2014年(平成26年)2月の話。この日は干支のお参りに。
今年は午年、京都でお馬さんにまつわる神社仏閣といえば、真っ先に鞍馬寺さんの名前が挙がるでしょうが、ここはひとひねり。
久々に京都市北区上賀茂に所在する貴船神社さんを訪れました。
貴船神社さんと申し上げても、とくに有名な左京区貴船の貴船神社さんではなく、北区上賀茂でも柊野(ひらぎの)地区に鎮座する貴船神社さん、区別のために「柊野貴船神社」と呼ばれることが多い神社さんです。
目次
貴船神社(柊野貴船神社)
元来、貴船の貴船神社さんはお馬さんとの縁が深く、大旱(ひでり)に際しては雨を願って黒い馬を、霖雨(長雨)に際しては晴れを願って白い馬を奉献する風習・神事があり、諸説ありますが、これが転じて絵馬となったと考えられています [1]。
また、貴船神社さんと非常に深い関係にある上賀茂神社さんにおいても、古来より伝わる競馬(くらべうま)の神事はよく知られるところです。
馬の奉献にせよ、競馬にせよ、元々は農業、雨水にまつわる神事であり、後世、柊野が開拓されるにあたり、農業、雨水の神様として貴船より勧請された、あるいは上賀茂より勧請されたのが柊野の貴船神社さんだと考えられています。
柊野貴船神社さん。京都市北区。
上の写真で右に見えるのが天斑馬(天斑駒)をお祀りする天之斑駒社です。
天之斑駒社
天斑馬(あめのふちこま)は『古事記』(天斑馬)、『日本書紀』(天斑駒)にその名前が見える高天原のお馬さんです。
こちらで天斑馬がお祀りされているのは、天斑馬そのものに意味があるわけではなく、貴船神社さんや上賀茂神社さんにおける神事にあやかったもので、お馬さんの神様として天斑馬を祭神と見立てていらっしゃるのでしょう。
貴船の貴船神社さんには2頭の神馬像が並んでいますが、広い意味では似たような考え方です。
お馬さんの神様にお参りしながら、私が幼い頃には大文字山にもお馬さんがいた、どのような姿だったか、さっぱり覚えていませんが……、そのようなことを思い出します。
「大文字山に馬!? えっ?」と思われるかもしれませんが、本当にいたのですよ(笑
柊野から神山を望む
ついで、同じく天斑馬をお祀りしている二葉姫稲荷神社さんへお参りするため、上賀茂神社さんへ向かうことに。
二葉姫稲荷神社さんは上賀茂神社さんでも神宮寺山(片岡山)の南西中腹に所在します。
私が知るかぎり、京都市内で天斑馬をお祀りしているのは、貴船や上賀茂と関わりの深いこの2社のみで、そちらをお参りしようと考えていましたが、柊野から北のほうを見やると、形の良い鉢状の裏山が目に入ります。
神山(こうやま)を柊野から望む。京都市北区上賀茂。
柊野地区の裏山、あるいは京都産業大学さんの裏山。
上賀茂神社さんの御神体山、賀茂別雷命降臨の地とされる神山ですね。
現在でこそ神山は「こうやま」と読まれますが、古くは「賀茂山」(かも山)を称しており、神山も「かみやま」と読まれていたようです。
1900年(明治33年)の『大日本地名辭書』(大日本地名辞書)によると、「賀茂」の由来について、「名義は水鳥に因むにや、又神をも古人通じて賀茂と曰へる如し」とあり、賀茂は「神」に通ずることが察せられます。
「賀茂の神山」は古くから歌にも詠まれてきましたが、どの山や山域を指して「神山」としているかは、史料や時代により(かなりの)混同が見られます。
たとえば、1911年(明治44年)の『京都府愛宕郡村志』における「上賀茂村志」では、上賀茂神社の正北に所在する「神山」を高さ60間(約110m)の山としており、現代における神山の山頂を指しているとは考えにくいものがあります(この件は記事下部の余談で私見を述べています)。
こういった混同は、歌に詠まれる「賀茂の神山」と、かつての社領における「神山」が一致しない(と読み取れる史料もある)ことも一因のようです。
上賀茂神社さんの周辺の山々のうち、現在は、社地の北に所在する標高点152m峰を「丸山」、丸山の東に所在する約130m小ピークを「小丸山」、社地の東に所在する約170m小ピークを「神宮寺山」と呼んでおり、とくに、神社と神山の間に位置する丸山を、神社の御阿礼神事(御阿礼祭)における「御生所(みあれところ)」と扱っていらっしゃるようです [2]。
