2013年(平成25年)10月の話。
この日は私のリハビリがてらにハイキング。
Aさんに付き合っていただき、「近江富士」三上山(みかみやま)と、その周辺峰へ。
滋賀県野洲市と湖南市の市境にあたる山域で、いずれも見晴らしが良く、それぞれ異なる眺望を楽しむことができます。
この日は登らずに見送りましたが、三上山の北に連なる妙光寺山や田中山(かぶと山)なども好展望の山として知られます。
未明から夜明けにかけて、京都市では雨がぽつぽつ降っており、朝のうちは雲が多めの空模様でしたが、現地に着く頃には晴れ間が覗き、気温も上昇。
山中は蒸し暑く、さながら夏の低山のようです。
この日はいくつかの山を登りましたが、いわゆる尾根の縦走ではなく、独立峰を登っては下る、登っては下るの繰り返しとなりました。
強い風が吹いていたことは幸い、風通しのよい場所を求め、次の稜線へ、次の展望地へ、次の山頂へと流れてゆきます。
ツルリンドウ(蔓竜胆)のお花。
この日、山中で見掛けたお花としては、ありふれたハギの仲間やタデの仲間が多く。
他にホツツジの咲き残りや花後、あるいはコウヤボウキやツリガネニンジンなども見掛けました。
そんな中でも、上の写真に写るツルリンドウは全体的にお花の付きがよく、巻きつくツルも立派で、個人的に惹かれるものがありました。
目次
「近江富士」三上山の展望・眺望 滋賀県野洲市
三上山の山頂と山名
言わずと知れた「近江富士」三上山の山頂。標高432m。
京都市在住の私にとっても馴染みがある郷土富士(ふるさと富士)ですが、自身でその上に立つと、当然のことながら、その秀麗な姿を拝むことはできません。
「三上山」
高一千百八十八尺周廻一里十一町五十間山路二分シ北ヲ雄山ト曰ヒ南ヲ雌山ト曰フ
山腹ニ妙見堂アリ之ニ登レハ湖上ノ風景ヲ眺望スルニ佳ナリ
此山ノ形富士山ニ似タルヲ以テ近江富士ト曰フ
『近江名跡案内記』
三上山が雄山と雌山の2座から成ることや、琵琶湖方面に対する見晴らしが良かったこと、それに「近江富士」を称することは諸誌に見えますが、ここでは簡潔にまとまっている1891年(明治24年)の『近江名跡案内記』から引用しておきます。
後に高頭式が『日本山嶽志』で紹介した(そのまま引用した)のも頷ける、とても分かりやすい内容。
この描写を見るかぎり、どうやら、この頃は山頂ではなく、中腹の妙見堂からの見晴らしが良かったようですね。
現在では跡地(妙見堂跡)を残すのみですが、かつて、三上山は妙見宮信仰でも知られた山でした。
また、1878年(明治11年)の『滋賀県管内便覧』では「琵琶湖三十六勝」として「三上紅㬢」の名をあげています。
「㬢」は「曦」(ギ、ひかり)の俗字、あるいは異体字で、環境によっては正しく表示されませんが、原文のままとしておきます。
「紅㬢」は朝日の差す光を指しており、琵琶湖越しに三上山から朝日が昇る美しい風景は古くから親しまれていたのでしょう。
続く1892年(明治25年)の『淡海廿四勝図記・上』 [1] でも「淡海廿四勝」(近江二十四勝)として、やはり「三上紅暾」の名をあげています。
これら「琵琶湖三十六勝」や「淡海廿四勝」は有名な「近江八景」の発展型のようなものですね。
「暾」(トン、あさひ)もやはり朝日の意で、「紅暾」は朝日の差す光を指しており、字は異なりますが、「三上紅㬢」と同様の意味と見なせるでしょう。
こちらでは具体的に「而自大津望之為最佳」(大津から望むのが最も良い)としています。
大津から見て三上山の向こうから朝日が昇る季節は春か夏、4月の中下旬、あるいは8月の中下旬。
一例として、大津港の噴水突堤(防波堤?)の先から望む場合、おおむね4月25日の前後、8月19日の前後です。
この『淡海廿四勝図記・上』では、三上山の山名について「三上山、あるいは御神山。俗称として蜈蚣山」としています。
