歸田賦(帰田賦)と萬葉集(万葉集)に見る令和 新元号 文選

何かの発表直後にどこぞで指摘したことですが、いちおうこちらにも。
本記事は本件についてインターネット上では最速の記事? ではないかと考えられ、他の方の後追いではないことを追記しておきます。

萬葉集(万葉集) 「梅花歌三十二首」并序

『萬葉集』(万葉集)五の巻、「梅花謌卅二首」并序より。
目録では「太宰師大伴卿宅宴梅花謌卅二首并序」。
大伴卿の家で催された「梅花の宴」の参加者が詠んだ「梅花歌三十二首」の題詞に序文を兼ね合わせたものです。

雑謌
梅花謌卅二首并序
天平二年正月十三日萃于師老之宅申宴會也于時初春令氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香加以曙嶺移雲松掛羅而傾盖夕岫結霧鳥對縠而迷林庭舞新蝶空歸故鴈於是盖天坐地促膝飛觴忘言一室之裏開衿烟霞之外淡然自放快然自足若非翰苑何以攄情詩紀落梅之篇古今何異矣宜而賦園梅聊成短詠
『紀州本萬葉集』巻第五
「国立国会図書館デジタルコレクション」 より

1941年(昭和16年)の紀州本複写を底本としているため、他資料とは異なる箇所があります。
紀州本複写では「于時初春令氣淑風和」としていますが、「于時初春令氣淑風和」だと考えられます。
「太宰師」「師老」は「太宰帥」「帥老」の誤りで、「詩紀」は「請紀」の誤りではないか、その他、「對」(対)は「封」だろうなど、後世の人がいくつか指摘していますが、ここではそのままにしておきましょう。
『萬葉集』は複製によって字句が異なりますが、このあたりの話は端折りますので、興味がある方は後述する『國文學研究 萬葉集篇』(国文学研究 万葉集篇)のリンクを参照してください。
また、これはあくまでも序ですので、この後、宴の参加者(と考えられる人々)による梅花の歌、大貳紀卿から小野氏淡理までの32首が並びます。

追記。
この序は漢文ですが、『萬葉集』に収められた歌は、いわゆる万葉仮名で書かれています。
万葉仮名は漢字ですか? といった質問をいただきましたが、万葉仮名は漢字の音を借りた假名です、とお答えしておきました。
これは過去の記事でも申し上げましたが、京都の方に分かりやすいたとえを挙げると、『神社覈録』に「阿多古は假字也」と見えるように、愛宕(あたご)を古くは「阿多古」と書いたのは当て字の一種で、漢字の音を借りています。
日本の仮名の歴史は漢字の音訓を借りる当て字から始まり、それが片仮名や平仮名へと変化していきました。
追記終わり。

「梅花歌三十二首」并序の書き下し文

序の書き下し文を見てみましょう。

雑歌
梅花の歌三十二首 序幷せたり

天平二年正月十三日、帥の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まるは、宴會を申ぶるなり。時に初春の令(よ)き月にして、氣淑く風和(なご)み、梅は披く、鏡の前の粉を、蘭(らに)は薫らす、珮の後の香を。加以(しかのみにあらず)曙の嶺に雲移り、松羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥縠(となみ)に封(こ)められて林に迷ふ。庭には新(あらた)しき蝶舞ひ、空には故(もと)つ雁歸る。ここに天を蓋にし、地を座(しきゐ)にし、膝を促(ちかづ)け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿(えり)を煙霞の外に開き、淡然としてみづから放(ほしきまま)に、快然としてみづから足る。若し翰苑にあらずは、何を以ちてか情を攄(の)べむ。詩に落梅の篇を紀せり。古と今をそれ何ぞ異ならむ。宜(うべ)園の梅を賦(よ)みて聊短詠を成すべし。

  • 帥の老-大伴旅人。
  • 初春の令き月-正月の良い月。
  • 鏡の前の粉-鏡臺の前のおしろい。
  • 珮の後の香-帯の後に下げたにほひ袋。麝香などを袋に入れて下げた。
  • 松羅を掛けて蓋を傾け-松に雲の移動するのを、薄い織物を掛けて織物の傘をさしかけたやうだと形容する。
  • 岫-山の穴。
  • 縠に封められて-鳥網に圍まれて。
  • 天を蓋にし-天を屋根とし。
  • 翰苑-文筆。
  • 詩に落梅の篇を紀せり-梁の武帝の春歌に梅の落花を詠じてゐる。また詩經の落ちて梅ありの篇だともいふが、それは梅の實の詩だ。

『新定萬葉集』上巻 有精堂版
「国立国会図書館デジタルコレクション」 より

一例として、1948年(昭和23年)の『新定萬葉集』(新定万葉集)による書き下し文と註釈を掲載しておきます。
「詩に落梅の篇を紀せり」の註釈は、あくまでも『新定萬葉集』の著者である武田祐吉による解釈であり、古くから諸説あります。
全体を通しての現代語的な意訳については、解釈が分かれる部分もあり、無為無能の徒である私には難しいので、興味が湧いた方は本屋さんで現代の解説本を手に取ったり、機会があれば講座的なものに参加なさるのも良いかもしれません。
これは何事に限りませんが、1人の解釈だけを鵜呑みにするのではなく、できるだけ多くの解説に目を通したり、耳を傾けるのが良いでしょう(本分野において、行き過ぎた権威主義は視界を狭めます)。
ただ、以前から個人的に興味があり、単純なようで難しい「蘭(らに)は薫らす」については、(私見ですが、)本記事の最後でも少し触れています。

