光悦寺から「鷹峯三山」を望む 鷹峯(兀山)、鷲峯、天峯(桃山)

すでに1ヶ月前の話となりましたが、2015年(平成27年)11月16日の話。
お昼頃に少しだけ時間が空いたので、紅葉の様子を見に鷹峯へ。
今年は京都盆地では紅葉の進みが遅れ、色付きそのものもよくない印象を受けましたが、北部の山では早くに葉を落としてしまい、少しの緯度や標高の違いで紅葉の展開に大きな差が出ました。
紅葉の名所として知られる千束の吟松寺さんでは、この日の時点ですでに多くの葉を落としており、今秋は寂しいかぎり。

光悦寺の紅葉 京都鷹峯

鷹峯 光悦寺の紅葉 京都市北区 2015年11月
鷹峯の光悦寺さんの紅葉。

本阿弥光悦ゆかりの光悦寺さんについては当方が語るまでもないでしょうが、少しだけ。
光悦は安土桃山時代後期~江戸時代前期の芸術家・能書家であり、また、熱心な日蓮宗信徒でもありました。
美では「琳派」の創始者の一人として知られ、書では「寛永の三筆」として名が挙がる、もはや伝説的ともいえる芸術界の巨匠です。
光悦は大坂夏の陣の直後、元和元年(1615年)に徳川家康から鷹峯の地を拝領し、他の日蓮宗信徒や一族を引き連れて移住しました。
その屋敷は光悦の没後に「大虚山」を山号とする日蓮宗の寺となり、光悦の名を寺名として今に伝えます。
1920年(大正9年)に発行された、鷹峯の住人さんによる聞き取り史料『光悦談叢』には、当時の光悦寺住職さんの談として、「光悦なる人は觀音の化身であります。觀世音が妙秀の母體を假りて光悦となつて出現せされ美術工藝や宗教上に衆生を益し後世を感化しやうとせられたに他ならぬ」とあり、その当時、光悦さんは観音様の化身として敬われていたことが窺えますね。
この話に「観世音が妙秀の母体を仮りて(借りて)~」と名前が見える妙秀は光悦の母で、才女として知られていました。

「寛永の三筆」

余談。
同時代の書に優れた近衛信尹(三藐院)、本阿弥光悦、松花堂昭乗の三傑を、俗に「寛永の三筆」と称します。
「寛永の三筆」の呼称が成立したのは明治時代以降とされ [1]、それまでは「京都の三筆」や、単純に「(時代や人物が分かる形で)三筆」などと呼んでいたようです。
江戸時代後期の寛政年間に成立した『續近世畸人傳』(続近世畸人伝)によると、尊純法親王 [2]を含めて「四筆」と数えることもある、あるいは三筆は法親王の御弟子という説もあるが、実否を知らず、としています。
四筆のくだりは別として、個人的に、弟子云々のくだりは青蓮院流(尊円流)から尊朝流を起こした尊朝法親王 [3]と混同している可能性が高いと考えています。

光悦は青蓮院流や、そこから派生した尊朝流や近衛流の影響を受けながら、「三蹟」小野道風の上代様を学び、その妙境を得られました。
近衛信尹は近衛前久の子で、はじめ叔父の道澄 [4]に書を学び、青蓮院流や近衛流 [5]から、後世に三藐院流と呼ばれる一風を起こしました。
信尹は「五山送り火」如意ヶ嶽(左京区の大文字山)の「大」の字跡を描いた筆者の候補者としても名が挙がります [6]
また、いわゆる「近江八景」の選定者とされます [7]
松花堂昭乗は滝本坊昭乗や式部卿、あるいは惺々翁とも。
男山の石清水八幡宮滝本坊の僧侶で、はじめ尊朝法親王と近衛龍山公(近衛前久)に書を学び、後に筆法工夫を凝らして一流を成しました。
それを俗に滝本流などと呼びます。

これは後世の多くの本に見えるエピソードですが、「今の世で能筆というのは誰か」と近衛信尹から問われた光悦は、「まず、さて次は君(信尹)、次は八幡の坊(昭乗)なり」と答えた、信尹から、最初の「まず」とは誰のことかと聞かれた光悦は「恐れながら私なり」と答えた、といった話があります。
おそらくは後世の創作でしょうが、光悦らしいと好まれていました。

鷹峯三山の景勝地 光悦寺

光悦寺 「鷹峯三山(鷹峰三山)」景勝地 京都市北区 2015年11月
いわゆる「鷹峯三山」の景勝地として知られる光悦寺さん。展望地からの眺め。

展望地の立て札には山姿が描かれており、それには「鷹ヶ峰(たかがみね)」「鷲ヶ峰(わしがみね)」「天ヶ峰(てんがみね)」の名が見え、(光悦寺さんでは)この三座を総称して「鷹峰三山」としています。
写真に写る、絵図の目の前に見えている山、つまり、真南の正面にあたる山が、(地名ではなく、)山としての「鷹峯(鷹ヶ峰)」です。
この山は京都市北区大北山鏡石町と大北山鷲峯町の境に所在する約260m小ピークで、現地の小さな山名標では「兀山」となっています。
戦後の地形図からは山名が失われていますが、陸測時代の正式図や京都市の都市計画基本図に「兀山」の名が見え、直近の都市計画図では標高261.6m。
現行の地形図ではこのあたり

兀山(はげやま)と坊主の花札

鷹峯三山周辺の正式二万分一地形図 鷲ヶ峯・鷹ヶ峯
この地図を作製するにあたり、「今昔マップ on the web」タイル を利用しています。

正式二万分一地形図では「兀」に「ハゲ」と振り仮名を振っており、「はげやま」と読むことが分かります。
かつては植林されておらず、ススキが茂る草原性の山だったのかもしれません。
光悦寺さんから見て、この鷹峯(鷹ヶ峰)を越えた向こうが「五山送り火」大北山で知られる左大文字山にあたりますが、鷹峯(鷹ヶ峰)の山体に遮られるため、光悦寺さんから左大文字山の頂は見通せません。

また、この構図(光悦寺さんのあたりから鷹峯=兀山を望む構図)は花札の「月」で知られる「芒」(ススキ)の札(葉月の札)の絵柄(図柄)のモチーフではないかとも言われています。
その説にしたがえば、葉月の札を俗に「坊主」と呼ぶのも、「はげ山に月」と無縁ではないのでしょう。
現在、広く流通している「芒」の札の絵柄に見える「山」は、確かに鷹峯(鷹ヶ峰)の山容に見えなくもありません。
もっとも、光悦寺さんのあたりから眺めて、花札の絵柄ほど鷹峯(鷹ヶ峰)と満月が近くに重なって見えることはないでしょう。
光悦寺さんの垣の向こうは鷹峯と衣笠を結ぶ鏡石街道で、その南には「しょうざんリゾート京都」さん。
街道から見上げれば、お月さまと山が少しは近くに感じるかもしれません。

追記しておきますと、後年、兀山の山頂に「兀(ごつ)山」と振り仮名を振った山名標が設置されましたが、その読みの根拠が明示されないかぎり、誤りだと考えられます。

月の花札は鷹峯?

この説について、少し補足しておきます。
初期の花札とされる、江戸時代中期の手描き花札では、「芒に月」の札には「山」が描かれておらず、広がるススキ草原の上に満月が見えるのみです。
その後、江戸時代後期には広く流通していた木版花札「武蔵野」の「芒に月」の札では、現代の花札と同様、「山(のようにも見える)と芒に月」の構図となっており、明治時代に定着した花札「八八花」にも引き継がれています。
花札「越後花」には、「山(のようにも見える)と芒」の構図の札に、九条良経(藤原良経)(後京極摂政前太政大臣)の、

五十首の歌奉りけるに、野徑月
攝政太政大臣
行末は空もひとつのむさし野に草のはらより出づる月影
『新古今和歌集』

「ゆくすゑはそらもひとつのむさしのにくさのはらよりいづるつきかげ」の歌が収められています。
この歌を詠んだ九条良経は九条兼実の次男で、慈円の甥にあたり、当サイトの他の記事でも名前が挙がる歌人です。
「芒に月」の札が、良経が詠んだ「草の原より出づる月影」の歌に影響を受けて成立した札だとすると、「芒」の山を京都鷹峯と見なすのは難しいでしょうか [8]
個人的には「そういう説もある」「とも言われている」といった俗説の域を出ないと考えており、他に明確な根拠が提示されないかぎり、「芒の札に描かれているのは鷹峯である」と断定するのは難しそうです。

追記。
本記事を見て「兀山」の存在を知ったらしき方により、「月の花札=兀山」と断定的に紹介する記事も見受けられるようになりましたが、内容も誤りが目立ちますし、花札の成立時期や広まりを全く理解なさっていないものです。
「兀山」の名前まで出すのであれば、中途半端に記事を転用するのではなく、「断定できない」としている当方の意図を正確に伝えるようにしていただきたいものです。
立論たりえる根拠を明示できない謬説を広める行為は避けるほうが無難でしょう。
この手の話が広まってしまうと、「大文字山の火床から淡路島が見える」という謬伝を払しょくするために、私が長い長い年月を費やしたように、なかなか収まらない可能性があります。
当方は俗説や俗伝の類を否定しませんが、それがさも確定した事実であるかのように後世に伝わるのは看過できません。
追記終わり。

鷹峯(鷹ヶ峰)と鷲峯(鷲ヶ峰)

この展望地から鷹峯三山を眺めたり、左に見える京都の景色を眺めていたら、後からいらっしゃった方々が、どこが鷹峯三山で、それぞれどの山を指しているのか分からないとおっしゃいます。
よく照らし合わせれば、立て札に描かれた絵図そのままの並びですが、絵図ほど三山が近いわけではないため、やや分かりにくいかもしれません。
パノラマ合成ではなく、ワンショットで三山すべてを1枚の写真に収めるためには35mm判換算で焦点距離10~12mm相当の超広角レンズが必要です。
最近のコンパクトデジカメさんやスマートフォンのカメラはパノラマ合成が容易ですから、1枚の写真に収めたければ、それらを利用すれば良いでしょう。

光悦寺から「鷹峯(鷹ヶ峰)」と「鷲峯(鷲ヶ峰)」を望む 鷹峯三山 2015年11月
光悦寺さんから「鷹峯(鷹ヶ峰)」と「鷲峯(鷲ヶ峰)」を望む。

「鷹峯(鷹ヶ峰)」の右に見える、視覚的にも高く感じる山が「鷲峯(鷲ヶ峰)」です。
この山は京都市北区大北山鷲峯町に所在する標高点314m峰で、現行の地形図ではこのあたり
都市計画基本図でも「鷲峯」の表記ですが、現地では「鷲ケ峰」の山名標が目立ちます。
山名に「鷹ヶ峰」や「鷲ヶ峰」の表記を用いる方がいらっしゃるのは、地名としての鷹峯や鷲峯との混同を避けるため、かもしれません。

貞享2年(1685年)の『京羽二重』では、「奇石」として源義経ゆかりともされる「鏡石」を紹介しています。

鏡石
洛北鷹が峰の北鷲が峰の下にあり此石横に出る事二丈ばかり高さ一丈餘其面たいらかにして砥石のごとく岩もかゞみのごとし是によりて鏡石と云
俗に云そのかみ源よしつね此石に望て戎衣をとゝのへたまうと
『京羽二重』