上賀茂神社さんの社領だった山々の総称としては、北の山域を「神山」、南の山域を「本山」と呼ぶようになり、現代において、それぞれ一部は神山国有林、本山国有林となっています。
史料・地誌に見る賀茂山(神山)
※ここに差していた「史料・地誌に見る賀茂山(神山)」の話は、本題から外れて長くなりすぎたので、記事下部の「余談・追記」に分けました。
和歌に見る神山(かみやま)
源頼貞
水鳥のかもの神山さえくれて松の青葉も雪ふりにけり
『新拾遺和歌集』
「水鳥の」は「かも」に掛かる枕詞で、「賀茂の神山」は古くより多くの歌に詠まれてきました。
歌に詠まれる「神山(かみやま)」については、賀茂の風景として、山そのものを指すこともありますが、山に降臨した神様や、それを祀る神社を指すことも珍しくありません。
上の歌は『藤葉和歌集』にも収められており、そちらでは詠み人を「源頼定(土岐伯耆入道)」としています。
この歌を詠んだ源頼貞=土岐伯耆入道は、夢窓国師とも深く親交を結んだ土岐頼貞 [3]を指しており、源頼光の養子(とされる)源頼貞ではありません。
話が長くなるので、これも記事本文と分けましたが、歌と神山の話は記事後半に少し追記してあります。
上賀茂 神山(こうやま)を登山
神山を最後に登ったのは何年前のことでしょうか。
7~8年前だった気がしますが、はっきり覚えていません。
目にすると登りたくなるのがハイカーの性、ついふらふらと山へ向かってしまいます。
追記しておきますと、最後に神山を登ったのは2006年(平成18年)5月でした。
適当に書いたわりには正確。
柊野総合グラウンド付近から上山
立命館大学さんの柊野総合グラウンドの奥から入山します。
以前はこのような木階段などなく、荒れた山という印象を受けたものですが、いつの間にやら登り口は整備されており、山中には目印となるテープも付けられていました。
もっとも、楽に登ることができるのは上山の直後のみで、その後は昔と変わらず、沢を詰め、崖や斜面を無理やりよじ登ることになります。
神山の山頂直下に残る古い標石。最上部に「山」と刻まれています。
思い出したことがあるので少し追記。
本記事の後半で山姿の写真を掲載している金毘羅山の山中で、昔、江文寺を示す古い標石を見ましたが、当時はハンディGPSを所持していなかったので、どこで見たか分からなくなってしまいました。
少なくとも登山道上ではなかったのは確かで、コースを外れてさまよっていた時に発見しました。
ハンディGPSじたいは日本に入っていましたが、まだまだ精度も普及率も低かった時代の話です。
追記終わり。
神山を登頂
神山の山頂。三角点301.4m(→301.2mに改定)。京都市北区上賀茂。
山頂からやや南に下ったあたりに、賀茂別雷命降臨の地、「降臨石」と呼ばれる磐座がありますが、そちらにはむやみに立ち入らないほうがよいでしょう。
混同されがちですが、上の写真に写っている岩とは異なります。
また、山そのものが登山禁止ということもなく [4]、古くより里山として利用していた痕跡も見られます。
その名残でしょうか、1961年(昭和36年)修正の二万五千分一地形図までは市原側から山頂に至る破線路も付いており、当時は明確な登頂コースがあったのかもしれません。
1871年(明治4年)と1875年(明治8年)の「上知令」(社寺上知令)により、各地の神社の社領は官有地(国有林)とされました。
そのため、三等三角点「神山(こうやま)」設置時、1903年(明治36年)観測の「点の記」を見ると、三角点設置点の所有者は「大阪大林區署」 [5]となっていますが、後に所有者が「上賀茂神社」となっています。
現在、神山の周辺は広く「神山国有林」の内にありますが、近年の「点の記」を見るかぎり、どうやら山頂域は上賀茂神社さんが所有なさっているようです。
所在地の所有者が国の場合(つまり、国有林の場合)、「点の記」では所有者が「林野庁(管轄営林署)」とされます。