萬葉集略解による註釈

次に、江戸中期~後期の国学者、橘千蔭(加藤千蔭)の『萬葉集略解』(万葉集略解)による註釈を紹介しておきます。
この略解は『萬葉集』の入門書としてよく読まれてきました。
内容としては、『萬葉集』註釈の先人である契沖や、橘千蔭の師である賀茂真淵の後を追うつくりで、その完成には本居宣長が手を貸しています。

梅花歌三十二首幷序
目録に太宰帥大伴卿宅宴梅花云云と有り。

天平二年正月十三日。萃于帥老之宅。申宴會也。于時初春令月。氣淑風和。梅披鏡前之粉。蘭薫珮後之香。加以曙嶺移雲。松掛羅而傾蓋。夕岫結霧。鳥對穀而迷林。庭舞新蝶。空歸故雁

帥老は大伴卿を言ふ。此序は憶良の作れるならんと契沖言へり。さも有るべし。鏡前之粉は、宋武帝の女壽陽公主の額に梅花落ちたりしが、拂へども去らざりしより、梅花粧と言ふ時起これりと言へり。此に由りて言へるなり。珮後之香は屈原が事に由りて言へり。傾蓋は松を偃蓋など言ふ事、六朝以降の詩に多し。對穀は宋玉神女賦に、動霧穀以徐歩と有り。穀はこめおりのうすものなり。さて霧を穀に譬へ、穀を霧に譬へて言へり。契沖は對は封の誤かと言へり。

是蓋天坐地。促膝飛觴。忘【忘ヲ忌ニ誤ル】言一室之裏。開衿煙霞之外。淡然自放。快然自足。若非翰苑何以攄情。請紀落梅之篇。古今何異矣。宜園梅聊成短詠

劉伶酒德頌に、幕天席地と言へるを取りて、蓋天坐地と言へり。促膝は梁陸陲詩に、促膝豈異人。註に促近膝坐也と言へり。飛觴は西京賦に羽觴行而無算。註に羽觴作生爵形と有り。忘言は莊氏に言者所以在意。得意而忘言と有るより出でて、ここは打解けて物語などする事を言ふ。さて蘭亭叙に、語言一室之内と有るに倣へり。此序は初めの書きざまよりして、すべて蘭亭叙を学びて書けり。開衿は胸襟を開くなどとも言ひて、心を開く事なり。
『日本古典全集 萬葉集略解第二』
「国立国会図書館デジタルコレクション」 より

1926年(大正15年)の日本古典全集刊行會版(日本古典全集刊行会版)から転載しています。
「陸陲」は「陸倕」だと考えられます。

大宰帥として九州の大宰府(現代の福岡県太宰府市)にいた大伴旅人宅で催された(とされる)梅花の宴。
この序は山上憶良が作ったのであろうと契沖が言っている、としており、筆者も同意しています(ただし、契沖は後に意見を改め、誰の作か未詳としています)。
山上憶良は万葉の時代を代表する歌人の一人で、天平2年(730年)当時、筑前守として筑紫へ下向しており、大伴旅人らと共に大宰府の周辺で多くの歌を詠みました。
以降は修辞的な美しい表現についての註釈が続きますが、宋武帝(南朝宋の武帝劉裕)とその娘、壽陽公主(寿陽公主)の名前を挙げて「鏡前之粉」について述べたり、「珮後之香」は楚の屈原に由来するとしたり、松をたとえる描写は六朝時代以降の詩に多く見られると解説したり、楚の宋玉による『神女賦』を引き合いに出しています。
その後も、それぞれ、この詞句や言い回しは何々の漢籍や漢詩、賦に似たような表現がありますね、と紹介し、この序は東晋の王羲之による「蘭亭叙」(蘭亭序)を学んで書いた、と結論付けています。
「蘭亭序」は王羲之が催した蘭亭の会でつくられた詩集『蘭亭集』に付けられた行書の序文で、年から入る書き出しや、その成り立ち、全体的な文脈からして意識しているのでは、という指摘です。
これらはあくまでも江戸時代頃の国学者による解釈であり、必ずしも適切であるとは限りませんが、その当時、「梅花歌三十二首」の序には、なにかしら影響を受けたものがある、それも複数あると考えられていたようですね。
この序の作者については、「署名を逸している」状態であり、誰とは断定できませんが、『萬葉集略解』や、略解より少し後に成立した『萬葉集古義』(万葉集古義)では山上憶良の名を挙げており、そもそも『萬葉集』五の巻は憶良による歌集だと賀茂真淵も『萬葉考』(万葉考)で指摘しています(参考リンク 国立国会図書館デジタルコレクション ) が、実際のところ、どなたであるか私には分かりません……、最後まで読むかぎり、その人物は故意にこのような序を記したのでしょう。

萬葉代匠記による註釈

『萬葉集略解』は「鏡前之粉」以降については分かりやすく述べていますが、それより前、「于時初春令月氣淑風和」については触れていません。
契沖による『萬葉代匠記』(万葉代匠記)によると(参考リンク 国立国会図書館デジタルコレクション ) 、「于時初春令月、氣淑風和」について、張衡の『歸田賦』(帰田賦)に「仲春令月、時和氣淸」が、『蘭亭記』に「是日也天朗氣淸、惠風和暢」が、杜審言の詩に「淑氣催黄鳥」が見えると指摘しています。
『萬葉代匠記』は初稿版と精撰版がありますが、この3点を取り上げた精撰版は元禄3年(1690年)に成立。
杜審言(杜甫の祖父)の作とも韋應物の作ともされる詩(和晉陵陸丞早春遊望)については別の機会に譲るとして、本記事では張衡の『歸田賦』を見てみましょう。

「梅花歌三十二首」并序
「初春令月。氣淑風和。」(初春の令月にして、気淑く風和ぎ)。
「氣淑風和」で穏やかな陽気といったところでしょうか。

『歸田賦』
「仲春令月、時和氣淸」(仲春の令月、時和し気清み)。
「時和氣淸」を『国訳漢文大成』では「天気清和」の意味と訳しています。
のどかで澄んだお天気といったところでしょうか。

