京見峠と足上山 府道西陣杉坂線の夜景とピンクの京都タワー

2016年(平成28年)10月1日、「展望の日」の話。
この日を「展望の日」とするのは、「10」を「ten(てん)」、「1」を「棒(ぼう)」として、これを「テンボウ」と引っ掛けて、全日本タワー協議会さんが制定されたものです。

展望の日PR レッドにライトアップされた京都タワー 2016年

赤い京都タワー レッド・カラー 「展望の日」PRな前夜祭

2016.09.30

上の記事で、10月1日の日付10.1にちなみ、10.1km離れた地点から京都タワーを望めないかという話をしたこともあり、京都タワーを約10km先に見通せる京見峠を久々に訪れました。
京都市内には「京見峠」や「京見坂」を称する地名が何ヶ所がありますが、今回の記事で取り上げるのは京都市北区鷹峯や西賀茂、大宮あたりの境に所在する長坂越、氷室道の京見峠です。
古くは長坂口、千束から一ノ坂、長坂を登る「長坂越」の山道が利用されましたが、今は鷹峯から大宮の釈迦谷山の西を巻くように府道31号西陣杉坂線が通じており、車などで京見峠まで上れます。
この日は千束から「長坂越」の古道を堂ノ庭、京見峠まで登りました。

長坂越 古い石仏や首無し地蔵 京都市北区 2016年10月

長坂越と京見峠ハイク 鷹峯千束~石ヒロイ~堂ノ庭 京都市北区

2016.10.02

「長坂越」を京見峠までハイキングした話は前回の記事に。今回はその続きです。

京都市北区 京見峠と長坂峠、足上山

前回の記事でも申し上げましたが、京見峠や、その下(南)のあたりは「堂ノ庭」(堂の庭)と呼ばれており、京が見える峠道として古くから知られていました。
2000年代初頭までは見晴らしが良かったように記憶していますが、今は植林が進み、木々の間に京都の街並みが見えるのみで、一面が綺麗に開けているわけではありません。
また、京見峠の展望地は府道(車道)の狭いカーブの先にあたり、北の長坂峠側(前坂や氷室側)から下る車の運転手席視点では死角になりやすく、わりと速いスピードで車が突っ込んでくることもあり、のん気に三脚を立てて写真を撮影する気は起きません。
下の写真に写る解説の立て札には「現在は夜景もことのほか美しい」とありますが、お世辞にも適地とは言えないでしょう。

京見峠 解説・案内板 京都市北区鷹峯堂ノ庭町・大宮釈迦谷 2016年4月
京見峠の解説・案内板。京都市北区鷹峯堂ノ庭町・大宮釈迦谷。

京見峠茶屋の向かいに「京見峠」歌碑と、その横に京都市が設置した解説板が立っています。
上の写真のみ、今回、撮影した写真ではなく、今年4月に釈迦谷山から京見峠まで登った際に撮影した写真です。
このあたりは北区鷹峯堂ノ庭町と大宮釈迦谷の境にあたり、ぎりぎりとは言え、この先の展望地は大宮釈迦谷側です。

解説文では「標高四四六メートル」となっていますが、このあたりで標高370m前後、この先の展望地で標高380m前後、前坂と氷室、鷹峯の分岐にあたる「長坂峠」で標高400m程度で、「標高446m」の根拠はよく分かりません。
長坂峠から氷室方面の車道(京都一周トレイル北山コースと重なります)を進めば、城山の南~東を巻いて西賀茂氷室へ至りますが、この堂ノ庭城跡(長坂城跡とも)の城山が標高479.6mで、京見峠の周辺では高い山です。
長坂峠から府道西陣杉坂線を下れば、前坂を経て北区杉阪に至り、古くは京北周山へと続く丹波道として利用されていました。