「蜈蚣山(むかで山)」の俗称は俵藤太(藤原秀郷)による大ムカデ退治の伝説に由来するもので、秀郷が三上山で振るったと伝わる刀・蜈蚣切は伊勢神宮に奉納されました [2] 。
三上山の他の別称として、1906年(明治39年)の『日本山嶽志』(日本山岳志)では「三神山、産神山、鹽尻山、杉山」(三神山、産神山、塩尻山)を挙げています。
「鹽尻」の呼称は、人為的とも感じるほど形が整った円錐状の山に見られ、いわゆる富士山も『伊勢物語』の「東下り」の段で、「比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほどして、なりは鹽尻のやうにありなむける」と評されています。
比叡山を「都富士」(都の富士)(みやこの不二)と呼ぶようになったのも、このくだりの影響らしい。
近江の土を富士に運び、それが富士山となった、琵琶湖はその跡である、運ぶ途上でこぼれた土が三上山となった、三上山と富士山の形が似ているのはそのせいである、といった伝承については、上の記事の余談で紹介しています。
大津港から見た近江富士
大津港(浜大津)から琵琶湖、「近江富士」三上山、鈴鹿山脈最高峰の御池岳を望む。
上の写真のみ2015年(平成27年)12月撮影、差し替え。
自身では「三上紅暾」、いわば「ダイヤモンド近江富士」を望む機会がありません。
この記事は目を通してくださる方も多いようですので、大津港(浜大津)から眺めた近江富士の写真を追加で掲載しておきます。
参考程度に。
その後も考えてみましたが、「三上紅㬢」や「三上紅暾」は、直接的な「ダイヤモンド近江富士」を指しているのではなく、秋頃に東の空から昇った朝日により、三上山の南東面が紅く照らされ、朝もやの中、浮かび上がるように富士が見える姿を指しているのかもしれません。
琵琶湖の対岸に比叡山 眼下に守山や栗東
三上山から比叡山、大文字山、JR守山駅周辺、琵琶湖などを望む。
撮影地点から大比叡(滋賀県大津市、京都市左京区)まで18.6km。
愛宕山(京都市右京区)まで36.8km、小塩山(京都市西京区)まで38.1km。
山頂の西側に所在する御上神社さんの奥宮に参拝し、付近の展望台へ。
西を向き、「近江富士」三上山から「都富士」比叡山を望みます。
展望台は西から南にかけて開けており、眼下には守山、栗東、草津、それに琵琶湖、比叡山、大文字山、音羽山、湖南アルプスといった山々を眺望できます。
三上山に遮られるため、次に登る天山からは比叡山が見えません。
写真には「豊能富士」鴻応山や能勢の剣尾山など、より遠くに所在する北摂の山も写っていますが、いずれも山頂域が僅かに覗くのみです。
三上山からの展望について、より細かな話は上の記事と、その次の記事で述べています。
鴻応山や剣尾山の場所もそちらで示していますので、興味がある方はどうぞ。
琵琶湖の対岸に比良山地 眼下に野洲や守山
三上山から比良山地、琵琶湖、近江盆地などを望むAさん。
撮影地点から蓬莱山(滋賀県大津市)まで22.3km。
表登山道を下った場所にある岩場も眺めがよく、眼下には野洲、守山、烏丸半島を、琵琶湖の対岸には比叡山、比良山地、野坂山地の山々を望むことができます。
蓬莱山や釈迦岳は写っていますが、比良最高峰の武奈ヶ岳は中央の木の枝で隠れています。
三上山から北東麓の近江富士花緑公園方面へ下り、続いて天山へ向かいます。
天山の展望・眺望・景色 湖南市・野洲市
三上山から天山へ
滋賀県立近江富士花緑公園の東、あるいは滋賀県希望が丘文化公園の南、天山(あまのやま、あまやま、あめやま)は三上山の東1.7kmに所在する三角点303.2m峰。