歸田賦(帰田賦)

歸田賦について
『歸田賦』(帰田賦)の読み方は「きでんのふ」あるいは「きでんふ」で、それが収録された詩文集『文選』の読み方は「もんぜん」です。
『歸田賦』の作者、張衡(張平子)(78年-139年)は後漢の人で、『文選』の編纂者、昭明太子(蕭統)(501年-531年)は南朝梁の人。
『歸田賦』では春の情景描写の入りを「仲春令月、時和氣淸」としています。

要点のみ知りたいという方のために先に記しておきます。
また、『国訳漢文大成』の註釈によると、「歸田」(帰田)は、作者の張衡が「志を得なかった(目指していたことを実現できなかった)ので、(官職を辞して)田里に帰りたいと望む」の意味で、『歸田賦』は、その気持ちから生まれた賦(賦様式の韻文)としています。

文選巻八
賦辛志下
歸田賦
張平子
遊都邑以永久無明畧以佐時徒臨川以羡魚俟河淸乎未期感蔡子之慷慨從唐生以決疑諒天道之微昧追漁父以同嬉超埃塵以遐逝與世事乎長辭於是仲春令月時和氣淸原隰鬱茂百草滋榮王睢鼓翼倉庚哀鳴交頸頡頏關關嚶嚶於焉逍遥聊以娛情爾乃龍吟方澤虎嘯山丘仰飛繊繳俯釣長流觸矢而斃貪餌呑鉤落雲間之逸禽懸淵沈之魦鰡于時曜靈俄景以繼望舒極盤遊之至樂雖日夕而忘劬感老氏之遺誡將廻駕乎蓬蘆彈五絃之玅指詠周孔之圖書揮翰墨以奮藻陳三皇之軌模苟縱心於域外安知榮辱之所如
『国譯漢文大成 文學部 第二巻 文選 上巻』
「国立国会図書館デジタルコレクション」 より

1921年(大正10年)の国民文庫刊行会版から転載しています。
底本によっては「倉庚」は「鶬鶊」。コウライウグイスの意味。

歸田賦の書き下し文

以下は『国譯漢文大成』(国訳漢文大成)による書き下し文(と註釈)。
先に書いておきますが、「百草」で「百」に振り仮名を付けず、「草」にのみ「さふ」と振っている理由は分かりません。
「域(外)」の「よく(ぐわい)」は漢音です。
「都邑」は現代仮名遣いで「とゆう」、歴史的仮名遣いで「といふ」となる、やや特殊なケースです(参考リンク 文化庁 )。

ここをクリック(タップ)で『歸田賦』の書き下し文を表示

歸田(きでん)の賦(ふ)

都邑(といふ)に遊(あそ)んで以(もつ)て永久(えいきう)なるも、明略(めいりやく)を以(もつ)て時(とき)を佐(たす)くるなく、徒(いたづら)に川(かは)に臨(のぞ)んで魚(うを)を羡(うらや)み、河(か)の淸(す)まんことを俟(ま)てども未(いま)だ期(き)あらず。

【一】 歸田。張衡仕へて志を得ず、田里に歸らんと欲す。因つて此賦を作る。
【二】 明略。よき謀なり。
【三】 川に臨む。淮南子に河ニ臨ンデ魚ヲ羡ムハ家ニ歸リテ網ヲ織ルニ如カズとあり。
【四】 河。黄河なり。黄河の淸むを以て明時に喩ふ。

蔡子(さいし)の慷慨(かうがい)に感(かん)じ、唐生(たうせい)に從(したが)つて以(もつ)て疑(うたがひ)を決(けつ)す。

【五】 蔡子。史記に蔡澤諸侯ニ遊學シテ不遇ナリ。唐擧ニ從ツテ相セシム、擧熟視シテ曰ク、先生ハ偈鼻戴肩魋頤蹙頞ナリ、吾聞ク聖人ハ相セズト殆ド先生カト、澤舉ノ戲ルルヲ知リ乃チ曰ク、富貴ハ吾ガ自ラ取ル所ナリ、吾ガ知ラザル所ノモノハ壽ナリ、願クハ之ヲ聞カント、舉曰ク先生ノ壽ハ今ヨリ以往四十三歳ナリト、澤笑ツテ之ニ謝ス、後范睢ニ代リテ秦ノ相トナルとあり。慷慨は志を得ずして憤ること。

諒(まこと)に天道(てんだう)の微昧(びまい)なる、漁父(ぎよほ)を追(お)ひて以(もつ)て嬉(たのしみ)を同(おなじ)うし、埃塵(あいぢん)を超(こ)えて以(もつ)て遐(とほ)く逝(ゆ)き、世事(せいじ)と長(なが)く辭(じ)す。

【六】 埃塵。塵世なり。

是(ここ)に於(おい)て仲春(ちうしゆん)令月(れいげつ)、時(とき)和(わ)し氣(き)淸(す)み、原隰(げんしふ)鬱茂(うつも)し、百草(さふ)滋榮(じえい)し、王睢(わうしよ)翼(つばさ)を鼓(こ)し、倉庚(さうかう)哀(かなし)み鳴(な)き、頸(くび)を交(まじ)へて頡頏(けつかう)し、關關(くわんくわん)嚶嚶(あうあう)たり。

【七】 令月。令は善なり。
【八】 原隰。高くして平なるを原といひ、低くして平なるを隰といふ。
【九】 滋榮。花の盛に開くこと。
【一0】 王睢。睢鳩なり、みさご。
【一一】 倉庚。黃鵹なり、鳥の名なり。
【一二】 頡頏。飛んで上下すること。
【一三】 關關嚶嚶。和鳴すること。

