2016年(平成28年)3月31日から全4期に分けて開催されている「京阪電車×宇治市『響け!ユーフォニアム』2016スタンプラリー」。
今週の月曜日、6月20日から3期目(vol.3)が始まりました。
なかなか先のお天気が読めない季節です。
天気予報から今回は初日の参加が無難そうだと判断し、今月3度目の宇治行きを。
スタンプラリー2期では宇治市観光案内所、京阪宇治駅、宇治茶道場「匠の館」さんの3ヶ所がスタンプポイントでしたが、3期では宇治市観光センター、JR宇治駅、京阪宇治駅の3ヶ所に。
今回、全て屋内なのは梅雨時や暑い夏場であることを踏まえての配慮でしょうか。
それに伴い、一部、初稿公開時から構成を変更しています。
記事の要旨としては、私が宇治市の仏徳山(大吉山展望台)と朝日山をハイキングし、山麓の興聖寺さんと合わせ、それぞれの由来や歴史について(大雑把に)紹介するもので、本筋は変わりません。
宇治といえば菟道稚郎子と兎さんであり、菟道稚郎子の墓所としての「菟道山」(宇治山)は「卯年の干支の山」ともいえます。
江戸時代には朝日山を「菟道山」に比定する動きがありましたので、それが正確な所在地を示しているかは別として、大雑把に朝日山を「京都の兎の山」と見なしても差し支えないでしょう。
とくに記事の構成は変更いたしませんが、宇治市は紫式部や『源氏物語』と関わりがある地であり、本記事でも少しばかり取り上げています。
『響け!ユーフォニアム』スタンプラリー vol.3
プレゼントの受渡し場所でもある宇治市観光センターは後回し、先にJR宇治駅と京阪宇治駅のスタンプを押印します。
曇りがちなうえ、両駅の間に架かる宇治橋の上から愛宕山や比叡山すら霞んで見えにくく、これでは適当な山を登ろうという気も起きません。
時間の都合もあり、この日は宇治川の周辺を軽く散策したのみ。
京都市内に戻ってくると、ちょうど雨がぽつぽつ降り始めたため、この判断は正しかったといえるでしょう。
みどりさんのクリアファイルとJR宇治駅から散策マップ。
京阪電車×宇治市『響け!ユーフォニアム』2016スタンプラリー(3期目)。
今回も無事に入手しました。ありがとうございました。
『響け!ユーフォニアム』のスタンプラリー3期目(vol.3)は7月26日まで(→6月27日にクリアファイルの配布が終了しました)。
vol.1の話は上の記事に。
宇治神社さんの桜などと合わせて紹介しています。
vol.2の話は上の記事に。
京都市伏見区と宇治市の市境に所在する日野岳(日野山)や天下峰ハイキングと合わせて紹介しています。
宇治川から仏徳山(大吉山)と朝日山を眺望
宇治川・塔の島に架かる喜撰橋から浮島十三重石塔越しに仏徳山(大吉山)と朝日山を望む。
昔はこの浮島(浮舟ノ島)から対岸の興聖寺さんまで渡し船が出ていました。
現在では十三重石塔にちなみ、塔の島と呼ばれています。
この十三重石塔は鎌倉時代に宇治橋の修造を行った高僧、叡尊(奈良西大寺の興正菩薩叡尊上人)が建立したもので、その高さは約15m。
これは日本最大の石塔とされます。
話が長くなりすぎるので控えておきますが、この石塔は過去に何度も水害に遭っており、受難の歴史を経て、今、塔の島に立ちます。
誤解されがちですが、朝日山観音さんのお堂が山頂にある、いわゆる「朝日山」は、私が写真に示している山(十三重石塔の後方の山)です。
写真の右端で見切れている山ではありません。
喜撰橋の西(南)が「あじろぎの道」で、プレゼント受渡し場所でもある宇治市観光センターの近く。
宇治川の左岸には平等院さんが所在し、宇治川の右岸には宇治上神社さんが所在します。
「あじろぎの道」の「あじろぎ」は、「もののふの八十宇治川の網代木に~」の訓読で知られる柿本人麻呂の歌からでしょうか。
この歌の影響で、後世、「宇治川の網代木」は多くの歌に詠まれました。
朝霧橋の西詰から仏徳山(大吉山)と朝日山を望む。
宇治川の川霧(朝霧)は朝日山とセットで和歌に詠まれやすいです。
宇治神社さんと橘島の間に架かる朱色の橋が朝霧橋。
上の写真は西詰にあたる橘島側から朝霧橋の欄干越しに撮影しており、仏徳山(大吉山)の右肩越しに朝日山の山頂域も写っています。
これは後半の話のネタ振りのようなものです(ので、「朝霧橋から朝日山の山頂が見える」ことを覚えておくと、より楽しめるかもしれません)。
仏徳山(大吉山)と朝日山を宇治川・橘島に架かる朝霧橋から望む。
「橘の小島」は『源氏物語』の「宇治十帖」のうち、「浮舟」の巻にも名前が見えますね。
この写真に写る丘陵地が、名勝としての「宇治山」に指定されます。
分かりにくいですが、地形図に山名が見える「朝日山」は中央の奥の目立たない山で、右で目立つ山ではありません。
現代において、この構図や、宇治橋の上から望む同様の構図で、右に見える山を「朝日山」と説明している写真が見受けられますが、朝日山観音さんがお祀りされている山を指しているのでしたら、その説明は誤りです。
右に見えるのは朝日山の南に所在する標高約120m小ピークで、その下方(右下)の朱色の橋は観流橋。
観流橋は宇治発電所から流れる水路が宇治川に流入する地点に架かります。
橘島から朝霧橋を渡ると菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を祭神とする宇治神社さんや宇治上神社さんに至り、その裏山が「大吉山展望台」で知られる仏徳山。
記事の冒頭で「今月3度目の宇治行き」と述べましたが、今月のはじめ、6月3日と4日にも宇治を訪れました。
いずれも宇治市の滞在時間は1時間と少し、大吉山展望台を急いで駆け登り、写真を撮影して下山するのみという強行軍に。
とくに好条件だった2日ほどではないにせよ、6月3日も初夏としては空気が澄んだ日で、ある「観覧車」が展望台から見えるかどうか検証するため、大吉山を訪れました。
その際、『響け!ユーフォニアム』のアニメ関連イベントに伴い、県祭り(縣祭り、あがた祭り)の夜が迫る4日と5日の両日、大吉山展望台で作品パネルが展示されると知り、心が動きます。
宇治市を舞台としたテレビアニメーション作品『響け!ユーフォニアム』 において、県祭りの夜に起きた一連の出来事は登場人物にとって大きな意味を持っています。
