長坂越ハイク 鷹峯千束~石ヒロイ~堂ノ庭~京見峠 京都市北区

昨日、2016年(平成28年)10月1日「展望の日」の夕暮れ時。
湿った空気で今ひとつ気乗りしなかったものの、前回の記事で話の種にしたこともあり、京都市北区の京見峠を訪れました。
京都市には「京見峠」「京見山」「京見坂」を称する地名が何ヶ所かありますが、今回の話で取り上げるのは北区鷹峯と西賀茂、大宮の境あたりに所在する京見峠です。
この京見峠から京都タワーまでの直線距離は10kmで、「ピンクリボン京都2016」で10月1日と2日の夜にピンク色にライトアップされる京都タワーを、「展望の日」の日付にちなんだ10.1kmの距離から撮影できないか調べてみることに。
ちょうど、鷹峯千束から堂ノ庭・京見峠へ通じる「長坂越」(長坂道)の古道・旧道を久々にハイキングしたいと考えていたこともあり、行きはそちらのコースを選びました。

昨日は鷹峯の交差点、源光庵さんのあたりを起点とし、鷹峯小学校さんや光悦寺さんの前を過ぎ、西の千束まで長い坂道を下りました。
鷹峯から京見峠へ上るだけであれば、わざわざ千束まで下らず、京都府道31号西陣杉坂線の新道(新バイパス)から釈迦谷山の西側を巻いて上るのが容易です。
府道の道のりは自転車乗りの方にはよく知られており、昨晩も暗い山中を駆け抜ける方を何人かお見掛けしました。

現在の京見峠付近からの眺望 京都の街並みや大文字山など 2016年4月

京都北山 釈迦谷山ハイク 鷹峯~西陣杉坂線~京見峠~秋葉神社

2016.05.16

府道西陣杉坂線から釈迦谷山を登山した話は上の記事に詳しく。
昨日も下りは府道西陣杉坂線を歩きましたが、それは後の話で、行きは千束から長坂越を歩きました。

千束の愛宕山大権現

鷹峯千束 愛宕山大権現 京都市北区 2016年10月
鷹峯千束の愛宕山大権現さん。京都市北区。

鷹峯のあたりは愛宕神社さんの旧地と考えられていたこともあり、愛宕山に対する信仰が根付いていたようです。
祠でお祀りされているのは愛宕の勝軍地蔵さんでしょうか。
お地蔵さんにお参りし、長坂越の取付へ向かいます。

補足しておきます。
そもそもで申し上げれば、京都の各集落にお祀りされているお地蔵さん、地蔵盆ゆかりのお地蔵さんは、(江戸時代頃は、)火伏せ(防火)のために愛宕の勝軍地蔵さんを祀っていたものと考えられています。

町々の木戸際毎に石地藏を安置す。是愛宕の本地にて火防(ひぶせ)なるべし。江戸の如く稲荷多く祀らず。新嘗會等の時は。右の地藏へ明俵(あきたはら)などを被せる。尤も寺々にては鐘を撞かず。
『見た京物語』

江戸の幕臣、二鐘亭半山こと木室卯雲による『見た京物語』には上のように見えます。
これは自序に天明元年(1781年)とある明和3年(1766年)の京都滞在記で、江戸との文化習俗の比較もなされています。
描写を見るかぎり、新嘗会(民間でも行われていた収穫奉謝)等では、お地蔵さんに明俵を奉納というか被せてあげたようですね。
現代における「化粧地蔵」と言えるでしょう。

長坂越(市道鷹峯1号線)

