文章は當時殆んど匹儔稀と云つて善い。讀んでゐると、神往を禁じ得ぬ。今でも方丈石の建札が路傍に在つて、これから何町行くと、長明の舊跡があると記してある。つい車から下りるのが面倒であつたから行くことは中止したが、人の言ふところを聞くと、どうやら、さうではないらしい。方丈記を見ると、眺望に富んで、木幡伏見の里宇治羽束師もを一目に見る絕景の土地のやうであるが、今の遺跡は穴の様で、一向此大觀がないと云ふ。恐くは後人の作つた遺跡であらう。同じ作るにしても、文章に合ふやうに作つたらばよからうに、そこは凡夫の淺ましさで、穿鑿が足らなかつたものと見える。一體長明の遺跡が保存されたと云ふことから旣に不可思議である。大きな寺を建てたのぢやあるまいし、高がひねくれものゝ、方丈の室、誰が之を記憶し誰が之を保存するものがあらう。

『趣味の旅 古跡めぐり』

たとえば、笹川臨風による、1919年(大正8年)の『趣味の旅 古跡めぐり』でも「おそらくは後人の作った遺跡であろう」としています。
このように、方丈石の旧跡を創作だと考える人は少なくなかったようですが、たとえ創作であっても受け入れる人が多かったのも確かでしょう(伝説の受容)。
ただし、方丈石の旧跡を創作とする説の多くが、方丈石の所在地からでは『方丈記』に記される眺めを期待できないことを論拠としていますが、『方丈記』では「嶺によぢ上りて」としていますので、叙景描写については、「外山の庵」からではなく、庵を出て、日野山の上から眺めたものと解釈できます。

補足しておきます。
『十訓抄』がいう「大原に住けり」、『方丈記』では「大原山」ですが、この「大原」の地は現在の左京区大原ではなく、現在の西京区大原野を指す可能性があるとの指摘もあります。
少しばかりややこしいですが、いわゆる大原(左京区の大原、洛北の大原)は、かつて「小原」とも称していました。
古い絵図ではいわゆる大原の西部の山域を「小塩山」(現在の翠黛山)としており、逆に、洛西の山、これは勝持寺さんの上の小塩山周辺の山域だと考えられますが、その山域を広く「大原野山」と呼んでいました。

昔二條の后の春宮のみやす所と申しける頃、氏神に詣で給うけるに、つかうまつれりけるこのゑつかさなりける翁、人々のろく給はりけるついでに、御車より給はりて、よみて奉る。

大原や小鹽の松もけふこそは神世のことも思ひいづらめ

『伊勢物語』(朱雀院塗籠本 写本 群書類従本)

定家本では「大原やをしほのも今日こそは神代のことも思ひいづらめ」。
『伊勢物語』に見える、この「大原や小塩の松(山)も今日こそは神世(神代)のことも思ひいづらめ」の歌に詠まれる「大原」は、洛北の大原ではなく、二条の后(藤原高子)が「春宮の御息所」(皇太子の生母)と呼ばれていた頃、氏神にお詣りになるとしていますので、藤原氏の氏神を祀る大原野神社を参拝したと見て、その文脈や歌意から洛西の大原野を指すと解されます。
いわゆる大原と小塩の間には(景勝の地として)地名の共通点が見られ、ただ「大原山」だけでは、どちらを指すか断定できません。
洛西の地であれば、東から昇る月を眺めるには適していますが……、さてさて。

京都の桜 高野川(大原川)の桜並木と比叡山の北尾根 2014年4月

金毘羅山 江文山と翠黛山(小塩山) ヒカゲツツジ 大原の桜

2014.05.04

大原にもあった「小塩山」の件は、上の大原の記事で取り上げています。
補足終わり。

紫式部と日野岳(日野嶽)

上記の件でもう少し補足しておきます。

こよみにはつ雪ふるとかきたる日、目にちかきひののたけといふ山の、雪いとふかうみやられるば
こゝにかくひのの杉むら埋む雪をしほの松にけふやまがへる
返し
をしほ山松のうは葉にけふやさはみねのうす雪花とみゆらむ
『紫式部集』