とくに、久美子さんと麗奈さんが大吉山展望台までナイトハイクし、宇治の夜景を眺めながら語らい、2人で楽器を演奏するシーンの描写は視聴者に鮮烈な印象を与えました。
制作された京都アニメーションさんの映像美も相まって、作中でも屈指の名シーンとなっています。
その県祭りの時期に合わせてのパネル展示とは気が利いています。
多くの人の出が予想されますが、これはぜひとも見ておかねばと思い、連日、仏徳山(大吉山)を登ることに。
6月3日に大吉山展望台から「観覧車」や六甲山などを撮影した写真は上の記事に掲載しています。
以下は6月4日の話です。
朝日山と仏徳山ハイキング 宇治市
宇治上神社から東海自然歩道へ
宇治上神社さん側の仏徳山(大吉山展望台)登山口。
2016年(平成28年)6月4日5日の2日間限定、ユーフォニアム特別パネル展示の案内。
写真でも下に写っていますが、登山口の足元に見える道標では「仏徳山(大吉山)」としており、「仏徳山(ぶっとくさん)」の呼称を優先しています。
現行の地理院地図や東海自然歩道の道標では「仏徳山」の山名のみを表示しており、「大吉山(だいきちやま)」の名前は見えません。
宇治市の公式サイトでは周辺を「大吉山風致公園」 と紹介しています。
県祭りの夜、つまり、6月5日の夜に作品にあやかってナイトハイキングを企む方が多いと予想されるからでしょうか、登山口の立て看板には「危険 夜間の登山はご遠慮ください。」とありました。
昨年までは注意喚起程度で、自粛を強く促す「ご遠慮ください」とまでは書かれていなかったように記憶しています。
もっとも、京都新聞さんの直前の報道では、
県祭アニメで盛り上げ 「響け!ユーフォニアム」パネル : 京都新聞
(中略)
市商工観光課の担当者は「大吉山は照明がないので登山にはライトを持参してほしい」と呼び掛けている。
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20160604000039(リンク切れ)
と、事実上、黙認していらっしゃるようにも見えますが、当日当夜がどのような状況だったかまでは知りません。
もし、何か問題が生じたら、今後、夜間の登山は全面的に禁止される可能性もあるでしょう。
夜間に迷惑となる行為は控えましょう。
追記。
本件は宇治市都市整備部の公園緑地課と宇治市産業地域振興部の商工観光課で見解に齟齬が生じている。
立て看板の文面と、マスメディアによる報道が一致しない原因。
追記終わり。
大吉山展望台のパネル展示
大吉山展望台の『響け!ユーフォニアム』パネル展示。県祭りに合わせて。
撮影日は2016年(平成28年)6月4日。
県祭りの夜を再現した、久美子さんと麗奈さんの等身大パネルです。
しかし、虫が多い初夏の夜にワンピースで里山を登るのは……、という野暮な突っ込みをしてはいけません。
おそらくは日曜日5日のほうが人が多かったでしょうが、土曜日4日も大吉山展望台や登山道は作品ファンでにぎわっていました。
知らずに登った方はさぞや驚かれたことでしょう。
これだけ混雑していると、さすがに大吉山展望台から景色を眺める気も起きず、パネルの写真を数枚撮影し、逃げるように山頂方面へ。
大吉山展望台からの展望や遠望については上の記事などが詳しく。
仏徳山(大吉山)の山頂へ
「京都・文化の森(京の景観保全林・大吉山)」の案内看板。「仏徳山」の山名標は失われました。
この看板は東山の大文字山や上賀茂の神宮寺山でも見られるものです。
以前は看板の右上に「仏徳山」と示した山名標が吊るされていましたが、いつの間にやら失われてしまいました。
吊るしていた紐だけが残っていますね。
ありし日の山名標の写真は上の記事に。
地理院地図は国土地理院の成果であり、国の基幹となる情報源です。
したがって、当ウェブサイトでは、地理院地図に山名が表示される山に限っては、ごく一部の表記揺れを除き、その山名を優先しており、この山についても「仏徳山」の山名を優先しています。
仏徳山の山名(三角点「旭山」について)
仏徳山(大吉山)の山頂。三角点131.6m(点名「旭山」)。京都府宇治市。
三角点横のケルンは年々高く積み上がっている、らしい。
※測量標を汚損する行為は測量法により禁止されています。
三角点設置時、1903年(明治36年)観測の「点の記」に目を通してみると、この三角点が設置される山について、「俗稱 旭山」としています。
これにしたがうと、現在、仏徳山や大吉山と呼ばれる山は、明治時代頃には俗に「旭山(あさひやま)」と呼ばれていたことになります。
現代においては仏徳山(大吉山)に隣接する南東の山を朝日山と呼びますが、朝日山と仏徳山(大吉山)は遠目には大きな1つの連なり、丘陵のようにも見え、古くは同じ「朝日山」と扱われていたことが覗えます。
本記事のはじめに掲載している山姿の写真をご覧になれば分かりやすいでしょう。
今木の嶺と離宮山
史料上、「朝日山」の名前はよく現れますが、それと比較すると、現在、仏徳山や大吉山と呼ばれる山について触れた史料は少ないです。
江戸時代中期(享保年間)に編纂された『日本輿地通志 畿内部』(いわゆる『五畿内志』)では、
「今來嶺」
在二宇治彼方町東南一今曰二離宮山一
『日本輿地通志 畿内部』(『五畿内志』)
と見え、その次に、今来嶺の東に「朝日山」があるとしています(在二今來嶺東一)。
その後、宝暦4年(1754年)の『山城名跡巡行志』や、宝暦12年(1762年)に刊行された『日本書紀通證』(日本書紀通証)の「菟道宮」の注釈でも、今来嶺については同じ描写が見られますが、おそらく『五畿内志』を引いたと考えられます。
「今来嶺については」と限定したのは、こちらは今来嶺と朝日山を同一視しているからです。
「宇治彼方町の東南にある」の「宇治彼方町」については、正徳元年(1711年)の『山城名勝志』に「彼方ヲチカタ 在二宇治橋東北一今曰二彼方町一」、1938年(昭和13年)の『宇治誌』に「彼方神社 境内二十坪に過ぎぬが、町名乙方の起源をなす草分けの神社である」などと見え、宇治橋の北東、現在の宇治彼方神社さんのあたりを指すようです。