焉(ここ)に於(おい)て逍遥(せうえう)して聊(いささ)か以(もつ)て、情(じやう)を娛(たのし)ましむ。爾(しか)して乃(すなは)ち龍(りよう)のごとく方澤(はうたく)に吟(ぎん)じ、虎(とら)のごとく山丘(さんきう)に嘯(うそぶ)き、仰(あふ)いで繊繳(せんしやく)を飛(と)ばし、俯(ふ)して長流(ちやうりう)に釣(つ)る。

【一四】 方澤。大澤なり。
【一五】 繊繳。いぐるみ。

矢(や)に觸(ふ)れて斃(たふ)れ、餌(ゑ)を貪(むさぼ)りて鉤(つりばり)を呑(の)む。

雲間(うんかん)の逸禽(いつきん)を落(おと)し、淵沈(えんちん)の魦鰡(さりう)を懸(か)く。

【一六】 逸禽。飛鳥なり。
【一七】 魦鰡。魚の名。

時(とき)に曜靈(えうれい)景(かげ)を俄(かたむ)け、繼(つ)ぐに望舒(ばうじよ)を以(もつ)てす。

【一八】 曜靈。日なり。
【一九】 望舒。月なり。

盤遊(はんいう)の至樂(しらく)を極(きは)め、日夕(ひゆふべ)なりと雖(いへど)も劬(つか)るを忘(わす)る。

【二0】 盤遊。遊樂なり。

老氏(らうし)の遺誡(ゐかい)に感(かん)じ、將(まさ)に駕(が)を蓬蘆(ほうろ)に廻(めぐ)らさんとす。

【二一】 老氏。老子に馳騁田獵ハ人心ヲシテ發狂セシムとあり
【二二】 蓬蘆。茅屋なり。張衡己の家をいふ。

五絃(ごげん)の玅指(めうし)を彈(だん)じ、周孔(しうこう)の圖書(としよ)を詠(えい)じ、翰墨(かんばく)を揮(ふる)ひて以(もつ)て藻(さふ)を奮(ふる)ひ、三皇(さんくわう)の軌模(きぼ)を陳(の)ぶ。

【二三】 五絃。琴なり。
【二四】 藻。文章なり。
【二五】 三皇。伏犧、神農、黄帝をいふ。軌模は法則なり。

苟(いやしく)も心(こころ)を域外(よくぐわい)に縱(ほしいまま)にせば、安(いづく)んぞ榮辱(えいじよく)の如(ゆ)く所(ところ)を知(し)らんや。

少し長いのでトグルスイッチ開閉式にしておきます。

歸田賦の大意(意訳)と解説

以下は大正時代当時の人にとっての分かりやすい意訳。
「都邑」を「京都」としていますが、ここでは「みやこ」の意味です。
言葉遣いは古く感じるかもしれませんが、すらすら読める綺麗な訳文だと思います。

【大意】
余京都に來たりて久しきを歴たるも、時を救ふの善謀なし。徒に榮祿を羨むは退いて其德を脩むるに如かず。明時の至るを待てども、固より未だ期あらず。乃ち蔡澤に倣ひ唐擧に就いて、身の吉凶を判斷せしむるも、天道は幽昧にして知るべからず。且く漁釣の徒と樂を川澤に同うし、塵世を棄てて復た顧みざらんとす。時正に仲春にして天氣淸和なり。原野には草木繁茂し皆美花を著け、百鳥和鳴す。因つて逍遥自適し、大澤山丘に吟嘯し、仰いで射、臥して釣る。鳥は矢に中りて斃れ、魚は餌を貪りて鉤を呑む。日西に傾いて月之に代るも、身の疲勞を忘れて遊樂を事とす。忽ち老子の訓戒を感じ、駕を囘らして家に歸る。乃ち古人の道を慕ひ、五弦の琴を彈じ、周公孔子の書を讀み、筆を揮つて文を作り、三皇の道德を述ぶ。苟も心を世外に縱にし、榮辱の身に及ぶを忘る。

作者の張衡(張平子)は後漢代の人。
『後漢書』に単独の伝があるほか、「郎顗襄楷列伝」や「方術列伝」などにも名前が見え、優れた学者として後世に名を残しました。
その活動は多岐にわたり、文学者としてだけではなく、天文学者、数学者、地理学者、あるいは発明家としての成果が今に伝わります。
官職にありましたが、汚濁した政治、王家の奢侈な暮らしぶりに嫌気がさし、「世俗を超越した生活」をしたいと企図するようになりました。
『歸田賦』は「こういう暮らしをしよう(したい)」という張衡の気持ちをありのままに描いたものですが、厭世的な内容なのは、彼が道家の思想(老荘思想)にも強く影響を受けていたからです。
『後漢書』の「方術列伝」では張衡を「陰陽之宗」としており、『歸田賦』でも老氏(老子)の戒め(生活目的以外での狩猟は人の心をおかしくしてしまうよ、といった話)について触れています。

また、『萬葉集』に道教的な思想の影響が見えるのも後世の研究で指摘されるところで、本記事でも最初のほうで序の書き下し文を引いた『新定萬葉集』の著者である武田祐吉による、『國文學研究 萬葉集篇』に収められた大伴旅人論が分かりやすいです(参考リンク 国立国会図書館デジタルコレクション )。
本記事の冒頭でも触れた、刊本によって萬葉集の字句が異なる点に興味が湧いた方は、同書の「萬葉集卷第五の傳來」(万葉集巻第五の伝来)もどうぞ。
武田祐吉は佐佐木信綱らと共に『校本萬葉集』(校本万葉集)の編纂に従事したことで知られ、『萬葉集』について多くの著作を残した偉人ですが、ここでは序の作者を「旅人と見ることも出来る」としています。
先にも述べましたが、序は著者名を残していないので、どなたであれ推測の域を出ません。
(~という前提があり)「~ではないか」「~と見ることもできる」といった推論なら分かりますが、考えを固める段階にない方に対し、「~だ」と断定して教えるのは危ういです。