江戸時代中期(享保年間)に編纂された『日本輿地通志 畿内部』(いわゆる『五畿内志』)の「山城國之四 葛野郡」に、

山川

足上山

杉坂村南大永七年十一月柳本某率丹州士庶于此二水記其坂路長坂嶺曰京見峠今半屬愛宕郡親長記所謂長坂口關卽此

『日本輿地通志 畿内部』

とあり、「足上山」には「アシカミ山」と振り仮名を振っています。
かなり端折ると、「足上山は杉坂村の南にあり。その坂路を長坂という。嶺を京見峠という」といったことが記されています。
峰(ピーク)となると、付近の標高点437mを指しているのかもしれませんが、今となってはよく分かりません。
現代と異なり、過去に「嶺」の漢字は「峠(たうげ)」の意味でも使用されていましたので、この描写も「長坂の峠を京見峠という」程度かもしれません。
これについては、『和漢三才圖會』(和漢三才図会)に「嶺 たうげ 和字 峠」とあります。
甘露寺親長の日記、『親長記』(親長卿記)に見える、いわゆる長坂口と関はすわなち足上山とも見えますので、長坂口から長坂関にかけての坂路(長坂)が足上山なのでしょうか。
『五畿内志』で「今半属愛宕郡」(今は半ば愛宕郡に属す)とするのは、杉坂村(杉阪村)を含めた小野郷は葛野郡に属したからで、長坂関の先は郡界だったのでしょう。
「今は」ですので、足上山は過去に全域が葛野郡に属した可能性もあります。
京見峠茶家に残る嘉永年間の奉納経に「葛野郡堂ノ庭住人 某」と記名があるそうで、どうやら堂ノ庭は(愛宕郡ではなく)葛野郡に属した時期があるらしい。
堂ノ庭を含む、現在の北区鷹峯地区は全域が愛宕郡に属したと思い込んでいましたが、1937年(昭和12年)の『京都市學區大觀』(京都市学区大観)における「鷹ヶ峯學區」にも「上古以来愛宕郡栗栖鄕に屬し、その西部は葛野郡に亘つてゐた」とあります。

寛延2年(1749年)の『皇州緒餘撰部 山城國舊地圖』(山城国旧地図)には、長坂の先に「京見嶺」と「足上山」が描かれており、足上山の向こうが杉坂。
また、この絵図では京見嶺と足上山の間に「長坂関」が描かれています。
森幸安による『山城國舊地圖』は、過去の京都の状況を考察し、絵図として再現したものであり、江戸時代中期当時の京都を描いた絵図ではありません。
興味深いことに、『山城國舊地圖』の作者は「峠」の字(和字)を使用せず、すべて「嶺」の漢字に置き換えており、いわゆる花脊峠(花背峠)を「花瀬嶺」としたり、和束の湯舩(湯船)から信楽へ出る柞峠を「秨嶺」としています。
したがって、『山城國舊地圖』に見える「京見嶺」は「京見峠」だと推測できます。

より後世、『明治改正京都名勝便覽圖會』(京都名勝便覧図会)の附図のように、この「京見嶺」を指すらしき「京見山」を描いた絵図もあります(舟形の上、長坂の先に描かれています)。
これは「京見嶺」の「嶺」が「たうげ」の意と気付かず、「山」として広まったのかもしれません。
『大菩薩峠』や『黒谷夜話』の中里介山が、1935年(昭和10年)に創刊した個人雑誌「峠」の巻頭に寄せた随筆『「峠」という字』で、「本来の漢字によれば『峠』は『嶺』である」と触れていますが、そこまでよく知られていたわけではないようです。
よって、京見峠を調査する際は、京見嶺や、そこから転じた可能性がある京見山についても慎重に調べる必要があります。

足上山について、『五畿内志』が引く『二水記』も確認してみると、「大永七年十一月十六日巳剋許柳本其外丹波國人引卒陣於張于長坂足上山其外龍安寺等山所々燒篝」といった記録が見えます。
したがって、『五畿内志』の「陳」は「陣」だと考えられます。
『二水記』には「長坂の足上山」と見えますが、「京見峠」の称は見えません。
大永7年は1527年、後に「両細川の乱」と呼ばれる戦乱の世、丹波国で勢力を広げた波多野清秀の子、柳本賢治は細川晴元や三好元長らと結び、室町幕府第12代将軍の足利義晴や、管領の細川高国を2月に京都から追い出し(桂川原の戦い)、「堺公方」足利義維を擁立しました。
近江に落ち延びた足利義晴は、後ろ盾である六角定頼や朝倉孝景の援軍を得て、10月には朝倉宗滴らと京都に攻め込みます(川勝寺口の戦い)。
これに対し、堺公方側の援軍として、11月に柳本勢が丹波の国人衆を率いて上洛し、陣を張ったことを記したのが上の話です。
柳本家の居城は丹波の神尾山城で、これは半国山の北東部、金輪寺さんの裏手にあたります(現在の住所地名だと亀岡市宮前町宮川のあたり)。
過去に瓜生山の記事 でも引用していますが、『二水記』は室町時代の公家、鷲尾隆康の日記。