古道 長坂越 道標 鷹峯千束から京見峠に至る 2016年10月
「古道 長坂越」道標。鷹峯千束から京見峠に至る旧道。市道鷹峯1号線。

上の道標の地点から北の長坂越(ながさかごえ)の道を取ります。
ここで西へ進めば農林橋で原谷(~御室や衣笠)の分岐があり、それを過ぎると東海自然歩道の坂尻から上ノ水峠へ。
上ノ水峠は沢山や沢ノ池、菩提滝へ通じており、古くは千束から上ノ水峠を越えて菩提川沿いに中川へ抜ける山道を「中河道」(中川道)と呼んだようです。
長坂越は千束から長坂峠を越えて杉坂へ、やがては京北周山へ至る丹波道で、かつては「京の七口」長坂口に関所が置かれました。
江戸時代中期、享保2年(1717年)頃の成立とされる『京都御役所向大概覚書』では長坂口を蓮台野としています(蓮台野村は現在の北区鷹峯上ノ町・木ノ畑町から北区紫野西舟岡町・十二坊町にかけての一帯)。
長坂越の東に府道西陣杉坂線が通じたことにより、鷹峯から京見峠(~杉阪、周山街道)へのアクセスが少しは容易となりましたが、この府道が通じるまでは長坂越の道が利用されていました。

なお、江戸時代前期、序文に延宝3年(1675年)とある『遠碧軒記』では、「京七口」に長坂口はなく、代わりに「清蔵口 丹波路 鷹ヶ峯 千束越」「蓮臺野より丹波余野尻に出る」「大宮より満中峠越丹波井戸村へ出る」「貴布祢社より丹波芹生村へ出る」と見え、「清蔵口」を京七口としています。
井戸村や芹生村はわざわざ言うに及ばずでしょうが、「丹波余野尻」はおそらく余野村と田尻村(細川田尻村)で、「満中峠」はおそらく満樹峠。
満樹峠は萬壽峠(万寿峠)とも書き、これは住所地名に残りますが(京都市北区西賀茂万寿峠)、満中峠も表記揺れの範囲とすると、「まんじゅう峠」とも呼ばれていたのでしょうか?
貞享4年(1687年)刊版の浮世草子『新竹齋』(新竹斎)、これは笑い話を旅行記風に描いた短編集ですが、その巻之三に「天狗㜋(てんぐもどき)のつかみて有り鞍馬の福」の章があります。
主人公らは鞍馬寺にお詣りしようとしていたのに、上賀茂、柊野から誤って車坂と萬壽(まんじゅ)峠を通ってしまい、これは鞍馬道ではなく岩屋の不動坂だと笑われるくだりで、「まんぢゆう峠あんの外なり」の駄洒落が見られます(万寿と饅頭、案と餡が掛かってる)。

話を戻すと、現代における長坂越は市道鷹峯1号線に指定されており、かつては未舗装区間が長かったものの、今はおおむね舗装された道のりとなりました。
ごく稀に軽トラックも通りますが、道幅はきわめて狭く、道中での離合は困難でしょうか。
昔の『山と高原地図 京都北山1』では長坂越を「氷室道」としていましたが、「氷室道」がどこを指すかは諸説あります。

「坂」にふさわしく、長坂越の登り始めは急な坂道です。
古い絵地図を眺めると、長坂越と推測される道のりには「千束~一ノ坂~長坂~石ヒロイ~堂庭~前坂~杉坂」といった地名が描かれており、千束から少し登ったあたりが「一ノ坂」。
京都市北区鷹峯一ノ坂の住所地名が残ります。

長坂越 古い石仏や首無し地蔵 京都市北区 2016年10月
長坂越の古い石仏や首無し地蔵さん。京都市北区。

長坂の道中には首を失った仏様がお祀りされています。
おそらくお地蔵さんだと考えられますが、異なるかもしれません。
昨日の夕方は曇りがちだったうえ、18時頃から始まるライトアップに合わせて入山したため、すでに山中は薄暗く、撮影した写真も全体的に分かりにくいです。

長坂越 長坂~石ヒロイ(石拾い、石廣)~堂ノ庭 巨岩と石仏 2016年10月
長坂越の古道。長坂~石ヒロイ(石拾い、石廣)~堂ノ庭に見られる巨岩と石仏。

一歩下がって全体像を見渡してみると、大きな石壁の内に抱かれていることが分かります。
このあたりの山域を、古くは「石ヒロイ」と呼んでいたようですが、そのまま「石拾い」の意でしょうか。
奥に見える山が地形図に見える標高点309mですが、無理によじ登ろうという気は起きません。
この撮影地点を本記事の下部に表示される地理院地図の中心点としておきます。