紫式部による「ここにかく日野の杉むらうずむ雪小塩の松に今日やまがへる」の歌。
この歌の詞書には「暦に初雪降ると書きたる日、目に近き日野の岳という山の、雪いと深う見やられるば」と、「日野の岳」の山名が見えます。
ただし、この歌における「日野の岳」(日野の嶽)は、現代における福井県越前市の日野山(越前富士)を指すとされます。
藤原為時(紫式部の父)が長徳2年(996年)に越前の国司(越前守)に任じられた際、娘時代の紫式部も越前に同行したとされ、その地でこの歌を詠んだとするのが「現在の」通説です。
小塩の地を想う気持ちが歌からも伝わりますが、当時、藤原氏の氏神を祀る地としてのみならず、大原野は景勝の地としても人気がありましたので、若き日の紫式部も好んでいたのでしょう。
紫式部の『源氏物語』は『伊勢物語』から多大な影響を受けているとされますが、在原業平ゆかりの地である小塩に対する思いもあるかもしれません。

さておき、『方丈記』では「日野山」の山名しか見えないのに、現地において、「日野岳」の呼称が優先されている理由は、この歌に由来するのではないかと考えています。
これは他の記事でも取り上げていますが、宇治の周辺には紫式部や『源氏物語』にあやかった(後付けの)地名などが見られ、観光利用されていました。
この「観光利用」は現代に始まった話ではなく、古くから見られるものです。
「この歌に由来するのではないかと考えている」件は、『山州名跡志』で補完できますので、いつの日か、時間が取れれば続きを書きます。
補足終わり。

追記。
現在の通説では、紫式部の歌に見える「日野の岳」を越前の日野山としますが、「現在の」とするのは、過去はそうではなかったからです。
たとえば、正徳元年(1711年)の『山州名跡志』に、

乙訓郡

「小鹽山勝持寺」
(中略)

「日野嶽」
同寺の後山云西北峯。上平して傍に小瀧あり。傳云長明・兼好等此所に暫住しと。從古和歌に詠杉村、但今は無し。和歌に、「爰にかく日野の杉村うつむ雪、小鹽の山に色やまかへる。」紫式部が詠にして載家集。按此歌の日野は醍醐の南の日野也。いふ心は西山小鹽山の傍にも、同名日野の杉村あれば、うづむ雪の眞白なるは、鹽の色に同じきとの謂にて、小鹽の山に色やまがへるといへるなるべし。

『山州名跡志』

と見えます。
勝持寺の後ろの山、西北の峰(ピーク)を日野嶽といい、鴨長明や兼好(兼好法師、卜部兼好、吉田兼好)らが、この所にしばらく住んだと言い伝える、としていますので、鴨長明の『方丈記』における「大原山」を、ここでは大原野の「日野嶽」なる山と見なしていることが分かります。
紫式部の歌に見える「日野」について、『山州名跡志』の編者は醍醐の南の日野と考えるが、西山小塩山のそばにも「日野の杉村」があったとされ(ただし今は無し)、真っ白に覆われた雪は塩の色と同じとのいわれがあることから、小塩の山を連想しています。

ただし、『群書類従』版の家集では、紫式部の歌は「小塩のやまかへる」ではなく、「小塩の今日やまがへる」です。
もっとも、紫式部が参考にしたと考えられる『伊勢物語』のくだりも、写本によって、「大原や小塩のも今日こそは」と「大原や小塩のも今日こそは」の系統がありますので、紫式部の歌も伝本によって異なるのかもしれません。
『源氏物語』の第十九帖「薄雲」で、藤壺の死に際して光源氏が詠んだ歌に「入り日さす峰にたなびくうす雲はものおもふ袖に色やまがへる」があります。
これは東三条院(藤原詮子)の崩御に際して紫式部が詠んだ「雲の上も物思ふ春は墨染に霞む空さへ哀なるかな」の歌を踏まえたものです。

なぜ、紫式部が醍醐の南の日野から歌を詠んだかといえば、当地に紫式部の別邸(別館)があったと(江戸時代には)考えられていたからで、

宇治郡

日野
(中略)

「長明方丈石」
(中略)

「紫式部別舘」
式部此所にも住居せし體、出家集。其舊跡不詳。家集詞書曆には、初雪降とかき付たる日、目に近き日野のだけといふ山、雪いとふかく見やらるれば

こゝにかく日野の杉村埋む雪、小鹽の山に色やまかへる

前に云ふ日野嶽は、小鹽山の北につゞきたる峯なり、今此所、日野より西に見ゆる也。此歌は、其比小鹽に住人の方え送たる歌と見えたり。返歌ともなくて、右歌の次に一首を載たり。返歌の體に見えたり。