鏡石は「鷹が峰の北、鷲が峰の下にあり」としています。
『京羽二重』では「山峯」で山としての「鷹峯」を紹介しておらず、この「鷹が峰」や「鷲が峰」が山名なのか地名なのか定かではありません。
先ほども述べましたが、山としての鷹峯(兀山)の所在地は北区大北山鏡石町と大北山鷲峯町の境です。
鏡石は鷲峯や鷹峯(兀山)の南東麓、鏡石街道に現存しており(鏡石の所在地は北区衣笠鏡石町)、付近には鏡石公園などもあります。

左大文字山から改修工事中の京都タワー(キノコタワー)を望む 2013年2月

左大文字山と鷹峯三山を登山 鷲峯~兀山 京都タワーを遠望

2013.03.03

過去に鷲峯(鷲ヶ峰)と鷹峯(鷹ヶ峰)をハイキングした日の山行記録は上の記事に。
「兀山」の読みは「ハゲ山」であって「コツ山」や「ゴツ山」ではないといった話もそちらで詳しく。

少し追記しておきますと、鷹峯(兀山)の山麓(北東麓)で建設が進められていたリゾートホテル「アマン京都」さんが2019年(令和元年)11月に開業します。
そのことにより、鷹峯や鷲峯周辺の状況も変化し、ハイカーにも影響を与えるかもしれません。

さらに追記しておきますと、「アマン京都」さんの開業と前後して、2019年11月頃に「しょうざんボウル」さんが閉業なさり、その跡地にヒルトンホテル系列のホテルさんが建設予定との報道がなされています。
鷹峯の山麓にリゾートホテルの建設が続きます。

鷲峯(鷲ヶ峰)と天峯(天ヶ峰)

光悦寺から「鷲峯(鷲ヶ峰)」と「天峯(天ヶ峰)」を望む 鷹峯三山 2015年11月
光悦寺さんから「鷲峯(鷲ヶ峰)」と「天峯(天ヶ峰)」を望む。

お昼時で逆光の影響を受ける南向きの空と異なり、西向きは爽やかな青空が広がっていました。
「鷲峯(鷲ヶ峰)」の右後方に見えている山が、光悦寺さんが「天峯(天ヶ峰)」と見なしていらっしゃる山です。
鷹峯(鷹ヶ峰)と鷲峯(鷲ヶ峰)までは、どの山を指しているか一目瞭然で、絵や地形図との照らし合わせも容易ですが、最後の一座である天峯(天ヶ峰)がどこを指しているのか分かりにくいです。
この山は京都市北区鷹峯護法ケ谷・仏谷と京都市右京区鳴滝宇多野谷の区境に所在する標高点466m峰で、沢山や吉兆山の東に所在します。
三山では最も高い山ですが、光悦寺さんからはやや離れていることもあり、視覚的には低く、かつ遠く感じます。
この山はハイカーの間では古くから「桃山」の名で通じており、現地でも「桃山」の山名標以外は見当たらないため、桃山と天峯(天ヶ峰)が同じ山だとご存じの方は少ないようです。

正徳元年(1711年)の『山州名跡志』では、地名としての「鷹峯」とは別に、山としての「鷹峯」も紹介しています。

鷹峯
千束西北。此所西南に雙で三峯あり。第一天峯、第二鷲峯、第三鷹峯、由来未考。鷹峯今地の名とす。
『山州名跡志』

「千束の西北にある。この所の西南に並んで三峰あり」「第三峰の鷹峯を今は地名とする」と見えます。
光悦寺さんの展望地から西に第一の天峯、南西に第二の鷲峯、南に第三の鷹峯を望めますので、天峯は桃山を指していると考えるのが妥当でしょうか。
実は、住所地名として鷹峯に所在する鷹峯三山の山は天峯(天ヶ峰)だけで、他の二山は大北山に所在します。

鷹峯三山の他の可能性

光悦寺さんでは兀山を鷹峯三山の「鷹峯」、桃山を鷹峯三山の「天峯」と見なしていらっしゃることは確かです。
「鷲峯」は地名にも山名にも明確に残っており、他の候補地もあがらないことから、現在、光悦寺さんが「鷲峯」と見なしていらっしゃる山と考えてもよいでしょう。

兀山以外の「鷹峯」の候補としては、ハイカーの間ではお馴染みの「沢山(さわやま)」をあげることができます。
「お馴染みの」とは申し上げましたが、山そのものより、付近の沢ノ池(沢池)のほうが知られているかもしれません。
沢山の山頂の所在地は京都市右京区鳴滝沢でありながら、三角点515.6mの点名は「鷹峯(たかみね)」であり、この点名は地名ではなく山名に由来する可能性があります。
ただし、沢ノ池周辺山域の最高峰である沢山に三角点を設置するにあたり、よく知られた「鷹峯」の名を点名に用いただけかもしれず、必ずしも「鷹峯三山」としての「鷹峯」を指しているとは言い切れません [9]
点名は「鷹峯」について、1901年(明治34年)観測時の「点の記」に目を通してみると、三角点の設置にあたり、(鳴滝の山でありながら、)鷹峰村の人に案内してもらい、鷹峰村から資材を運んで登ったことが分かります。
意外なことに、京都市北区鷹峯の範囲内には三角点を有する山が一座もありません [10]が、このように、沢山の三角点の設置作業には鷹峯の方々が深く関わっていらっしゃいます。

他の可能性として、堂ノ庭の京見峠に京都市が設置した解説・案内板には、眼下に見える山について「釈迦谷山(鷹峯)」とあり、どうやら設置者は大宮の釈迦谷山を山としての「鷹峯」と見なしていらっしゃるようです [11]
また、地元の方の中には、釈迦谷山を「鷹峯」ではなく「天峯」と呼ぶ方もいらっしゃいます。
後述しますが、釈迦谷山の周辺には元愛宕の旧跡があったと伝わっており、釈迦谷山を鷹峯や天峯とする説も一定の説得力があります。

終戦直後の米軍による都市計画図では、鷲峯を指して、「TAKAGA-MINE (MT.) 312.1m」と表示しています。
括弧書きで”MT.” を付け加えているのは、地名としての鷹峯と、山としての鷹峯を区別するためですが、これにしたがうと、現在、鷲峯と呼ばれている山が鷹峯だったことになります。
ところが、本記事で上のほうに掲載している戦前の地形図や、あるいは近年の都市計画図では、いずれも当山を指して「鷲ヶ峯」や「鷲峯」としているのみで、これには疑問が残るところです。

桃山以外の「天峯」の候補としては、住所地名に見える「京都市北区鷹峯株地天ケ峰」の周辺をあげることができます。
現行の地形図ではこのあたり で、(地名としての)北区鷹峯の山奥にあたります。
「北区鷹峯株地天ケ峰」の範囲は狭く、特定のピークも持ちませんが、(範囲からは外れるものの、)付近に所在する標高点565mや570m小ピークあたりは地名としての北区鷹峯の範囲内では標高が高い山ですので、「天峯」と呼ばれていたとしても不思議ではありません。
ただ、この周辺峰が「天峯」だとすると、山麓にあたる光悦寺さんからは姿が見えず、京都盆地から眺めても、桃山などの「裏」にあたるため、その山容は分かりにくいでしょうか。
兀山、鷲峯、桃山、吉兆山、沢山といった鷹峯や大北山、鳴滝周辺の山々は、場所を選べば京都盆地から起伏の大きな連なりや美しい山並みを確認できます。
地形図で「北区鷹峯株地天ケ峰」周辺に見える実線路は峰山林道で、奥長谷林道の最奥にあたります。
森林基本図などで、もう少し詳しく調べてみないと分かりませんが、このあたりの奥まった山域は「峰山」と呼ばれているのかもしれません。
周山街道(清滝川)を跨いだ西の愛宕山系東部にも「峰山」が所在しており、こちらは古くは俗に「城ヶ峯」と呼ばれていたそうです [12]

「天峯」が「北区鷹峯株地天ケ峰」の付近を、「鷹峯」が沢山を、「鷲峯」は鷲峯を指していると仮定すると、「西南に雙で」「第一天峯、第二鷲峯、第三鷹峯」の順とはなりません。
また、それぞれの山があまりにも離れ過ぎている、天峯と鷲峯は直線距離で4km以上も離れることになり、そういった山々を総称して、昔の京都の人が「三山」と呼んでいたのか、という点でも疑問が残ります。
加えて、『山州名跡志』では「第三峯より戌亥(乾、北西)三十町(約3.2km)ばかりに『菩提瀧』がある」としており、沢山から菩提滝は北北西1.7kmの距離に過ぎず、どう遠回りしても3kmを越える距離とはなりそうにない点でも誤差が大きいです(もっとも、山中における長い距離の観点では、昔の史料はさほどあてにはなりませんが)。

この件で追記。
1916年(大正5年)の『光悦 天』に、鷹峰村の山として「株地天ヶ峰の如き高峰ありと雖も、其高さに至ては詳ならず」と名前が見え、「株地天ヶ峰」なる山が実在し、鷹峰村の高峰と見なされていたのは確かなようです。
「北区鷹峯株地天ケ峰」の付近に「北区鷹峯株地」の住所地名も見えるため、当初は「株地」(惣山の意味合い?)+「天ヶ峰」ではないかと考えていましたが、『光悦 天』の描写を見るかぎり、どうやら「株地天ヶ峰」でひとつの山名のようですね。
他の二座と離れすぎている点は気になりますが、やはり、個人的には、この「株地天ヶ峰」が「天峯」である可能性は捨てきれないと考えています。
追記終わり。

私見は別として、本記事では光悦寺さんの境内に掲示される立て札に描かれた絵により示される三山をもって、光悦寺さんがおっしゃるところの「鷹峯三山」としておきます。
ただし、千束の北に所在する釈迦谷山や、その周辺を指して「鷹峯」や「天峯」と呼ぶ地元の方がいらっしゃることも確かであり、鷹峯や天峯がどこを指すかは諸説あることを指摘しておきます。
繰り返し申し上げておきますが、本件については、私は他説を否定できる立場にありません。
これも何度か他の記事で申し上げていますが、口碑(口伝)はあくまで口碑に過ぎず、時代が下がれば大きく変容する可能性にも留意する必要があります。

追記。
光悦寺さんの「鷹峰三山」が描かれていた立て札がリニューアルされ、「天ヶ峰」の姿が消えたらしい?