国有林の中でも、信仰上の理由で「社寺地」を地目とする範囲が民有地となるケースは珍しくありません。
逆に、民有林の中で三角点設置点だけが国有地となるケースもあります。
分かりやすい例でいえば、大文字山の山頂がそうです [6]。
神山はお世辞にも展望が良い山とはいえませんが、信仰や目印のため、京都の山々は比叡山や愛宕山方面を開いていることが珍しくありません。
もしかすると、神山もどこかしら開けているのではないかと考え、せっかくですので、散歩がてら、山の中を調べてみることにします。
神山からは南尾根を経て神山総合スタジアム方面や静市貯水場方面へ下りることもできます [7]が、今まで歩いたことがない東尾根(東稜)を進みます。
便宜上、東尾根としておきますが、尾根の先は北東に伸びており、北東尾根の呼称が適切かもしれません。
神山の展望状況を調査
灌木の合間に3つのコブを持つ山が見えることに気付きます。
この「コブ」を持つ山は、高野川と合流直後の鴨川に架かる賀茂大橋(加茂大橋)を渡っていると、橋の上から大原方面の先に見えます。
普段、大文字山からは目にすることがない不思議な山容で、できればもう少し開けた場所から望みたいものです。
神山から比叡山を望む
主な山 | 距離 | 標高 | 山頂所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
四明岳 | 7.3km | 838m | 京都府京都市左京区 | 都富士 |
大比叡 | 7.7km | 848.1m | 滋賀県大津市 京都府京都市左京区 | 都富士 |
横高山 (釈迦ヶ岳) | 7.7km | 767m | 京都府京都市左京区 滋賀県大津市 | |
水井山 (阿弥陀ヶ峯) | 8.0km | 793.9m | 京都府京都市左京区 滋賀県大津市 |
見晴らしをよくするため、比叡山方面を切り開いたから崩落したのか、崩落したから、結果的に比叡山方面が開けたのか分かりませんが、崩落地からは比叡山や、その北に連なる尾根を望むことができました。
より南側の京都盆地寄り、たとえば出町柳あたりから見ると、四明岳は水井山より明確に高く見えますが、西側から見ると、さほど高さに差がないことが分かります。
眼下に市原を見晴らす
上賀茂の神山から眼下に市原の集落を望む。
背負うは大原や静原、鞍馬の山々。遠くには蓬莱山の山頂。
主な山 | 距離 | 標高 | 山頂所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
蓬莱山 | 18.8km | 1173.9m | 滋賀県大津市 | |
金毘羅山 (江文山) | 6.5km | 572.7m | 京都府京都市左京区 | |
翠黛山 (小塩山) | 7.2km | 577m | 京都府京都市左京区 | |
焼杉山 | 8.6km | 717.6m | 京都府京都市左京区 | |
城谷山 | 5.4km | 480m | 京都府京都市左京区 | |
箕ノ裏ヶ岳 (藤ヶ森) | 3.4km | 432.5m | 京都府京都市左京区 | |
竜王岳 | 3.8km | 500m | 京都府京都市左京区 | |
竜王岳 西峰 | 3.5km | 491m | 京都府京都市左京区 | 標高の値は 10mDEMによる |
崩落地の崖を少しよじ登ると、先ほど見えていた「3つのコブ」、それに、眼下には市原の街並みを望むことができました。
「3つのコブ」は大原の金毘羅山(江文山)と翠黛山(小塩山)で、その左には焼杉山。
この3座を総称して、俗に「大原三山」とも呼びます。
上の写真ではもやもやして分かりにくいですが、焼杉山の左に見えるうっすら白い影、これは比良山地は蓬莱山の山頂です。
かつて、崇徳天皇や大天狗(魔王)について学んでいた頃、よく金毘羅山を登っていました。
金毘羅山は多くの信仰や歴史が入り交じっており、民俗学的に見ても興味深い山です。
私が生まれる前は、ある種の希少な植物が自生していたと聞いていますが、残念ながら、私自身が金毘羅山でそれを確認したことはありません。