『五畿内志』では「今来嶺」なる山について「今は離宮山と言う」としており、この当時、宇治神社さんと宇治上神社さんが「離宮八幡」とも呼ばれていた点や、今来嶺と朝日山を別の山と見なしている点、彼方(おちかた)との位置関係から推測するに、この「今来嶺」=「離宮山」は現在の仏徳山(大吉山)を指すと考えられます。
「今は離宮山と言う」ですので、(その当時の)現称が「離宮山」であり、「今来嶺」は旧称です。
この「今来嶺」の旧称は、『萬葉集』(万葉集)に見える「今木の嶺」の歌にちなんだものだと考えられ、現在、大吉山展望台の付近には歌碑も建立されています。
宇治市による歌碑の解説文では「今木峰は朝日山の古名とされている」としていますが、『五畿内志』では「今来嶺」と「朝日山」を別の山としています。
しかしながら、江戸時代中期~後期の橘千蔭(加藤千蔭)による『萬葉集略解』や、本居宣長による『古事記傳』(古事記伝)、あるいは鹿持雅澄による『萬葉集古義』といった注釈書では、この『五畿内志』に見える「今来嶺」の山名は「萬葉の歌に依るおしあて説なるべし」として否定的です。
嘉永元年(1848年)の『男山考古録』(1960年(昭和35年)の『石清水八幡宮史料叢書1』収録版)に菟道稚郎子の話が見え、(このくだりは注釈書に影響を受けたと考えられますが、)「其宮所は俗に云今來山にて、宇治彼方町東南にて、離宮山ともいふ所也、こゝを今來山といふは、萬葉集に依て、後人の附會せるなり」としています。
「離宮山を今来山というのは万葉集によって後世の人間が附会した(無理やりこじつけた)」を見るかぎり、江戸時代の後期には見なしと考える人が出ていたようです。
江戸時代中期に『五畿内志』が編纂される以前、たとえば『雍州府志』や『扶桑京華志』『名所都鳥』といった江戸時代前期に刊行された地誌に「今来嶺」の名前は見えず、それ以前の公的に編纂された正史と見なせる史料であったり、よく知られる私的な日記や随筆、物語、あるいは歌であったりにも、離宮山を指して「今来嶺」と呼んでいたり、それが世に広く知られていたという話は見えず、たしかに『五畿内志』の時期から急に広まった山名のようではあります。
並河誠所(並河永)による『五畿内志』は後世に大きな影響を与えた幕纂地誌ですが、(これは他の地誌も同様ですし、そもそも山名はその土地の人がどう呼んでいたかが重要ではあるものの、)その典拠を示さない地名については、当時、世間で広まっていた話や、土地の人から聞いた話をそのまま書いたと思わしきケースが珍しくない点に留意する必要があるでしょう。
そういった影響もあるのか、江戸時代末期頃に描かれたとされる『宇治名所古跡之繪圖』(宇治名所古跡之絵図)では、「仏徳山」と「朝日山」の山姿と山名が左右に並んで描かれており、(古跡の絵図でありながら、)どこにも「今来嶺」の名前は見えません。
他には、仏徳山(大吉山)でも宇治上神社さん寄りの山域を指して「桐原山」や「相原山」(おそらく桐原山の誤り?)とする近代の史料や、宇治神社さんの南側の丘陵を指して「茶碗山」とする近代の史料などもあります。
「茶碗山」は朝日焼ゆかりの地であり、今は山麓に朝日焼窯芸資料館さんが建っていますが、すでに山名としては失われたようです。
「桐原山」は『山城国風土記』逸文に名前が見える菟道稚郎子の宮所「桐原日桁宮」に由来しており、今も宇治上神社さんの名水「桐原水」として、「宇治七名水」に名前を留めています。
この周辺は、いにしえの茶園「宇治七名園」の一所「朝日」比定地でもあり、お茶と名水、焼き物の繋がりが見えてきます。
また、仏徳山(大吉山)の北側にあたる丘陵は「二子山」(双子山)と呼ばれており、宇治二子山古墳(二子山北墳、南墳)の名前があります。
個人的に少し調べたかぎり、仏徳山(大吉山)の山頂の地権者は興聖寺さんのようで、現在、「仏徳山」を山名とするのは、そのあたりも影響しているかもしれません。
「大吉山」の山名は江戸時代以前の古い史料には全く見えず、どこから現れたのかよく分かりません(これは記事初稿公開時の見解です)。
「今来嶺」や「離宮山」の名前が使いにくくなったことに加え、朝日山観音がある「朝日山」と区別するため、近代以降、新たに創られた(あるいはどこからか引っ張ってきた)呼称だろうと推測しています。
余談ながら、中国の江西省にも大吉山があり、そちらは小吉山と対になっています。
あるいは、滋賀県の長浜市には天吉寺山と大吉寺さんがあります。
1901年(明治34年)の『滋賀県東浅井郡誌』によると、「白雉元年(650年)、愛知川に流れ出た浮木が聖観音の像に似ていたので、天智天皇が詔して寺を建て、この像を安置して天吉寺の号を賜った」が、「天平勝宝7年(755年)、洪水のため(観音像が)流失し、琵琶湖に入る」という出来事が起き、「その後、28年を経て、桓武天皇の御代、延暦元年(782年)、粟津の湖底(粟津ヶ原)に之を発見し、勅使参議兼兵部卿橘朝臣奈良麿が拾い上げ」、さらに「同16年(797年)に再び一寺を建て、その際に大吉寺と改めた」といった話が見えます。
江戸時代中期、享保19年(1733年)に大成した『近江國輿地志略』(近江国輿地志略)にも似た話が見えますが、細部はかなり異なります。
当時の大吉寺縁起として、「天智天皇の御代、愛智郡愛智川に浮木があり、観音像に似ていた」「桓武天皇の御代、夢のお告げがあり、参議兼兵部卿正四位下橘朝臣奈良丸をもって、浮木像の一精舎を建て、大吉寺と号した」「しかる後、大同2年(807年)の夏、大洪水が発生し、寺は水没し、観音像は水に流された」「浅井東郡草香郷の高島大娘の家が観音像を得た」といった話が続き、戦乱の世を経て、現在の大吉寺さんに繋がっていきますが、こちらは当初から「大吉寺」であって、どこにも「天吉寺」の名前は見えません。
とくに口伝に頼った話は100年も経てば大きく変容します。
※大吉山の呼称の由来について興味がある方は記事下部の追記(大吉山の由来の可能性)をどうぞ。
万葉集と仏徳山、朝日山
長くなるので避けていましたが、やはり少し補足しておきます。
『万葉集』に挽歌(かなしみの歌)として詠まれた
宇治若郎子宮所歌一首
妹等許今木乃嶺茂立嬬待木者古人見祁牟