現状、足上山はハイカーの間では全く知られていないに等しい呼称ですが、1881年(明治14年)の『京都名所案内圖會 坤』(京都名所案内図会)や、その後継となる1887年(明治20年)の『京都名所案内圖會』にも、

足上山

杉阪村ノ南ニアリ
山頭ヲ京見峠ト云フ

『京都名所案内圖會』

(これは『五畿内志』を引いただけの可能性もありますが、)ここでも「杉阪村の南」「山頭を京見峠という」とあります。
とある本では、京見峠の記事で、足上山については触れず、「『雍州府志』によると、長坂越の京見峠を山神峠と呼んだ」といった紹介がなされていましたが、『雍州府志』の原文に目を通すかぎり、山神峠は長尾越の京見峠(嵯峨の京見峠)を指しており、非常に紛らわしいですが当地のことではありません。

「足上山」の呼称については、『太平記』巻十七における「山門牒送南都事」の回で、大覚寺の宮(『太平記詳解』では、宮は後醍醐天皇の皇子である成良親王を指すとしていますが、この解釈はかなり疑わしい)を名目上の大将とし、各地の武士が合流した北丹波道の軍が「千餘騎京中ヲ足ノ下ニ直(見)下シテ京見峠嵐上(山)高雄栂尾ニ陣ヲトル」とあり、この「足下」に対する「足上」ではないかと(個人的には)考えています。
「京中を見下した」京見峠は、大覚寺や嵐山、高雄との位置関係から長尾越の京見峠を指すようにも思えますが、直前に「京中ヲ打通テ長坂ニ打上ル」と見えますので、これは長坂越の京見峠を指すようです。
ただし、『太平記』はあくまでも軍記物語であり、誤謬や混同がある可能性も否めません。
あるいは、「長坂を上ったのだから、長坂越に京見峠があるのだろう」と、『太平記』を読んだ後世の人が考え、それが広まったのかもしれません。
たとえば、元禄3年(1690年)の『名所都鳥』には「京見峠 嵯峨鳴瀧の西北に有。これは嵯峨仁和寺の西へ丹波より出る道なり。京を目の下に見るゆへの名也。」と見えますが、これは描写から長尾越の京見峠と断定できます。

京都の桜 法輪寺(嵐山虚空蔵)のカンザクラ(寒桜)と駒虎 2015年3月

京都 嵐山虚空蔵 法輪寺の寒桜と展望 未年の羊 嵯峨の長尾山

2015.04.03

「長尾」が清滝の古名であったり、仁和寺と関連付けられていたといった話は上の記事で。

また、長尾越の京見峠の呼称を昭和30年頃に長坂越の峠に移し、新たに京見峠と命名した、などという説も目にしますが、これは結論ありきで附会した謬説でしょう。
1938年(昭和13年)の『京都北山と丹波高原』にも「鷹ケ峯からは車道の迂餘曲折を避けて干束に下つて舊道を堂の庭に出る。堂の庭あたりは京都が一望の下に俯瞰されて景觀はまことに美しい。(中略)此處を京見峠とも云ふ。」と見えますので、過去の地誌や絵図の描写と照らし合わせても、「昭和30年頃の命名」はありえません。
国土地理院の地形図に「京見峠」の地名が反映されるようになった時期と混同されているように思えます。

京見峠が好展望地である(あった)ことは現地の解説板でも説明されており、その中に「眼下に船山や釈迦谷山(鷹峯)を、遥か前方には京都市中を一望できる」の一文があります。
釈迦谷山は住所としては北区大宮に所在する山で、北区鷹峯に所在する山ではないにもかかわらず、「釈迦谷山(鷹峯)」としている点に興味を惹かれます。
どうやら京都市では釈迦谷山を「広域地名としての鷹峯」ではなく、「山としての鷹峯(鷹ヶ峰)」と見なしているようです。
釈迦谷山(や、その周辺峰)を、いわゆる「鷹峯三山」の「天峯」と見なす方もいらっしゃるので、このあたりは見解が分かれます。
かつて、釈迦谷山のあたりは愛宕神社の旧跡があったと考えられており、『山城國舊地圖』にも「綿子池」(尺八池)の奥に「愛宕山」や「鷹峯山」が描かれています。