萬葉集と文選と令和

張衡の『歸田賦』や、とくに高名な『思玄賦』、あるいは『萬葉集略解』でも名前が挙がる『西京賦』(『東京賦』との二篇で『二京賦』)といった作品は、南朝梁(南北朝時代)の昭明太子(蕭統)が編纂したとされる詩文集『文選』に収められました。
この『文選』は日本の古人に大きな影響を与えており、当時の文化人・知識人も目にしたかもしれませんね。

歸田賦と萬葉集 梅花にメジロ ウメにメジロ 京都の野鳥

歸田賦と萬葉集に見る令和。梅花にメジロさん。京都の野鳥。京都御苑にて。

『歸田賦』における春の情景描写じたい、『詩經』(詩経)の影響を受けているのではないかと先人により指摘されています(『國風』(国風)のうち『豳風』の一篇に「春日載陽 有鳴倉庚」と見えます)。
たとえば、ある人が撮影した風景写真1枚をとっても、たまたま他の方が撮影した写真と似たような構図になるかもしれませんし、他の方が撮影した写真を見て良い構図だと感じ、それを参考にしたかもしれません。
むしろ、優れた作品をお手本にすることが教養の表れとも言える、場合もあります。

どちらかといえば私の興味のメインはこちら。
愛宕郡(かつての京都府愛宕郡)の字地(大字小字)に「令和」が無いかチェックしましたが、よほど酷い見落としをしていないかぎり、私が分かる範囲内では見当たらなかったです。
京都府下でも他の地域がどうであるかは分かりません。
今も残り、容易に検索できる地名と異なり、すでに失われた小字との照らし合わせはなかなか骨が折れます。

宇治川・塔の島に架かる喜撰橋から十三重石塔越しに仏徳山(大吉山)と朝日山を望む

宇治 朝日山と大吉山を登山 県祭 名勝「宇治山」 喜撰法師

2016.06.22

当サイトではめったに『萬葉集』(万葉集)は取り上げませんが、『萬葉集』に見える「今木の嶺」の話を少しだけ上の記事で。
『萬葉集』に限りませんが、歌に詠まれる風景や事象に興味が湧いた方は覗いてみてください。

おまけ 令と和が連続する用例

おまけの小ネタ。ちょっとした話の種に。

黄帝内経や金匱要略や荘子にも令和が?

終始第九法野
凡刺之道 畢於終始 明知終始 五藏為紀 陰陽定矣 陰者主藏 陽者主府 陽受氣於四末 陰受氣於五藏 故寫者迎之 補者隨之 知迎知隨 氣可令和 和氣之方 必通陰陽 五藏為陰 六府為陽 傳之後世 以血為盟 敬之者昌 慢之者亡 無道行私 必得夭殃
『靈樞經』巻二 終始第九

『素問』と『靈樞經』(霊枢)を合わせて『黃帝內經』(黄帝内経)と称します。
古代中国の医学書で、成立年代についてはなかなか説明や扱いが難しいです。
後漢代に編纂を終えたものは散逸しており、後世に再編されたものが今に伝わります。

甘草粉蜜湯方
甘草二兩 粉一兩重 蜜四兩 
右三味 以水三升 先煮甘草 取二升 去滓 内粉蜜 攪令和 煎如薄粥 溫服一升 差即止
『金匱要畧』巻二 趺蹶手指臂腫轉筋陰狐疝蚘蟲病證治第十九

『金匱要畧』(金匱要略)は後漢代の古典医学書(の一部)ですが、やはり散逸しており、後世の再編とされます。
これらは治療の心得であったり、製薬法であったりで、たまたま医学書に出てくるだけですよ、ただ単に、令と和が連続する用例にすぎませんよ、と念のため。

追記。
噂では、『莊子』(荘子)にも「導気令和」なる一節が見える、というような話が出ているようですが、『荘子』の内篇そのものにそういった字句が含まれているわけではなく、『荘子』の外篇に対し、後世の人が註釈を付けた部分に「導氣令和」あるいは「道氣令和」の引用が見えるだけだと思いますよ、と独り言。
外篇の扱いについてはこちらでは論じませんが、『荘子』外篇の「刻意第十五」や、後世の註釈書に目を通していただければ……。
追記終わり。