三上山から花緑公園「ふるさと館」へと下山後、花緑公園の植物園から山に取り付き、尾根を伝うように、標高点218m、四阿、第1見晴らし岩を経て天山を登りました。
天山を登山するにあたり、このコースを取る人は稀で、一般的には希望が丘文化公園スポーツゾーンからのコースが利用されます。
この日は誰も登っていないのでしょう、払われていないクモの巣に悩まされます。
さらに、見晴らし岩では私の頭上にオオスズメバチが乗るという、予期せぬ出来事が起きましたが、刺されることはなくひと安心。
Aさんはびっくりなさったようですが、当事者の私は見えていなかったこともあり、その場ではとくに恐怖感のようなものはなく、慌てることもなく。
後から思い返してみると、なかなか怖い出来事でした。
眼前に聳える近江富士
天山の山頂から眼前に近江富士、琵琶湖などを望む。標高303.2m。四等三角点「雨山」。
天山の山体は野洲市にも跨りますが、現在の山頂は湖南市側(かつての甲賀郡側)に所在します。
三上山の周辺峰は見晴らしが良い好展望地を数多く抱えていますが、天山も例外ではありません。
天山は中腹の岩場のみならず、山頂も開けており、先ほど登った「近江富士」三上山が目の前にそびえ立ちます。
いずれも低山とはいえ、この富士を登って下って、さらに天山を登り返したことになります。
天山の読みは「あまのやま」ではなく「あめやま」では?
現状、ハイカーの間では、「天山」は「あまのやま」であったり、あるいは「あまやま」と呼ばれているようです。
天山の山頂に設置される四等三角点の点名は「雨山(あめやま)」ですが、天山のすぐ東側に連なる尾根にも、俗に「雨山(あまやま)」と呼ばれる山があり、やや紛らわしいです。
この点名は、1983年(昭和58年)に三角点が設置された当時の所在地の小字名(滋賀県甲賀郡甲西町大字菩提寺字雨山)に由来するようですが、国土地理院による「点の記」では「雨山」に「あめやま」と振り仮名を振っています。
当時の御上神社々司が編纂した、1899年(明治32年)の『御上神社沿革考』(御上神社沿革考)には、
「三上山考證」
三上山ハ往古御上嶽或ハ益須ノ大嶽トモ稱シ又御神山或ハ御影山ノ別稱アリ
(中略)
三上山ハ太古神世ノ遺跡ニシテ其山嶽及ヒ近傍諸山ニ岩窟多ク即上世穴居ノ跡を存スルニ似タリ而シテ其西南ノ麓ニ安河今野洲川ト云アリ其東方ニ天山天香山アリ又此ノ山嶽ノ連亘スル東端ニ岩根村アリ其北端ニ鏡山アリ
(中略)
天山ハ天金山或ハ天香山トモ稱シ當時銕ヲ取タル地ニシテ今ニ銕氣ヲ存セリト云後世天山ノ麓ニ天山村アリ今ハ北櫻村ノ一部
(後略)
『御上神社沿革考』
と見えます。
三上山の東には天山があり、また、三上山の連なりの東端には岩根村があり、その北端には鏡山があり、といった内容です。
この後、こういった山名は神代からの呼称を遺留するもので、後世の私名ではないといったことや、三上山から鏡山の山並みについて、「西方ハ天山ヲ中央ト」する一帯の山脈だ、といったことが述べられています。
これらの描写を見るかぎり、『御上神社沿革考』が「天山」としている山は、現在の天山を指していると考えられます。
一貫して、同誌では「天山」に「アメヤマ」と振り仮名を振っており、三角点の点名の読みから見ても、本来、「天山」は「あめやま」と呼ばれていたのかもしれません。
ただし、享保19年(1733年)に大成した『近江國輿地志略』(近江国輿地志略)では、漢字不明ながら、野洲郡に「あま山」の山名が見え、「北櫻村の東にあり、往古百姓山上に住居せしかども、中世しからず」としています。
北櫻の東ですので、現在の天山や雨山を指すようにも思えますが、「大昔は庶民が山上に住居したようであったが、中世にはそうでない」の描写が気になるところです。
