太閤坦の由来 夕日と京都タワーを望む 東山七条~女坂~豊国廟

今年、2016年(平成28年)の元日、京都東山は阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の豊国廟(ほうこくびょう)を参拝し、山下にあたる太閤坦(たいこうだいら)からの眺望を楽しみました。
奈良の生駒山や大阪の高層ビル群は見えていたものの、それより遠くの和泉山脈や金剛山などは霞んで見えにくく、冬場の遠景としては今ひとつで、できれば空気が澄んだ日に再訪したいと考えるように。

申年の元日に京都東山・新日吉神宮を参拝 2016年1月1日

東山三十六峰 今熊野山と阿弥陀ヶ峰 新日吉神宮と申年の猿

2016.01.08

秀吉さんをしのび、2016年1月1日に阿弥陀ヶ峰を登拝した話は上の記事に。

豊国廟を参拝

あれから半年と少しが経ち、「五山送り火」も終わり、京都も晩夏と言える季節を迎えました。
つい先日、残暑が厳しい時期としては遠くまで明瞭に見えやすかった日。
夕方から少し時間が空いたので、どこか西向きが開けた場所で夕景を撮影しようと思い立ちます。
時間が足りず、山行記録として残していませんが、伏見の稲荷山は少し前にも登っており、それなら今回は豊国廟にしようと東山七条を目指すことに。
すでに夕暮れ時でしたが、高い山を登るわけではなく、急げばサンセットに間に合いそうです。

「豊國廟参道」石標

「豊國廟参道」石標 東山七条~女坂~太閤坦~阿弥陀ヶ峰 2016年8月
「豊國廟參道」(豊国廟参道)の大石標。東山七条~女坂~太閤坦~阿弥陀ヶ峰。

京都国立博物館さんの東、あるいは豊国神社さんや方広寺さんの東にあたる東山七条を起点として、いわゆる「女坂」(おんな坂)を上ります。
写真の右奥には豊国廟の「一の鳥居」や阿弥陀ヶ峰が写っていますが、やや分かりにくいでしょうか。
いわゆる「東山三十六峰」の一座でもある阿弥陀ヶ峰には、太閤秀吉さんの廟墓である「豊国廟」がお祀りされています。
かつてはその頂上に秀吉の墓所が築かれ、山麓に廟所が営まれました。

太閤坦 豊国廟の拝殿

太閤坦(たいこうだいら)にある豊国廟の拝殿 阿弥陀ヶ峰の西麓 2016年8月
太閤坦(たいこうだいら)にある豊国廟の拝殿。阿弥陀ヶ峰の西麓。

新日吉神宮さん、京都女子大学さんの横を抜け、阿弥陀ヶ峰の山麓にあたる「太閤坦」と呼ばれる開けた場所まで上ります。
かつて、豊臣秀吉の廟所が営まれ、豊国大明神として豊国神社がお祀りされた地ですが、徳川家康により破却が進められた後、長らく荒廃していました。
明治時代に豊国神社さんが現在地(方広寺大仏殿跡)に再建されるにあたり、元の廟所の跡地は広場として整備され、豊国廟の拝殿が置かれました。
これが「太閤坦」の由来となっており、そういった経緯から、今でも豊国神社さんが管理なさっています。

追記。
上記の経緯について、どうもネット上では正確とは言えない記事が多いようです。
本記事の下部でも補足しておきます。
追記終わり。

昭和初期の太閤坦

1928年(昭和3年)の『京都名勝誌 上』(京都市)には、

「豊國廟」
阿彌陀ヶ峰は東山の一峰にして平地を抜くこと約四百尺、小松谷の南に在り。
(中略)
東山七條東端に豊國廟參道と記せる大石標あり。これより東に登ること一町餘りにして一の鳥居石造あり。ついでまた二の鳥居同上あり。少しく更に登れば太閤坦に達す。こゝに拝殿を設く。拝殿の背後より一直線に天に沖する石階を上ること四百八十九級(而も急勾配なれば一氣に上ること難し。)にして唐門白木造檜皮葺に到り、更に百七十餘級の石段を上り、始めて廟墓に達す。
『京都名勝誌 上』

と見えます。
「太閤坦に(豊国廟の)拝殿を設けた」ことが窺えます。
また、「太閤坦」には「たいかふだひら」と振り仮名を振っており、当時から読み方が「たいこうだいら」であることも分かります。

