京都市の最高気温、2016年(平成28年)5月23日は33.1℃。5月22日は30.5℃。
5月とは思えぬ暑い真夏日が続いています。そんな5月22日の話。
山登りからの帰り、紫色にライトアップされる京都タワーを撮影するため、観光地としての嵐山に寄り道を。
あいにくの酷い霞み空で、京都タワーの後方にそびえる醍醐山地の稜線すら曖昧な見え方でしたが、大気が汚れていた影響か、山の向こうから昇る紅の月を、大堰川(桂川)や京都タワーと合わせて眺望できました。
嵐山渡月橋から赤い満月と「夜明けの紫色」の京都タワーを望む。
お月さまの下には千頭岳の南尾根が連なりますが、上の写真では分かりにくいでしょう。
京都タワーの塔体が紫色に照らされているのは「リレー・フォー・ライフ・ジャパン・京都」 のがん征圧活動に賛同したものです。
公式には「ドーン・パープル」カラー(夜明けの紫色)とされます。
この特別なライトアップは、2016年(平成28年)5月21日と22日の両日に行われました。
5月21日の夜も別の山の上から撮影しましたが、ヤブカに刺された以外は特筆すべきこともありません。
今回の記事では5月22日の話を。
22日の「月の出」直前まで時間を遡ります。
正しく、「渡月橋(とげつきょう)の上」から京都タワーを撮影。
大堰川(桂川)に架かる渡月橋の上から紫色の京都タワーと音羽山を遠望する。
| 主な山、建築物 | 距離 | 標高 (地上高) | 山頂所在地 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 音羽山 | 16.5km | 593.0m | 京都市山科区 (滋賀県大津市) | |
| 西千頭岳 (千頭岳三角点峰) | 17.6km | 601.7m | 京都市伏見区 | 醍醐山地最高峰 |
| 京都タワー | 8.0km | (131m) | 京都市下京区 |
上の写真は渡月橋の北東端から撮影していますが、日没後とはいえ観光客の方もいらっしゃり、のん気に写真を撮影していたら通行の妨げとなることは明らかです。
よって、今回の写真で厳密に「渡月橋の上」から撮影した写真は上の1枚のみです。
上の写真では月の姿が見えませんが、この後に月が姿を現します。
渡月橋の北東端、「史蹟 及 名勝 嵐山」碑。
古くは「法輪寺橋」といい、当初はやや上流に架かっていたらしい。
かつては「嵐山虚空蔵」法輪寺さんへ至る道のりとしての性質が強かったのでしょう。
上の写真では右が渡月橋の上です。
先ほどの写真1枚のみ、そちら、橋の上から撮影しました。
他の写真は左の河川敷側(三条通側)で撮影しています。
京都タワーと大堰川を望むだけであれば、渡月橋の上に固執する必要はありません。
大堰川(桂川)の河川敷から渡月橋と嵐山城跡の山を望む。
お馴染みの構図ですね。
渡月橋の右奥に見えているのが「山としての」嵐山で、いわゆる嵐山城跡の山です。
この写真の撮影地点から京都タワーと赤いお月さまを撮影しましたが、話を分かりやすくするため、便宜上、残りの写真も「渡月橋から撮影した」(渡月橋の付近から撮影した)と述べておきます。
渡月橋の南(大堰川の右岸)が京都市西京区嵐山にあたり、山としての嵐山(嵐山城跡の山)もそちら側です。
小倉山や亀山公園(嵐山公園 亀山地区)が所在する、橋の北(大堰川の左岸)は京都市右京区嵯峨で、住所の上では嵐山ではなく嵯峨ですが、観光地としては右京区側も嵐山と扱う例も珍しくないでしょう。
総称して嵯峨嵐山と呼びますが、たとえば、江戸時代の日記にも「嵯峨嵐山へ花見に行った」といった記録が残りますので、これは現代に限った話ではありません。
落葉埋橋といへる事をよめる
修理大夫顯季
小ぐらやまみねのあらしのふくからに谷のかけはしもみぢしにけり『金葉和歌集』
藤原顕季による「小倉山峯の嵐の吹くからに谷のかけはし紅葉しにけり」の秋歌が、平安時代後期に編纂された『金葉和歌集』(金葉集)に収載されます。
小倉山や嵐山から吹き下ろす風で舞い散る紅葉が、大堰川の架け橋となる光景が浮かびます。
詞書に「落葉が橋を埋むといえる事を詠める」ともありますので、渡月橋の前身にあたる橋を落ち葉が埋めていたのでしょう。
この歌は私家集『六条修理大夫集』では第三句を「吹くからに」ではなく「吹くままに」とする相違があり、平安時代後期~末期の藤原清輔による歌学書『和歌一字抄』では詞書を「落葉水紅」とし、下の句を「戸無瀬の滝ぞ紅葉しにける」とする異同歌も収めます。