イモラカリイマキノミネニナミタチルツママツノキハムカシノヒトミツケム
イモラカリイマキノミネニシケリタツツママツノキハムカシノヒトミツケムテ
『紀州本萬葉集』より
があり、この歌に見える「今木の嶺」を仏徳山(大吉山)や朝日山に比定する説があります。
上は紀州本複写に付けられた2種の振り仮名を読み取って掲載していますが、一般的に「妹らがり今木の嶺に茂り立つ嬬松の木は古人見けむ(いもらがりいまきのみねにしげりたつつままつのきはふるひとみけむ)」の訓読と仮名が知られます。
この歌は「宇治若郎子宮所歌」(菟道稚郎子の宮所での歌)としているだけで、それ以上の説明はなく、「今木の嶺」がどこを指すかは推測の域を出ません。
「菟道稚郎子の宮所」は『日本書紀』に「既而興宮室於菟道而居之」「菟道宮」とあり、この「菟道の宮」は現在の宇治上神社さんや宇治神社さんに比定されます。
しかしながら、その『日本書紀』にも「今木の嶺」の名前は見えません。
そのため、「今木の嶺」の所在については、古くから議論が重ねられていました。
たとえば、江戸時代前期の国学者である契沖や、江戸時代中期の国学者である賀茂真淵、あるいは真淵に続く本居宣長らは、この歌に見える「今木の嶺」を大和国の今城(今来、今木)と解釈していました。
真淵の『冠辞考』には「今木の嶺は大和高市郡にて、欽明期には今來郡といひ」と見えます。
これはあくまでも契沖や、その影響を強く受けたと考えられる賀茂真淵の説ですが、真淵の『萬葉考』によると、「應神天皇は豊明宮に都したまへり若郎子命も始はそこに宮居し給しなるべし大和なり」としており、つまり、菟道稚郎子は菟道宮を宮所とする前に、はじめは父である応神天皇の軽島豊明宮(奈良県橿原市)を宮所としていたそうです。
真淵の弟子である橘千蔭の『萬葉集略解』(万葉集略解)や、あるいは鹿持雅澄の『萬葉集古義』(万葉集古義)も同様の立場を取っています。
当時の高名な国学者たちが揃って高市説を支持したことにより、それ以降の「今木の嶺」に大きな影響を与えました。
「いもらがり」の歌の解釈じたいも難しいですが、「今来た」と掛かる「今木の嶺」については、菟道稚郎子より数百年後の時代に生きた万葉の時代の詠み人が、古人(菟道稚郎子)の伝承をどのように考えていたかも焦点となるでしょう。
念のために申し上げておきますが、「今木の嶺」について、私は契沖や真淵の説を支持しているわけではありません。
「今来嶺」について、事実がどうであったかを論じているのではなく、こういう考えの人がいたので、そのことが、この山、つまり、現在、仏徳山とも大吉山とも呼ばれている山の山名の変遷に影響を与えたのだろう、といったことを紹介しているだけです。
もしかすると、現代でも今来嶺や今来山と呼ばれていた可能性もあったのかもしれません。
ただし、後世の話として、たとえば、鎌倉時代後期の『夫木和歌抄』(夫木集)では、平安時代後期の歌人、祝部成仲の「つねよりもめつらしきかな子規いまきのやまのけふのはつこゑ」の歌に見える「いまきの山」を大和としていたり、歌枕としての「今木の山」が大和国の山と見なされるようになっていたことは察せられます。
個人的な見解を付け加えておくのであれば、時系列的に見て、江戸時代前期に契沖が『萬葉代匠記』(万葉代匠記)で「今木の嶺」は大和国ではないかと指摘し、それが通説となりつつあったので、それに気付いた宇治の方々が反発して、離宮山を「今来嶺」と呼んでいたとして対抗するようになり、さらに賀茂真淵の弟子らが離宮山が今来嶺と呼ばれていた事実はないと反論した、という流れだろうと推測しています。
これはやや分かりにくいですが、江戸時代中後期に論点となっていたのは、あくまでも、離宮山を「今来嶺」と呼んでいた(とされる)のが「萬葉の歌に依るおしあて説」による後世の創り話かどうか、です。
『男山考古録』の「(菟道稚郎子の)宮所は俗にいう今来山にて、宇治彼方町東南にて、離宮山ともいう所なり、ここを今来山というは、万葉集によりて、後人の附会せるなり」を見ても分かるように、宮所の所在地は論点としていません。
明治時代以降の再反論として、平安時代の『新撰姓氏錄』(新撰姓氏録)によると、山城国には今木の氏を称する皇別氏族や、今木連の氏姓を称する神別氏族がいたのだから、それはつまり、山城国にも今木を称する地名が存在していたはずだ、というものがあります(古代の氏族名と地名は切り離せない関係にあります)。
ただ、これは山城国に今木を称する一族がいた、だから今木の地名もあったという説の根拠にはなるかもしれませんが、だからといって、離宮山の旧称が今来嶺である(今来嶺と呼ばれていた)かどうかは分かりません。
もしそう呼ばれていたのだとして、なぜ、『五畿内志』より古い史料には離宮山が今来嶺と呼ばれていた記録が存在しないのか、なぜ、江戸時代の中期頃にいきなり「今来嶺」の名前が現れたのかという疑問が解決しません。
また、明治時代の国文学者である井上通泰は、『萬葉集新考』(万葉集新考)で、いわゆる宇治は昔は久世郡ではなく紀伊郡に属していて、宇治の一帯は「キノ国」を称しており、宇治山も「キノ嶺」と呼ばれていた、「今木の嶺」の歌は、そもそも「いもらがり いまきのみねに」で切るのではなく、「いもらがりいま きのみねに」と切るのが正しく、「きのみね」=「キノ嶺」(紀伊嶺)(紀の嶺)だという説を唱えて契沖説に反論していますが、これは宇治の方からもあまり受け入れてもらえなかったようです(まずもって、宇治川の右岸域は久世郡ではなく宇治郡であることも理解していないように思えます)。
しかしながら、『萬葉集新考』の説じたいは、本記事の下部で取り上げる「喜撰法師は『木のせみ』(紀のせみ)」説と照らし合わせると、なかなか興味深いものがあります。
また、この説は、下の「右5首」問題を解決できる可能性も秘めています。
井上通泰は、民俗学者として知られる柳田國男の兄(実兄)で、他の記事でも少し取り上げている藤井高尚の研究者として高名です。
この「今木の嶺」の歌は詠み人不詳とされ、宇治市による歌碑の解説文でも「作者は未詳」としています。