明治から昭和にかけて、『京都名勝誌』や、それに類するタイトルの京都観光案内書がこぞって刊行されましたが、これは京都市が編纂した、いわばオフィシャルなガイドブックです。
似た内容が1903年(明治36年)の『京都名勝記 上』(京都市參事會)や、1915年(大正4年)の『新撰京都名勝誌』(京都市)にも掲載されており、1928年版はそれを踏襲しています(が、細かな描写や掲載される写真が異なります)。

昭和初期頃の太閤坦と豊国廟の拝殿 出典・『京都名勝誌 上』(1928年)
「昭和初期頃の太閤坦」
出典:『京都名勝誌 上』(京都市 編)(1928年)
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1907825/1/165

『京都名勝誌 上』には「太閤坦」と題した写真が掲載されており、それには現在と同じ場所に建つ豊国廟の拝殿が写っています。
よって、阿弥陀ヶ峰の西麓の広場を「太閤坦」と呼ぶことが分かります。
後に「太閤坦」の名を冠するゴルフクラブが今熊野山の山上に開業しましたが、その地が太閤坦というわけではありません。
また、この山下の「太閤坦」に設けられた拝殿なども含めて広く豊国廟の一部であり、当地を指して「豊国廟」としても誤りではありません。

太閤坦の展望 京都市東山区

夕日と京都タワー

太閤坦(豊国廟)から沈む夕日と京都タワーを望む 京都市東山区 2016年8月
太閤坦(豊国廟)から沈む夕日と京都タワーを望む。京都市東山区。

日も暮れたとはいえ、まだまだ気温は高く、暑いさなかに「急勾配なれば一気に上ること難し」の石段道を駆け登る気は起きません。
今回は阿弥陀ヶ峰を登らず、拝殿でお参りするに留めておきます。

室町幕府の成立期を描いた軍記物『梅松論』や『太平記』に阿弥陀ヶ峰の山名が現れ、『梅松論』に見える「今比叡ノ上阿彌陀カ峰ニ陣ヲ取ル」の「今比叡(いまひえ)」は「新日吉(いまひえ)」。
これは阿弥陀ヶ峰に立て籠もった新田方の軍勢に対し、山の下から攻めるのは容易ではないので、稲荷山を経由して山の裏から足利方の細川勢が攻め込んだくだり。
吉田神道の観点に基づく『諸神記』(写本)には「天ツカ峯トイフ後世ニ阿弥陀カ峯ト云」と見え、これが確かであれば、阿弥陀ヶ峰は古くは「天津峰(あまつがみね)」と呼ばれていたことになります(が、『諸神記』は全体的にこじつけめいた話が多く、事実であるか疑わしいです)。
後世、山上に秀吉さんの墓が築かれてからは「豊国山」とも呼ばれていました。
昔の阿弥陀ヶ峰は見晴らしが良い山で、南東には醍醐山、北西には愛宕山や嵐山まで広く一望できたそうですが、今は木々の合間に清水寺さんの姿が見えるのみ。
山頂と比べれば標高は下がりますが、太閤坦のバス駐車場付近の展望地から遠く大阪方面まで見通せますので、それでよしとしましょう。

大阪の高層ビル群を遠望

中之島フェスティバルタワー・ウエストと大阪の高層ビル群を京都の豊国廟から遠望 2016年8月
クレーンが消えた中之島フェスティバルタワー・ウエストと大阪の高層ビル群を京都東山の太閤坦(豊国廟)から遠望する。

主な建築物距離(地上高)所在地備考
The Kitahama41.6km(209.4m)大阪府大阪市中央区北浜タワー
中之島フェスティバルタワー41.8km(199m)大阪府大阪市北区
梅田スカイビル41.1km(173m)大阪府大阪市北区
大阪府咲洲庁舎51.3km(256m)大阪府大阪市住之江区コスモタワー

京都の多くの山から撮影してきた建設中の中之島フェスティバルタワー・ウエスト、ついにビル上部のクレーンが姿を消しました。
1月の時点では本館の7~8割程度の高さだと感じましたが、いまや同等の高さ、同等の外観のビルが並んでいます。

東山三十六峰 阿弥陀ヶ峰の豊国廟 豊臣秀吉墓所 申年 2016年1月1日

阿弥陀ヶ峰 京都の豊国廟から大阪の「あべのハルカス」を遠望

2016.01.11

2016年1月1日に太閤坦から撮影した中之島フェスティバルタワー・ウエストの写真は上の記事に。

日没時ということもあり、頻繁に点滅する高槻CCの煙突は目立っていました。
当初はそちらに目を奪われていましたが、よく見るとコスモタワーの周辺も光っているようです。
上の写真では分かりにくいですが、あの大橋の主塔ですね……。