中秋の名月が昇る夜(十五夜)、高倉天皇の命を受けて小督局を探しに嵯峨を訪れた源仲国が、亀山のあたりで聞こえる琴の音を頼りにたどり着く「小督と仲国」の話が『平家物語』で語られます。
『平家物語』の「小督」に「(前略)まことや法輪はほとちかけれは月の光にさそはれて参り給へる事もやとそなたはむひてそ歩ませける亀山のあたりちかく松の一村有(ある)方に幽(かすか)に琴そ聞えける峯の嵐か松風か尋ぬる人の琴の音か(後略)」とありますが、「法輪(寺)はほど近ければ」「月の光に誘われて」「亀山のあたり」「峯の嵐」といった語句が見えますね(『平家物語』は語り本系の古活字版から下村本を翻刻した)。
このエピソードや、それを題材とした能の演目「小督」が、かつて、渡月橋の艮隅(北東隅)に所在した小さな橋「琴聞橋」の由来で、現在は「琴きき橋跡」碑が建っています。
嵐山渡月橋からドーン・パープルの京都タワー越しに月の出を望む。RFLJ京都。
空が霞んでいた影響もあり、山のキワに覗くお月さまの色が赤く。
太陽高度が高い季節の赤い月そのものは珍しい現象ではありませんが、大きな満月とカラフルな紫色の京都タワーの組み合わせ、構図となりました。
そういえば、渡月橋の周辺からは、いわゆる初日の出も望めますね。
初名とされる法輪寺橋をはじめとして、渡月橋は御幸橋(御幸の橋)や大橋などの異名が伝わります。
「渡月橋の由来」や「渡月橋の成立時期」をどこに見出すかは難しいところですが、鎌倉時代中期の亀山上皇が「くまなき月の渡るに似たり」とおっしゃった、あるいは歌を詠まれた云々といった伝説は、後世に生じた俗伝に過ぎないでしょう。
曇りがない満月を表す「くまなき月」は、漢字で書くと「隈無き月」(かげる部分がない月)であって、「雲無き月」や「熊鳴き月」ではありません。
(どこで詠まれたか分かりませんが、)たとえば、西行の『山家集』に「月前に遠く望むといふことを」を詞書として「くまもなき月の光にさそはれて幾雲井までゆく心ぞも」の秋歌が収載されます。
亀山上皇の俗伝については、現代の人が創作したわけではなく、1896年(明治29年)の『都のいぬゐ』に「傳云、龜山院の御時、晴朗の夜、月の渡るに似たりとて、名づけ給ひしと、」と見えますので、遅くとも明治時代には知られていたようです。
しかしながら、「傳云(言い伝えによると)」と濁していますので、典拠を示せない俗説であることは明らかでしょう。
ですので、現状では断定調を避け、「~ともいわれている」といった伝聞調に留めておくのが無難です。
「渡(わた)る」ではなく「度(わた)る」と解釈できますが、史料上、確実に遡れる五山文学(室町時代頃の禅僧による漢文学)の時代は「度月橋(とげつきょう)」の表記であり、それがいつの頃からか、川を渡る橋らしく「渡月橋」に転じたようです。
室町時代中期の禅僧・漢詩人、萬里(万里集九)(還俗して漆桶万里)による漢詩文集『梅花無盡藏』(梅花無尽蔵)七巻本に、嵯峨や大井河の「度月橋」が見え、古くは『梅花無盡藏』が「度月橋」(渡月橋)の初出とも見なされていましたが、『天龍紀年考略』貞和二年丙戌賦龜山十境(亀山十境)に「度月橋」が、あるいは『夢窓國師語錄』(夢窓国師語録)五山版の偈頌「天龍寺十境」に「度月橋」があり、編纂年代に誤りがなければこちらが先でしょう。
天龍寺を開山した夢窓疎石の作として、平易な仮名交り文で記された『夢中問答集』(夢中問答)が世間ではよく知られており、(意外に思われるでしょうが、)『夢窓國師語錄』は見落とされがちでした。
これらの描写にしたがえば、貞和2年(1346年)に夢窓疎石が「亀山十境」の詩を賦し、それを「天龍寺十境」と選定したのが始まりとなります。
『天龍紀年考略』が収める「亀山十境」の詩に「度驢度馬未爲足。玉兎三更推轂過者度月橋也。」(驢(ろ)を度(わた)し、馬を度(わた)して、未(いま)だ足れりと為(な)さず。玉兎(ぎょくと)、三更(さんこう)に轂(こく)を推(お)して過(す)ぐる。)とあります。
『日本書紀』推古天皇7年(599年)に見える「百濟貢駱駝一匹。驢一匹。羊二頭。白雉一隻。」の「驢」はおそらくロバを指しており、日本ではきわめて珍しい動物でしたが、長い耳から「うさぎうま」と呼ばれていました。
「玉兎」は月の兎(うさぎ)、「三更」は夜を五等分した五更(更点法)のうち、第三の時刻。
南北朝時代末期~隋代の顔之推が残した家訓書『顔氏家訓』書證篇(書証篇)の描写を見るかぎり、三更と丙夜、三鼓は同義で、(不定時法による)深夜の子の刻と見なせます。