『万葉集』では、「今木の嶺」の歌と、次に「紀伊國作歌四首」とされる4首の後に、「右五首柿本朝臣人麿之歌集出」と左註を付けており、「右5首」(1首+4首)にしたがえば、「今木の嶺」の歌も、先に『柿本人麻呂歌集』(人麻呂撰の歌集)に収められていたと考えられます。
後世、『万葉集』から『柿本人麻呂歌集出』とする歌や、人麻呂作の歌を抜き出し、『柿本集』(人麿歌集)などとして再編されたものがありますが、「右5首」の数え方の問題にもよるのか、なぜか、そういった再編歌集の現存写本からは「今木の嶺」の歌が漏れやすいようです。
この「なぜか」については、私のように無知無学な人間ですら疑問に思ったのですがら、当然ながら、昔の人も同様で、『萬葉集古義』では「五は四の誤り」だと指摘しています(つまり、「今木の嶺」の歌は『柿本人麻呂歌集』出ではないと考えられていたので、後世の再編歌集にも収録されなかった)。
しかしながら、この「四の誤り」説は、さらに後世に反論を受けています(が、さすがに長くなりすぎるのでここまで)。
「今木の嶺」について補足終わり。
仏徳山から朝日山への鞍部
仏徳山(大吉山)を通過し、朝日山との鞍部へ下ります。
先ほどまでいた仏徳山(大吉山)の山頂にも小さなケルンがありますが、この鞍部にも信仰的な意味合いが強い石積みが見られます。
道標に従い朝日山の山頂まで登り返します。
今回は朝日山を登りましたが、この鞍部から興聖寺さんの駐車場方面へ下山できます。
朝日山の山頂(山名の由来と歴史)
朝日山の山頂。朝日山観音さん。標高点124m。京都府宇治市。
お堂の銘は「朝日観音」ではなく「朝日山観音」で、現在は観音菩薩さんをお祀りしています。
山上の観音堂については、正徳元年(1711年)の『山州名跡志』に、
「朝日山」
號る事は宇治里にして、朝日先此岑を照す謂也。有二山上小堂一。安二石彫千手觀音一。立像五尺許
『山州名跡志』
と見え、古くから観音さんがお祀りされていたことが分かります。
『山州名跡志』でも朝日山の由来らしきものを挙げていますが、『山州名跡志』より前の時代に記された、寛文5年(1665年)の『扶桑京華志』では、
「朝日山」
在二宇治河ノ南崖一朝陽映ス二平等院ノ堂ニ一故得二此ノ名ヲ一
『扶桑京華志』
としています。
『扶桑京華志』では、「(山の向こうから昇った)朝陽を平等院の堂に映すゆえにこの名を得る」としており、これにしたがえば、まず、平等院ありきの山名となります。
朝日山の西麓(宇治神社さんの南側)に所在する恵心院さんが「朝日山」を山号としていらっしゃいますが、また、平等院さんも「朝日山」を山号としていらっしゃいます。
多くの史料で、平等院の山号について「朝日山とは平等院の対岸の山」としており、平等院と朝日山は切り離せない関係にあったようです。
朝日山を号する恵心院さんと平等院さんは宇治川や橘島を挟んで対岸に位置しています。
先にも述べましたが、この頃の「朝日山」(旭山)は現在の朝日山周辺山域の総称だと考えられます。
いずれも平等院さんから見て朝日が昇る方角(東方向)に所在する山々であることは確かであり、鳳凰堂に光が差すこともあるでしょう。
改めて申し上げるまでもなく、ある場所から見て朝日が姿を現す位置は一年を通じて変化するため、毎日、同じ場所から昇るわけではありません。
古くから秀歌に詠まれた朝日山
堀河院の御時百首の歌奉りけるに霧をよめる
權大納言公實
麓をば宇治の河霧たちこめて雲居に見ゆる朝日やまかな
麓をばうぢの河霧たち罩めて雲井に見ゆる朝日山かな
『新古今和歌集』
上は『国歌大観』から、下は1938年(昭和13年)の『宇治誌』より引いていますが、宇治の朝日山を詠んだ歌としてはごく初期の例であり、とくによく知られるものです。
これは藤原公実が詠んだ秋の歌で、宇治川に朝霧が立ち籠めているので山麓が見えず、雲居(雲がかかっている高所)に見える山影と朝日を見て、まさに「朝日山」だと感嘆しています。
もともと、この歌は清原深養父(清少納言の曾祖父)が詠んだ「河霧の麓をこめて立ちぬればそらにぞ秋の山は見えける」(拾遺和歌集)の歌を本歌として、それを気に入った藤原公実が真似したもので、そのことを公実自身も「歌はこのように盗むなり」と広言していたといった話が藤原清輔の歌学書『袋草紙』に見えます。
こういった話のおかげか、清原深養父は後世になるほど評価が上がった歌人で、後に失われましたが、洛北の地に補陀洛寺(補陀落寺)を建立したことでも知られます。
さておき、藤原道長の別荘であった宇治殿を、その子、頼通が寺と改めた平等院は永承7年(1052年)創建、後に鳳凰堂とも呼ばれる阿弥陀堂(御堂)は、その翌年にあたる天喜元年(1053年)建立、くしくも、藤原公実も天喜元年の生まれです。
藤原公実の末娘が鳥羽天皇の中宮となる璋子(待賢門院)で、公実の没後、あの崇徳天皇や後白河天皇を出産します。
平等院が創建されるより少し前の時代、藤原実方や藤原道信(道信中将)が朝日山を歌枕に詠んだ歌が1首ずつ残されており、これらが歌枕としての「朝日山」の最初期の使用例とされます。
これら2首は朝日山の山麓に対する歌に見えます。
あさひの山の麓にかみまつりける所
あさひ山麓をかけてゆふ襷あけくれ神を祈るべき哉
『実方朝臣集』
題しらす
藤原道信朝臣
さなへとる袖は猶こそしほるらめ朝日の山のふもとなれとも
『雲葉和歌集』
実方の歌は『国歌大観』から、道信の歌は『群書類従』から引いています。
『夫木和歌抄』(夫木集)では、雑部の「山」で、歌枕としての「あさ日山」を「朝日山、山城又越前」とした上で実方の歌を収めており、同時期に詠まれたと考えられる、彼らの歌に見える朝日山は宇治の朝日山ではない可能性があります。
もっとも、雑部の「神祇」では、「あさ日山のふもとに神祭する所(朝日山の神)」としたうえで実方の同歌を収めていますので、この「朝日山の神」が宇治上神社さんや宇治神社さんを指すのであれば、宇治の朝日山を詠んだ可能性もあります。
もし、平等院創建以前に詠まれた2首に見える「歌枕としての朝日山」が、確かに山城国宇治の朝日山であるならば、『扶桑京華志』の説とは逆で、先に「朝日山」の名前があったのかもしれません。