長くなってきたので記事を分けます。

京都東山 豊国廟 太閤坦から生駒山、交野山を遠望 2016年8月

豊国廟 太閤坦の風景 大阪の高層ビル群や金剛山を遠望 京都

2016.08.25

続きは上の記事に。

補足

豊国廟と豊国神社の再興について

豊国神社さんが現在地で再建された経緯について、ネット上では正確とは言えないと感じる記事が目立ちます。
かつての豊国廟について記した史料や地誌は分かりにくい描写が多いので、そのことじたいはやむを得ません。
かなり長いので端折って転載しておきますが、本件については、1939年(昭和14年)の『生ける豊太閤』が分かりやすいです。
著者の鳥井壽山人(鳥井寿山人)はサントリー(寿屋)創業者の鳥井信治郎で、「寿山」を陶号ともしていました。
ただし、『生ける豊太閤』で描かれる豊臣秀吉像については、執筆当時の歴史観の影響や、大阪財界人の意向が強く反映されていますので、その点は考慮する必要があります。
幕末の王政復古運動において、徳川政権に対抗する勢力は、織田信長や豊臣秀吉を尊王の士と扱う考えを取り入れました(この考えじたいは以前よりありました)。
明治天皇の御下命により、後に船岡山には織田信長・信忠親子を祀る建勲神社さんも創建されました。
その思想が、後々の時代まで少なからず影響を与えています。

「豊公の遺命と豊國廟」
(前略)
息を引き取ったのである。時に慶長三年八月十八日(太陽暦九月十八日)丑時(午前二時)であつた。
(中略)
豊公の死後、かねての遺命により、その遺骸は京都阿彌陀ヶ峰の頂上に葬られた。
(中略)
かくて、阿彌陀ヶ峰頂上には、豊公の墓が築かれ、やがてまたその山麓のいま太閤坦と稱せられる所に、豪壯華麗を極めた豊國廟が營まれたのであつた。

「豊國大明神」
翌慶長四年四月十七日、後陽成天皇は、右の豊國廟に對して、豊國大明神の神號を贈られた。
(中略)
かくて阿彌陀ヶ峰は豊國山と改められ、萬代不易の國家鎮護の靈場とさるるに至つたのである。

『生ける豊太閤』

豊臣秀吉の没後、阿弥陀ヶ峰の山頂に墓所が、現在、太閤坦と呼ばれる、阿弥陀ヶ峰の山麓に廟所が営まれましたが、「山麓」に対する誤解からか、廟所の所在地を方広寺あたりと混同なさる方もいらっしゃるようです。
この廟所が豊国大明神として祀られました(最初の豊国神社)が、徳川家康により破却されました。

「京都豊國神社」
かくて明治元年十月、かねて徳川幕府より移管されたる京都妙法院より豊公の墓を政府の神祇官に引繼ぎ、やがて同二年八月十八日にも亦官祭を行はせられたが、同六年八月十八日、同社を別格官幣社に列せられ、又官祭を行はせられる所があつた。以上の祭典は、當時なほ豊國神社の再建が出來てゐなかつた爲山下の新日吉神社御饌殿を以て臨時に之に充てられたのである。

京都における豊國神社の再興は、その後種々紆餘曲折があり、遂にもとの豊國廟址卽ち太閤坦には再建されず、方廣寺大佛殿址に再建され、明治十三年九月十五日正遷宮祭が執行されたのである。
(中略)
越えて翌十四年七月一日、阿彌陀ヶ峰豊國廟域は、豊國神社附属地たるべき旨、京都府より達があり、その後豊國會が設立され、山上の豊公の墓の改修に努力し、明治三十一年三月三十日竣工を見た。
その墓域三萬四千坪、昔の三十萬坪に比すれば十分の一に過ぎないが、なほ壯大といはねばならぬ。山上の豊公の墓には、高さ約三十二尺の大五輪塔が建設され、五百六十五段の石段を附設し、漸く面目を一新し、舊態に復するに至つた。
これが別格官幣社豊國神社並に今の豊國廟の略沿革であるが、その昔豪壯無比と稱せられた豊國廟は、今やその跡方もなく、太閤坦と稱せらるる廟址には、徒らに草蒸し、櫻花を植ゑて、そゞろに遊子の心を悲しませてゐる。