コメントをいただいたので少し追記。
南朝陳~唐代の陸徳明による『經典釋文』(経典釈文)の「荘子音義」で、『荘子』外篇の「刻意第十五」の一節に対し、「李云」(李が云うには)「導氣令和引體令柔」(導気令和引体令柔)とする註釈を引いています。
『經典釋文』では『荘子』の注解傳述人(注解伝述人)の1人として李頤の名前を挙げており、『李頤集解』三十巻三十篇の編者としています。
「李云」の李氏は(おそらく)李頤を指すとされますが、『經典釋文』では『荘子』の注解傳述人として他に李軌(『李軌音』一巻)の名前も見え、「荘子音義」には「李頤云」「李云」とする引用が混在しています。
『經典釋文』によると、李頤は字を景眞、晋の丞相参軍で潁川襄城の人としていますが、私が知るかぎり、唐代に編纂された『晋書』(や『南史』など)では単独の伝や列伝もなく、それどころか名前すら見えず、西晋の人なのか、東晋の人なのかも分かりません。
宋代に編纂された『新唐書』でも、荘子の註釈集として「李頤集解二十巻」と見えますが、それ以上の説明もなく、どういった経緯か分かりませんが、『經典釋文』の説明とは巻数からして異なります。
六朝時代の志怪小説集『捜神後記』、内容としては怪異などを題材とした説話集ですが、10巻本の巻七に「壁中一物」をタイトルとする話があり(過去に日本で流通した翻訳とはタイトルが異なります)、幼少の「宋襄城李頤」と、その父が登場します。
この話の結末で、李頤について「頤字景真位至湘東太守」(頤は字を景真と言い、湘東太守の位に至った)と締めくくっており、同じ襄城の人で、字も一致することから、『捜神後記』に見える李頤と『經典釋文』に見える李頤は同じ人物のように思われます。
しかしながら、『經典釋文』では晋代に丞相参軍を務めた人、『捜神後記』では宋の人(東晋の後の南朝宋)としており、時代が一致しません。
『捜神後記』のストーリーそのものは「小説」だとしても、まったく何もないところから創作したとも思われず、モデルとなる人物はいたのでしょう。
『李頤集解』にせよ、『李軌音』にせよ、『經典釋文』で名前が挙がるテキストについては、今に伝わる『郭象注』を除き、早い時代に散逸したと考えられています。
したがって、「導氣令和引體令柔」については、あくまでも「李云」とする引用が今に伝わるだけです。
古くから中国の研究者さんの間では老子『道德經』(道徳経)の一節、「專氣致柔」(専気致柔)との関連が指摘されているようですね。
追記終わり。

数が多いこともあり、どなたに限らず、本記事に対するコメントは非公開としていますが、すべて目を通していますのでご心配なく。
私のようなくだらない人間に対し、過分なお褒めの言葉をいただき、恥ずかしいかぎりです。

江謐 字(あざな)が「令和」

南朝斉の江謐なる人の字が令和です。

江謐字令和濟陽考城人也
『南齊書』巻三十一 列傳第十二

後略しますが、『南齊書』(南斉書)に比較的長めの伝があり、字を「令和」としています。
『南史』でも名前が見えますが、そちらでは字に触れていません。


齊書曰江謐字合和濟陽考城人也爲長沙内史行湘州事政治苛刻僧道人與謐情款隨蒞部犯小事餓繋獄裂二衣食之
『太平御覧』巻四百九十二 人事部一百三十三

宋代に成立した『太平御覧』では字を「合和」としていますが、『南齊書』で「令和」としていますので、そちらが正しいのでしょう。
同書の「巻七百二十六 方術部七 十二棋卜条」でも江謐の名前が見えますが、字は不明。
いずれも『南齊書』のエピソードを端折ったものですが、あまり良い書かれ方をしていませんね。

雑記

梅披鏡前之粉と夀陽公主の梅花粧

「梅披鏡前之粉」についてのメモを残す。
以降は記事の読みやすさについては考慮せず、可能なかぎりフェアな内容を心掛けた記事本文と異なり、一部、私見が加わる(ゆえに私的なメモである)。
いずれ別記事に分離する可能性有り。

人日
雜五行書曰正月七日男吞赤豆七顆女吞二七顆竟年無病
又宋武帝女夀陽公主人日卧於含章殿簷下梅花落公主額上成五出花拂之不去皇后留之看得幾時經三日洗之乃落宫女竒其異競效之今梅花粧是也
『太平御覧』巻三十 時序部十五


宋書曰武帝女夀陽公主每日卧於含章簷下梅花落公主額上成五出之華拂之不去皇后留之自後有梅花粧後人多效之
『太平御覧』巻九百七十 果部七

梅花點額
劉宋壽陽公主、人日臥含章殿檐下、梅花點額上、愈媚。因仿之、而貼梅花鈿。
『夜航船』巻一 天文部


周文王時女人始傅鉛粉秦始皇宫中悉紅粧翠眉此粧之始也宋武宫女效夀陽落梅之異作梅花粧隋文宫中紅粧謂之桃花面
花鈿
酉陽雜俎曰今婦人面飾用花子起自唐上官昭容所制以掩㸃迹也按隋文宫女貼五色花子則前此已有其制矣似不起于上官氏也雜五行書曰宋武帝女夀陽公主人日卧于含章殿簷下梅花落額上成五出花拂之不去經三日洗之乃落宫女竒其異競效之花子之作疑起于此
『事物紀原』巻三 冠冕首飾部

壽陽公主(南朝宋の武帝長女の劉興弟とする)の額の上に落ちてきた梅の花を払っても取れなかった、それを見た宮女たちがこぞって真似をした、といった「梅花粧」の故事が中国では知られ、江戸時代の日本でも広まっていたようであるが、おそらく伝説的要素・創作的要素が強いと考えられる。
このエピソードが女性の額に印を付ける粧(よそおい)をする花鈿妝(梅花妝)の由来と考える人も少なくない。
契沖の『萬葉代匠記』、橘千蔭の『萬葉集略解』、鹿持雅澄の『萬葉集古義』、いずれも「梅花歌三十二首」幷序の「梅披鏡前之粉」と壽陽公主の「梅花粧」との関連性を指摘している。
とくに『萬葉集古義』では壽陽公主と梅花粧の話は『宋書』(南朝宋)に見えるとしているが、私が知るかぎりでは『宋書』には書かれていない。
そもそも『宋書』では劉興弟を「高祖長女會稽公主」(会稽公主)と扱っている。