たとえ、平等院の創建以前に「朝日山」の呼称があったにせよ、それは平等院の前身となる藤原道長の別荘や、さらにその前、当地に置かれた歴代の公家の別荘だったり、天皇の離宮だったりに朝日を差したから、という可能性もあるでしょう。
いずれにせよ、「朝日山」の名前が見え始めるのはこの時期(平安時代中期)からです。
追記。
いつの間にやら、インターネット上では『万葉集』に「朝日山」の名前が見えるという説、
都をば夜ごめに出でて朝日山あさ風涼し宇治の河づら
『藤簍冊子』
とくに、この「都をば夜ごめに出でて朝日山」の歌が『萬葉集』(万葉集)に収録されていると主張するページが見受けられるようになり(厳密に申し上げれば、書き写しを誤ったのか、伝聞をもとにしたのか分かりませんが、私が掲載している正しい歌とは1文字異なっているようです)、さらにそれをソースとした誤った話がコピペ的に広まりつつあるようですが(皆さん、1文字間違ったままなので、元の歌や、それが収録される歌集をご自身で確かめていらっしゃらないのが分かります)、歌枕としての「朝日山」は平安時代以降に現れますので、それは誤りです。
先に述べたように、『万葉集』には「今木の嶺」を詠んだ歌があり、これを朝日山と重ねて見る説はありますが、万葉の時代に「朝日山」の名前は見えません。
上の歌は江戸時代後期の国学者・歌人・作家で、『雨月物語』や『春雨物語』の作者として知られる上田秋成が詠んだものであり、その歌文集『藤簍冊子』(つづらぶみ)に収められています。
秋成は柿本人麻呂の研究書『歌聖伝』や、『万葉集』をもじった『萬匂集』(万匂集)などを出していますが、そのあたりから誤解が広まったのでしょうか。
名勝「宇治山」の指定も内定していますし、この手の謬説が広まるのは良い話だとは思えません。
誰かが指摘しておかないと増殖する一方になりがちですので、いちおう。
追記終わり。
上記の件について追記。
あれから数年間、様子を見てきましたが、誤りの発信源らしき方の記事を除き、そこからコピペ的に広めていたと考えられる他の記事はほぼ消えたようですね。
追記終わり。
「菟道稚郎皇子之墓」碑
かつて、朝日山は応神天皇の皇子である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の墓所と見なされていました。
菟道稚郎子は父の応神天皇から太子(皇太子)に立てられていましたが、父の崩御後、その座を兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)に譲ってしまい、皇位空白の期間が生まれてしまいます。
兄に対し、菟道稚郎子は「兄こそ天下の君に足りる人です。私は才能もないのに父から愛されていたというだけで皇太子に立てられましたが、愚かな自分にはふさわしくありません」と譲りますが、兄は兄で、「父は皇位を1日でも空けてはいけないとして生前に貴方を皇太子に立てていたのです。先帝の命令には背けません」と拒否するので、けっきょく、菟道稚郎子は兄に皇位を譲るため自死した(乃自死焉)といった話が『日本書紀』に描かれる人物で、宇治の歴史や民俗を語るうえでは欠かせません。
もちろん、上記のエピソードじたいは仁徳天皇の皇位継承における正統性を強調するためのもので、年長の兄を立てるために弟が自ら死を選ぶという話は、ある種の道徳的な観点から美化されたのでしょうが、この出来事により、菟道稚郎子が後世でも敬われていたことも事実です(現代人の価値観で物事を図ってはいけません)。
『日本書紀』によると、菟道稚郎子は百済から招いた博士の王仁に師事し、多くの典籍を学んだとしています。
『古事記』では王仁博士を和邇吉師としていますが、百済王は和邇吉師に「論語」を託して献上したと見えますので、それが歴史的事実であるかは別として、菟道稚郎子は王仁から儒教も学んだと考えられていたのでしょう。
『日本書紀』では菟道稚郎子を「仍葬於菟道山上」(よって菟道の山上に葬った)、『本紀』(先代舊事本紀)(先代旧事本紀)でも同様に「仍薨二於菟道ノ山ノ上一也」としており、この記述に基づき、享保18年(1733年)、朝日山の山上に墓碑が建立され、以降、俗に「菟道尊陵」と扱われていたようです。
ただし、朝日山からは御陵(天皇陵)や御墓(皇族墓)に治定できる古墳は見付かっておらず、朝日山を『日本書紀』における「菟道山」(宇治山)とするのは、あくまでも見なしに過ぎません。
『続日本後紀』の承和7年(840年)5月6日条には、淳和天皇の散骨問題が生じた際(淳和天皇は歴代の天皇で唯一散骨されました)、「昔宇治稚彦者、我朝之賢明也、此皇子遺教、自使レ散レ骨」と菟道稚郎子を引き合いに出し、中納言藤原朝臣吉野が奏言したといった話が見えますが、古墳時代の歴史的背景から考えると、菟道稚郎子が自身の散骨を命じたという昔話には疑問が残るところです。
しかしながら、「山に古墳が無いのは散骨されたからだ」と考える方がいらっしゃったのもまた確かなようです。
平安時代中期の「延喜式」では、「宇治墓 菟道稚郎皇子。在二山城國宇治郡一兆域東西十二町。南北十二町。守戸三烟。」としており、「延喜式」の記述が正しければ、十二町四方(約1.3km四方)規模の古墳となりますが、朝日山に限らず、そのような巨大な古墳を山の上に築くのは難しそうです。
もっとも、この記述は事実を正確に伝えるものとは限らず、あくまでも「延喜式」にはそのように書かれている、そう定められたというだけの話です。
また、朝日山の上には経塚があり、それを菟道稚郎子の墓と見立てた、とする説もあります。
ただし、あくまでも一般論としては、菟道稚郎子の時代に経塚を造営する風習は存在しません。
日本における経塚は永承7年(1052年)を末法元年とする「末法思想」と深い関わりがありますが、あくまでも伝承としては、たとえば、(天竺の霊鷲山や法華経と関わる伝説が多い)役行者による経塚伝説のようなものは各地に伝わります。
経塚の存在については、墓碑が建立されるより少し前、上でも引いた、正徳元年(1711年)の『山州名跡志』の「朝日山」に「經塚 在リ二觀音堂西ノ傍ニ一 由來不レ詳」と見え、墓碑の建立と近い時期に編纂された『山城名所寺社物語』の「興聖寺」にも「此寺のうしろの山に觀音堂あり御經塚下に御茶屋のしょゑん有」と見えます。