「大原三山」の手前に写る城谷山(静原城山)は、近年、地元の方々らによってハイキングコースが整備されました。
城跡好きな方だけでなく、鞍馬や大原からのハイキングにも利用できるでしょう。
さらに左手前に見えているのは鞍馬と静原を分ける竜王岳ですが、この山が双耳峰であることはあまり知られていません。
竜王岳から静原にかけては採石が進んでおり、遠くからでも目立ちます。
明治時代中期頃まで、現在の五山送り火とは別に、市原では「い」の字の送り火がともされていたとされます。
現状、「い」の送り火は向山で催されていたとする説が広まっていますが、個人的に、竜王岳か採石場の山、あるいは城谷山……、つまり、この写真に写る山々こそが、「い」の字跡が描かれていた山ではないかと考えています。
この見解は2013年(平成25年)にSNS上で述べたものですが、改めてこちらでも触れておきます。
市原の送り火については、上の記事で少し触れていますので、興味が湧いた方は本記事と合わせてご覧ください。
崩落地から少し進むと京都盆地方面が開かれていましたが、視界は狭く、街まで遠いため、残念ながら、京都を一望とまではいきません。
この日は霞んだ空模様で、とても遠見は利きそうになかったものの、かろうじて天王山と鳩ヶ峰(男山)は見えており、その向こうは大阪方面だと推測できます。
とくに空気が澄んだ日であれば、なんとか阪和府県境に連なる和泉山脈まで遠望できそうですが、京都西山に遮られるため、「あべのハルカス」を見通すことはできません。
崩落地を除けば、神山の東稜は歩きやすく気持ちの良い尾根で、わずかとはいえ展望も期待できるため、近所の方であれば散歩コースによさそうです。
ただし、山頂から東尾根を経て左京区は市原への下山地点が分かりにくく、当初は下に見えていた建物、あとで友々苑さんだと分かりましたが……、そちら方面へ下ろうとしたものの、急な斜面と民家の柵が気になり、断念します。
付近をよく調べてみると、南側の斜面には申し訳程度に細いロープが結えてあり、それに頼る気は起きないものの、どうやら、こちらから下ることができそうです。
無理をすれば北側の斜面の下に見える民家の横に下りることもできそうですが、現状では南側の斜面、工務店さんの作業場の横手にあたります……、そちらから下る、あるいは登るほうが無難でしょう。
知らないとまず気付かない道ですが、問題なく通行可能です。
市原へ下山したらすでに夕方、これから上賀茂へ戻り、二葉姫稲荷神社さんへお参りする気力は残されておらず、この日はこれまで。
干支のお参りの予定が、けっきょく山を登る、これも私らしいといえるでしょうか。
追記しておきますと、上賀茂神社さんの白いお馬さんの名前が「神山号」で、この記事の全てが詰め込まれたかのようなお名前です。
上賀茂神社さんや貴船神社さんの歴史は馬と切り離せず、本記事もまたしかりといえるでしょう。
余談・追記
史料・地誌に見る賀茂山(神山)
「賀茂山」
一名ハ神山又名鴨ノ羽山在三京城北可二三里一一曰二別雷山一雷訓レ土
『扶桑京華志』
江戸時代前期、寛文5年(1665年)の『扶桑京華志』では、賀茂山の別称を「神山、又は鴨ノ羽山」、初名を「別雷山」としています。
「雷は土と訓ずる」と見えますので、「別雷山」は「別土山」と同訓だと分かります。
「鴨ノ羽」は「鴨」と同義で、「賀茂の名義は水鳥(の鴨)にちなむ」と考えられていたことが察せられます。
「賀茂山」
上賀茂東一名分土山又神山
『日本輿地通志 畿内部』(『五畿内志』)
『扶桑京華志』の少し後、江戸時代中期(享保年間)に編纂された『日本輿地通志 畿内部』(いわゆる『五畿内志』)では、賀茂山の別称を「分土山、又は神山」としています。
「分土山(別雷山)(わけつちやま)」は松尾大社さんの御神体山である松尾山の旧称でもあり、賀茂と松尾の関わりの一端を垣間見ることができます。
また、『五畿内志』では賀茂山の所在地を「上賀茂の東」としています。
神山(こうやま)であれば、「上賀茂の北」ではないのでしょうか。