光悦寺 「鷹峯三山(鷹峰三山)」景勝地 京都市北区 2015年11月

光悦寺から「鷹峯三山」を望む 鷹峯(兀山)、鷲峯、天峯(桃山)

2015.12.16

「山としての鷹峯」や「天峯」がどこを指すかは諸説あり、詳しくは上の記事をご覧ください。
ただし、かなり長いです。

鞍馬石に刻まれた「京見峠」歌碑(島岡剣石歌碑)から府道を上ると、京都一周トレイル道標「北山68」を過ぎ、木々の合間に京都の街並みが見える展望地へ。
本記事の下部に表示される地理院地図では、「京見峠」碑の地点ではなく、この展望地を中心点として表示しておきます。
さらに上れば京見峠の最高点を過ぎ、前坂へ下る長坂峠(氷室別れ)に出ますが、両峠は距離も近く、長坂峠と京見峠が同一視されるケースもあるようです。
最新版でどのような扱いを受けているかは知りませんが、かつての『山と高原地図 京都北山1』では京見峠と長坂峠を明確に区別していました。
長坂峠は住所では北区西賀茂鑓磨岩にあたり、本記事の冒頭でも申し上げましたが、京見峠の周辺山域は北区鷹峯と西賀茂、大宮に跨ります。
長坂峠から前坂を下ると「杉坂の船水」を経て、小野道風をお祀りする道風神社が所在する北区杉阪道風町に入ります。
住所地名としては杉の表記ですが、地域を流れる川は杉川の表記。

府道31号西陣杉坂線の展望と夜景

10.1km展望の距離に京都タワーを望みたい

前置きが長くなりましたが、ここからが今回の記事の本題のようなものです。
現状、京見峠から京都タワーが見える地点はピンポイントに1ヶ所のみ、それも視界の端ぎりぎりで、京都タワーまでの直線距離は正確に10.0km。
「展望の日」の日付である10.1に合わせ、10.1km先に京都タワーを見通すためには、あと0.1kmほど離れる必要があります。
たかが100m、されど100m。
車道沿いに距離を稼ぐのは意外に難しく、現地周辺をうろうろ歩きまわって検証してみましたが、残念ながら現状では無理だとの結論に達しました。

この夜は京都タワーが18時過ぎからピンク色にライトアップされると告知されており、そろそろ開始時刻も近付いてきました。
どうするか悩みましたが、ひっきりなしに車が後ろを通行するので落ち着かないこともあり、京見峠の上から撮影するのは諦め、府道西陣杉坂線を鷹峯へ下ることに。
道中、府道の新バイパス(釈迦谷工区)が開けており、京都東山の南寄り山域や京都タワーを見通せる地点もあります。

念のために申し上げておきますが、比叡山四明岳の比叡ビュースポットから眺めれば、ちょうど10.1km先に京都タワーを見通すことができます。
今回は、それ以外の10.1kmポイントはないか、という話です。

釈迦谷工区から京都タワーと太陽が丘を

ピンク色にライトアップされた京都タワーを釈迦谷山から遠望 ピンクリボン京都2016
「ピンクリボン京都2016」でライトアップされた京都タワーを釈迦谷山から遠望する。
撮影地点から京都タワー(京都市下京区)まで8.4km。

狭隘道路として知られていた府道西陣杉坂線のうち、釈迦谷山の南側(釈迦谷工区)は整備され、2014年(平成26年)に新しいバイパスが通じて道幅も広がり、少しは通行が容易となりました。
京都市によると、このあたりは風致第一種地域や第一種自然風景保全地区及び遠景デザイン保全区域に指定されており、釈迦谷山を崩すにあたっては、自然環境や景観調和も考慮する必要があったそうです。