『山城名所寺社物語』に見える「うしろの山」はもちろん朝日山を指していますが、経塚の下にあるという「御茶屋のしょゑん」が何を指しているのか気になるところです(所縁? 書院?)。
宇治朝日(朝日園)の地は足利義満が整備を進めたとも伝わる茶園「宇治七名園」(七茗園)の一所でもあり、室町時代の『遊学往来』(新撰遊覚往来)には「宇治朝日山」の茶が挙がっています。
「御茶屋のしょゑん」しだいですが、どうも、経塚を菟道稚郎子の墓と考えていた人ばかりではなかったようです。
この経塚は、1938年(昭和13年)の『宇治誌』の「朝日山」にも「山頂傳説の經塚がある」と見え、「伝説の経塚」が昭和の初期には残っていたようですが、(私が知るかぎり、)今は見当たりません。
現在、朝日山観音展望台前に残る五重石塔や、観音堂付近の五輪塔とは別だと考えられます。
『山州名跡志』では「経塚の由来は詳しくは分からない」としていますが、「観音堂の西の傍」の位置関係から見て、あるいは五輪塔を指しているのかも……。
あるいは由来不詳だった経塚の場所そのものに墓碑を建て、その後も墓碑=経塚と扱われていたのでしょうか。
この「伝説の経塚」については、昔の宇治の方々は当たり前のようにご存じだったようですが、どこにどのように所在していたのか、正確なところが(私には)よく分かりません。
その後、明治時代になり、宇治市莵道の丸山古墳が菟道稚郎子尊の御墓(宇治墓)と治定されたため、朝日山は墓所ではなくなってしまいました。
そのため、現在、当地は(国からは)菟道稚郎子の墓所とは見なされておらず、宮内庁の管理下にありません。
ですが、朝日山観音さんをお参りなさる方々らが、江戸時代の墓碑や、伝承の地を今でも綺麗に保っていらっしゃるのでしょう。
丸山古墳は京阪宇治駅の北北西、宇治川沿いに位置しており、菟道の「山の上」と呼べる立地条件になく、「延喜式」に記述される大きさとも合わないため、治定当時、これはこれで疑問視する宇治の方々もいらっしゃったようです(が、明治政府に対し、それを大っぴらに口にするのは憚られるので、なにやらもの言いたげな描写が見受けられます)。
個人的には平地より見晴らしの良い山の上で静かに眠りたいものです。
これは完全に余談。
「宇治市莵道の」丸山古墳としたのは、宇治市には大谷にも丸山古墳があったらしい、からです。
『宇治誌』によると、大谷の丸山古墳は、通称「摺鉢山」、すなわち「栗子山」の地域にあるとしています。
山としての「摺鉢山」の呼称はすでに失われたようですが、古墳の所在地を宇治郷小字大谷七番地の私有地と明記しており、これは現代における「太陽が丘」の北側にあたる地域でしょうか。
ただし、宇治市によると、太陽が丘(京都府立山城運動公園)の前身は「折居官山」や「御林山」と呼ばれた官有の山だとしています。
『宇治誌』の筆者である宗形金風の説によると、古くから栗隈神明社(現在の宇治神明神社さん)の名があるように、栗子山はもちろん、「御陵山」(通称を御廟)の一帯も「栗隈」の名に包括されたらしい、としています。
「栗隈」は現在の宇治市南西部から城陽市にかけての広い範囲を指すと考えられる古い地名です。
余談終わり。
※朝日山の山頂に残る古い五輪塔や「経塚の下の御茶屋のしょゑん」に興味がある方は記事下部の追記(高源院の墓)をどうぞ。
宇治七名園と朝日焼
少し補足しておきます。
「宇治七名園」(七茗園)については、1917年(大正6年)の『宇治茶』によると、
足利義滿大に茶を愛し、宇治茶の特絕なることを知り、自ら宇治に茶園を作り、園の名を、森、川下と稱す、武衛、京極、山名等又之に倣ひ、武衛は朝日、京極は祝、奥の山、山名は宇文字、琵琶など各々爭ひて、宇治に茶園を栽培す、後世之を七種の名園と云ふ
『宇治茶』
と見えます。
「宇治七名園」は、俗に「森、祝井、宇文字、川下、奥ノ山、朝日、枇杷」の七ヶ所とされますが、『宇治茶』によると、将軍義満が「森、川下」を、斯波氏(武衛)が「朝日」を、京極氏が「祝井、奥ノ山」を、山名氏が「宇文字、枇杷」の茶園を領していた(と設定上では考えられていた)ようですね。
上でも少し触れましたが、宇治朝日の地は朝日焼ゆかりの地でもあり、その裏山を「茶碗山」と呼んだと伝わります。
また、炭山から京都府道242号二尾木幡線を長坂峠方面へ少し上ったあたりに朝日耐火鉱山があり、耐火粘土を産出します(しました)。
補足終わり。
朝日山観音展望台
朝日山観音展望台からの眺望。眼下に宇治川の朝霧橋が。
以前は「朝日山展望台」とする標が付けられていましたが、近年、「朝日山観音展望台」とする標と交換されました。
『響け!ユーフォニアム』のパネル展示でにぎわっていた大吉山の展望台と異なり、朝日山観音さんの展望台は誰もいらっしゃいません。
先にも述べたように、前日3日は初夏としては遠くまで見えやすい日で、大吉山展望台から六甲山や生駒山も見えていましたが、4日は霞んで遠くは見えにくく。
それでも眼下に広がる景色に癒されます。
菟道稚郎子の父にあたる応神天皇や、兄にあたる仁徳天皇は、宇治から見て木津川の向こうに位置する八幡の石清水八幡宮さんでお祀りされており、朝日山観音展望台や大吉山展望台から八幡の風景を、あるいは逆に八幡の男山展望台から宇治の風景を、お互い綺麗に見渡せます。
よくよく見ると、写真の右下に朱色の橋、朝霧橋の西半分が写っていますね。
先ほど朝霧橋の西詰から朝日山を撮影した写真を掲載しましたが、これは逆の構図となります。
山の標高としては朝日山より仏徳山のほうが高いですが、大吉山展望台は仏徳山の中腹(山肩)に所在しているため、展望台の標高は朝日山観音展望台のほうが僅かに高いです。
ただし、視界は大吉山展望台のほうが僅かに広く、京都西山まで見渡せます。
いずれにせよ開けている方角は同じで、高度感も大差ありません(が、遠くに見える景色に微妙な差が生じることが後に発覚しました)。
山の上でゆっくり過ごしたいのは山々ですが、次の用事もあるため、あまりのんびりしてもいられません。
再度、人が多い大吉山展望台へと引き返す気が起きず、朝日山から興聖寺さん方面へ下山します。
いくつかルートがありますが、道標に従って下りれば問題ありません。