余談ながら、佐賀県のほぼ中央部に所在する天山(てんざん)と雨山(あめやま)は、県を代表する山として知られますが、「てんざん」は慣例的な読み方に過ぎないといい、山上に鎮座する天山神社上宮などに「あめやま」の読みを残します。
この天山の北西麓にあたる唐津市厳木町の天川地区は「あまがわ」と読み、「あま」と「あめ」の読みが混在しています。
『御上神社沿革考』に「天山は天金山あるいは天香山とも称し」と見えますが、天金山や天香山は『古事記』や『日本書紀』に名前が見える高天原の山で、『国史大系』では、『古事記』の「天金山」には「アメノカナヤマ」、「天香山」には「アメノカグヤマ」と振り仮名を、『日本書紀』の「天香山」には「アマノカゴヤマ」「アマノカグヤマ」と振り仮名を振っています。
『日本書紀』における天岩戸の場面では「採二天香山之金一以作二日矛一」(天香山の金を採って日矛を作らしむ)、金(金属)、ここでは鉄の意味ですが、その鉄を採掘した山とされます。
この「天香山」が、いわゆる「天香久山(天香具山)」に通じています。
格助詞「の」を含む「あまのやま」の読みは、このあたりに起因するのかもしれません。
愛媛県松山市にも天山(あめやま)があり、『釈日本紀』が引く『伊予国風土記』(佚書)によると、天降る時に大和の天香久山と伊予の天山に分かれたと見え、この伝説に由来し、両山が所在する橿原市南浦町と松山市天山町は姉妹町として交流があるそうです。
「三上山は太古神世の遺跡」としていることからも察せられるように、『御上神社沿革考』は神話的な内容となっています。
(本題から外れるので今回の記事では深く追いませんが、)御上神社さんの祭神である天之御影命を一つ目の鍛冶神アメノマヒトツノカミ(天目一箇神)とする『御上神社沿革考』の「祭神考證」は、近江の製鉄史や近江各地の地名と照らし合わせると非常に興味深いものです。
ただ、同誌の説は別として、当地における雨山や天山といった地名山名は、個人的に、湖南や湖東で多く見られる雨乞信仰(近江の竜王信仰)に通じるものではないかと考えています。
『近江國輿地志略』によると、「(三上山の)頂上に石佛の地藏あり、土俗是を龍王といふ、毎年五月十八日龍王祭とて、行合村より忌火の供物御酒等を備ふるなり」と見え、かつては三上山でも石仏の地蔵を龍王としてお祀りしていたようです。
文化2年(1805年)の『木曽路名所圖會』(木曽路名所図会)では、「(三上山の)絶嵿 [3] に八大龍王の祠あり毎歳六月十八日龍王祭とて遠近来て登山す」と見え、龍王祭の日程について、『近江國輿地志略』の5月18日ではなく、(旧暦の)6月18日としており、これは現代における御上神社さんの影向祭や、三上山の山上祭の日程と重なります。
険しい修験の山で八大龍王を祀る例はとくに珍しいものではありません(が、そういった信仰は日本の各地で修験禁止や神仏分離の影響を受けました)。
こういった竜王信仰の話は次に訪れる菩提寺山にも繋がります。
鈴鹿山脈の山々を一望
天山(希望が丘文化公園)から鈴鹿山脈の山々を一望する。東向きの展望。
主な山 | 距離 | 標高 | 山頂所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
雪野山 (龍王山) (東の竜王山) | 8.7km | 308.8m | 滋賀県東近江市 滋賀県蒲生郡竜王町 滋賀県近江八幡市 | |
鈴ヶ岳 | 34.9km | 1130m | 滋賀県東近江市 滋賀県犬上郡多賀町 | |
御池岳 (御池岳 丸山) | 35.7km | 1247m | 滋賀県東近江市 | 鈴鹿山脈最高峰 |
藤原岳 | 38.1km | 1140m | 滋賀県東近江市 三重県いなべ市 | 標高の値は 10mDEMによる |
日本コバ | 26.7km | 934.2m | 滋賀県東近江市 | |
