京都北山 向山ハイキング 市原の送り火 橙色の京都タワー

昨日、つまり、2015年(平成27年)11月6日の夕暮れ時の話。
京都市左京区鞍馬二ノ瀬町と左京区静市市原町・静市野中町を分ける向山(むかいやま)をトワイライトハイキング。
地理院地図では破線路すら山頂まで通じていませんが、地権者さんらの協力もあって、京都一周トレイル北山コースの派生路にも組み込まれており、今では容易に登頂できる山です。
鞍馬川(貴船川、静原川)と賀茂川(鴨川)の合流地点にあたる山幸橋を起点として、関西電力さんの洛北発電所(古い地図では袖ヶ谷発電所)の付近から取り付くコースと、叡山電鉄さんの二ノ瀬駅(京都バスさんは「二の瀬」停留所)を起点として、守谷・富士神社さんから夜泣峠を経て登るコースがよく利用されますが、昨日は後者を利用して向山を登ることに。
悲運の皇子として知られる惟喬親王について学んでいた私としては、とくに懐かしいコースでもあり、馴染み深いコースでもあります。

二ノ瀬・市原 向山ハイキング

二ノ瀬から銀杏橋へ

鞍馬川に架かる二ノ瀬の銀杏橋(いちょうはし) イチョウの巨木 黄葉進む 2015年11月
鞍馬川に架かる二ノ瀬の銀杏橋(いちょうはし)越しに見るイチョウの巨木。黄葉進む。

この地点には古くから細い橋が架かっていましたが、今年、補強工事されたのを機に、新たに「銀杏橋」と命名されました。
銘板で「いちょうはし」の読みとするのは、他の橋と同様、「橋」を濁らせない慣例によるもので、口語表現では「いちょうばし」だと考えられます。
このイチョウ、なんでも樹齢400年だとかで、なかなか立派な樹。
まだまだ緑色の葉も残しており、隅々まで黄色く染まるのはもう少し先でしょうか。
かつては付近の山手にキツネノカミソリが数多く咲いていましたが、今でも残っているかは分かりません。

追記。
11月11日に府道38号から横目に眺めた感じでは全体的に黄色く色付いているように見えました。
写真は撮影していません。

守谷神社・富士神社

守谷神社・富士神社 惟喬親王社 紅葉 京都市左京区鞍馬二ノ瀬町 2015年11月
銀杏橋を渡り、叡山電鉄さんの線路を跨ぎ、守谷神社・富士神社さんにお参り。紅葉はじめ。

守谷神社は惟喬親王をお祀りしており、古くは惟喬親王社を称していましたが、後に守谷神社と改められ、惟喬親王の生母である紀静子をお祀りする富士神社と同じ地でお祀りされるようになりました。
雲ヶ畑(京都市北区雲ケ畑)の「一ノ瀬」(市ノ瀬)で暮らしていた惟喬親王が、夜泣峠を越えて移り住んだ地が「二ノ瀬」とも伝わります。
惟喬親王の足取りは多くの伝承と謎に包まれており、今となっては真実を知るすべはありませんが、京都北山のみならず、各地に伝説が残されているところを見ると、広い地域で敬われていたことが窺えます。
ゆかりの地として知られる、桟敷ヶ岳の山麓にあたる雲ヶ畑で8月に行われる「松上げ」は、愛宕山(愛宕神社)に対する献火の神事というだけではなく、惟喬親王に対する鎮魂の祭事でもあります。
そう考えると、守谷・富士神社さんで11月に行われる「お火焚き祭」も、あるいは同様の性質を持っていたのかもしれません。

二ノ瀬から夜泣峠へ つづら折りの山道 紅葉越しに比叡山を望む 2015年11月
夜泣峠へ続くつづら折りの山道からは紅葉越しに比叡山の姿が見えていました。
そろそろ向こうではカエデも紅葉の盛りを迎えるでしょう。

守谷・富士神社さんから夜泣峠へは急な登りが続きます。
高気圧の影響で今週の日中は暖かい日が続いており、昨日も日没が近いというのに山中は暑いくらいで、私としては珍しく汗をかいてしまいます。