壽陽公主と梅花粧の話は北宋代初期(この宋は趙宋)に成立した『太平御覧』の「巻三十 時序部十五 人日条」に見え、『雜五行書』(雑五行書)に曰くとしている。
正月七日の行事と合わせて紹介しており、梅は正月の花なので当たり前ともいえるが、正月十三日に催された「梅花の宴」(梅花歌三十二首)とは時期が近い。
同じ『太平御覧』の「巻九百七十 果部七 梅条」にも似た話が見えるが、こちらでは『宋書』に曰くとしており、人日条と一致しない。
『雜五行書』(佚書)の名前は古くから見え、なにかと引用されるが不詳(具体的に『雜五行書』という書物が実在したのか、なにかしら五行の書の一類を指すのか)。
明代の張岱による『夜航船』の「巻一 天文部」にも同じような話が見え、これを「梅花鈿」としているが、典拠は示していない。
宋代の高承選とされる『事物紀原』(十巻本)の「巻三 冠冕首飾部 花鈿条」にも『雜五行書』に曰くと見えるが、現行の十巻本は後世の手が加わる。
『初學記』(初学記)や『粧樓記』(粧楼記)に壽陽公主の話があるとする説も見受けられるが、私が調べたかぎりではいずれにも見えない。
よって成立年代的に壽陽公主の話が当時の日本に伝わっていたか(そもそも中国にあったのか)は分からない。
ただし、女性が額に印を付ける花鈿粧じたいは、どう遅くとも奈良時代には遣唐使により日本に伝わっていたと考えられ、これは正倉院蔵の『鳥毛立女屏風』でも確認できる。

壽陽公主の話は別として、江戸時代の国学者たちは「梅披鏡前之粉」を花鈿に影響を受けた表現だと考えていたようだ。
ウメ(梅)を見る文化が中国から持ち込まれたことと、花鈿が伝わったことを合わせて考えていたかどうかまでは私には分からない。
江戸時代後期の国学者、岸本由豆流による『萬葉集攷證』(万葉集考証)では、「鏡前之粉」の「粉」は「紅粉」(=べにとおしろい=化粧)を指すとしている(参考リンク 国立国会図書館デジタルコレクション )。
「粉」をおしろい(白粉)=白花のみ、と訳するより、紅粉(紅と白粉)と訳するほうが、梅花の色も紅白と重ねることができ、色彩豊かな表現となる。
現代において、「粉」を「白」と断定している注釈は、『萬葉集攷證』の指摘を知らないのではないか。

壽陽公主を「花朝節」(花神節)における十二花神の「正月花神」「梅花花神」に見立てることもある。
「梅花花神」は女性に限っても唐代の梅妃(江采蘋)をあてる説がある。
梅妃は楊貴妃のライバルとして知られるが、壽陽公主と同様、伝説的な要素が強い。

蘭薫珮後之香とフジバカマ(藤袴) 「蘭」とは?

「蘭薫珮後之香」についてのメモを残す。
表現として「梅披鏡前之粉」の「前」と「後」で対を成す。
「于時初春令氣淑風和」から「梅披鏡前之粉」「蘭薫珮後之香」と続く流れは読みやすく、とても流暢で美しい。
ここで取り上げる蘭と藤袴の問題は解釈が難しく、過去の註釈本で『離騷』との関連が指摘された点について述べておく。

『萬葉集略解』では「蘭薫珮後之香」について、楚の屈原の名前のみを挙げている。
屈原の名前さえ出せば分かるだろうと言いたげだ。

離騷
屈原之所作也

紛吾既有此内美兮 又重之以脩能
扈江離與闢芷兮 紉秋蘭以爲佩

『楚辭』巻第一

楚の詩を集めた詩集『楚辭』(楚辞)に収録、屈原の作とされる『離騷』における有名な自画自賛パート。
私の内には美しさやすぐれた才能があり、香草の香りを身にまとい、秋蘭を繋いで帯としている、といった語り。
『離騷』は『文選』にも収められる。

『萬葉集』には「蘭」の字を直接的に使用して詠んだ歌が一首も存在しない。
3度、題詞で「蘭」の字が使用されるが、うち1つは「澤蘭」であり、昔から諸説あるものの、これはフジバカマ(藤袴)の仲間のサワヒヨドリ(沢鵯)と解釈される。
フジバカマとサワヒヨドリはよく似た植物であるが、どれくらい混同されていたかは分からない。

『離騷』の当該部分をどう考えるかは多くの説があるようで、中国における註釈に目を通すと、いずれもかなりの長文。
日本でも同様であるが、「蘭」の字は「香り」とセットになっているケースが多く、元々は香りのある植物を指していたようだ。
『離騷』の「紉秋蘭以爲佩」における「秋蘭」はフジバカマを指すとする説がある。
序の「蘭薫珮後之香」における「蘭(らに)は薫らす」も、以前はフジバカマ(藤袴)の香りと解釈されてきた。
フジバカマは秋の花であって初春の花ではないが、フジバカマは乾燥すると良い香りがするので、これは花そのものを指しているわけではなく、香り袋(匂い袋)とされる。
「香草」扱いされたフジバカマの香り袋は日本でも古くから重用されてきたと見られる。

『楚辭』における『九歌』の「禮魂」(礼魂)で、「春蘭兮秋菊 長無絶兮終古」と見え、鎮魂の祭礼について、「春には蘭があり、秋には菊がある」「これからも長く絶えることなく続く」としている(植物・季節のサイクルとお供えする人の心の永遠性を歌っている)。
ここで言う「春には蘭」の蘭がどの植物を指すかよく分からないが、『離騷』に見える秋の蘭とは別に、春にも蘭があったようだ。
よって、「蘭」という字だけを見て、それが必ずフジバカマを指すと断定するのは危うい。