割山 (ミズキノ) | 32.3km | 928m | 滋賀県東近江市 | 標高の値は 10mDEMによる |
黒尾山最高点 | 29.0km | 971m | 滋賀県東近江市 | |
大峠ノ頭 (深谷山) | 29.8km | 1087m | 滋賀県東近江市 | |
イブネ | 30.4km | 1160m | 滋賀県東近江市 | |
雨乞岳 | 30.1km | 1237.7m | 滋賀県東近江市 滋賀県甲賀市 | |
綿向山 | 26.3km | 1110m | 滋賀県甲賀市 滋賀県蒲生郡日野町 | |
宮越山 (水沢岳) | 33.5km | 1029.3m | 三重県四日市市 滋賀県甲賀市 | |
高円山 | 32.0km | 941m | 滋賀県甲賀市 | 標高の値は 10mDEMによる |
サクラグチ | 29.7km | 918.5m | 滋賀県甲賀市 | |
仙ヶ岳 | 32.8km | 961m | 三重県亀山市 三重県鈴鹿市 滋賀県甲賀市 | |
御所平 | 31.5km | 853m | 滋賀県甲賀市 三重県亀山市 | 標高の値は 10mDEMによる |
臼杵ヶ岳 | 32.3km | 697m | 三重県亀山市 滋賀県甲賀市 | |
四方草山 | 32.1km | 667.0m | 三重県亀山市 滋賀県甲賀市 |
雨の影響もあり、午前中のうちは今ひとつな見え方だった鈴鹿山脈ですが、三上山を経て天山を登る頃には鮮やかに浮かび上がるように見えていました。
どうやら伊勢湾方面はお天気が良さそうです。
天山から見て大峠ノ頭(深谷山)(雨乞岳の北3.2kmに所在する標高点1087m峰)がほぼ真東にあたります。
鈴ヶ岳の左には岐阜・三重・滋賀3県境の周辺峰が見えていますが、三国岳のピークは場所が分かりにくく、場所を示していません。
天山からは伊吹山や金糞岳、琵琶湖も見えていましたが、伊吹山はともかく、金糞岳はうっすらした見え方にすぎません。
比良山地にも雲が増えていき、湖北や湖西は見えにくくなるいっぽうでした。
視点を少し右へ。
十二坊(岩根山)や鈴鹿山脈南端を望む
天山(希望が丘文化公園)から十二坊(岩根山)、鈴鹿山脈南端部、布引山地北端部、眼下には名神高速道路を望む。
山名 | 距離 | 標高 | 山頂所在地 |
---|---|---|---|
油日岳 | 28.0km | 693m | 滋賀県甲賀市 三重県伊賀市 |
小平山 (烏山) | 29.9km | 717m | 三重県亀山市 三重県伊賀市 |
小笹ノ峰 | 34.8km | 788m | 三重県伊賀市 三重県亀山市 |
霊山 | 31.8km | 765.5m | 三重県伊賀市 |
烏ヶ嶽 | 10.8km | 484.9m | 滋賀県湖南市 |
十二坊 (岩根山) | 5.5km | 405.0m | 滋賀県湖南市 |
眼下に見える名神高速道路、希望が丘と十二坊の山間、八重谷越から竜王ICへと続いています。
この後、私たちは希望が丘文化公園の南ゲート方面へと下山し、高速道路の下をくぐり、次の山へと向かうことにしました。
天山の下りはザレた滑りやすい道のり、湖南アルプスや金勝アルプスを思い起こします。
続いて、天山の南南西2.1kmに所在する「甲西富士」菩提寺山へ。
「甲西富士」菩提寺山の展望・眺望 湖南市・野洲市
菩提寺山(竜王山、櫻山)の概要
菩提寺山(ぼだいじやま)の呼称は山の東麓にあたる湖南市(かつての甲西町)の地名や、あるいは三角点の点名「菩提寺」に由来しますが、山の西麓にあたる野洲市の南櫻側からは櫻山(桜山)(さくらやま)と呼ばれていました。
ただし、櫻山の呼称については、北櫻側を含む広い山域を指していた可能性があります。