追記。
2018年(平成30年)7月豪雨の影響で、本記事で私が利用した守谷・富士神社さん~夜泣峠間のコース(京都一周トレイル道標「北山49」~「北山50-1」間)が「土砂崩れによる山道崩落のため」通行止となっています。
かなり遠回りとなりますが、現地の指示に従い、守谷・富士神社さん~二ノ瀬ユリ~大岩分岐~夜泣峠~向山~山幸橋と迂回するのが無難です。
あるいは、大岩分岐から大岩へ下り、旧トレイルコース(東海自然歩道)から山幸橋へ。
いずれにせよ、故意に「通行止」のテープを越える行為は控えましょう。
追記終わり。

追記。
その後、「通行止」から「通行注意」の扱いとなりましたが、完全復旧には遠く、迂回路を通行される方はご注意を。
追記終わり。

惟喬親王ゆかりの夜泣峠

夜泣峠 東海自然歩道 京都一周トレイル北山コース 2015年11月
惟喬親王ゆかりの夜泣峠。
二ノ瀬から夜泣峠を経て大岩、山幸橋までは東海自然歩道と京都一周トレイルが重複する区間です。

夜泣峠から北の尾根に乗れば二ノ瀬ユリと合流し、貴船山を経て滝谷峠へ続きます。

魚谷山のヤマシャクヤク群生地 京都市北区 2016年4月

魚谷山のヤマシャクヤク 京都北山 柳谷峠~貴船山・二ノ瀬ユリ

2016.04.29

二ノ瀬ユリや貴船山は上の記事に。

夜泣峠の祠 惟喬親王を祀るか峠の地蔵を祀るか 2015年11月
夜泣峠の祠。北山で峠とえばお地蔵さんですが、こちらはおそらく……。

私は二ノ瀬(東)から夜泣峠へ登ってきました。
夜泣峠から西の谷を下れば大岩を経て山幸橋へ、これが従来の京都一周トレイルや東海自然歩道。
夜泣峠から南の尾根を登れば向山を経て山幸橋へ、これが京都一周トレイルの新コース。
もちろん、私は向山への道を取りました。

京都一周トレイル北山コース 向山を歩く

向山の紅葉、黄葉 京都北山 京都市左京区 2015年11月
向山の紅葉、黄葉。京都北山。

こちらは盛りには少し早く、山麓のイチョウともども、来週あたりが見頃かもしれません。
地形図に見える標高点439m峰のピークは踏まず、小さく東に巻いて向山の山頂を目指します。

夕日・西日を浴びる向山の尾根道 京都一周トレイル北山コース 2015年11月
夕日・西日を浴びて眩しい向山の尾根道。

京都一周トレイル北山コースでも向山あたりの整備を担当なさる方と、今年の9月に軽い山行をご一緒しましたが、その直前に他の方々と向山を整備登山したとおっしゃっていました。
それならばと久々に私も向山を訪れてみましたが、たしかに、守谷・富士神社さんから夜泣峠、向山に至るまで、大きな倒木や細かな枝なども片付けられており、なかなか綺麗で歩きやすいハイキングコースとなっていました。

向山の山頂 標高426m 京都一周トレイル道標「北山51-3」 2015年11月
向山の山頂。標高426m。京都一周トレイル道標「北山51-3」。

道標が頂上を示していますが、現状、向山の山頂には目立った山名標が設置されていません。
過去に撮影した写真には、その時々に応じて異なる山名標が写っていることから、定期的に撤去されているのかもしれません。
あるいは北の439m峰のほうが高いことも影響しているのでしょうか。

日没の少し前に登頂。
向山の山頂は南向きが僅かに開けています。
昨日の夕暮れ時は遠くまで明瞭に見えるような条件ではなかったものの、京都東山の神社仏閣などが見えていました。