鷹峯の由来

『山州名跡志』には「(山名である)鷹峯を今は地名としている」と見えます。
これにしたがうと、まず山名ありきで、地名が後で生じたことになります。
「山名が先」としているのは、あくまでも『山州名跡志』の説であって、地名が先に成立した説や、山名が先としても、タカミネの音がさらに先にありきで、漢字は当て字とする説もあります。

『日本三大実録』の貞観16年(874年)8月24日条には、京都が大風雨に見舞われ多数の死者が出たことが記録されており(現代における10月上旬頃だと考えられますが、季節的に見て台風でしょうか)、近年、京都で大きな災害が連続するのは、「北山高岑寺」にあった仏像を山城国愛宕郡栗栖野の御願寺へ移したことが原因ではないかと人々が噂している(時人皆曰)、と見えます。
いわく、仏像は元は北山高岑寺にあったが、貞観13年(871年)に「大雨水。自然以大巌石。塞其道路。行人不通。」(大雨が降って大岩が道路を塞いだので寺へ行く人が通れなくなった)という出来事があり、仏像は高岑寺を去り、栗栖野に移ったと。
ここでいう「栗栖野」は、現代における山科の栗栖野(山城国宇治郡の栗栖野)ではなく、鷹峯の東、西賀茂付近と推定される古名を指します(山城国愛宕郡の栗栖野)。
貞観15年(873年)5月5日条にも、高岑寺の仏像を別の場所に移し奉ったから、それが原因で賀茂神社に「雨雹の怪」の祟りを成している、といった話が見えます。
この後、仏像を失って廃れたと考えられる「高岑寺」の名前は歴史から姿を消しますが、「タカミネ」にあったから「高岑寺」なのか、「高岑寺」があったから「タカミネ」なのかは分かりません。

貞享3年(1686年)刊行の『雍州府志』には、

鷹峰
洛北乾隅斯處有三峰所謂天峰鷲峰鷹峰是也中古至秋冬此峰上設鷹網以執鷂是謂鷹是稱網懸鷹世謂鷹峰鷹
『雍州府志』

と見えます。

「この峰(鷹峯三山)の上に鷹網 [13]を設けて鷂(ハイタカ)をとる」「これを鷹を打つという」「これを網懸鷹と称し、世に鷹峯の鷹という」とあり、ここでいう「網懸鷹」とは鷹狩り用のタカとして飼育するため、若いうちに捕獲された野生のタカ(ハイタカ)を指します。
もちろん、現代においては「かすみ網」を用いた猟は禁止されていますが、当時と現代では価値観や考え方が異なります。

『雍州府志』では「鷹峰」を「山川門」の章ではなく「古蹟門」の章で紹介しています。
「中古」(中世)の話としているところからも分かりますが、すでに過去形の話であり、これは言い伝えの部類と見なされていたのでしょう。

割愛しますが、上の続きには、鷹峰だけではなく、月輪でもタカを捕獲していたとあります。
この「月輪」は、愛宕山の月輪か、東山の月輪か、どちらを指しているのでしょうか。

元禄3年(1690年)の『名所都鳥』に、

月輪山
愛宕山の東にあり。
(中略)
中むかし此山に網をはり。鷹を取る。月のわ鷹と云
『名所都鳥』

と見えますので、やはり、愛宕山の月輪を指しており、「中むかし」は愛宕山でもタカを捕獲していたことが伝わります。
「中古」や「中むかし」は江戸時代頃の人間にとっては平安時代頃を指しています。
もし、「鷹峯」は「山名が先」だとすると、その山名は、平安時代頃に鷹峯で野生の鷹を捕獲していたことに由来するのかもしれません。

南北朝時代の類書『拾芥抄』(略要抄) [14]、これは当時の百科事典のようなものですが、「諸院」に「鷹屋院 在紙屋北 今荒廃 人不知之云云」と見えます。
この「紙屋」は官立の製紙所だった「紙屋院」を指しており、これが「紙屋川」の名前の由来とされます [15]
紙屋院の所在地について、京都市では「紙屋川のほとりにあった」のみに留めていますが、紫野から北野にかけて、紙屋川流域のいずこかにあったとされます。
おそらく鎌倉時代には廃れていたようですが、紙屋院の北にありですので、「鷹屋院」は鷹峯の付近に所在したと考えられます。
『拾芥抄』の「諸院」では、他にも「穀倉院」(穀倉の管理所)、「醤院」(調味料の管理所)、「乳牛院」(乳牛の飼育管理所)などの名前が見えますので、具体的なことは分かりませんが、「鷹屋院」は捕獲した鷹の飼育に関わる施設だったのかもしれません。

愛宕山の愛宕神社と鷹峯

愛宕神社さんの神使(お使い)であるトビ(鳶)。
京都では古くはトビを指してタカ(鷹)とも呼んでおり、今でも京都出身の年配の方の中にはトビを見てタカと呼ぶ方がいらっしゃいます。
愛宕山でタカとトビといえば、大天狗の愛宕山太郎坊さん(愛宕山栄術太郎)を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。
江戸時代前期に成立した『本朝神社考』や、それを受けたと考えられる明暦4年(1656年)の『京童』で、太郎坊さんの正体を弘法大師の弟子の眞済 [16]としていますが、これには諸説あります。
愛宕山にゆかりある地ではタカの字(音)を地名に含む例が見られ(愛宕山の北北東に所在するタカノス、愛宕山の東に所在するタカオ [17]など)、鷹峯の「タカ」もこれに通じるものがあるかもしれません。

愛宕權現
愛宕山
(中略)
此社始在愛宕郡鷹峯北今有石門之存
『雍州府志』

愛宕跡
鷹峰北渓今愛宕權現始在斯處故號愛宕權現古石門于今存爾後慶俊移之於手白山此山雖葛野郡神號愛宕山者乎
『雍州府志』

『雍州府志』に「愛宕権現の社は初めは愛宕郡鷹峯の北にあった。今も石門がある」「その後、慶俊 [18]が手白山(現在の愛宕山)に愛宕権現を移した。この山は葛野郡といえども神号によりて愛宕山と称するものか」と見えます。
この「はじめは愛宕郡鷹峯にあった愛宕神社が、その後、慶俊により葛野郡の山(後の愛宕山)に移された」説は、『雍州府志』に限らず、数多くの史料や研究、あるいは、過去形となりますが、かつては愛宕神社さんの社伝でも見ることができた説で、江戸時代頃の京都では広く知られていました。
愛宕山は丹波国桑田郡と山城国葛野郡(かどののこおり)の国境付近に所在しますが、山城国愛宕郡(おたぎのこおり)とは離れており、当初から愛宕山を称していたわけではなく、愛宕郡から神様を移したから愛宕山と呼ばれるようになった、とする伝承です。

愛宕山の山上には神社だけではなく、かつては朝日峯白雲寺などのお寺さんもあり、神仏習合の修験の山でもありました。
明治時代になり、明治政府により神仏分離・修験禁止が通達されるに至り、白雲寺で祀られていた勝軍地蔵は山を下り、西山の金蔵寺さんに移されました。
愛宕神社と白雲寺は深い関わりがありますが、成り立ちそのものは別であり、「愛宕神社の由緒」と「白雲寺の縁起」は分けて考える必要があります。
ところが、当の愛宕神社さんまで両社寺を混同していらっしゃるようで、現在は白雲寺の縁起を、それも諸説あるうち、『山城名勝志』に見える一説のみを取り上げて、それをもって愛宕神社の起源としていらっしゃるようです。
戦前までの愛宕神社さんでは、社伝として「愛宕神社は文武天皇大宝年中の創祀であるが、それは鷹ヶ峰の東であって、天応元年に愛宕山に移祀された」を由緒としていらっしゃいました [19]
伝承ではあるにせよ、元は鷹峯で祀られていた神様であるという説は、現在の愛宕神社さんの考えとは異なるものかもしれず、また、諸説からの取捨選択が難しい部分もあるのでしょう。

上記を補足しておきますと、「大宝年中」は701~704年。
「天応元年」は781年、奈良時代末期、光仁天皇の治世です。
光仁天皇の跡を継いだのが、長岡京や平安京に遷都した桓武天皇です。

「愛宕神社は大宝年中(701~704年)に鷹ヶ峰の東で創祀されたが、天応元年(781年)に愛宕山に移祀された」
戦前までの社伝によると、奈良時代末期の天応元年(781年)には愛宕山の上に神社が存在したことになります。
これを前提として下に続きます。

式内社の「阿多古神社」

平安時代中期に成立した格式(条例のようなものです)である「延喜式」の巻第九・第十「神名帳」には数多くの神社の名前が記されており、ここで名前が挙がる神社を「延喜式内神社」、あるいは「式内社」と呼びます。
「神名帳」では神社の古称と大雑把な所在地などが記されているのみであり、後世において、その神社がどの神社を指すか特定できない例が少なからず見受けられます。
おそらくはこの神社のことではないかと推定する研究(論社の研究)は昔から今に至るまで続けられており、そういった中に丹波国桑田郡の「阿多古神社」もあります。
「阿多古」(あたご)なら有名な愛宕山の愛宕神社のことではないか、と決め付けるのは早計で、愛宕山は丹波国桑田郡と山城国葛野郡の国境付近に所在しているとはいえ、愛宕神社は後世では明確に山城国の神社として扱われていました。
「阿多古神社」を丹波国の神社としている以上、愛宕山の愛宕神社とは別の丹波国桑田郡の愛宕神社を指しているのではないか、いや、愛宕山はかつては丹波国に属していたが、山城国から神社を移したから山城国として扱われるようになったのだろう、など、延喜式との整合性を取るために諸説が唱えられました。

『日本三代実録』

戦前までは式内社の「丹波国桑田郡 阿多古神社」は愛宕山の愛宕神社であると比定されていました。
いわゆる六国史に愛宕神の名前が現れるのは、平安時代前期に編纂された『日本三代実録』からです。
それ以前の正史、たとえば、『続日本紀』は光仁天皇や桓武天皇の治世を扱っていますが、愛宕神の名前は見えません。
『日本三代実録』では、貞観2年(860年)2月25日条の眞済と神護寺のくだりで「愛當護山高尾峰」と見えます。
これは「愛当護山」の内に「高尾峰」がある、あるいは「愛当護山」と「高尾峰」が連なることを示しています。
神護寺のくだりで名前があがるわけですので、「高尾峰」は高雄山を指すと断定してもよく、「愛当護山」は愛宕山であると考えてもほぼ間違いないでしょう。

平安時代中期の『拾遺和歌集』(拾遺集)に、

たかをにまかりかよふ法師に名たち侍りけるを少將しけもとかききつけてまことかといひつかはしたりけれは
八條のおほいきみ
なき名のみたかをの山といひたつる君はあたこの峯にやあるらむ
『拾遺和歌集』

八条の大君の「なき名のみ高尾の山と云立つる君は愛宕の峯にやあるらむ」の歌が見えます。

(詞書の大意)
「(八条の大君と)高尾に行き通う法師との間に浮き名が流れ、それを聞きつけた(おそらく恋人の)少将しげもとが(噂は)事実ですかと言ってよこしたので」
(歌の大意)
「ありもしない浮き名をたかをの山(「たか」が「声高」と掛かる)と言い立てる貴方はあたごの峰(「あた」が「仇」と掛かる)なのでしょうか」
浮気を疑われたので、貴方は私の恋人ではなく仇なのか、恨みでもあるのかと、かなり強い皮肉で返しています。

「少将しげもとが聞きつけて」の「少将しげもと」について、『国歌大観』では「重基」としていますが、藤原重基にせよ平重基にせよ、拾遺集に収載されるには時代が合いません。
個人的には左近衛少将の藤原滋幹 [20]ではないかと考えています。
八条の大君については詳細が伝わりませんが、藤原滋幹は延長6年(928年)に右近衛少将に任ぜられ、承平元年(931年)に没。
「少将しげもと」が藤原滋幹と仮定すると、上の歌は承平元年以前に詠まれています。

さておき、「愛当護山高尾峰」の名前が現れた後、『日本三代実録』には「愛当護神」の神名も見えるようになります。
『日本三代実録』で「愛当護神」の神階の移りを追ってみると、時が経つにつれ、「愛当護」から「阿当護」へと表記が代わっていきますが、元々は「愛当護」であったことが分かります。
これが延喜式の頃(平安時代中期)には「阿多古」と変化したと考えられています(が、『神社覈録』などに「阿多古は假字也」と見え、「阿多古」は漢字の音を借りた仮名と考えられていたようです)。
経緯がきわめて複雑ですが、平安時代中期に編纂された『口遊』の、鎌倉時代中期の現存写本では「七高山」として「愛宕」の山名が見えます(が、『口遊』は原本が現存しておらず、写本で他の古い表記から「愛宕」と改めた可能性を否定できません)。