あるいは竜王山(龍王山)とも称しており、これは湖南や湖東で多く見られる雨乞信仰(近江の竜王信仰)にまつわるものだと考えられ、竜王町の東西の竜王山や金勝アルプスの竜王山など、この周辺には竜王山を称する山が多く見られます。
石の博物誌として有名な『雲根志』の「陰陽石」に「江州石部宿の北菩提寺村の山中浪岩といふ所に陰門の形ある大石多し」と見え、この女陰石が多かったらしい「菩提寺村の山中の浪岩(なみいわ)」は、菩提寺山の波岩を指すと推定されますが、『雲根志』では具体的な山名を明示していません。
先に訪れた天山と同様、地形図には陸測時代から一貫して山名が表示されず、あくまでも地形図の上では無名峰の扱いです。
この日は夕方が近づくにつれ風が弱くなってしまったこと、それに、気温が上昇した影響もあるのでしょう、菩提寺山ではヤブカ(ヒトスジシマカ)から猛襲を受けます。
気温ともども、とても10月の山とは思えません。
私が前の2つの山で体力を消耗していたため、登りがなかなか捗らず、息を切らして少し立ち止まるたび、身体の周りにヤブカが集まってきます。
私はともかく、Aさんまで巻き添えにしてしまい、申し訳ないかぎりです。
菩提寺山の山行記録は話を大きく端折っています。
いずれ、別の機会に展望や遠景と合わせて紹介できればと考えていますので、気長にお待ちください。
この日は湖南市側(菩提寺側)の表登山道を利用して菩提寺山を登りましたが、また別の年、空気が澄んだ冬の日に野洲市側(南櫻側)のコースも歩きました。
冬だとヤブカやスズメバチの心配がありません(笑
菩提寺山の山頂
「甲西富士」菩提寺山の山頂。標高353.2m。三等三角点「菩提寺」。
ようやく登頂を果たしたと思ったら、山頂の木にヒメスズメバチが群がっていました。
天山のオオスズメバチに続き、またもスズメバチです。
ヒメスズメバチは樹液に熱中している間はおとなしい生物ですが、危うきには近寄らず、山名標のみを撮影し、すぐに退散しました。
以前は「桜山」や「竜王山」の山名標もあったようですが、現在は「菩提寺山」と示された山名標が目立ちます。
菩提寺山の山頂からは北の岩場(木が多いが展望良し)や東の菩提寺公園や菩提寺小学校さん方面、あるいは西の野蔵神社さん方面へ下れますが、スズメバチに遮られたため南へ。
登り返した先の南峰では竜王社がお祀りされており、とくに竜王山と呼ぶ場合、こちらの南峰を指す場合もあるようです。
阿星山や石部大橋 方面
菩提寺山南峰(竜王山)から阿星山、金勝アルプス、野洲川、石部大橋を望む。
撮影地点から阿星山(滋賀県湖南市、栗東市)まで7.2km。
寄り道した南峰には竜王社の新しい祠がお祀りされていました。
こちらにはスズメバチはおらず、南峰の開けた山頂で下山前に少し休憩します。
比叡山や如意ヶ岳など、京都寄りの山からは目立って見える阿星山ですが、なぜだか近くからだと今ひとつ地味な印象を受けます。
三上山や菩提寺山、それに鏡山など竜王町の丘陵地帯と、いわゆる湖南アルプス(田上山地)や金勝アルプス(金勝山地)との間には野洲川が流れているため、こちらは独立した三上山・鏡山丘陵と見なすのが妥当でしょう。
あまり知られていませんが、菩提寺山は過去に紫石英(蛍石)の産出記録があり、その点は田上や石部と共通します。
野洲川に架かる石部大橋の対岸の山(石部鉱山、灰山)が切り崩されています。
現在の湖南市でも、菩提寺側はかつての甲西町に、対岸は石部町にあたりますが、石部は古くより銅や石灰の産出地として知られていたようです。
1880年(明治13年)の『滋賀縣管内甲賀郡誌』(滋賀県管内甲賀郡誌)によると、石部の鉱山は古くは「雨壷山」と呼ばれていたようで、やはり雨乞信仰(近江の竜王信仰)とも関わりがありそうです。
石部の「雨山」は「雨山茸」なるマツタケの産地だったとか?
