京都の寅年の山 虎ノ背山(虎山、虎の背山) 干支の山

京都の干支の山(十二支の山)をリスト化する予定でしたが、すべてをまとめるには時間が足りそうにないので、いくつか個別に掲載しておきます。
とくに、京都市内にも「寅年の干支の山」があることはあまり知られていないようですので、そちらを紹介。
今年が2019年(平成31年)の亥年ですので、次の寅年は2022年でしょうか。

寅年の山

虎ノ背山(虎山) 京都市左京区松ケ崎の寅の山

京都市左京区松ケ崎に「虎ノ背山」(虎の背山)の山名が伝わります。
これは「京都五山送り火」の「妙法」の山(松ヶ崎西山、東山)を含めた宝が池の南に連なる一帯の総称だと考えられます。

1911年(明治44年)の『京都府愛宕郡村志』の「松ヶ崎村志」に、

山岳
西北上加茂の山巒起伏高低して東に出で高野川に盡く山勢東南に亘る高約三百尺を出でず総稱して虎ノ脊山といふ蓋し其形に因るなるべし其内にて北西の峯を高野川に臨む所巉岩斷崕恠松多く景色頗佳なり

『京都府愛宕郡村志』

と見え、「虎ノ背山は総称」で、呼称の由来は「(思うに)形によるのだろう」としています。
この描写を見るかぎり、山域の西限(北西限)は上賀茂に続く深泥池のあたりで、東限(南東限)は高野川となります。
大きな観点では松ヶ崎の山々から上賀茂の山々まで連なっているといえますが、ケシ山(計志山)や大田神社さんの裏山(大田山)まで足を延ばしてしまうと、これは上賀茂村の山となるでしょう。
難しい言い回しが多いですが、「虎ノ脊山の内にて、北西の峰を高野川に臨む所、巉岩(ざんがん)(切り立った岩山)、斷崕(だんがい)(断崖)、恠松(かいしょう)(風変わりな樹形の松)が多く、景色がすこぶる良い」とあります。
これは高野川から見て北西の峰の景観が良いという意味か、「虎ノ背山」でも北西の峰からの眺望が良いという意味か分かりませんが、後者の意であれば、いわゆる「狐子坂」(狐坂)の東側の展望地が条件を満たしており、断崖の岩場の上から遠くまで見晴らせます。

虎ノ背山 松ヶ崎狐坂 夜景 寅年の山

虎ノ背山(松ヶ崎狐坂)の夜景。寅年の山。岩上神社さんの上。

切り立った岩場の上の展望地から撮影しています。
左に京都タワーと、その後方に生駒山の山上の照明が、中央やや右寄りに八幡の鳩ヶ峰(男山)が、右遠方に大阪方面の街明かりが写っていますが、広角では分かりにくいでしょうか。
この展望地は「虎ノ背山」の山域では「林山」(松ヶ崎林山)の西端にあたり、山麓には岩上神社さんが所在します。

岩上神社
新宮神社の西、狐坂・宝ヶ池へ至る林山の西麓に西面して鎮座。
社殿を設けず天然の岩を神石とするところからその名がつけられた。この地域には露出した岩の山肌が多く、松樹茂る所であり、古くから清浄の地として知られるが、当社も林山を背景とした古代祭祀の磐座信仰の地であったと推定される。

『京都市の地名』

1979年(昭和54年)の『京都市の地名』に目を通してみると、「この地域には露出した岩の山肌が多く、松樹茂る所であり」と、過去の地誌の描写を引用したと思わしき一文が見えます。
もちろん、昔と今では状況が異なるでしょうが、『京都府愛宕郡村志』の描写や『京都市の地名』の解釈、それに現地の状況を見るかぎり、現代において「景色がすこぶる良い」のは当地の付近と見なしても良いでしょう。

城山
村の東北の山の名なり城趾の如き所あり天文の亂に砦を構へし所といふ

經冢 數珠冢 御輿冢
虎山の内にあり今僅に遺れり口碑に一村改宗の時舊來用ひし物を埋めし所なりといふ或は古墳にやあらん

古墳
虎ノ脊山の内城山の上に四個あり其頂上に在るものは現存し隆然たる圓塚にて周圍三十餘間外に濠の在し如き窪地之を周れり今は陸軍省標杭其上に立てり西山に五個東山に三個皆小にて周濠の痕なし且多く發掘せし者の如し明治三十四年妙泉寺大黒堂を改築する時山土を取るとて地を堀りしに古墳に掘當れり山石にて石窟を築き其口南に向ふ上は大平石三枚を蓋とす素燒の皿一枚の破れしものあり其皿に菊の紋の如き模様ありしといふ又他の古墳の側より壺の如き物を取り來りしに皆破れりといふを聞き其破片を見るに埴輪なり愛宕郡に埴輪古墳の無きは嘗て恠みしが果して之有るを知るべし之邊は鴨縣主の住せし所に近ければ或は其人の墳墓にやあらん本郡にも埴輪古墳有るは大に考證の資となるべきものなり