貞観6年(864年)5月10日条
丹波國正六位上愛當護神從五位下

貞観14年(872年)11月29日条
丹波國從四位下出雲神從四位上。從五位下阿當護神從五位上。

元慶3年(879年)閏10月24日条
丹波國從五位上阿當護神從四位下

元慶4年(880年)4月30日条
丹波國阿當護山无位雷神。破无神。並從五位下
『日本三代実録』

特筆すべきことだったのでしょう、元慶4年4月30日には大きな流星が落ちたと記録されており、その日のうちに丹波国阿当護山で配祀される雷神と破無神も神階を授けられています。
「阿当護山」を丹波国の山と扱っていたことが伝わる重要な記述であり、これは見落とせません。
阿当護神が愛宕山の神様で、雷神と破無神は隣接する地蔵山と竜ヶ岳の神様ともされますが、現在、雷神と破無神は愛宕神社さんの若宮で合わせてお祀りされています。
主たる祭神以外に神階が授けられるのは異例とされますが(実際、それまでは「無位」でした)、これは元慶4年に清和上皇(清和院)が水尾を隠棲の地と定められたことも影響しているのではないかとする説もあるようです。

愛宕山の南南西麓にあたる水尾の地は、後世には山城国葛野郡に属しました [21]が、平安時代前期頃は丹波国に属していました。
『日本三代実録』の元慶4年(880年)3月19日条に「以伊勢尾張兩國可清和院封租一百石。相傳丹波國進官米。奉水尾山寺。」、同年12月4日条の清和院のくだりには「丹波國水尾山」、清和院の崩御後となる元慶5年(881年)1月7日にも「丹波國水尾(寺)」と見えます。
ところが、これより昔、『続日本紀』の宝亀3年(772年)12月辛未条(12月25日)では、「幸ス山背ノ國水雄岡。」(光仁天皇が山背国の水雄岡に行幸した)と見えます。
もし、この水雄岡(ミズノヲノ岡)が水尾山を指すのであれば、奈良時代末期頃には水尾の地は山背国(平安時代以降の山城国)に属していたと考えられ、どうやら所属が一定ではなかったと推測できます。
時代によって山背国→丹波国→山城国と、山麓の所属が不安定だからといって、愛宕山の山上もそうであったとは限りませんが、可能性としては考えられます。

我宿は其方を見てぞ慰むる誰かあたごの山と云けむ
『壬二集』(家隆集)

鎌倉時代初期の歌人、藤原家隆(従二位家隆) [22]の歌ですが、「私の家はそなた(山)が見えて気分が晴れるが、誰が愛宕の山と言ったのだろう」といった内容です。
不思議なことに、比叡山と異なり、愛宕山は昔の歌にはあまり詠まれず、名前が見えにくいのですが、家隆も「誰かあたごの山と云けむ」としており、「愛宕の山」と呼ばれていることに不思議さを感じているようです。

補足しておきますと、「(昔の歌には)名前が見えにくい」のは確かですが、それでも、愛宕山の西麓にあたる樒原の地と合わせた冬の歌は好まれていたようです。
たとえば、平安時代後期の『堀河百首』(堀河院御時百首和歌)(太郎百首)に、

顕仲
時雨つゝ日數ふれともあたこ山しきみか原の色はかはらし
『堀河百首』

の歌があります。「顕仲」は藤原顕仲でしょうか、それとも源顕仲でしょうか [23]
鎌倉時代後期に成立した『夫木和歌抄』(夫木集)では、同じ歌を「顕仲朝臣」の作として収めています。
平安時代から鎌倉時代にかけて、平安京側(京都盆地側)から愛宕山を詠んだ歌が極端に少ないのはなぜでしょうね(朝日山や朝日峯と扱われていたから?)。

参考。

(天正二年一月)四日。雪の積りて。比叡山の。朝日の影に殊に聳えて見えけるに。はたち餘りをとさし計(はから)ひしも。さこそと覺えて。
ふりつもる雪のころ猶さそなともみやこの富士の嶽のあけぼの

廿四日。愛宕山。雪の上に雲のかゝるを。
あたご山心たかくもかゝる雲の積る雪にやきえをあらそふ
『嵯峨記』

安土桃山時代、天正元年(1573年)の暮れに藤原植通 [24]が嵯峨の清涼寺に参籠したる日記。
この時代ともなると、嵯峨のあたりから比叡山や愛宕山を詠んだ歌が両立しています。
『嵯峨記』の冒頭では、嵯峨に至る道中、廣澤(広沢池)で「愛宕下嵐(あたごおろし)」に吹かれた話も見えます。

『伴信友神名帳考證土代』

「丹波国阿当護山」の謎について、江戸時代後期頃には考証が進んでいました。
文化10年(1813年)の『神名帳考證』(伴信友神名帳考證土代)で、伴信友 [25]が、

丹波国桑田郡 阿多古神社
(前略)
正身按井澤氏[俗説辨]曰愛宕ノ神ハ伊弉並尊ト火皇產靈命ヲマツリ奉ル神社ハジメ山城國愛宕郡ニアル故ニ愛宕神ト號ス後ニ葛野郡ニウツス以下注此山丹波國桑田郡ト半ス此故ニ(延喜式)ニハ丹波國桑田郡阿多古神社トアリ今按火皇產靈命トスルハ(三實)不合本書ノ説ニ從フベシ

信友按延喜ノ頃ハ丹波ニ屬ラレタルナルベシ今ノ山城ノアタゴ也或書ニ光仁天皇ノ天應元年釋慶俊今ノ處ニウツス當社始ハ山城國愛宕郡鷹峯ノ北ニアリ今ニ石門存ス上加茂大門村ハ又ソノ社ノ大門ノアリシ處ト云リ今ノ社ノ坐ス山ハ今ハ葛野郡山城ニ屬スシカレドモ舊名ヲ唱ヘテ愛宕ト云ヒ山ヲモアタゴト云ヘリ慶俊勝軍地藏ヲ併セ祭ル素尊ト軻遇突知ハ奥院ト號シテ祭之今ハ奥院ハ太郎坊ト稱シ地藏ヲ本宮トス是ヨリ社人跡絕タリ

信友按(源平盛衰記)山門堂塔ノ事ノ段ニ北京にはあたご高雄の山も昔は堂塔の軒をきしり行學功をつもりけれども一夜の中にあれしかば今は天狗のすみかと成にけりトアリ此記書シ頃モアタゴヲ北京ト云ヘレバ早く山城ニツキタリケリサテ今山城愛宕郡ハ舊阿多古神ノ坐ス地名ヨリ出タルナルベシ愛宕トハカグツチノ神ノタメニ母命ノ火ニ焦レテ崩リ玉ヘレバ仇子ノ義ノ御名ナルベシ記傳ニ説アリサレバ郡名の愛宕モモトハアタゴト唱ヘケンヲ仇子ト云フ詞ノイマイマシキヲイミテ後ニオタギト唱ヘカヘタルモノニテ神名ハ古ノマヽニ稱スナルベシ又按ニ當社產火ヲ忌キラヒ玉フト云傳ヘタリソハ神ノ忌玉フハナベテノ例ニテ素ハコノヘタリソハ神ノ御火ニテ妣命ノ御陰ヤカレテ崩リ玉ヒツルサガナキ御事ヲ忌ミテ產火ノ當社ニフルヽヲサケタルガコトノ因緣ナルベシ[拾芥抄]爲葛野郡
『神名帳考證』

と、山城国愛宕郡鷹峯から山城国葛野郡の山に愛宕神社を移した俗説を紹介しています。
「(俗説として)愛宕山は丹波国桑田郡と半ばしているから延喜式では『丹波国桑田郡阿多古神社』とある。(筆者の)信友が照らし合わせて考えるには、延喜式の頃は丹波に属していたのではないか」と見え、これが、この後の考証・諸説に大きな影響を与えています。
『日本三代実録』の描写を見るかぎり、平安時代前期には、愛宕山や山上の神社は丹波国に属していた可能性があります。

また、『神名帳考證』では、愛宕(おたぎ)郡と愛宕(あたご)神社で読みが異なる理由を、「仇子」を忌み言葉として、郡名は後に「おたぎ」と読み替えたが、神名は古のままに「あたご」と称している、としています。
鎌倉時代中期~末期に成立したと考えられる類書『拾芥抄』に「葛野郡と為す」とあるとしていますが、これは「七高山」で「愛岩護(アタゴ) 在山城國葛野郡」と見えます。
経緯が複雑ですが、「愛岩護」の表記は『口遊』や『二中歴』における注釈で「愛宕護」としているものを書き誤ったのではないかと考えています。
後述する『明月記』にも「愛宕護山」と見えますので、平安時代末期~鎌倉時代にはその表記が一般的だったようです。

『延喜式内並国史見在神社考証』

明治時代に京都府が編纂した『延喜式内並国史見在神社考証』(式内神社考証)では、

愛宕神社
延喜式ニ丹波桑田郡阿多古神社ト是正シク當社ノ外二不可在
既ニ今モ本社境内墻ヲ界トシテ丹波ノ地ト交際スルナリ
坊舎屋敷亦何レモ丹波ノ地ニ旧跡アリ
然ルニ今ノ山城ノ地ニ迁ス
『延喜式内並国史見在神社考証』

「愛宕山の愛宕神社は本社境内の垣根を境として今も丹波国と交わっており、坊舎や屋敷の旧跡も愛宕山の丹波国側にあったが、今の山城国側に遷した」ので、延喜式に丹波国桑田郡の神社として名前を挙げられている、といった説明がなされています。
付属図(境内絵図)でも、「丹波国桑田郡 阿多古神社」として、愛宕山の愛宕神社が描かれています。

『特選神名牒』

明治政府(内務省考証)による「延喜式神名帳」の論考・調査史料である『特選神名牒』でも、式内社の「丹波国桑田郡 阿多古神社」について、山城国葛野郡の愛宕神社(つまり、愛宕山の愛宕神社)としています。
ただし、『特選神名牒』は各府県が提出した考証(京都府であれば『式内神社考証』)を参考に再考証したもので、元となる考証の影響を受けています。

阿多古神社
所在 愛宕山頂朝日峯 今山城國葛野郡
今按式内神社考證に山城愛宕山のことを或書に火產靈を山城國愛宕郡に祭て愛宕社とす
其後光仁天皇天應元年釋慶俊行勝軍地藏法丹波國桑田郡に移し舊名を用て愛宕權現と號すと諸書みな此説に同し
又鷹ヶ峯の北に今猶舊址の現存するあれば鷹ヶ峯より現地に移りしこと最分明也と云り
『特選神名牒』

『式内神社考証』によるとしていますが、「鷹峯の北に今なお旧跡が現存しているので鷹峯より現地(愛宕山)に移したことは明らかと言える」として、愛宕神社が鷹峯から移された説を取り上げています。

『特選神名牒』では、続けて、丹波国桑田郡国分村(現在の亀岡市千歳町国分)の愛宕神社についても触れており、式内社の「阿多古神社」は国分村の愛宕神社であるべきところを、高名な慶俊や後世の諸書の影響で、愛宕山の愛宕神社(鷹峯から移された愛宕神社)のこととされてしまったのではないかと指摘しています。
そのため、どこを式内社の「丹波国桑田郡 阿多古神社」と比定するかは「猶よく考へて定むべき也」(よく考えて定める必要がある)としています。

近年では式内社の「丹波国桑田郡 阿多古神社」は亀岡市の愛宕神社さんだと断定する例も見受けられるようです。
過去に亀岡市の愛宕神社さんを参拝した際に拝見した由緒によると、創祀は神代と伝わるとしていらっしゃいました。
大正時代の『京都府南桑田郡誌』によると、沿革や由緒等は失われたので明らかではないが、社伝によると、その頃は継体天皇の時代に勧請されたとしていらっしゃったようです。
亀岡市の愛宕神社さんは継体天皇の時代に勧請された説は、古い記録としては江戸時代の『誹諧 盥之魚』に見えますが、こちらでは継体天皇の時代に山城国乙訓郡から丹波国桑田郡に勧請された神社だとしており、そうなるとまた別の問題が生じます(つまり、愛宕の元宮ではないとしています)。
ここでは式内社について論じるのが目的ではなく、「鷹峯にあった愛宕神社を愛宕山に移した」説の広まりを見ることが目的ですので、「猶よく考へて定むべき也」を引き合いに出す程度に留めておきます。

亀岡の愛宕神社から鷹峯に遷された?