「石ヒロイ」について、記事を公開後に改めて調べてみましたが、古い地図では「石ひろい」や「石廣」(石広)の表記も見られます。
「石拾い」か「石廣」か、興味が尽きません。

長坂越 石ヒロイ~堂ノ庭 嘉永年間の石碑や石柱 2016年10月
長坂越の古道。長坂~石ヒロイ~堂ノ庭に見られる嘉永年間の石碑や石柱。

道路の反対側を見てみると、大きな岩がいくつも転がっており、あたりには古い石碑や石柱が何本か埋まっています。
上の写真に写る石碑は嘉永年間、江戸時代後期~末期のものです。
碑文(銘文)には「願主 敬白」と刻まれており、合わせて何かを寄進なさったのでしょう。
かつてはお堂なり祠なりがあったのかもしれません。

長坂から古道を登ると、左手(西)に民家やレストランさんへの分岐があります(が、当然ながら無断立入禁止です)。
山奥の隠れ家的なレストランさんでは大文字山の送り火観賞会も催されていたようですが、今でも営業なさっているかは知りません。
続いて右手(東)に廃屋が見え、すでに草木が伸びていますが、このあたりも昔は見晴らしが良かったのでしょう。
廃屋の南東の谷間は「大宮釈迦谷遺跡」に指定されており、京都市によると「斜面に人工的な平坦面が散在する」そうで、平安時代頃の寺院跡ではないかとしています。
さらに登ると堂ノ庭で鷹峯から上ってきた府道西陣杉坂線と合流します。

堂ノ庭(京見峠)

古道 長坂道 道標 千束~堂ノ庭~京見峠~杉坂 2016年10月
「古道 長坂道」道標。千束~長坂~堂ノ庭~京見峠~杉坂。

往時の「長坂越」は、この後、長坂峠を乗り越え、前坂から杉坂へ下る峠越の道のりで、これは丹波へと続く街道です。
整備された「古道 長坂越」としては、いわばここが終点とも言える地点で、続いて府道西陣杉坂線の京見峠や杉阪方面には「古道 京見峠」の道標が立っています。
千束側の道標は「長坂越」でしたが、堂ノ庭側の道標は「長坂道」となっており、「越」と「道」で異なる表記となっています。
また、「長坂道」の道標や、府道西陣杉坂線の名称、あるいは集落を流れる杉坂川では「杉坂」の表記ですが、住所地名としては京都市北区杉阪で、「杉阪」の表記です。

「京見峠茶屋もうすぐ」看板に従い、「京道」と呼ばれるコースを京見峠へ向かいます。
このあたりを古くは「堂ノ庭」と呼び、京都市北区鷹峯堂ノ庭町の住所地名が残ります。
堂ノ庭や釈迦谷山の周辺は大徳寺さんの寺領だった時代があり、当時は付近の山中にも子院が創建されたそうですが、「石ヒロイ」もそういった話と関係があるのでしょうか。
今でこそ「京見峠」の呼称が定着していますが、昭和初期頃の山行記録を拝読していると、「堂の庭は見晴らしが良い峠道」といったことが記されており、むしろ京見峠が別称のような扱いを受けています。

京見峠茶屋や「京見峠」碑の前を過ぎ、昔は眺めが良かった京見峠の展望地へ。
その先の長坂峠(氷室別れ)で、前坂から杉阪方面へ下る車道と、城山(堂ノ庭城跡)の南を巻いて西賀茂氷室方面へ向かう車道に岐れます。
前者が府道西陣杉坂線で、後者は京都一周トレイルのコースともなっています。

京都一周トレイル北山68 ツキノワグマ出没注意

京都一周トレイル道標「北山68」 堂ノ庭(京見峠) 熊出没注意
京都一周トレイル道標「北山68」。熊出没注意。堂ノ庭(京見峠)から上ノ水峠は秋季通行不可。

京都一周トレイル北山コースは山幸橋から氷室を経て京見峠に至り、ここ堂ノ庭から上ノ水峠へ向かいます。
まさに今の時期、秋季9月25日から11月10日までは堂ノ庭~上ノ水峠間を通行できないので、当地点から長坂越~千束~東海自然歩道周りで上ノ水峠に向かうことを余儀なくされますが、これがなかなか遠回りな迂回路です。