上賀茂の東には神宮寺山(片岡山)が所在し、その東には大田神社さんの裏山(古くは大田山や中山と呼ばれており、現代においては「大田の小径」として整備されています)が連なり、さらに、現代においては「京銀ふれあいの森」や京大演習林に接続しています。
この山域を、古くは「神山」に対して「本山」と呼んでいました。
記事本文の「賀茂」でも引いた『大日本地名辭書』に以下の記述があります。
上賀茂神社
(前略)
賀茂山は上賀茂社の東に聳ゆ、社地より高きこと六十米突、俗に本山(ホンザン)と曰ふ和歌に神山(カミヤマ)とよめり。片山御子神社
(前略)
片山は賀茂山の古名にて日本紀略小右記に片岡に作る、蓋苗裔神にして下鴨小社の比なり。『大日本地名辭書』
「賀茂山は上賀茂社の東に聳ゆ」「(賀茂山を)俗に本山という」「和歌に神山と詠めり」「片山は賀茂山の古名」の描写を見るかぎり、賀茂山と片山は同義であり、上賀茂神社の東に所在します。
これに従えば、和歌に見える「神山(かみやま)」は、現在の「神山(こうやま)」ではなく、「上賀茂の東」に所在する片岡山か、あるいは広く本山(ほんざん)の山域を指すことになります。
「社地より高きこと60メートル」とありますが、上賀茂神社さんは標高約85~90m地点に所在しており、神社の東に聳える神宮寺山は地形図の等高線上では標高約160m~(実際には標高約170m~)、その東に連なる大田山が標高点161m。
もし、本山の山域こそが、本来の賀茂山=和歌に見える神山(かみやま)だとすると、現在の神山国有林の山域は? と考えてしまいますが、賀茂別雷命降臨の地とされる、神山国有林のほうの神山を「こうやま」と呼んで区別しているのは、このあたりに起因するのかもしれません。
上賀茂神社周辺の山々の所在や山名について、多くの説を取り上げている寛政7年(1795年)の『賀茂名所物語』では、あくまでも「一説」として、「別雷山 別土山 正ノ岳」は同じ一つの山の名前で、「片岡山のうしろ」「御生山の東」にあり、「俗に圓山と号す」としており、この説に立つと、どうも片岡山と神山も区別していたように思われます。
このあたりは混同が見られ、正確なところは(私には)よく分かりません。
和歌に見える神山の可能性がある神宮寺山(片岡山)については上の記事に。
関連記事から、さらに東に連なる大田山(中山)(大田の小径)の記事にも飛べます。
1911年(明治44年)の『京都府愛宕郡村志』の「上賀茂村志」に以下の記述があります。
山岳
神山
所謂賀茂の神山にして本社の正北に在る最も神秀なる山なり高約六十間周廻二里餘松樹蔚然たり本社の舊境内なり本山
神山と相併び其東南に連屬し神社の東北に在り高約五十間周廻一里餘松樹滿山蒼翠滴らんとす本社の上地官林なりしが近來更に境内に編入せられたり片岡山太田山等此山と相連なれり計志山
本山の東に在り高約五十間周廻約十町許東南西三方は本村に屬し北は岩倉村幡枝に屬する松山なり名勝舊跡
神山 本山
賀茂の神山なり承和十年定められし社地にして本社の北一帯の山嶺なり其後北を神山南を本山と稱す其内に御生山、二乘山、龜山、片岡等の名あり全山峰巒蜿蜒起伏青松蔚々林を爲し翠色掬すべし明媚溫秀なる名勝地なり古歌に多く詠ぜらる片岡 片岡山 片山
本山の前に面せし小阜にして本社の東に在り山城名勝志の注に片岡山本宮東南片岡森同前とある所なり山高かりず矮松叢生す御手洗川其麓を回りて流れ片岡社諏訪社岩元社其間に在り梅原山
承和十一年社地四至の官符に北限梅原山とあり延暦二十二年桓武天皇行幸ありし所なり和歌には詠ずれど知るもの少し『京都府愛宕郡村志』
「山岳」では、上賀茂神社の真北に所在する「神山」が、「いわゆる賀茂の神山」だとしています。
加えて、「本山」は神山の南東、神社の東北に所在し、片岡山や太田山と連なる、と見えます。
ところが、「名勝旧跡」では、「賀茂の神山」は承和10年(843年)に定められた社地で、その後、北を「神山」、南を「本山」と称し、その内に「御生山、二乗山、亀山、片岡」等の山がある、ともしています。