をしほ山松のうはゝにけふはさは、峯の薄雪花とみゆらん

『山州名跡志』

同じく『山州名跡志』の宇治郡日野には上のように見えます。
「前に云ふ日野嶽」は先の乙訓郡の日野嶽、つまり、小塩山勝持寺の後ろの山。
紫式部は宇治郡の日野にも住居した、その日野から西に大原野の日野岳が見える、「こゝにかくひのの杉むら」の歌は小塩の住人へ送った歌(と、それに対する返歌)としています。
日野から西に小塩が見える、これは『方丈記』の描写や、長明の「対月忘西」の歌の解釈にも通じるものがありますね。

以上により、本記事で私が訪れた山について、「日野山」ではなく「日野岳」の称が優先されるのは、紫式部の歌に由来すると考えています。
ただし、江戸時代頃、紫式部の歌に見える「日野」は当地を指すとも考えられていたようですが、現在の通説とは異なります。
日野に所在したかもしれない紫式部の別邸についても、江戸時代中期の時点で「その旧跡は不詳」の扱いに過ぎず、その存在が事実であるかは分かりません。
「こゝにかくひのの杉むら」の歌は当地で詠まれたのだから、当地に別邸があったのだろう、といったものであり、歌が越前で詠まれたのであれば、その前提は崩れます。
しかしながら、宇治周辺では紫式部や『源氏物語』の人気が高かったのも確かであり、こういった伝承も生まれました。
紫式部が日野に住んでいて、当地で「こゝにかくひのの杉むら」の歌を詠んだらしい、といった話は戦前までは知られていたようで、たとえば、上でも引いた『趣味の旅 古跡めぐり』でも取り上げています。
同誌で鴨長明を「たかがひねくれもの」と扱っているように、昔はどちらかといえば紫式部のほうに重きが置かれていたようにも見え、それゆえに、「日野山」より「日野岳」なのだろうと考えています。
「こゝにかくひのの杉むら」の歌が越前で詠まれたとする説が広まるにしたがい、日野に住んでいた、といった話や、日野岳の由来も薄れていったのでしょう。

『山州名跡志』がいう乙訓郡の日野嶽については、「勝持寺の後ろの山、西北の峰」で、かつ、「小塩山の北に続きたる峰」ですので、小塩山と連なってはいるが、小塩山とは異なる山です。
現在、俗に大暑山(おおしょやま)と呼ばれる山あたりを指すのか、あるいはまた別の山を指すのでしょうか。
大暑山(三角点567.6m)はハイカーの間では長らく無名のピークでしたが、おそらく戦後でしょうか、いつの頃からか大暑山とされ、それが現称として定着したもので、古くからそう呼ばれていたわけではありません。
国土地理院によると、当地に設置された三角点の点名は「大原野」で、1903年(明治36年)観測の「点の記」では「(三角点は)大原野山ト云フ山ノ上ニアリ」としています。
そもそも存在しない幽霊山名ですから、大暑山の「正しい読み」はありませんが、二十四節気の大暑(たいしょ)由来ではなく、「おしお」と「おおしお(よ)」の音的な駄洒落で成立したと考えられており、一般的には「おおしょ」と読まれています。
「そばに小滝がある」とも見えますが、小塩山の下には「王城の滝」なる、「おじお」と「おうじょう」が掛かったネーミングの滝があります。
「王城の山」が訛って「小塩の山」となったとする俗説も見られますが、(また話が逸れて長くなるので、以下略)。
追記終わり。

皇子山古墳から伊吹山、琵琶湖の奥島(津田山)を遠望 大津市 2016年6月

皇子山古墳から伊吹山や琵琶湖を展望 山中越~近江神宮 兵営前駅

2016.10.21

まったく別件ですが、大津の「皇子山」も大友皇子由来ではなく「王城山」の転訛とする説があります。
これは大津京と附会するために生まれた説かもしれません。

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日野岳(地理院 標準地図)

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「日野岳(ヒノダケ)(ひのだけ)」 あるいは「日野山」
標高373m
京都府宇治市、京都市伏見区

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Maro@きょうのまなざし

京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!