丹波国桑田郡国分村(→京都府南桑田郡千歳村国分→亀岡市千歳町国分)の愛宕神社(亀岡市の愛宕神社)から京都の鷹峯に愛宕の神様を移し、その後、鷹峯から愛宕山に愛宕の神様を移したとする説があります。
ところが、山城国側の地誌、それに明治政府や京都府などによる調査資料には、「はじめは山城国愛宕郡鷹峯にあった愛宕神社を愛宕山に移した」という説は幾度となく出てきますが(『特選神名牒』がいうところの「諸書みな此説に同し」)、「丹波国桑田郡国分村の愛宕神社から山城国愛宕郡鷹峯に愛宕神社を移し、さらに鷹峯から愛宕山の上に愛宕神社を移した」という説は見えません。

この説は亀岡市の愛宕神社さんの境内にある由緒書きにも記されていますが、1925年(大正14年)の『京都府南桑田郡誌』では、

千歳村
愛宕神社
字國分に在り、伊弉册尊、火產靈尊、大國主尊を祀り、明治六年村社に列す。
社域は牛松山の麓に在て、保津川の淸流を俯瞰し景勝の地を占む。
今本社の沿革由緒等は記錄湮滅して明かにするところを得ざるは遺憾とする所なるが、社傳に據れば山城葛野郡愛宕神社以前の鎮座にして元愛宕と稱し、繼體天皇の勸請にかゝると云ふ。
『京都府南桑田郡誌』

と、愛宕山の愛宕神社の以前の鎮座地として「元愛宕」を称していらっしゃっただけで、この時点では、「丹波国桑田郡国分村の愛宕神社から山城国愛宕郡鷹峯に愛宕神社を移し、さらに鷹峯から愛宕山の上に愛宕神社を移した」と具体的におっしゃっていたわけではないようです。
大正時代には当社に対して京都府が史跡調査を行っていますが、その報告 [26]でもそのような話(当地から鷹峯に神社を移したという話)はいっさい見えません。
もし社伝として伝わっていたのであれば、とくに伏せる必要のない話であり、あらゆる記録から漏れるとは考えにくいものがあります。

愛宕山の愛宕神社の地元にあたる嵯峨の編纂史料である1932年(昭和7年)の『嵯峨誌』(嵯峨自治会・発行)では、

愛宕神社
(前略)
光仁天皇の天應年間に至り、慶俊僧頭が今の社を、愛宕郡鷹ヶ峰より此山に移すに際し、和氣淸麻呂公勅命を奉じ、監造せられたるものにて、舊名により愛宕大權現と號せり。
『嵯峨誌』

白雲寺址(縁起)
白雲寺址は今愛宕神社の鎮座地なり、この寺は慶俊僧頭が愛宕社を遷せし時建立に係る官寺にて、所謂愛宕大權現の本願なり、寺傳には和氣淸麻呂公が勅を奉じて建つる所なりといふ。
『嵯峨誌』

と見え、やはり、「鷹峯から愛宕山に愛宕神社を移した」としていますが、その前に国分村から移されたという話は、この時点では見えません [27]
長くなるため省略していますが、『嵯峨誌』では、「はじめ、役行者 [28]と泰澄上人 [29]が清滝の山の上に神廟を建てた。その頃は清滝の四所明神を祀っており、愛宕神社ではなかった。その後、慶俊僧都と和気清麻呂公 [30]が愛宕郡の鷹峯から愛宕神社を移し、旧名から愛宕大権現と号した。慶俊が鷹峯から愛宕神社を移した時、和気清麻呂公が愛宕山に白雲寺を建てた」としています。
役行者と泰澄上人が祀った愛宕山の「清滝四所明神」は明治の神仏分離令(神仏判然令)で廃されましたが、室町時代に愛宕山から西麓の原(現在の右京区嵯峨樒原)に勧請されており、そちらは今も四所神社としてお祀りされています。
実は、この樒原の四所神社さんは私にとっては思い出深い地で、昔、愛宕の歴史について学んでいた頃、よくお参りしていました。

1997年(平成9年)の『寺院神社大事典 京都・山城』では、(この説は延喜式の記述と合わないとして疑問視していますが、)「丹波国桑田郡国分村の愛宕神社から山城国愛宕郡鷹峯に愛宕神社を移し、さらに鷹峯から愛宕山の上に愛宕神社を移した」説を取り上げており、元は『神祇拾遺・諸社根元記』から引いた説だとしています。
ところが、私が調べたかぎりでは、『諸社根元記』(の写本)にはそのような説はなく、代わりに、なかなか面白いこじつけめいた話が見えるのみです。
いわく、高天原の地は京都であり、「(三種の神器の)八咫鏡は京都の八咫児山から発掘された、それが後の愛宕山だ」といった内容で、つまり、「八咫児山(やたごやま)」が「愛宕山(あたごやま)」に転じたとしています。
愛宕山の地中から宝鏡が発掘された、というエピソードじたいは月輪寺さんの縁起にも見えますが、それを八咫鏡と重ねたものでしょうか。
正徳元年(1711年)の『山城名勝志』も『諸社根元記』の説を引いていますが、

愛宕護山
諸社根元記ニ云西ニ八咫ノ嶺アリ日ノ神岩戸ヲ出サセ給フ其御光ノサシムカフケシキ八咫ノ鏡ニ顕レタルヲ名付テヤタノ峯ト云フ後世ノ人アタコノ山と云フ
『山城名勝志』

と少し内容が異なります。
『山城名勝志』の編者が目にした『諸社根元記』は今に伝わる版(写本)とは異なる可能性もありますが、意図的に改めた可能性もあります。
これに限らず、『諸社根元記』は吉田神道観ともいえる「こじつけ」話が多数見られますが、江戸時代の京都は吉田神道の影響を強く受けており、このような話が半ば通説化していました。

「愛宕山」の由来について、こういった、他では見られない説として、内容そのものはともかくとして、1913年(大正2年)の『蝦夷天狗研究』に「本邦の愛宕は。創世記の所謂『アタム』と同一神名なるべく」と見える、アダムが転じたとする私説もあります [31]

『神祇拾遺』を見てみると、こちらも写本によって字が微妙に異なりますが、肝心の部分は変わらず、

愛宕權現
當社明神ノ御事上代ハ平安城ノ北鷹峯ノ東ニ降坐シテ光仁天皇御字天應元年釋慶俊今ノ愛宕ノ靈地ヲ開移奉ル也仍神役ニ仕ヘ奉ル禰宜今ニ北山ノ麓ニ居ヲ卜シテ祭奠ノ日ノミ供奉シタテマツル
『神祇拾遺』

と、こちらでは「(天応元年に)鷹峯の東から慶俊が愛宕山に愛宕神社を移した」としているのみです。
卜部兼満(吉田兼満)の筆によるとされる『神祇拾遺』は室町時代に成立したと考えられていますが、「鷹峯の東」説が現れるのはこの時期からでしょうか。
この当時の愛宕山は修験の山となっており、「神に仕え奉る禰宜は『北山の麓』に居を卜(ぼく)して『祭奠ノ日』(祭事)のみ御供し奉る」状態であったことも窺えます。
「北山の麓」が具体的にどこであるかは分かりませんが、この当時、衣笠大北山鷹峯大宮西賀茂あたりは「北山の麓」扱いされていましたので、その付近かもしれません。

両誌に目を通したかぎり、「丹波国桑田郡国分村の愛宕神社から山城国愛宕郡鷹峯に愛宕神社を移し、さらに鷹峯から愛宕山の上に愛宕神社を移した」説は『神祇拾遺』にも『諸社根元記』にも見当たらず、『寺院神社大事典 京都・山城』が本当に『神祇拾遺・諸社根元記』からその説を引いたのか疑問が残ります。
『神祇拾遺』に「鷹峯ノ東ニ降坐シテ(くだりましまして)」と見えるように、室町時代には鷹峯が愛宕権現降臨の地だと考えられていたことから、私は「丹波国桑田郡国分村の愛宕神社から山城国愛宕郡鷹峯に愛宕神社を移し、さらに鷹峯から愛宕山の上に愛宕神社を移した」説は、さらに後世の謬説ではないかと考えています。
少し考えてみれば分かることですが、「山城国愛宕郡鷹峯にあった愛宕神社を別の山の上に移した」説では、「愛宕郡にあった神社を遷したから、その地名に由来して愛宕神社と呼ばれるようになった」であるのに、それ以前に他の地に「愛宕神社」があったというのも不思議な話です。
加えて、「山城国愛宕郡鷹峯にあった愛宕神社を別の山の上に移した」説では、やたらと伝説的な偉人の名前を引き合いに出すにもかかわらず、「丹波国桑田郡国分村の愛宕神社から山城国愛宕郡鷹峯に愛宕神社を移し、さらに鷹峯から愛宕山の上に愛宕神社を移した」説では、「国分村の愛宕神社から鷹峯に移した」人物の名前が挙がらないのも奇妙だと考えています。
山城国側の史料にそういった説がいっさい見えない理由も謎です。

「はじめは山城国愛宕郡鷹峯にあった愛宕神社が、その後、慶俊と和気清麻呂により愛宕山の上に移された」説は、ごく近代に至るまで、江戸時代頃の京都では広く知られ、愛宕の地元である嵯峨の方々にまで受け入れられていた説だったにもかかわらず、後世に伝える方が減っており、現代では失われつつある伝承と化しているのが惜しいかぎりです。
諸説を取り上げるのであればともかく、ある一説のみが広まる風潮は公平とは言えないと考えていることもあり、こちらに記録として残しておきます。
ただし、私は鷹峯に愛宕神社の前身となる神社が絶対にあったと断定しているわけではありません。
そういった伝承が生まれるには何かしらの理由があり、たとえば、鷹峯と愛宕は「鷹」や「愛宕」の地名や音で繋がりがある、おそらく、古人は何かしらの関連性を見出したのではないか、とは考えています。

権僧正公朝
我國の數のこほりの内にしも愛宕の里の大宮所
『夫木和歌抄』

鎌倉時代後期に成立した『夫木和歌抄』(夫木集)に権僧正公朝 [32]の歌が収められています。

「我国の(山城国の)数のこほりの(葛野郡の)内にしも」「愛宕の里の大宮所」。
「大宮所」は神社や御所の過去の(かつての)所在地を指す。

この歌はなかなか難しく、古くから解釈が分かれていたようですが、「もとのおたぎをよめる歌」とも解される、つまり、愛宕郡の愛宕神社をしのぶ歌だと解釈する説があります [33]
権僧正公朝は、藤原氏(姉小路家)から鎌倉執権北条氏(名越家)へ養子に入ったとされ、如意寺法印円意 [34]の弟子となり、北条氏と園城寺(三井寺)や京都との結びつきを強めたとされます。
これは余談(でもない)ですが、源実朝を暗殺した公暁も如意寺に入っており、北条義時と公暁、園城寺の関係は後世で憶測を生みました。