大文字山の向こうから昇る初日の出を釈迦谷山で望む 京都府京都市北区 2015年1月1日

大文字山から昇る初日の出を釈迦谷山の新バイパスから望む

2015.01.01

適当に釈迦谷山の斜面を登ると、大文字山や比叡山が見える地点もあり、そちらから過去に初日の出を撮影しています。
京都市建設局でも「鷹峯交差点の北側に位置する釈迦谷山からは京都市街を一望できます」としており、釈迦谷山が展望スポットであることを把握なさっているようです。
ただし、車道を普通に走っているだけでは、上の写真を撮影した地点くらいしか見晴らしのようなものは期待できません。
釈迦谷山の山頂も開けていないので注意が必要です。

京都市:主要府道 西陣杉坂線
http://www.city.kyoto.lg.jp/kensetu/page/0000076865.html (リンク切れ)

上のページで配布しているpdfファイル(西杉ニュース)に少し詳しく。

ピンク色にライトアップされた京都タワーの右遠方をよく見ると、ときどき話の種にしている「太陽が丘」(府立山城総合運動公園)の夜間照明や、そのさらに後方には宇治市折居の清掃工場の煙突らしき影が写っています。
夜間照明設備が2015年(平成27年)の春に竣工されて以降、その明るい光が遠くからでも目立つようになり、日没後に船岡山から京都タワーや伏見桃山城を眺望すると、桃山丘陵越しに太陽が丘の夜間照明の一部が見えるようになりました。
この夜間照明(とくに明るい照明)は古い写真では確認できません。

地図上に線を引いて確認してみると、上の写真の撮影地点と太陽が丘の間には、やはり同様に桃山丘陵が所在しています。
撮影地点~太陽が丘の陸上競技場~折居の清掃工場はほぼ一直線上に並んでおり、その少し右には伏見桃山城も見えるはずですが、上の写真では場所が分かりません(右端の山の影となり、ぎりぎり見えない?)。
いずれ、再確認してみる必要がありそうです。

赤い京都タワーと伏見桃山城のライトアップを府道西陣杉坂線から遠望 2016年10月

清水寺の三重塔と京都タワーを釈迦谷山から遠望 ピンクリボン

2016.10.10

伏見桃山城が見えるかどうか、後日、確認してきました。その話は上の記事に。

ピンクリボン2016の京都タワーと夜景を

府道西陣杉坂線の新バイパス釈迦谷工区(京見峠~鷹峯間)の夜景と京都タワー 2016年10月
府道西陣杉坂線の新バイパス釈迦谷工区(京見峠~鷹峯間)の夜景とピンクの京都タワー。

京都タワーの塔体がピンク色に照らされているのは「ピンクリボン京都2016」 に伴うライトアップで、今年は10月1日と2日の両日に行われました。
京都タワーに限らず、京都の他の施設も同様にピンク色にライトアップされますが、とくに清水寺さんでは10月31日まで仁王門、西門、三重塔が特別にライトアップされます(清水寺さんでは「ピンクイルミネーション点灯」とおっしゃっています)。
これは京都西山の山々や京都タワー展望室から見通せますので、興味がある方は確認してみてください。

上の夜景の写真では左~中央奥が伏見の稲荷山で、右奥が大岩山ですが、暗いのでさっぱり分かりませんね。
京都タワーの後方に名神高速道路を走る車の流れは明るく目立っています。

現在の京見峠付近からの眺望 京都の街並みや大文字山など 2016年4月

京都北山 釈迦谷山ハイク 鷹峯~西陣杉坂線~京見峠~秋葉神社

2016.05.16

日中に撮影した写真は上の記事に掲載しています。

府道西陣杉坂線の峠道は昔から自転車乗りの方に好まれており、颯爽と駆け抜ける方をお見掛けしましたが、快適な新バイパスが通じてからはさらに増えた印象を受けます。
この夜も鷹峯まで下山したら、ちょうど後ろから自転車が何台か私を追い抜いていきました。

関連記事 展望の日とピンクリボン京都2016

すべて同日の山行記録です。併せてご覧ください。

京見峠(堂ノ庭)(地理院 標準地図)

クリック(タップ)で「京見峠(堂ノ庭)」周辺の地図を表示
「京見峠(キョウミトウゲ)(きょうみとうげ)」
標高約380m前後
京都府京都市北区

ABOUTこの記事をかいた人

Maro@きょうのまなざし

京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!