京都市左京区 向山の展望、眺望

京都東山を遠望

向山から京都東山、平安神宮大鳥居、将軍塚青龍殿、清水寺、祇園閣などを遠望 2015年11月
向山から京都東山、平安神宮さんの大鳥居、青蓮院さんの将軍塚青龍殿、知恩院さん、清水寺さんの三重塔、大雲院さんの祇園閣などを遠望する。
撮影地点から清水山(京都市東山区)まで11.7km。

夕日を浴びる東山の街並みや山々。
清水寺さんの後方に阿弥陀ヶ峰や西野山(二石山)が写っており、その遠方には南山城や奈良の山々がうっすらと見えていました。
昨日の霞み方では望むべくもありませんが、計算上、この向きの遥か彼方には台高山脈や大峰山脈まで一望できる、それこそ日出ヶ岳(大台ヶ原山)や八経ヶ岳まで見通せます。
ただし、向山の山頂は開けている方角が限られており、眼下の京都に対して広い展望が期待できるような山ではありません。

ふと気付くとこめかみが痒く。
あたりを見渡してみると、11月に入っているというのにヤブカ(ヒトスジシマカ)にまとわりつかれていました。
17時から点灯が予定されているライトアップを撮影し、さっさと退散することにします。

…とくに記録として残していませんが、つい先日も別の山で似たような出来事が起きました。
その時は1匹や2匹ではなく、それこそ何十匹という数のヤブカにたかられましたが、11月に入ってからヤブカが大量に湧くというのも。

京都タワーを遠望

向山からオレンジ色にライトアップされた京都タワーと烏丸通、京都御苑を遠望 2015年11月
向山からオレンジ色にライトアップされた京都タワーと烏丸通、京都御苑を遠望する。
撮影地点から京都タワー(京都市下京区)まで12.0km。

まだ明るいため、やや分かりにくいですが、京都タワーの塔体が橙色に照らされています。
これは「オレンジリボン運動」(児童虐待防止啓発事業)に合わせたライトアップです。

向山から見て京都タワーはおおむね真南にあたるため、烏丸通を行き交う車の流れが高所から見通せます。
先日の青緑と白の2色のような、東面と西面で別々の色にライトアップされる夜は綺麗に分かれて見えるでしょう。

手前に見えている広い緑地は京都御苑や京都御所です。
向山から京都御苑が見えるということは、逆もまたしかりで、京都御苑から向山も見えることになります。

いわゆる「京都五山送り火」は、かつては五山六字ではなく、さらに多くの山野に字跡が描かれ、その火床に火がともされていました。
そのうち、「い」の字(「いろは」順の「い」だから「仮名がしら」=「かながしら」とも)の送り火が向山の南中腹で行われていたとする説がありますが、京都御苑や東山のあたりから「い」の字の一部が見えていた、かもしれませんね。

市原の向山で「い」の送り火が点されていた?

「『い』の送り火は向山」というのは、あくまでもそういう説もある、程度の話でしたが、いつの間にやら、それが確定した歴史的事実であるかのように語られ始めているようで、これは少し危ういと感じています。
市原で「い」の送り火をともしていたことは江戸時代の史料(享保2年(1717年)刊行の『諸国年中行事』)に記されており、同じく江戸時代の京都絵図では二ノ瀬の東の山に「い」の字が描かれています。
ところが、明治時代の半ば以降に刊行された絵図からは「い」の字が揃って姿を消しており、惜しいかな、その時期に「い」の送り火が廃れたと考えられます。

「い」の字が描かれた絵図では、いずれも向山とは見なせない山(二ノ瀬の東の山)に「い」の字が描かれており、他の山で送り火がともされていた可能性も示しています。
この謎を解き明かせないかぎり、絵図研究の観点では「『い』の送り火は向山」と断定するのは難しいでしょう。
又聞きや口碑(口伝)など、別の観点から「『い』の送り火は向山」だと唱えることはできますが、絵図に見える「い」の位置をもって、これこそ向山で送り火がともされていた証拠だと主張する方まで現れているようで、これは適切とはいえません。
もっとも、ハイカーの仲間うちで京都一周トレイルや向山の話が出た際、話の種として、「昔、あの山(向山)では送り火が行われてたという話があるのですよ」なんてことは私も申し上げており、向山説じたいを否定するものではありません。
向山は古くは背向山とも呼ばれていたそうで、市原が背にするにふさわしい山でもあります。
ただし、向山だと断定するためには、それこそ多くの検証を積み重ねる必要があります(過去に他の山で行われていた可能性を検討する、向山の火床を発掘する、絵図が間違っていることを立証する、伝聞ではなく直接的に見たり関わった人間から聞き取りを行う、向山で行われていたことが分かる写真や絵を見付ける、など)。