『京都府愛宕郡村志』

経塚、数珠塚、御輿塚(神輿塚)の山は「ドンドコ山」と呼ばれているそうで、これは新宮神社さんや七面宮さん(七面大天女宮)、涌泉寺さんの裏山を指しています。
「虎山の内」としていますが、前後の描写を見るかぎり、「虎山の内」は「虎ノ背山の内」と同義だと考えて差し支えないでしょう。
俗に「虎山」と呼んだケースもあるのか、単純に「虎ノ背山」の誤りであるのか、興味深いです。
また、「城山」(松ヶ崎城山)と「西山」(松ヶ崎西山)、「東山」(松ヶ崎東山)を区別していることが分かります。
愛宕郡のみならず、京都市内でも北部寄りの地域から埴輪(はにわ)の発掘例は珍しいです。

松ヶ崎東山(五山送り火「法」の山)から夜景を一望する 京都市左京区 2015年3月

松ヶ崎東山(妙法)登山 あべのハルカス、京都の夜景を望む

2015.03.16

城山(松ヶ崎城跡の山)は「虎ノ背山」では東端(南東端)の山域にあたり、先に述べた「高野川から見て北西の峰」といえるでしょうか。
こちらも松林の中に岩場があり、その上からちょっとした見晴らしが期待できます。
当地については上の記事で取り上げています。

また、「古墳」に「妙泉寺大黒堂」と見えますが、これは「妙圓寺大黒堂」の誤りだと考えられます。
『京都府愛宕郡村志』でも、「寺院」では正しく「妙圓寺」と紹介しています。
「妙圓寺」(妙円寺)であれば、いわゆる松ヶ崎大黒天さんのことで、京都五山送り火「法」の字跡で知られる「東山」の山麓にあたります。
『京都府愛宕郡村志』が記された明治時代には、松ヶ崎に「妙泉寺」というお寺さんが別に存在していましたが、1918年(大正7年)に「本涌寺」というお寺さんと合わさり、現在の涌泉寺さんが成立しました。
「妙圓寺」と「妙泉寺」から生じた、ちょっとした書き間違いでしょう。
どの史料で見たか分からなくなってしまいましたが、虎ノ背山か虎背山は松ヶ崎に所在した寺院の山号だったらしいとも。

法輪寺の駒虎 京都市西京区嵐山の虚空蔵山

虚空蔵山の法輪寺 駒虎と寒桜(カンザクラ) 十三まいり 嵐山

駒虎と寒桜(カンザクラ)。法輪寺さん。向かって右の虎が「阿」で、左の牛が「吽」。
今の季節、十三まいりで知られる嵐山のお寺さんです。

法輪寺さんの本尊である虚空蔵菩薩さんは丑年と寅年の守護本尊で、それにまつわるのでしょう、境内にはウシさんの像とトラさんの像がいらっしゃいます。
このお寺さんは「虚空蔵山」なる山の中腹に所在しており、住所地名も京都市西京区嵐山虚空蔵山(と嵐山中尾下町の境)となっています。

嵐山虚空蔵 法輪寺の羊像? 山羊像? に未年最後のご挨拶 2015年12月

未年の嵐山虚空蔵から申年の阿弥陀ヶ峰を望む 2015年12月

2016.01.06

この件は上の記事でも触れていますが、虚空蔵山の山姿を撮影したとされる古い写真を基に検討するかぎり、

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虚空蔵山(推定)周辺の地図を表示。

地図では上の小ピークが山頂だと考えられます。
呼称としては適切だと考えられますが、その南東の松尾山(三角点275.6m)と近すぎるため、山名として廃れてしまったのかもしれません。
この虚空蔵山(推定)と松尾山の間は見晴らしが良く、(山としての)嵐山界隈では優れた好展望地となっています。
また、当時の山上ヶ峰(北松尾山)(三角点482.2m)は松尾村の入会山(惣山)だったらしく、同じ写真では、現在の山上ヶ峰を指して「松尾村総山」(総山=惣山)としています。

当地に限らず、「虚空蔵山」を称する山は、その由来を虚空蔵菩薩に求めるかぎり、丑年や寅年と縁がある山だと見なせるでしょう。

虎山 京丹後市弥栄町の寅の山(地名)