「推轂(すいこく)」は轂(くるま)をおして手助けする姿から、成語としては「推挙する」「推し立てる」の意で、それこそ『史記』の頃より使われる言い回し。
意訳すると「(うさぎうま(ロバ)と馬の力だけでは足りず、)月の兎が夜更けに轂をおして、月の橋を渡っている」といったところでしょうか。
『夫木和歌抄』雑九「兎」に藤原定家が詠んだ「露にふすうの毛の(も)いかにしをるらん月のかつらの影をたのみて」の歌があります。
「うの毛」は「卯の毛」で、「月の兎」と「月の桂」。
「照る月の桂の川しきよければ上下秋の紅葉をぞみる」(古今和歌六帖)など、「月の桂」と「桂の河」(桂川)を掛けた歌も好まれていました。
本来、「度月」は「踰月(ゆげつ)」と同義で、月を越えることや、月が過ぎること。
後漢代の字典『説文解字』走部に「越 度也。」、足部に「踰 越也。」とありますが、「踰(こえる)」の漢字は「越(こえる)」の字義があり、「越(こえる)」の漢字は「度(わたる)」の字義があります。
また、『説文解字』辵部には「過 度也。」とあり、「過(すぎる)」の漢字も「度(わたる)」の字義があります。
唐代中期の詩人、穆寂による「清風戒寒」を題する詩に「過山嵐可掬、度月色宜看。」(山を過ぐれば嵐掬(すく)うべく、月を度(わた)れば色看るに宜し。)とあります。
「清風戒寒」の語は中国の史書『国語』周語中に見え、日本では菅原道真が「清風戒寒」を題する賦を作っています。
藤原顕季の「小倉山峰のあらしの吹くからに」の歌でも伝わるように、京都の「嵐山」は「山風(山おろし)が吹く山」とも解釈できますが、古く、「嵐」は山に立ちこめる靄(もや)や霧であったり、いわゆる「山気」(嵐気)を表していました。
穆寂の詩句を意訳すると「山を越えると、澄んだ風も手に掬えそうなほど近くに感じ、月の光を渡ると、その美しさに見入ってしまう」といった感じでしょうか。
「華実從茲始、何嗟歳序殫。」(華実、茲(これ)より始まり、何ぞ歳序(さいじょ)の殫(つ)きるを嗟(なげ)かん。)と続きますので、自然の美しさだけではなく、そこに生命と歳月のサイクルも重ねています。
渡月橋から大堰川(桂川)の水面に写る橙色の満月と紫色の京都タワーを撮影する。
お月さまの高度が上がると紅から橙になり、時間帯的にも夜景の暗さに。
よく見ると、お月さまや京都タワーの光が大堰川の水面に映し出されています。
最初はゴーストによる映り込みかと思いましたが、カメラのファインダーから視線を外し、肉眼で川面を眺めても確認できました。
距離が遠すぎるため、明確な「逆さ京都タワー」とはなりませんが、これだけ離れていても「逆さ景観」が楽しめるのですね。
「月が渡る橋」から、不思議なお月さまと塔を観賞できて満足な夜でした。
京都タワーのライトアップがLED照明化されて以降、パープルのライトアップは確かに紫色に見えますが、ピンクのライトアップが桃色ではなく紫色のように見える、感じてしまいます(ただし、2016年3月2日に行われた試験点灯のピンクは確かにピンク色に見えました)。
これは私に限った話ではなく、ピンクだか紫だかよく分からなかったと感じる方が他にもいらっしゃるようです。
以前のマルチハロゲン灯によるライトアップの頃は、ピンクと紫は明らかに異なる色合いだと感じましたが、LEDだとなぜそのように感じるのか、理由がよく分かりません。
下の写真は渡月橋とは関係ありません。
クリンソウの花後。京都北山。
ベニバナヤマシャクヤクの見回りのため登った山ではクリンソウの見納めが近付いていました。
クリンソウやイワザクラなどサクラソウの仲間は濃いピンク色(桜色)のお花を咲かせますが、日陰で見ると紫色のように感じてしまいます。
上の写真に写るクリンソウの花弁もピンク色なんだか紫色なんだかよく分かりません。
また、クリンソウの花後は青紫に近い色となり、ますますピンク色から離れてしまいます。
京都タワーの新しいピンク色のライトアップも視覚的には似たような感覚なのかもしれません。
上の記事に日陰で撮影したコイワザクラの写真を掲載しています。
参考用に。
嵐山 渡月橋(地理院 標準地図)
「渡月橋(トゲツキョウ)(とげつきょう)」
京都市右京区(桂川の右岸は西京区)





















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