「蘭薫珮後之香」の「蘭」を、いわゆるラン科植物と見立てるなら、カンラン(寒蘭)の花期は梅より早く、シュンラン(春蘭)の花期は梅よりやや遅く、いずれも花期が旧暦の正月、初春と合わないため、実際に咲いていたわけではなく、なにかしらの地生ランを描写のイメージとして引き合いに出しているだけとする。
ただし、他の季節に花開くランを思い描いているのであれば、それは新春の情景描写とは言えなくなる。
「春」と広く幅を持たせている「禮魂」と異なり、序は「正月」「初春」と限定しすぎている。

また、「紉秋蘭以爲佩」の「佩」も「蘭薫珮後之香」の「珮」も、いずれも身に帯びるの意と解釈する人もいれば、後者は帯から吊るす玉珮(玉佩)と解釈する人もいる、ようだ。

フジバカマ(の生薬)を中国語風に書くと「佩蘭」であり、中国の古典本草書『神農本草經』(神農本草経)では「蘭草」としている。
『神農本草經』において、この「蘭草」は別名を「水香」としており、薬効として「輕身不老。通神明。」(軽身不老、神明に通じる)。

蘭薫珮後之香
蘭は、本草和名に、蘭草、和名布知波加末とありて、今もしかいふもの也。これ香草なれば、かくはいへり。離騷經に、紉秋蘭以爲佩云々とあるによれり。珮は佩と同字なり。
『萬葉集攷証』第五巻
「国立国会図書館デジタルコレクション」 より

『萬葉集攷證』(万葉集考証)でも同様の指摘がなされ、「珮」は「佩」と同字であるとしている。
平安時代の『本草和名』を確認してみると、「蘭草」の別名を「水香」や「蘭香」など、和名を「布知波加末」(ふじばかま)としている(参考リンク 国立国会図書館デジタルコレクション )。
『源氏物語』第三十帖「藤袴」に見える「蘭(らに)の花」も、文意からフジバカマを指しているとされ、訳本によっては註釈ではなく本文からして「蘭の花」を「藤袴」と置き換えている。
『萬葉集』には山上憶良による「秋の七草」を詠んだ歌があり、その旋頭歌で「藤袴」など秋の草花の名前を連ねている。
「蘭薫珮後之香」の「蘭」をフジバカマとすると、この歌との齟齬が生じるようにも感じるが、序では「離騷」や「蘭亭序」との関連性を意識させるため、故意に「藤袴」ではなく「蘭」を使ったと見るか。
あるいは、これは少し複雑だが、憶良の歌に見える「藤袴」は、本当はキク(菊)のことではないかと藤井高尚が『松の落葉』で指摘している(参考リンク 国立国会図書館デジタルコレクション )。
藤井高尚は本居宣長の高弟で、井上通泰(柳田國男の実兄)が藤井の研究で知られる。
平安時代の百科事典とも言うべき『倭名類聚鈔』では、「蘭」について、「(和名本草の)布知波賀萬とは別に(新撰萬葉集では)藤袴の二字を用いる」としている(参考リンク 国立国会図書館デジタルコレクション )。
『倭名類聚鈔』は10巻本と20巻本があり、それぞれ内容が異なるが、当該部分に限ればほぼ同じ。
平安時代に成立した『新撰萬葉集』(菅家万葉集)には秋の「藤袴」を詠んだ歌が2首収められる。
『倭名類聚鈔』が成立した頃には、「蘭=布知波加末(布知波賀萬)=藤袴」と考えられていたのは確か。

『本草和名』では「草」の「蘭草」とは別に、「菜」で「蘭蒚草」の名前が見え、これの和名を「阿良々岐」(あららぎ)としている。
『日本書紀』巻第十三に「其蘭一莖焉」(その蘭を一茎~)と見える「蘭(アラヽキ)」も同じ植物(蘭蒚草)を指すとされ、これはノビル(野蒜)の仲間(ノビル、もしくはネギやギョウジャニンニクの類)とされる。
これは『倭訓栞』が詳しい(参考リンク 国立国会図書館デジタルコレクション )。
しかし、「蘭」の用例の混同(ノビルとフジバカマの混同)も非常に多く見られ、なかなか複雑である。
『日本書紀』のエピソードは、允恭天皇の皇后となる前の忍坂大中姫に対し、庭に生えている「蘭」を1茎差し出せと鬪鶏國造(闘鶏国造)なる人物が要求したので、忍坂大中姫が1根の「蘭」を渡しながら何に使うのかと尋ねてみると、鬪鶏國造は「山で虫除けに使う」と答えた、その偉そうな物言いや振る舞いを不快に感じた忍坂大中姫が、皇后となった後に仕返しする、というもの。
確かに、ノビルの鱗茎(球根)は虫刺されの薬として利用されてきた歴史があるが、乾燥させたフジバカマの香りにも防虫効果があると考えられていた。
鬪鶏國造が庭の「蘭」を1茎欲しいと言ったら、忍坂大中姫は1根抜いて渡した、という点に留意。

シュンラン(春蘭) ホクロ 大株 滋賀県 2015年4月

滋賀県 春の花 シュンランとイチリンソウ 2015年4月

2015.04.13

過去に何度も撮影し、記事でも紹介しているが、平地寄りの地で野生するシュンランは、同じ標高・夜間気温であれば基本的に桜と花期が重なりやすく、とくに遅咲きと考えられる梅の個体は別として、一般的な梅の花期とはほぼ重ならず、奈良時代の「正月」「初春」に満開となり、花薫るとは考えられない。
当時の知識や技術で日本産ラン科植物の人為的な繁殖や栽培は困難。

「蘭」「藤袴」の話題は、昔、まったく別の場所でも取り上げており、私にとっては思い出深い「序」でもある。
『萬葉集』に限らないが、歌や文を深く知るには、日々、風景や事象、花鳥風月を見る「まなざし」が求められ、それが私の生き方であったり、当サイトを運営する心に通じている。

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Maro@きょうのまなざし

京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!