京都府北部、いわゆる丹後地域、京丹後市弥栄町黒部(かつての竹野郡弥栄町大字黒部)に「虎山」の小字があります。

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京丹後市弥栄町黒部に所在する福昌寺さん周辺の地図を表示。

上の地図で中心座標に設定している福昌寺さんあたりの小字が虎山です。
あくまでも小字(地名)であり、いわゆるピーク(頂)を持つ「山」であるかどうかは分かりかねますが、裏山のあたりを指すのかもしれません。
私自身、峰山に近い山や海には何度か訪れており、久美浜から網野を経て経ヶ岬まで歩いたこともありますが、この地そのものは未訪ですので、機会があれば現地の様子も拝見してみたいものです。

比叡山 大津市、京都市左京区の丑寅の山

比叡山
斯ノ山 王城之艮岳也

『雍州府志』

貞享3年(1686年)に刊行された『雍州府志』では、いわゆる比叡山を「王城の艮岳なり」、すなわち、平安京の丑寅(うしとら)の方角にある艮岳(ごんがく)としています。
比叡山が都の北東に所在するというのは強く意識されていたようで、舞鶴の北東に所在する「若狭富士」青葉山も、京都から舞鶴鎮守府(京都を含む第四海軍区鎮守府)へ赴いた兵隊さんから比叡山にたとえられていました。
これは比叡山も青葉山も共に東西二峰から成る双耳峰であることも影響しているかもしれません。
山城の鷲峰山も平城京の丑寅の方角にある山と扱われていたようですが、遠目には空鉢峰と釈迦岳の双耳峰に見えます。

艮嶺 ウシトラタウゲ
京都府山城國愛宕郡なる比叡山の別稱なり

『帝國地名大辭典』

1902年(明治35年)の『帝國地名大辭典』(帝国地名大辞典)では上のように見えます。
近年、このような呼び方はしないように思いますが、明治時代頃には「艮嶺(うしとらとうげ)」とも呼ばれていたのでしょう。
山上に延暦寺さんが所在することなどから、比叡山は滋賀県の山(近江の山)と見なされるケースも珍しくありませんが、この辞典では(艮との関係か)京都府の山としていますね。
現在では大比叡の山頂が滋賀県と京都府を分けます。

ピンク色にライトアップされた京都タワーを釈迦谷山から遠望 ピンクリボン京都2016

京見峠と足上山 府道西陣杉坂線の夜景とピンクの京都タワー

2016.10.04

「嶺(たうげ)」は「峠(たうげ)」だという話は上の記事で。

艮山 綴喜郡井手町、宇治田原町の丑寅の山

京都府南部、いわゆる山城地域、綴喜郡井手町と宇治田原町の町境に艮山(うしとら山)が所在します。
牛と虎の山で、その山名にちなみ、過去、丑年の終わりに他の方と訪れました。
地理院地図(地形図)に山名が表示されることもあり、京都府下に所在する寅年(や丑年)に縁ある山としては知名度が高い部類でしょう。

紅葉する大正池 ため池百選 2009年11月末

艮山~大正池 丑寅干支の山 「点の記」に見る京都の山の俗称

2019.02.24

艮山については上の記事で。

以上、京都の「寅年の山」の話でした。
寅年か、せめて丑年に書けばよいのでは、と思われそう(笑

京都の寅年のお寺さんとしてよく知られている鞍馬寺さんについては、今回の記事では取り上げていませんが、

京都の金毘羅山から天王山の向こうに大阪の「あべのハルカス」を遠望 2014年5月

大原の金毘羅山から「あべのハルカス」を遠望 神代文字碑

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鞍馬寺と並び、京都における毘沙門天信仰の寺として(かつては)知られていた、今は失われし江文寺の話は上の記事に。
そちらで鞍馬山や信貴山についても少し触れています。
もし、この江文寺が現存していれば、金毘羅山(江文山)も私から「寅年の山」扱いされていた可能性があるかもしれませんね。

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上の記事で、京都市内では珍しい子年の山についても触れていますので、興味が湧いた方は合わせてご一読を。
いわゆる「きつね坂」の漢字表記は「狐子坂」か「狐坂」かについても少しだけ述べています。

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上の記事でも虎ノ背山の西端域(と考えられる山域)について触れています。

最近の主な更新・修正

法輪寺の虎(トラ) 2022年の寅年に向けて

最近の更新・修正状況 2021年~2025年 (情報募集中)

2021.12.25

近年の更新については、上の記事に移行しました。

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名勝「宇治山」の選定理由に沿った内容といえるでしょう。

ABOUTこの記事をかいた人

Maro@きょうのまなざし

京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!