「古歌に多く詠ぜらる」としていますので、ここでいう「賀茂の神山」は、歌枕としての「神山」を指すと考えられますが、「賀茂の神山」が神山と本山の総称となると、歌枕の「神山」は上賀茂の東の本山を指すとする『大日本地名辭書』と一致しません。
「上賀茂村志」の「山岳」では、神山を高さ約60間(約110m)の山、本山と計志山を高さ約50間(約90m)の山としています。
いわゆる神山(こうやま)、本記事で私が登頂した神山の標高は約300mですが、これはどう考えれば良いのでしょうか。
まず、これは「高さ」であって、「標高」ではありません。
ある地点を基準として、そこからの高さ(基準となる地点と山頂の比高)を示している可能性があります。
たとえば、『大日本地名辭書』では、賀茂山の高さについて、「社地より高きこと六十メートル」としており、社地を基準としています。
ここで注目するのは「計志山」で、この山は深泥池の北、鞍馬街道の東、今のケシ山を指しています。
地理院地図を確認してみると、ケシ山には標高点177mが表示されますので、ここから「上賀茂村志」が「高さ」としている90mを引くと87mが残ります。
明治時代の人がどこを「計志山の山麓」と見なしていたか分かりませんが、計志山の山麓と山頂の比高を「高さ」としたのでしょうか。
あるいは、上でも述べましたが、上賀茂神社さんは標高約85~90m地点に所在しており、おおよそ何事においても上賀茂神社さんを中心として記録している「上賀茂村志」では、「高さ」についても上賀茂神社さんの社地を基準とした可能性があります。
上賀茂神社さんを基準にしたと仮定して、これを元に計算すると、「上賀茂村志」の「山岳」に見える神山は標高約200m、本山はケシ山と同等の標高となります。
数値を書き間違えた、あるいは、あまりにも雑すぎる値を示しているわけでもないかぎり、「上賀茂村志」の「山岳」に見える神山は、現在の神山(こうやま)の山頂ではなく、上賀茂神社さんから真北を見て、その手前のどこかのピークを指しているのかもしれません。
たとえば、神山の南の約210m小ピークなど。
ただし、周廻を2里(約7.85km)としていますので、標高152mの丸山を指すとは考えられません。
その値から見て、山としては、あくまでも現在の神山の範囲を指すと考えられます。
「梅原山」は神山の北限(社地のかつての北限)で、市原との境界を成していました。
ケシ山は今も住所地名にその名を残しますが、現代において、梅原山はほぼ失われた地名だと考えられます。
明治時代の時点で、すでに「知るもの少なし」だったことが伝わります。
宗碩が編纂した連歌用語集『藻鹽草』(藻塩草)などで、山城国の名所歌枕として名が挙がる「梅原」は当地を指すと考えられますが、市原、静原、大原と、洛北の「原」の並びに梅原もあったのでしょうか。
古い絵図にも梅原が描かれますが、その所在地は絵図ごとに異なります。
京都産業大学さんの西側に北区上賀茂上神原(じんばら)町と下神原町の地名があり、どうやら上賀茂には「神原」があったらしい?
後年追記。
個人的な見解としては、「賀茂の神山(かみやま)」は神山(こうやま)と本山(ほんざん)の総称だろうと考えています。
神山国有林と本山国有林の範囲
参考用に。
京都府 森林計画区の計画書
図面【京都・淀川上流】
基本図 淀川上流14-3近畿中国森林管理局
現代における神山国有林と本山国有林の範囲。
おおよそ府道38号京都広河原美山線より北を神山国有林、京都産業大学さんより南を本山国有林と区分しているようです。
大田神社さんの裏山(大田の小径)や「京銀ふれあいの森」は本山国有林に含まれますが、ケシ山は含まれません。
「上賀茂村志」でも本山と計志山を別の山と扱っています。
いわゆる神宮寺山は、古くは本山の一部だったと考えられますが、(東端域を除き、)本山国有林からは外れています。
現地の状況を拝見するかぎり、現代においても神宮寺山は上賀茂神社さんにとって重要な社地と扱われているように感じます。
やはり、「片山(片岡)は賀茂山の古名」も捨ておけません。
歌枕としての神山(かみやま)
気が向いたので少し追記しておきます。