序に1910年(明治43年)とある『滋賀縣甲賀郡石部町是』(滋賀県甲賀郡石部町是)には、石部停車場(石部駅)が脚下にある松籟山なる登路容易な山が屹立し、少し登れば、「甲賀郡ノ大部分ハ一眸ノ中ニ入リ彼ノ廣瀨海軍中佐ガ忠勇ノ紀念トシテ命名セシ岩根村ニアル廣瀨山ヲ始メ付近ノ山川喚ヘバ應ヘントシ」としています。
石部町の松籟山は俗に「金山」と呼ばれる山の一帯で、付近の松籟公園(里山しょうらい公園)に名前を残しますが、対岸の岩根村にあったとされる広瀬武夫中佐ゆかりの広瀬山の山名は現代ではすっかり失われたようですね。
石部大橋は栗東水口道路(国道1号バイパス)の計画に伴い建設された橋で、2011年(平成23年)に側道部が開通しました。
少し古い地図だと載っていません。
視点を少し左へ。
鈴鹿山脈南端、野洲川に架かる中郡橋 方面
菩提寺山南峰から烏ヶ嶽、鈴鹿山脈南端部、野洲川、中郡橋、湖南の田園風景を望む。
撮影地点から烏ヶ嶽(滋賀県湖南市)まで9.4km。
鈴鹿山脈最南端域の小平山(烏山)(三重県亀山市、伊賀市)まで28.8km。
もう夕暮れ時ですが、相変わらず鈴鹿山脈方面は晴れています。
とくによく目立つ烏ヶ嶽には、後年、登る機会がありました。
写真で遠く(中央やや左寄り)に見えている橋は甲西大橋です。
菩提寺山からの下山後、写真の手前に見える生コンクリート工場の横を通り、右手前に見える中郡橋を渡り、JR石部駅まで歩きました。
先日の大雨の影響か、それ以前からかは分かりませんが、菩提寺山の表登山道、西応寺さんの南側の谷はひどく荒れていました。
同じ表登山道でも、西応寺さん側からのコースではなく、和田神社さん側のコースを利用するほうが無難でしょう。
近江富士と比較すると、甲西富士は登る人も少なそうで、この「表登山道」の呼称もあまり広まっているとは言えませんが、廃少菩提寺跡「歴史の小径」側の上山口にある地図にはそのように記されています。
京都まで戻ってくると、ちょうど小雨が降り始めました。
天気予報どおり、日本海側からお天気が崩れてきたようです。
滋賀県側の山の上から眺めていて、比良山地や比叡山に雲が増えていったことも頷けます。
関連記事
「琵琶湖三十六勝」のリスト
https://www.kyotocity.net/diary/biwako-36sho/
「近江二十四勝」のリスト
https://www.kyotocity.net/diary/omi-24sho/
三上山(地理院 標準地図)
「三上山(ミカミヤマ)(みかみやま)」標高432m
滋賀県野洲市
「天山(アマノヤマ、アマヤマ、アメヤマ)(あまのやま、あまやま、あめやま)」
標高303.2m(四等三角点「雨山」)
滋賀県湖南市(山体は野洲市に跨る)
「菩提寺山(ボダイジヤマ)(ぼだいじやま)」 別称として「竜王山」や「櫻山」
標高353.1m(→353.2m)(三等三角点「菩提寺」)
滋賀県湖南市、野洲市
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