京都市左京区役所:市原ハモハ踊・鉄扇
https://www.city.kyoto.lg.jp/sakyo/page/0000024550.html

京都市では「近くの山で送り火が点火された」程度の記述に留めています。

暑さと急登で少しばかり足取りが重くなり、向山の登りは1時間近く費やしましたが、下りは30分未満で二ノ瀬まで戻ることができました。
二ノ瀬といえば、いわゆる「二ノ瀬ユリ」の起点終点でもありますが、滝谷峠から二ノ瀬ユリの下りについては、近年、強引に貴船口駅の目前へ直下するコースが出来ており(急な崖道のため、山歩きに慣れていらっしゃる方でないと危険です)、私もそのコースを利用するようになったため、夜泣峠や二ノ瀬を訪れる機会が減っています。
他の方から向山を整備したというお話を伺い、久々に二ノ瀬から向山を登りましたが、新たな「銀杏橋」も渡ることができ、やや早いながらも、紅葉や落ち葉が美しい静かな里山歩きを楽しむことができました。
いずれ、空気が澄んだ好条件の日にも向山を訪れたいものですが、そういった日は視界が広い好展望の山を登りたいという気持ちが強くなるでしょうから、なかなか悩みどころです。

以上、2015年11月の話。

地誌・絵図に見る市原の送り火 「い」の字

記事本文でも申し上げたように、「い」の送り火がともされていた山=向山と断定するのは危ういと(あくまでも個人的には)感じています。
以下にいくつかの史料・参考文献等を明示・提示しておきますので、興味がある方は御一読ください。
少なくとも、現存する史料や絵図などから、向山で「い」の送り火がともされていた、という話は読み取れません。

諸国年中行事

享保2年(1717年)の『諸国年中行事』の7月16日の段には、

聖霊の送り火、酉のこく。雨天なる時は翌日なり。大の字浄土寺村の上如意が嶽、妙法の字松が崎村、いの字市原、釣舟西賀茂、鳥井西山、一の字鳴滝の辺、此外諸方の山々に火をともすなり。中にも如意嶽の大文字を最上とす(後略
『諸国年中行事』

と見えます。

かつては市原や鳴滝でも点火されていた送り火について触れた数少ない史料です。
割愛していますが、この続きには大文字の火床の規模について詳細に述べており、当時から大文字山の字跡が目立って大きかったことが伝わります。
『諸国年中行事』はよく引き合いに出されるようですが、サイズ感を今に伝える「中にも如意嶽の大文字を最上とす」を端折ると成り立ちません。
そして、この部分まで正しく引用している人を、インターネット上では見たことがありません。

江戸時代~明治時代の「京都絵図」

「い」の字が描かれた京都絵図(京絵図)のうち、インターネット上で確認できる絵図として、

『京町絵図細見大成 天保改正』 天保2年(1831年)
https://www.ris.ac.jp/library/kichou/lime/h034.html
立正大学図書館 田中啓爾文庫貴重資料画像

『京都御絵図 文久新精』 文久2年(1862年)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko06/bunko06_01921_0013/index.html
早稲田大学図書館 古典籍総合データベース

『新増細見京絵図大全 文久改正』 文久2年(1862年)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko01/bunko01_01859/index.html
早稲田大学図書館 古典籍総合データベース

『京都指掌図 文久改正』 文久2年(1862年)
https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/map_detail.php?id=002813426
国際日本文化研究センター

『新選京絵図 文久改正』 文久3年(1863年)
https://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/image/PB/arc/zoomify/arcBK/arcBK03-0118/arcBK03-0118.html
立命館大学アート・リサーチセンター