念のために補足しておきますが、私は「丹波国桑田郡国分村→山城君愛宕郡鷹峯→愛宕山の上に神社を移した」説に疑問を呈しているだけで、諸誌に見える「愛宕郡鷹峯→愛宕山の上に移した」説や、亀岡市の愛宕神社さんの元の社伝に見える「国分村→愛宕山の上に移した」説を否定しているわけではありません。

A説 諸誌に見える「愛宕郡鷹峯にあった神社を移したから愛宕神社」説
B説 国分の愛宕神社に社伝として伝わる「元愛宕」説
C説 「国分の愛宕神社(元愛宕)から鷹峯に移し、さらに愛宕山に移した」説

しかしながら、C説についてはA説とB説の辻褄を合わせるために附会した話だと考えています。
C説は「愛宕」の地名の変遷において致命的な問題を抱えており、それを解決するためには、山城国側に「愛宕郡」の地名(郡名)が成立するより先に、丹波国側(国分側)に「愛宕」の名が存在していたことを立証し、さらに山城国側の「愛宕郡」の地名(郡名)がその地ゆかりであることを立証する必要があります。
また、『神祇拾遺』で愛宕権現が最初に降臨した地を「鷹峯の東」としていることと齟齬が生じる点や、なぜ山城国側の史料にそういった説が全く見えないのかについても考える必要があるでしょう。
現状、根拠がないC説を広めている方がいらっしゃることを憂慮しています。

個人的な見解を付け加えておくのであれば、A説についても、『神祇拾遺』あたりから広まった話が、江戸時代の京都で通説化していただけではないかとも考えています。
愛宕については、「アタゴ」の音が先にあったと考えられており、その説に立てば、どのような表記であれ、漢字は当て字に過ぎません。
その「アタゴ」の音が持つ意味が、愛宕郡(おたぎのこおり)の「おたぎ」と同義かは分かりません。

鷹峯の北にあったとされる愛宕神社の旧跡はどこ?

鷹峯の岩戸妙見宮(円成寺)

愛宕神社旧跡の「石門」(西門)があったとされる「鷹峯の北」は、地形から見て、現代における釈迦谷山のあたりを指していると考えられます。
ただし、室町時代の『神祇拾遺』や、戦前までの愛宕神社さんの社伝にも見えるように、愛宕神社じたいは「鷹峯の東」にあったと考えられていました。
それが江戸時代頃には旧跡の石門の位置と混同され、愛宕神社まで「鷹峯の北」にあったとする史料が増え出したのです。

鷹峯街道を挟んで光悦寺さんの北向かいに対峙する圓成寺さん。
俗に「岩戸妙見宮」や「鷹峯の妙見さん」と呼ばれていますが、その圓成寺さんの境内には「巖門の滝」と呼ばれる滝が打っています。
「巖門の滝」の案内には「当山の裏山約六百米の地に巌門と呼ばれる霊巌がある」との記述があり、場所としては「鷹峯の北に残る愛宕の石門」と一致します。
この「巖門の滝」は過去に何度か参拝、拝見していますが、圓成寺さんの境内は写真撮影禁止ですので、私の手元には写真がありません。
インターネット上では滝の写真も何点か見付かりますが、許可を受けて撮影なさったものかは分かりません(と書いておいたら、いつの間にやら皆さん消してしまわれたようで、ほぼ見当たらなくなりました)。
私が訪れた際もカメラのシャッターを切る方がいらっしゃいました。

天津石門別稚姫神社の石門

史料を見てみると、江戸時代頃には、当地(鷹峯の北)を式内社の「山城国葛野郡 天津石門別稚姫神社」に比定する向きもあったようで、「元愛宕神社の石門」、「天津石門別稚姫神社の石門」、それに、これは後述しますが、「霊巌寺の岩廉」という、3つの「石門」伝説が重なる地であったことが分かります。
ただし、当地は歴史的に見て山城国愛宕郡を外れたことはなく、葛野郡の神社があったとは考えにくいです。

先にも引いた、明治政府による「延喜式神名帳」の論考・調査史料である『特選神名牒』では、鷹峯の北の「石門」は愛宕神社の旧跡である説に立っていることもあり、

天津石門別稚姫神社
今按山城志に在鷹峰ノ北今呼石門巨巌並立高丈余似門關之狀妙見ノ祠倶廢ス式屬葛野郡今入本郡
されど式内考證に此地古へ愛宕神社の鎮座せし所なれば葛野郡の式社此地にありとは定め難きか
『特選神名牒』

としています。

「天津石門別稚姫神社」の地として、真っ先に「鷹峯の北の石門」を挙げているものの、「『山城志』 [35]では、鷹峯の北にある石門の地を式内社の天津石門別稚姫神社としているが、『式内神社考証』によると、この地は愛宕神社の鎮座していた所であるから、葛野郡の式内社がこの地にあったとは定めがたいか」として、けっきょく、「天津石門別稚姫神社」説を否定しています。
『特選神名牒』では、「天津石門別稚姫神社」の地として、この後、葛野郡小野上村の落葉社相殿の岩戸神社 [36]の名前を挙げていますが、「是亦由來詳ならずして徴するに足ものなき也と云り今廢たるにや」と、今ひとつ煮え切らない書き方に留めています。
今でも「山城国葛野郡 天津石門別稚姫神社」がどこに所在したのか分かっていません [37]

西賀茂船山の霊巌寺妙見堂

本記事の最初のほうで引いた、正徳元年(1711年)の『山州名跡志』に興味深い記述が見えます。

妙見堂
正傳寺後山西北峯。土人片言に めけん堂と云ふ。古此所に妙見菩薩の堂あり。毎歳七月十五日の夕、聖靈会の送火を船の形に燈すは此峯也。京師の男女爭て見之。

鐘伐山(カネウチヤマ)
同麓の山也、件の火を燈す時、於此峯鐘を敲て念佛するなり。

『山州名跡志』

『山州名跡志』に見える「妙見堂」は、現在の船山の南東域、西賀茂に所在したとされる北山霊巌寺の妙見堂(があった山)を指しています。
この妙見堂は鷹峯の岩戸妙見宮さんとは別のお堂で、『山州名跡志』が記された江戸時代中期には完全に失われていました。
このことは「古此所に妙見菩薩の堂あり」の描写で明らかです。
現代において、船山の東面や北面の住所地名が「京都市北区西賀茂妙見堂」なのは、その名残でしょう。
京都市によると、「妙見堂遺跡」について、「西賀茂の船山東南東の谷筋に3箇所の平坦地が認められる。9世紀~13世紀に当該地周辺にあったとされる霊巌寺妙見堂に関連する施設の可能性あり」としています。

平安院政期に成立したとされる『今昔物語集』の「巻三十一 霊巌寺別当砕巌廉語第二十」(霊巌寺の別当が巌廉を砕く)には、霊巌寺から三町(約330m)ばかりの場所にあった巌廉(いわかど=岩門)が道を塞いでいるので、周りの反対を押し切って寺の別当が巌廉を鉄槌で散々に砕いたら、そのまま巌廉ごと霊巌寺も廃れてしまった、寺の跡は木伐(きこり)の道となってしまった、といった説話が見えます。
正伝寺さんの北西300m~、船山の山頂から南面(一部は京都GC舟山コース内)にかけての住所地名が「北区西賀茂岩門」であるところも見逃せません。
京都市の推測、『山州名跡志』の描写、あるいは今に残る地名から見ても、(説話そのものが事実であるかは別として、)「砕かれた霊巌寺の巌廉」はこのあたり(船山の山中=妙見堂山の山中)にあったと考えられていたのでしょう。
このエピソードじたい、大岩が高岑寺の道を塞ぎ、結果的に、それが遠因となって高岑寺が廃れた(と考えられる)という『日本三代実録』の話と共通点が見られますが……。

『今昔物語集』の描写を見るかぎり、霊巌寺の本堂などは平安時代後期には廃れていたようですが、妙見堂だけは鎌倉時代に入っても残っていたようで、『小倉百人一首』の撰者として知られる藤原定家の日記『明月記』の寛喜3年(1231年)7月27日条に、

其所北山稱妙見堂、靈所之近邊也、可爲御山庄之地云々、愛宕護山脚天狗之集歟、甚無由之所也
『明月記』

と、定家自身が訪れたわけではありませんが、妙見堂を訪れた人の話が見えます。
残された妙見堂は「愛宕山の天狗の集いか?」など、かなりおどろおどろしい描写がなされており、荒れた人寂しい地となっていたことが覗えますね。
その後、妙見堂の存在を現在形で語る記録は見当たらず、やがて妙見堂も失われたと考えられています(ので、京都市では「9世紀~13世紀に当該地周辺にあったとされる霊巌寺妙見堂」としているのでしょう)。
本記事の上のほうで少しだけ天狗どうこう書いておきましたが、定家が聞いたということは、この話、当時の公家の間では知られていた可能性が高く、鎌倉時代には「北山妙見堂に愛宕山の天狗が集まる」という話が広まっていたのではないでしょうか。
これは個人的な見解ですが、愛宕神社があったとされる「鷹峯の東」は、本当は西賀茂を指しているのではないか、と考えています(が、「愛宕神社の旧地は鷹峯」という説が広まっているため、今さら、「鷹峯の東」について検討なさる方はいらっしゃらないでしょう)。

参考。

「山門堂塔の事」
(前略)
北京(ホツキヤウ)ニハ愛宕高雄ノ山モ昔ハ堂塔軒ヲ碾(キシリ)行學功ヲ積ケレ共一夜ノ中ニ荒レシカバ今ハ天狗ノ栖(スミカ)ト成ニケリ
(後略)
『源平盛衰記』(寛永中刊、片仮名附訓漢字片仮名交じり本)

この件で追記。
『神祇拾遺』の「鷹峯の東」、ならびに、『明月記』の「妙見堂に愛宕山の天狗が集まっていた」の描写から、愛宕神社の旧地は鷹峯ではなく、当初は西賀茂の設定だったのではないかと考えていましたが、「舟形(の字跡)」と「妙見堂」の間に、「愛宕權現 初テ 勸請ノ地」(愛宕権現はじめて勧請の地)と描かれた古い絵図を発見しました。
「鷹ヶ峯」や付近の「石門(イハモン)」からは明確に離れた位置に描かれており、過去にも私と同じようなことを考えた方がいらっしゃったようです。
作成・印刷年代が分からないのが惜しい (それ以前に原板が存在するのか不明ですが、江戸時代中後期、寛政年間に刊行されたもののようです)ですが、少し嬉しかったり(笑
追記終わり。

『山州名跡志』では「正伝寺の裏山の北西の峰に昔は妙見菩薩のお堂があった」「旧暦7月15日に『舟形』の送り火をともすのはこの峰」「送り火の時、その麓の鐘伐山で鐘を衝いて念仏する」としていますので、妙見堂の山が現代における船山を指していることは明らかです。
正伝寺さんの裏山の住所地名は「北区西賀茂毘沙門山」。
妙見菩薩さんは北方守護の仏様ですが、毘沙門天さんも北方守護の仏様です。

愛宕神社の石門は釈迦谷山?