藤原俊成 [8]の五社百首に、「神山」を枕詞にしたり、あるいは「神山」を歌枕に詠んだ歌が4首見えます。
賀茂社百首和詩
春
鶯
鶯の音はかはらねと神山に春を告るはうれしかりけり残雪
神山や杉のしけみの去年の雪きえぬしるしを残す成けり桜
わすられぬその神山の花盛よもすからみし春のよの月杜若
神山やおほたの澤のかきつはた深き頼みは色にみゆらん秋
露
秋のよもしは生の露をふみわけし猶そのかみの恋しかるらん『俊成卿文治六年五社百首』(俊成五社百首)
『群書類従巻第百七十二』から引いています。
露の歌に見える「そのかみ」も、桜の歌に見える「その神山」と同義で、神山を歌枕に詠んでいるとされますので、併せて紹介しておきます。
このうち、大田の沢に咲くカキツバタを詠んだ、「神山や大田の沢の杜若」の歌はよく知られているようです。
「神山や」は「大田の沢」に掛かる枕詞であり、ここでは「神山」じたいの意味を深く考える必要はありません。
無理に山そのものと考えず、風景をイメージするための導入であったり、賀茂神の御威光のイメージを指すと考えれば良いでしょう。
(大田神社さんの境内に立つ解説文では恋事の歌と解釈されていますが、)「賀茂社百首」であることや、カキツバタが咲く季節=五穀豊穣を祈る賀茂祭の時期であることを踏まえ、「(賀茂神への)頼み」は「田の実」(稲)と掛かっており、農業や雨水の神様である賀茂神の御威光が、賀茂の神域に咲くカキツバタの深い紫色に顕現していると詠んだ歌とも解されます。
この時代の桜花は、現代のようなソメイヨシノではなくヤマザクラですが、桜の歌に見える「その神山」は、「そのかみ(その時、あの頃)」と「かみやま」が掛かっています。
和歌における「神山」に限れば、一般的な歌枕辞典や国文系の辞典では「かみやま」と読むとしており、長年、私もそのように考えていましたが、どうも、杜若の歌を紹介する近年のページでは「神山」に「こうやま」と振り仮名を振る例が目立ちます。
もちろん、現代における山名としての「神山」は「こうやま」と読まれますが、歌が詠まれた時代に「こうやま」と呼ばれていたとは考えにくいものがあります。
また、上でも申し上げましたが、歌枕としての「神山(かみやま)」は、現在の「神山(こうやま)」ではなく、上賀茂の東の山を指す(と考えられていた)可能性があるように思われます。
これはつまり、大田の沢の裏山(現代における大田の小径)に近い山域です。
平安時代中期の歌学書『能因歌枕』では、「国々乃所々名」として、山城国の「かも山」の名前を挙げており、平安時代後期の歌学書『和歌初学抄』では、「所名」の「山部」で、山城国の「神やま」の名前を挙げています。
『和歌初学抄』では、「神やま」の解説として、「かも山也葵桂神をよむべし」と見え、「神やま」と「かも山」が同義であり、神山が葵桂 [9]や神を詠む歌の枕であることが分かります。
さらに余談。
『続後撰和歌集』(続後撰集)を眺めていたら、西園寺実氏 [10]の歌が目に留まりました。
神祇歌
賀茂の社に詣うでゝ暫し籠りて侍りける時下社によみて奉りける
前太政大臣
さかのぼる加茂のは河のその上を思へは久し世々の瑞籬
『続後撰和歌集』
『国歌大観』から引いています。
「加茂のは河」=「鴨の羽河」、記事本文でも引いたように、『扶桑京華志』では「賀茂山」の別称を「神山、又は鴨ノ羽山」としていますが、「鴨ノ羽(かものは)」=「賀茂」です。
賀茂の社にしばらく参籠していた時に下社(下鴨)に詠んで差し上げる歌と詞書にありますから、「その上を思えば」は「そのかみ(その時)」と「賀茂川の上流(の神様)」が掛かっています。
他の歌に見える神山も「かみ山」、賀茂川の上流におわす神様の山の意とも考えられるかもしれません。
余談終わり。
ついに上賀茂でもクマ(熊)の目撃例が
以前より上賀茂と隣接する地域でツキノワグマ(熊)の目撃例が相次いでいましたが、2018年(平成30年)6月20日に神山付近でも目撃されました。
その件について、上の記事に少し追記しています。
神山(地理院 標準地図)