『大成京細見絵図』 慶應4年(1868年)
https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/map_detail.php?id=002863066
国際日本文化研究センター

『精撰増補 京都詳覧図』 1878年(明治11年)
https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/map_detail.php?id=002147924
国際日本文化研究センター

などがありますが、いずれも向山とは大きく異なる位置に「い」の字が描かれています。
これより古い絵図に描かれていないからといって、それ以前に市原で送り火がともされなかったとは断定できず、市原の送り火は京の町から見えにくい、あるいは見えないため、意図的に描かれていなかった可能性や、絵図の作製者から存在を知られていなかった可能性もあります。
明治20年代以降に描かれた絵図からは「い」の字が姿を消します。

向山は二ノ瀬の西に所在する山であるにもかかわらず、いずれの絵図でも、「い」の字が二ノ瀬の東に描かれているのは不自然だと考えています。
絵図はあくまでも絵図であって、精密な地図ではなく、正確な所在地を示しているとはいえませんが、足かけ120年以上、揃いも揃って向山とは異なる位置に描かれているのも奇妙な話です。
とくに、『新選京絵図』では、貴布根(貴船)の下、二のせ(二ノ瀬)の左、西進する鞍馬川の上に向山と思わしき山の姿が描かれているにもかかわらず、別の山に「い」の字が描かれています。
鞍馬川と合流後の岩ヤ川(賀茂川)、ひらぎの(柊野)の右に描かれているのが神山(こうやま)の山姿でしょう。

『平安城鳳闕之圖 平安城京之圖 同雒外之圖』
https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/map_detail.php?id=002813293
国際日本文化研究センター

製作年代が明らかでないのが惜しいですが、『平安城雒外之圖』(平安城洛外之図)にも「大」「鳥居形」「舟形」「妙」「法」「い」の字跡が描かれています。
ただし、中央に揃って描かれているため、具体的にどの山を指すかは分かりません。

念のために申し上げておきますが、私は絵図に描かれた配置が絶対的に正しいと考えているわけではありません。
絵図をもって市原の向山で送り火がともされていた証拠とはできない、と申し上げているだけです。
あるいは、当初は別の山でともされていたが、後に向山に移された可能性なども否定できません。

『京都府愛宕郡村志』に見る向山

1911年(明治44年)の『京都府愛宕郡村志』の「静市野村志」に、

「向山」
村の北にあり周回一里嶺上より四分し其南本村に屬す樹木多し渓水一條市原川に入る

と見えますが、「い」の送り火については触れておらず、「風俗民情」でも「別に記すべき程の事なし」としています。
明治44年でしたら、まだまだ送り火の記憶をお持ちの方々もいらっしゃったはずで、政府事業による公的な村誌(地誌)に「記すべき程の事なし」という扱いを受けるものでしょうか(受けないとも断定できません)。
この村志については、他地域と同様であれば、稿本の時点では地元の方による記録だと考えられます。

『京都北山と丹波高原』に見る向山

1944年(昭和19年)の『京都北山と丹波高原』(改訂版)に、

「夜泣峠と向山」
(前略)
この峠から北へも南へも尾根道がある。
南へ辿れば向山といふ一丘を經て市原に下る。この道はよく踏まれて展望もかなりよい。
『京都北山と丹波高原』

と見えます。

前略していますが、「この峠」は夜泣峠を指しており、当時、夜泣峠から向山を経て市原へ下山するコースはよく歩かれていたこと、見晴らしが良かったことが伝わります。
京都において、戦後に植林が進むまでは展望が開けた山は珍しくなかったようですが、向山については「い」の火床の跡だったから「展望もかなりよい」状態だったのかもしれません。
『京都北山と丹波高原』の著者である森本次男さんは1899年(明治32年)生まれ、市立京都二商の先生で、京都の山や地理にお詳しい方でしたが、向山で送り火がともされていた、といった話は見えません。
もし、当時、「向山で『い』の送り火がともされていた」という話が広く知れ渡っていたのでしたら、同書でまったく触れないというのも考えにくい話です。