石門(イハモン)
鐘伐山の南に續て丘山あり。其渓を西に越る西麓を云ふ。此所古愛宕權現社、最初勸請の所にして、柱礎跡あり。號石門は其所西面に南北に並で石二つ有て、門を構るに似たり、仍て號る也。是則彼社の西門の所也。此所の順路は、紫野の上紫竹の北を行くこと、七八町にして入西也。
『山州名跡志』

続けて、「鐘伐山の南に続いて丘陵があり、その谷を西に越える西麓に愛宕神社の石門がある」としています。
『山州名跡志』では「鷹峯」の項目を別に取っており、鷹峯界隈の名所としてではなく、西賀茂や大宮界隈の他の名所と併せて「石門」を紹介しているため、「石門」の所在地は西賀茂や大宮のあたりでありながら、それでいて「鷹峯の北」と呼ばれてもおかしくはない地点となります。
まず、「鐘伐山の南に続く丘山」は今の薬師山だと推測できます。
「其渓を西に越る西麓」の解釈が分かれますが、「その谷」が現代における釈迦谷の谷(若狭川)を指しているのであれば、それを越えて西の釈迦谷山の山麓だと考えられます。
「西面に南北に並んだ石が2つあり、門を構えるのに似ているから『石門』と号する。これは愛宕神社の西門にあたるところだ」と具体的な描写が見えますので、この時代には明確に残っていたのでしょう。
「石門」へ行くには、紫竹の北を7、8町(760~860m)行って、西に入るとしています。
もし、釈迦谷山の山麓を指しているとすると、紫竹通から北に750m進み、西へ向かえば大宮釈迦谷ですので、描写として正確だと考えられます。

1903年(明治36年)観測の「点の記」では、釈迦谷山の俗称を「ノノゲン山」としていますが、その由来は分かりません [38]
また、それが愛宕や鷹峯と繋がるかも不明です。
これは別の記事で少し触れていますが、釈迦谷山から堂ノ庭(京見峠)周辺にかけて、古くは大徳寺の寺領として山中に子院が設けられた時代もあります。
今となっては府道西陣杉坂線の整備が進み、昔時の面影は失われていますが、多くの信仰が入り交じった土地であり、私の興味も尽きません。

大宮釈迦谷に愛宕山があった

追記しておきます。
かつて、圓成寺さんの裏山にあたる約230m小ピーク(釈迦谷山の南東0.4kmの小ピーク)を「愛宕山」と呼んでいたそうで、この地に石門があったそうです。
釈迦谷山の周辺は開発が進み、すでに昔時の姿は留めていないものの、「西面に南北に並んだ」石門は今も(道路の付近に)一部が残存するとのこと。
付近を何度も何度も通っているにもかかわらず、今まで見落としていた、気付かなかったようです。
確かに、この山が「石門の山」であれば、『山州名跡志』などの描写とも一致します。
また、京都市が京見峠に設置した案内板で「釈迦谷山」を「鷹峯」としているのも繋がります。

ただし、この釈迦谷山に残る石門については、別の解釈として、霊巌寺の砕かれた巌廉とする見解もあるようです。
しかしながら、それは距離的にも地名的にも合わないのではないか(『今昔物語集』では、鉄槌で散々に砕かれた巌廉=岩門は霊巌寺から三町ばかりにあったとされており、それらしい推定距離地点に今も西賀茂岩門の住所地名が残る)、やはり、各史料の描写から判断するかぎり、釈迦谷山の当地(住所地名は大宮釈迦谷)は、いにしえ愛宕神社の石門と考えられていた地点のように思えます。
そもそも、霊巌寺の巌廉は「大きなる鐵槌を以て打碎けれ」て散々になってしまい、それゆえに霊巌寺も勢いを失った、という説話ですから、その形を留めているとは考えられません。
霊巌寺の砕かれた巌廉(おそらく妙見堂山=船山の山中にあったと考えられていた)と、愛宕神社旧跡とされる石門(鷹峯の北=釈迦谷山にあったと考えられていた)とでは、指している場所が明らかに異なります。
もっとも、いずれも伝承に基づく話であり、時が経つうちに、どこかで何かしら混同されていったのでしょう。

1911年(明治44年)の『京都府愛宕郡村志』における「鷹峰村志」では、

愛宕神社舊址
本村より周山に赴く山路の登り口二町許の所に突兀として双岩の直立する所あり天應元年以前愛宕社在りし地なりと云ふ
『京都府愛宕郡村志』

としており、明治時代頃に地元(山麓)の鷹峰村では愛宕の旧跡と見なしていたことは確かです。

最後に

最後に、私自身の個人的な見解として、愛宕神社の話は別として、当地の石門の伝説じたいは、先に取り上げた『日本三代実録』における北山高岑寺の噂話がベースとなっている可能性がある、と考えていることを付け加えておきます。
本記事はだらだらと長く書かれていますが、基本的には全ての話が繋がっており、鷹峯に始まり、鷹峯に終わります。
なにかしらの参考になれば幸いです。

光悦寺から京都東山を眺望

光悦寺の展望地から京都東山を眺望 将軍塚、清水山、醍醐山、鷲峰山など
光悦寺さんの「鷹峯三山」展望地から京都東山を眺望。将軍塚、清水山、醍醐山、鷲峰山など。

主な山距離標高山頂所在地備考
清水山8.5km242.2m京都府京都市東山区
醍醐山15.3km454m京都府京都市伏見区
大峰山23.0km506.3m京都府綴喜郡宇治田原町最高点は約510m
空鉢峰
(鷲峰山)
29.5km682m京都府相楽郡和束町

光悦寺さんから見て、(山としての)鷹峯(鷹ヶ峰)の左に京都の一部、とくに東山方面が開けています。
大文字山などは見えませんが、なだらかな東山の連なり、その後方には醍醐山地、さらに鷲峰山まで遠望できます。
東山の建築物は青蓮院さんの将軍塚青龍殿のみ示しておきましたが、その山麓(下)には知恩院さんが、清水山の山麓(右下)には清水寺さんなどが写っています。

左端で目立つ山は西千頭岳(千頭岳三角点峰)ではなく、その西に所在する標高点552m周辺です。
このピークは遠くからでも目立ちますが、かつての京都国際CCさんのゲート前という場所柄、山登りの対象とはならず、とくに固有の山名のようなものは見出せません。

さておき、間近に山を見上げたら登りたくなるのが人情というものですよね!

整理の都合で記事を分けます。

京都北山 早朝の沢ノ池・沢山 京都一周トレイル 2015年9月

鷹峯三山 天峯(桃山)ハイキング 護法ヶ谷から吉兆山へ

2015.12.24

上の記事に続きます。
紙屋川の源流域から「鷹峯三山」天峯(天ヶ峰)を登りました。

関連記事 2015年11月 鷹峯三山 光悦寺と桃山ハイク

すべて同日の山行記録です。併せてご覧ください。

鷹峯 光悦寺(OpenStreetMap日本)