『生ける豊太閤』

豊国神社を再興するにあたり、元の場所(太閤坦)には再建されず、方広寺大仏殿跡に再建されました。
これが現在の豊国神社さんです。
山上の改修計画や設計については、1897年(明治30年)の『豊國會趣意書』(豊国会趣意書)が詳しい。
当時の豊臣秀吉観については上でも少し触れましたが、『豊國會趣意書』でも(秀吉は)勤王愛国の志に厚く云々と強調しています。

なお、「丑時(午前二時)」の箇所は、1939年(昭和14年)7月15日、世界創造社(世界創造社)発行の版本では「午後二時」としていますが、同年8月1日、豊公會(豊公会)発行の版本では「午前二時」としています。
丑の刻ですので、これは14時ではなく2時が正しく、公開当初は見落としていましたが、どうやら、世界創造社版は誤植が多いようです。
同様に、「政府の神祇官に引繼ぎ」の箇所は、世界創造社版では「政吳(せいふ)」としていますが、同年8月1日、豊公会版では「政府(せいふ)」としています。
また、「(豊國廟は)明治三十一年三月三十日竣工を見た」の箇所は、世界創造社版では「明治十一年」としていますが、豊公会版では「明治十一年」としています。
これは明治31年が正しい。
世界創造社は小島威彦が立ち上げた出版社。

関連記事 2016年8月 太閤坦サンセットウォーキング

阿弥陀ヶ峰 豊国廟(OpenStreetMap日本)

クリック(タップ)で「阿弥陀ヶ峰 豊国廟」周辺の地図を表示
「阿弥陀ヶ峰(アミダガミネ)(あみだがみね)」
標高196m
京都府京都市東山区

「豊国廟(ホウコクビョウ)(ほうこくびょう)」
京都府京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峯町 付近

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2 件のコメント

  • だいぶ前の記事へのコメントで恐れ入ります。
    楽しく拝読いたしました。
    伺いたいのですが、なぜ豊国神社は阿弥陀ヶ峰の元の場所に再建されなかったのでしょうか?
    引用部分にも、「紆余曲折あり~~」ともありますが、それは何だったのでしょうか、、、
    (大阪ではなく、京都に建てるべきだ~というのではなく、京都内での紆余曲折?)

    色々見ましたが、明確な答えが得られずこちらで質問させていただきました。
    不勉強ですみませんが、もしよければご回答お待ちしています。

    • おはようございます。コメントありがとうございました。
      私の浅い知識で分かる範囲でお答えいたしますが、これが絶対的に正しいかは別問題です。
      「紆余曲折」については、豊国神社をどの地に設けるか、(さまざまな思惑も交錯し、)京都と大阪の間で二転三転した件を指していると考えられます。
      すでにご存じのようですが、1873年(明治6年)から1875年(明治8年)にかけて、造営予定地の選定が難航しました。
      1939年(昭和14年)に府社豊國神社社務所が発行した『府社豊國神社社記』、これは現代における大阪城の豊國神社さんですが、そちらによると、「明治八年八月十三日 京都府、管內別格官幣社豊國神社ノ社地トシテ、阿彌陀峯下大佛殿ノ地最モ適當ト認メラルルニ付、此處ニ造營シタケレバ、許可セラレンコトヲ、內務省ニ乞フ」と、1875年8月13日に京都府が申し入れ、これが明治政府に認められ、当初、計画されていた阿弥陀ヶ峰ではなく、方広寺大仏殿跡に造営されることに。
      同誌に「明治六年八月十四日、京都阿彌陀峯墓前を別格官幣社に列せられたが、その地峻峭狹隘なるにより、翌七年一月、社殿を大阪府下西成郡難波村へ遷座造營することゝなり、ついで八年四月、遷座を止め、京都在來の社地へ社殿造營、大阪府下には社地を難波村以外に卜して、別社を創立する事となり~」とあるように、そもそも、「(当時の阿弥陀ヶ峰は)峻峭狭隘(で不便)」だから、京都ではなく、大阪に社殿を造営しようとしたのですから、京都に造営するのであれば、それを解消するために平地を選ぶ必要もあったのでしょう。
      その頃の阿弥陀ヶ峰はひどく荒れていましたが、後に豊臣恩顧の大名家の末裔が中心となり(豊国会)、費用を提供したことで豊国廟が整備されました。

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    Maro@きょうのまなざし

    京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!