トレイルの道標には、以前は無かった「熊出没注意」の警告が掲示されていました。
「目撃日 平成28年6月6日」とありますので、私が2016年4月末に訪れた後にツキノワグマが現れたようです。
京見峠の車道に現れたのか、それとも山中に現れたのかは分かりません。

時間と整理の都合で記事を分けます。
先に書いておきますと、京見峠周辺で正確に直線距離10.1km地点から京都タワーを見通すのは困難だと考えられますが、他の地点から京都タワーを撮影した写真に興味深い景色が写っていました。

ピンク色にライトアップされた京都タワーを釈迦谷山から遠望 ピンクリボン京都2016

京見峠と足上山 府道西陣杉坂線の夜景とピンクの京都タワー

2016.10.04

続きは上の記事に。
京見峠や長坂峠の山を古くは「足上山」と呼んでいた話なども併せて。

追記

上賀茂・西賀茂・鷹峯の住宅地でも熊の目撃例が

京都新聞さんの報道によると、2018年(平成30年)には「頻繁に」北区上賀茂・西賀茂・鷹峯の住宅街近くでもツキノワグマが目撃されるようになったとのこと。

クマ目撃、京都市内で相次ぐ 大学や住宅街近く : 京都新聞
https://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20180719000081 (リンク切れ)

記事を読むかぎり、船山の山麓や西陣杉坂線沿いにも出没していますね。
京見峠周辺で目撃されていた個体が釈迦谷山や船山を経て下山した可能性もあります。

関連記事 展望の日とピンクリボン京都2016

すべて同日の山行記録です。併せてご覧ください。

古道 長坂越(地理院 標準地図)

クリック(タップ)で「長坂越」周辺の地図を表示
「長坂越(ナガサカゴエ)(ながさかごえ)」
京都府京都市北区

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3 件のコメント

  • 長坂越えハイク鷹峯千束~石ヒロイ…を楽しく拝見しました。
    文中の中で,大宮釈迦谷遺跡と記載されています。
    文中の首無し地蔵の南側の山主ですが,大宮釈迦谷遺跡を聞いたことが無いのでお場所を教えてもらおうと連絡しました。
    山仕事で,廃屋の東側の谷へも行きましたが見たことがないもので。
    お手数ですがよろしくお願いします。

    • こんにちは。
      コメントありがとうございます。
      土地にご縁のある方からすると稚拙な内容でしょうが、ご容赦ください。

      大宮釈迦谷遺跡の座標は、「京都市遺跡地図提供システム」では、

      https://keikan-gis.city.kyoto.lg.jp/kyotogis/webgis/index.php/autologin_jswebgis?u=iseki&ap=jsWebGIS&m=2&x=4172632.611094684&y=15108447.091655005

      です。
      遺跡地図上、「大宮釈迦谷遺跡」と表示される地点の北西が廃屋のあたりで、その付近に見える南北の道が市道鷹峯1号線。
      以前はネット上で遺跡の詳細を確認できましたが、リニューアル後はやや使いにくくなりました。
      上のリンクで「大宮釈迦谷遺跡」を中心に表示されると思いますが、もし、うまく表示できない、分からない場合は再度おっしゃってください。
      京都市によると、「南東に開く谷筋の奥,標高290~300mほどの斜面に,人工的な平坦面が散在する。須恵器・土師器・緑釉陶器等が表採されている。」とのことで、標高290~300mの記述が確かであれば、谷の上部だと考えられます(が、とくに山中の遺跡において、報告書の標高の値が絶対に正確とは限りません)。
      遺物は表面採集されていますので、調査当時は見れば分かる状態だったのかもしれませんね。

      • 早速の返事ありがとうございました。よくわかりました。
        ありがとうございました。
        隣接の山にもかかわらず,全く知りませんでした。
        隣接のレストランのおやじにも,言っておきます。
        北川敏彦

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    Maro@きょうのまなざし

    京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!