クリック(タップ)で「光悦寺」周辺の地図を表示
「光悦寺(コウエツジ)(こうえつじ)」
展望地の標高は約150m
京都府京都市北区鷹峯光悦町 付近

脚注

  1. 近衛信尹は慶長19年(1614年)没で、そもそも、寛永年間(1624年~1644年)を生きていません。「寛永の三筆」の称は、それを見落とした人物による後付けであることは明らかです。「寛永文化」と称された時代にあやかったのでしょう。明治30年代には用例を確認できます。[]
  2. 伏見宮貞敦親王の孫。青蓮院門跡。後に天台座主。和歌や書に優れていました。[]
  3. 伏見宮邦輔親王の子。青蓮院門跡。後に天台座主。『唐崎松之記』(唐崎松記)(辛崎松記)などの筆者。とくに書に優れ、光悦も教えを受けました。[]
  4. 照高院道澄。近衛稙家の子。近衛前久の弟。聖護院門跡。和歌や書に優れていました。[]
  5. ネット上では「近衛流=三藐院流」と断定する風潮がありますが、ここでの「近衛流」は近衛稙家以降の書風を指します。[]
  6. 寛文2年(1662年)の『案内者』に「大の字は三藐院殿の筆」と見えます。近い時代の『洛陽名所集』や『出来斎京土産』では、具体的な名前は示していないものの、近衛流とも関わりが深い青蓮院門跡を「大」の筆者としており、事実はどうであるか分かりませんが、青蓮院流の流れを汲む筆跡と見ていた方々がいらっしゃったようです。[]
  7. 現代でもよく知られる「近江八景」については、近衛信尹が膳所城からの八景を詠んだ歌が始まりとされます。江戸時代前期、序文に延宝3年(1675年)とある『遠碧軒記』に「八景 近江 和歌陽明殿信尹公」と見え、その時代には信尹説が知られていました。1980年(昭和55年)の『新修 大津市史 第3巻 近世前期』によると、成立年代は不詳ながら、より古い時代の謠曲に「近江八景」があり、そちらには「真野暮雪」や「比叡晩鐘」など、選定対象や事象の組み合わせが異なる八景の一部が挙がります。いわば信尹版「近江八景」が後世に広く支持され定着し、現代まで伝わったのでしょう。[]
  8. もう少しはっきり書けば、本来、「芒」の札に描かれているのは山ではなく、武蔵野に広がる野原か丘陵地を広角的に表現した構図であると考えられます。花札といえば京都の任天堂さんが有名ですが、花札の図案はあのメーカさんが独自に考案したわけではありません。詞書に見える「野径(やけい)の月」の「野径」は「野路(のじ、のみち)」、すなわち、野原の中の小道の意。そもそもで申し上げれば、花札が「武蔵野」とも呼ばれていたのは、この札の図案に因るものです。したがって、花札図案の研究においては、「芒」の札=鷹峯説じたいが取り上げられることすらありません。[]
  9. 比叡山の北に水井山と横高山が所在します。延暦寺さんでは横高山を「釈迦ヶ岳」と呼んでいらっしゃいますが、横高山に隣接する水井山に三角点が設置されるにあたり、その点名が「釈迦岳」とされました。このように、三角点の点名が必ずしも正しい山名を示しているとは限りません。[]
  10. 釈迦谷山の三角点は京都市北区大宮に、城山の三角点は北区西賀茂に所在。鷹峯地区の山域はかなり広いのですが不思議なものです。[]
  11. 釈迦谷山は鷹峯地区ではなく大宮地区に所在しており、そのことはもちろん京都市でも把握なさってますので、この括弧内の「鷹峯」については、住所地名としての「鷹峯」ではなく、山名としての「鷹峯」を指しているとしか考えられません。[]
  12. 1903年(明治36年)観測の「点の記」に「俗稱 城ヶ峯」とあります。[]
  13. 原文では「鷹網(あみ)」ではなく「鷹綱(つな)」ですが、光彩社版の「新修 京都叢書」収録分などでは「網」と翻刻しています。「網」とした理由が定かではありませんが、文意としては「網」が正しいと考えられます。[]
  14. 『拾芥抄』は鎌倉時代末期に成立した説や、鎌倉時代中期に原型が成立し、何度か追補された説などがありますが、現存写本は室町時代以降。[]
  15. 紙屋川(天神川)は吉兆谷や原谷を源頭とします。本記事の次回以降の記事で源流域を歩いています。[]
  16. 真済僧正。平安時代前期の僧。弘法大師空海の高弟。東寺の一の長者。高尾山(高雄山)で修行し、神護寺の発展に大きく寄与したと伝わります。紀御園(みその)なる人物の子とされますが、父については、紀御薗、紀三園、紀御國、紀御園など、史料によって混同が見られます(写本や翻刻の誤りもあるでしょう)。『紀家集』の断簡では「左京の人で祖は御薗法師」。平安時代の『天台南山無動寺建立和尚傳』(天台南山無動寺建立和尚伝)(相応和尚伝)では「紀僧正は紀氏三園の子」。鎌倉時代の『元亨釋書』(元亨釈書)では「姓は紀氏で朝議郎御國の子」。『平家物語』『源平盛衰記』『曾我物語』(曽我物語)では「柿本の僧正」や「柿本の紀の僧正」。『南都高僧傳』(南都高僧伝)では「高尾僧正号柿本木僧正」。『本朝神社考』では「紀の朝臣御國の子で、柿本の紀の僧正」。明暦4年(1656年)の『京童』では「紀御國の子で、柿木の紀の僧正」。元禄15年(1702年)の『本朝高僧伝』では「姓は紀氏で弾正大弼御園の子」。後世の史料や物語で、やたらと「柿本」の字が見えるのは、真済は柿本人麻呂の縁戚(又従兄弟)とする説が知られていたからです。『京童』では「染殿の后をみてこころまどひ。思ひの火をむねにたき」死して大天狗になったとしています。「染殿の后」は文徳天皇の女御の藤原明子。「染殿の后」に横恋慕した真済が天狗と化したエピソードは、平安時代の『天台南山無動寺建立和尚傳』や、それを引いたとされる平安時代後期の『拾遺往生傳』(拾遺往生伝)に見えますが、当時はあくまでも「天狗」(柿下天狗)であり、この話が生まれた当初から「愛宕山の太郎坊=真済」と扱われていたわけではないようです。大天狗は高僧や身分が高い人のなれの果てとされます。真済は僧正位にまで上りますが、後ろ盾だった文徳天皇の急死により隠居に追い込まれ、晩年は不遇だったようです。そのあたりから大天狗の太郎坊の正体説が生まれたのでしょう。なお、文徳天皇は惟喬親王や清和天皇の父、藤原明子は清和天皇の生母。惟喬親王の生母は紀名虎の娘。真済の出自も紀氏とされますので、真済が遠ざけられた原因として、惟喬親王と清和天皇の皇位継承争いの影響も考えられます。事実がどうであったかは分かりませんが、『平家物語』『源平盛衰記』『曾我物語』など、後世には真済を惟喬親王派の僧と扱う物語が見られます。また、東寺(真言宗)と延暦寺(天台宗)の対立も指摘されます。[]
  17. 現代では「タカオ」は「高雄」の表記が一般的ですが、かつては「鷹尾」も用いられていました。[]
  18. 慶俊僧都。藤井氏の人。奈良時代後期の高僧で、弘法大師空海が御遺告(二十五箇条遺告)で「珍皇寺を建立したわが祖師」(珍皇寺 右寺建立大師是吾祖師故慶俊僧都)として名を挙げており、六道珍皇寺を開基したと伝わります。[]
  19. 1936年(昭和11年)の『京都府神社略記』(京都府神職会・編)による。社伝では「鷹峯の東」なのに、多くの史料で「鷹峯の北」とする原因は後述。[]
  20. 平安時代前期~中期の歌人。藤原国経の子。国経・滋幹の親子については、後世、谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』で知られます。[]
  21. 山城国葛野郡水尾村→京都府葛野郡嵯峨村大字水尾→同嵯峨町大字水尾→京都市右京区嵯峨水尾。[]
  22. 『新古今和歌集』の撰者の一人。多作の歌人として知られ、その家集『壬二集』(玉吟集や家隆集とも)には約3200首! もの歌が収められています。それでも、「愛宕(の山)」を歌枕としたのは、私が知るかぎり、この1首のみです。[]
  23. 『堀河百首』には源俊頼や大江匡房、藤原顕仲ら14名の歌を収めた本のほか、後に源顕仲や永縁の歌を加えた伝本もありますが、この歌は源顕仲の歌が無い14名本にも収載されていますので、おそらく前者でしょう。[]
  24. 九条稙通。幸田露伴の『魔法修行者』で「飯綱の法」を修めた人として描かれます。入洛した織田信長や、あるいは羽柴秀吉(豊臣秀吉)に対し、藤氏九条家の公卿として、毅然とした(偉そうな)態度を貫いたとされ、そういった振る舞いについて、『魔法修行者』では「飯綱の法の成就している人だけに、天狗様のように鼻が高かった」とたとえています。「飯綱の法」は信濃の飯縄山の修験者による術法で、時には外法や魔法とも扱われていました。[]
  25. 江戸時代後期の国学者。本居大平(本居宣長の養子)に国学を学び、多くの神社由緒や史籍の考証にあたりました。いわゆる神代文字を否定したことにより、日文(ヒフミ)を広めた平田篤胤と決別したことでも知られます。[]
  26. 1923年(大正12年)の『京都府史蹟勝地調査会報告 第5册』に「国分愛宕神社」として収録。[]
  27. 「この時点では」としているのは、平成になり再編された『平成版 嵯峨誌』では、なぜか、この部分が「亀岡の愛宕神社から鷹峯に移し、鷹峯から愛宕山に移した」といった内容に書き換えられているからです。ただし、その根拠として提示されているのは、本記事内でも引用している山城国側の既知の史料の名前ばかりで、それらの史料には「亀岡の愛宕神社から鷹峯に移し、鷹峯から愛宕山に移した」とは書かれておらず、根拠となりえません。[]
  28. 役小角。奈良時代の修験者で、後の弘法大師空海と同様、数々の伝説を残しました。多くの山の開山、開基に名前が見られます。[]
  29. 奈良時代の高僧。白山を開山したことで知られます。個人的に、『雍州府志』で愛宕山の旧名を手白山(あるいは白山)としているのは、泰澄に由来するのではないかと考えています。愛宕山との関わりとしては、他に鎌倉山月輪寺を開基したとも伝わります(慶俊を中興の祖とします)。記事本文で触れていますが、月輪寺さんも鷹の山です。[]
  30. 奈良時代~平安時代初期の貴族。慶俊と同様、道鏡により排斥されますが、後に桓武天皇に重用され平安京遷都の造宮大夫(責任者)として尽力しました。愛宕山だけではなく、嵯峨清涼寺や高雄神護寺(高尾山寺)の創始にも深く関わります。[]
  31. 『蝦夷天狗研究』によると、鞍馬山はバラモン教の「ブラマ」が転じて「クラマ」となっただの、大江山の酒呑童子「シュテンドウシ」は修験道士「シュゲンドウシ」だったものを後世の人間が漢字の変更を企てただの、なかなか面白いです。ただ、この本は天狗について深い知識を有した方が執筆なさっていることは確かです。古代ヘブライに天狗や修験道の起源を求める説は、いわゆる日ユ同祖論(日猶同祖論)とも相性が良かった。初期の同論では日本に渡った、いわゆる「失われた10支族」が鞍馬寺を開いたとしてます。[]
  32. 鎌倉時代の高僧、歌人。『灌頂脈譜』に名前が見える園城寺別当。北条(名越)朝時の子。北条義時の孫。『北条氏系図考証』によると姉小路(藤原)実文の子で北条朝時の養子としていますが、この北条公朝(姉小路公朝)の従兄弟にも姉小路公朝がいます(姉小路実文の弟である姉小路実尚の子)。[]
  33. 平安京の洛中洛内が本当は愛宕郡や葛野郡に属する(属していた)ことを惜しんで詠んだ歌だと解釈する説もありましたが、これは明治時代頃には否定されていたようです。白洲正子さんによる『京のかくれ里』「愛宕山あたり」に「かつて、大宮人の精神のうちにあった愛宕」の一文が見え、そうとは書かれていないものの、この歌に影響を受けたのではないかと考えています。[]
  34. 当ウェブサイトではおなじみ、如意ヶ岳(大文字山)の山中にあった、園城寺子院の如意寺の法印。法印は大和尚位。[]
  35. 江戸時代中期(享保年間)に編纂された、いわゆる『五畿内志』を指しています。当該部分は『日本輿地通志 畿内部 巻第五 山城國之五 愛宕郡』に収録。[]
  36. 現在の北区小野下ノ町に所在する岩戸落葉神社さん。美しいイチョウの大樹で知られます。天津石門別稚姫神社の論社の一座。[]
  37. 『特選神名牒』では名前が挙がらないものの、参考社として、北区雲ケ畑の厳島神社さんがあり、文化10年(1813年)の『神名帳考證』(伴信友神名帳考證土代)では「或曰今雲畠今辨財天社此乎」としています。しかしながら、山城国編入後の雲ケ畑は愛宕郡を外れたことはなく、「鷹峯の北」と同様、葛野郡の神社と見なすのは難しいです。[]
  38. 大宮の地とゆかりある医者、野間玄琢(のまげんたく)と関係があるかもしれませんが不明。野間玄琢は本阿弥光悦や、当ウェブサイトではおなじみ石川丈山とも親交がありました。玄琢は地名として今も大宮に残っており、当地に廟所もあります。[]

Facebookでもコメントできます。

2 件のコメント

  • 京都北西部の水脈を調べていて、愛宕権現社の旧地が、鷹峯の東であったのでは、という貴殿の文章を読んで、森幸安の城地天府京師地図をみていると、次のような文章に出くわしました。薬師山の南の所に『此邉愛宕権現社ノ古蹟也 往時葛野郡嵯峨山朝日ノ峰ニ還ス 此舊地愛宕郡ノ右因ミテ其地愛宕山大権現ト称ス 今此ノ大門惣門等ノ村名ハ其ノ神社ノ遺跡ト云』
    又、同、山城國旧地図の長坂沿い西側『綿子山霊岩寺 一名妙見寺』その下に『天津石門別稚姫社』、その南に『高岑寺』の記載があります。ご参照下さい。URLは以下の通りです。
    城地天府京師地図 https://sekiei.nichibun.ac.jp/MOR/info/12/017/i/00/image/z/index.html
    山城國旧地図   https://sekiei.nichibun.ac.jp/MOR/info/12/005/i/00/image/z/index.html

    • こんばんは。コメントありがとうございます。
      (それが事実を示しているかどうかは別として、)絵図が描かれた時代の人間の知識や考えが伝わり、とても参考になりますね。
      個人的には、綿子山もそうですが、『山城國旧地図』に見える、他の絵図や史料に名前が見えない山名に惹かれるものがあります。
      たとえば、旧花脊峠のピークが「花瀬嶺」、これは現代における天狗杉の周辺でしょうか。
      京見峠のピークが古くは足上山と呼ばれていた、という話は当方の過去の記事でも取り上げていますが、この絵図にも名前が見えます。
      なかなか興味深いものがあります。ご紹介いただきありがとうございました。
      体調ならびに精神的な問題から、文章を上手く書けなくなっており、短文による返信となることをご了承ください。

  • コメントする

    コメント本文の入力のみ必須。お名前(HN)とメールアドレス、ウェブサイトの入力は任意。
    管理人の承認後、お名前(HN)と本文のみ公開されますが、メールアドレスは管理人にのみ伝わり、他者に公開されることはありません。
    入力した本文の内容を確認後、よろしければ「コメントを送信」ボタンを押してください。
    当コメントフォームはGoogle reCAPTCHA により保護されており、訪問者が人かロボットかを識別しています。
    Google reCAPTCHA の動作に必須なため、ブラウザの設定でJavaScript を有効化してください。

    このサイトは reCAPTCHA で保護されており、Google の プライバシーポリシー利用規約が適用されます。

    Loading Facebook Comments ...

    ABOUTこの記事をかいた人

    Maro@きょうのまなざし

    京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!