「神山(コウヤマ)(こうやま)」標高301.4m(→301.2m)(三等三角点「神山」)
京都府京都市北区(山域の一部は左京区に跨る)
「貴船神社」(柊野貴船神社)
京都府京都市北区西後藤町 付近
脚注
- 黒馬と白馬を奉献するエピソードは奈良時代の大和国でも見られるものです。また、7世紀頃の難波宮跡から絵馬が出土しており、貴船神社が絵馬の起源というわけではありません。[↩]
- ただし、寛政7年(1795年)の『賀茂名所物語』の描写を見るかぎり、(その当時は)「御生山」と「圓山」(円山、丸山)を別の山と見なしていたようにも読み取れますが、このあたりはよく分かりません。[↩]
- 美濃源氏。土岐光定の子。ばさら大名として知られる土岐頼遠の父。足利尊氏にしたがい武功をあげ、室町幕府の重鎮となり、美濃守護土岐家の礎を築きました。その一方で文にも優れた歌人でもあり、禅宗に深く帰依したことでも知られます。とくに、南北朝時代の京都に大きな影響を与えた夢窓国師とは同世代で、若い頃から交わりを持っていました。[↩]
- 賀茂県主同族会さんのウェブサイトで公開される「神山と三輪山と」と題される梅辻諄さんの記事(pdfファイル) にも、現代において神山が禁足地ではない旨が明記されています。また、賀茂県主の後裔の方々にとって、「信仰の対象として尊ぶのも大切であるが、われわれの健康増進のための登山としても身近で格好な里山と云える」とも見えます。明治時代頃に人を雇って神山に植林する計画を立案なさった社家の方もいらっしゃったようで、もし禁足地と決められていたのであれば、そもそも立ち上がるはずもない計画です(もっとも、この計画そのものは否定的な目で見られており、あくまでも参考意見扱いとされましたので、禁足地であるかは別として、山に人の手を加えたくないと考える方も多かったのでしょう)。ただし、聖地であることは確かですから、みだりに汚すような振る舞いは避けたいものです。余談ながら、平安時代の話として、鴨川(賀茂川)の上流域にあたる北山で鹿や猪を獲る者が多く、流れる血で鴨川の水が汚れてしまい、そのことを神様が嫌がるので対策して欲しい、と賀茂社の禰宜だった賀茂県主広友らが願い出た記録が残っています。その後も「賀茂の神山」で狩りをする者が後を絶たず、その周辺では狩猟を禁止する勅令が出されました。[↩]
- 大阪大林区署は現在の京都大阪森林管理事務所の前身。[↩]
- 詳しい経緯は分かりかねますが、大文字山の山頂には三角点以外に菱形基線測点も設置されていますので、それも関係しているのかもしれません。[↩]
- このコースは京都産業大学さんが「神山自然散策路」として整備・管理なさっており、利用するには大学さんに対して事前申請が必要です。[↩]
- 平安時代後期~鎌倉時代初期の歌人。『千載和歌集』(千載集)の撰者。『小倉百人一首』の撰者として知られる藤原定家の父。源平の争乱期を生きた歴代屈指の歌人で、余情あふれる歌を数多く残しました。弟子である式子内親王もよく知られる神山の歌を詠んでいます。[↩]
- 葵と桂。葵鬘。大雑把に申し上げて、賀茂祭(葵祭)で用いられる双葉葵と桂の葉を組み合わせた飾り。かつての神山は葵祭で用いるフタバアオイの産地でしたが、他の北山の山々と同様、市内の山で自生するフタバアオイを観察するのはなかなか難しくなっています。[↩]
- 鎌倉時代前期の歌人。藤原実氏。『続後撰和歌集』では「前太政大臣」として「山ざくら色さへ匂ふ雲間よりかすみて残るありあけの月」などの歌が入選。実氏の母は源頼朝の実の姪。『平治物語』によると、平治の乱に敗れた源義朝が娘を後藤実基に預け、実基に育てられた娘(坊門の姫)は一条能保の奥方となりました。能保と義朝娘の子が実氏の母の全子。そのため、鎌倉幕府に近い立場にあり、承久の乱では父の公経ともども親幕派と見なされ後鳥羽上皇派から拘束されましたが、承久の乱の後は公経が朝廷の実権を握り、実氏も後深草天皇・亀山天皇の外祖父として栄華を極めました。[↩]
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