戦後の研究

京都の郷土史家として知られる田中緑紅さんは、1957年(昭和32年)の『京の送り火 大文字』で、「『い』の送り火を見た人がいる」といったことを述べていらっしゃいます。
1957年の時点であれば、幼少期に「い」の送り火をご覧になった方がご存命でもおかしくはありません。
田中さんは1891年(明治24年)生まれ、京都育ちですが、ご自身では「い」の送り火を見ていらっしゃいません。
また、どの山で「い」の送り火がともされていたかの特定にも至っていらっしゃいません。

第三者として、「い」の送り火と向山を最初に結び付けたのは、私が知るかぎりでは、京都の歴史家、登山家である澤潔さんです。
1989年(平成元年)の『京都 北山を歩く1』で、かつて、市原野(市原の南東部)が葬送の地であったことを踏まえ、その地を照らせる山として、

(「い」の字の精霊送り火が~)おそらく市原西北にある向山(四二八メートル)の南斜面であろうと推測する。
『京都 北山を歩く1』

と述べていらっしゃいます。
送り火の本質はお盆の行事(盂蘭盆会)であり、京都の街から眺める観光行事ではありません。
蓮台野を照らす左大文字、化野を照らす鳥居形と同様、「い」の送り火も市原野を照らす(送る)ことが目的だったのでは、という推察です。

澤さんは1912年(明治45年)生まれですから、ご自身で「い」の送り火をご覧になったわけではなく、この本が発行された1989年には、実際に「い」の送り火をご覧になったうえで、かつ、正確な記憶をお持ちの方もほぼいらっしゃらないでしょう。
登山家である氏も山中で火床の痕跡などを見付けたわけではなく、あくまでも推測によるものです。
また、絵図に見える「い」の字と向山の位置の違いについても考慮していません。
この本はハイカーの間ではよく読まれているため、向山で送り火がともされていた、かもしれない、という話は私も存じておりました。

『京都 北山を歩く1』では向山の標高を428mとしています。
陸地測量部の時代から向山の標高点は428mの時代が長く続いていましたが、新版の地理院地図では標高点426m。
現状では精度が高いと考えられる「基盤地図情報(数値標高モデル)5mメッシュ」では約412m(→その後の更新で約422mに)。
手元にある1994年版、2001年版「山と高原地図」の「京都北山1」では標高428m。
この頃は向山の東南東にあたる静市野中町の「冨士神社」……、隣接する鞍馬二ノ瀬町の「富士神社」とは異なり、「うかんむり」ではなく、「わかんむり」の「冨」の字の冨士神社さんの付近から山頂まで破線の登山道が付いています。
地理院地図では今も神社の地図記号が見えますが、他の地図からは姿を消しているようです。

追記

2018年(平成30年)12月、追記。
「い」の送り火がともされていた山について、今年になり、向山以外の山ではないかと考える方々が他にも出てきたらしいと聞き及んでいます。
どうやら、二ノ瀬の東の山(竜王岳の南西稜で採石場付近の山)を地元では安養寺山と呼んだらしく、「い」の字跡はそちらに描かれていた可能性があるとのこと。
私は2013年(平成25年)にはSNS上で「絵図に見える『い』の字の位置と向山の所在地の『ずれ』」について指摘しており、鞍馬川より東で「い」の送り火がともされていた可能性がある、との考えを公表しています。
本記事も2015年(平成27年)に執筆・公開しており、その方々の後追いで記事を書いたわけではないので、念のため。
この件については、私が言い出さなければ、この観点(絵図とのずれ)から、「い」の字がともされていたのはどの山であるかと考察する人間は出なかっただろうと考えています。
今後の調査を見守りたいと思います。

本件で追記。
かねてより申し上げていた当方の指摘や、本記事の内容が認められる結果となったようでなによりです。

向山(地理院 標準地図)

クリック(タップ)で「向山」周辺の地図を表示
「向山(ムカイヤマ)(むかいやま)」
標高426m
京都府京都市左京区(山体は北区に跨る)

ABOUTこの記事をかいた人

Maro@きょうのまなざし

京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!