雨の後などは、現地の状況を見て、下りやすいコースを選べば良いでしょう。
やがて興聖寺さんの駐車場の奥の登山口に出ます。
宇治十二景 興聖寺へ下山
興聖寺さんの鐘楼越しに仏徳山(大吉山)を望む。京都府宇治市。
「仏徳山」は興聖寺さんの山号です。
仏徳山(大吉山)は宇治上神社さんの裏山というだけではなく、その名が示すように、興聖寺さんの裏山でもあります。
興聖寺は日本における曹洞宗最初の寺院で、はじめ、天福元年(1233年)に道元が伏見深草の地に「興聖寳林寺」(興聖宝林寺)を開山しました。
その後、一時期、廃絶していましたが、江戸時代前期、慶安元年(1648年)に淀藩主の永井尚政が万安英種を中興の開山として招き、宇治朝日の地で再興されました。
現代において、興聖寺さんの参道にあたる「琴坂」はよく知られるところです。
安永9年(1780年)の『都名所図會』(都名所図会)では、「佛徳山興聖禅寺」に「川岸より門前までを琴坂といひ左右に桜紅葉をうゑて山吹を透垣とし」と見えます。
当時のオフィシャル観光ガイドブックともいえる、1915年(大正4年)の『新譔京都名勝誌』では、「興聖寺」で「門内の小坂を琴坂といふ。西崖に楓樹多し、紅葉山と名く」としています。
この2誌で琴坂と門の位置関係が異なるのは、おそらくそれぞれ指している「門」が異なるからで、少し加えるなら、『都名所図會』は「川岸より山門前(楼門前)までを琴坂といひ」で、『新譔京都名勝誌』は「石門内(総門内)の小坂を琴坂といふ」といったところでしょうか。
『新譔京都名勝誌』の「琴坂の西崖に楓の樹が多く紅葉山の名が付く」の描写、とくに「紅葉山」は興味深いところです。
当サイトでは時々「琵琶湖三十六勝」や「淡海廿四勝」(近江二十四勝)を話の種にしていますが、宇治にも貞享2年(1685年)の『京羽二重』に見える「宇治十二景」があり、興聖寺さんは「興聖晩鐘」として名前が挙がります。
類似として、江戸時代前期の選定とされる「宇治八景」もありますが、直前まで廃絶していた影響もあるのでしょう、こちらからは興聖寺さんの名前は漏れています。
「宇治八景」と「宇治十二景」に見る山吹(酴醿)
「宇治八景」
山吹の瀨春望
花の色おくれぬ水にさす竿の雫も匂ふ宇治の河とこ (定家卿)
薄暮柴舟
暮て行く春の湊はしらねとも霞に落る宇治の柴ふね (寂連法師)
橋上涼風
宇治橋や夜半の河風更にけり下行水の音はかりして (家隆卿)
橘の小島が崎時鳥
時鳥やとりやすらんたち花の小島が崎の曙の空 (光明峯寺入道)
朝日山紅葉
紅葉ちる山は朝日の色なから時雨て下る宇治の川波 (西園寺前太政大臣)
槇山島碪
河風の夜さむの衣うちすさひ月にそあかすまきの島人 (爲道卿)
喜撰ヶ嶽の雪
宇治山の昔の庵の跡とへは都のたつみ名そふりにける (法眼慶融)
彼方炭竈
おちかたや都のたつみたれ住て眞木の炭竈けふりたつらん (俊成卿)
『平等院沿革略記』
「宇治八景」の選定時期は江戸時代前期とされますが、残念ながら、その時代の「宇治八景」を正確に伝える史料は現存しないので、1893年(明治26年)の『平等院沿革略記』から引いておきます。
いずれも歌枕をモチーフに選んでおり、その収歌から見て、春2所、夏2所、秋2所、冬2所で全八景でしょう。
制作年代不明ながら、住山旭峯による「宇治八景」図では「宇治八景はむかし承應之頃撰ひ有て」とあり、承応年間(1652~1655年)に選定されたとしています。
『平等院沿革略記』と「宇治八景」図では「八景」が微妙に異なりますが、収歌は同じですので、事象はともかくとして、同じ場所を対象としていると考えられます。
「宇治十二景」
春岸酴醿 清湍螢火 三室紅楓 長橋曉雪
朝日靄暉 薄暮柴船 橋姫水社 釣殿夜月
扇芝孤松 槙島瀑布 浮舟古祠 興聖晩鐘
『京羽二重』
「宇治十二景」は貞享版の『京羽二重』から引いておきます。
選定地を具体的に示した例としては、私が知るかぎり、これが初出ですが、もしかすると先例があるかもしれません。
たとえば、序文に延宝3年(1675年)とある『遠碧軒記』に「十二境 宇治」と見え、対象地や事象こそ示していないものの、すでに「宇治十二境」が知られていたことが分かります。
『京羽二重』の約100年後、天明7年(1787年)の『拾遺都名所図會』(拾遺都名所図会)にも同じ「十二景」が挙がっており、対象地と事象、いずれも『京羽二重』を踏襲しています。
したがって、『拾遺都名所図會』を「宇治十二景」の初出とするのは誤りです。
『拾遺都名所図會』では「酴醿」に「ヤマブキ」と振り仮名を振っており、ヤマブキ(山吹)を指すことが分かります。
『京羽二重』では「春岸酴醿」がどの地を指すと具体的には示していませんが、琴坂を山吹の名所と紹介する諸書の影響もあり(たとえば、上で引いた『都名所図會』の「佛徳山興聖禅寺」では、琴坂に「山吹を透垣とし」とあり、山吹の歌も収められています)、後世、「宇治十二景」の「春岸酴醿」は琴坂に咲く山吹を指すとする解釈が広まってしまいました。
一方で、「宇治十二景」に少し先行した(と考えられる)「宇治八景」では、同じ山吹を含む「山吹の瀬春望」が選定されています。
宇治の山吹である「山吹の瀬」は古歌にも詠まれていますが、「山吹の瀬」が好んで詠まれた時代に興聖寺は宇治の地に無く、少なくとも「宇治八景」の「山吹の瀬春望」は琴坂を指さないと考えられます。
この点に疑問や興味を持ち、少し調べてみたところ、貞享元年(1684年)の『菟藝泥赴』では、歌枕としての「山吹の瀨」を「平等院の北」としていました。
二品法親王道助の家の五十首の歌に、河山吹
西園寺入道前太政大臣
散り果つる山吹のせに行くはるの花に棹さす宇治の河長
『新拾遺和歌集』
当時の情景が目に浮かぶようです。
西園寺入道前太政大臣は平安時代末期~鎌倉時代前期の公卿、西園寺公経で、「宇治八景」では「朝日山紅葉」の収歌の詠み人でもあります。
江戸時代頃、「山吹の瀬」は平等院周辺の川岸と考えられていたようですが、宇治川でも平等院側の岸(左岸)とする説と、対岸にあたる朝日山側の岸(右岸)とする説があったようで、江戸時代の地誌でも見解が分かれています。
たとえば、江戸時代末期(幕末期)、万延元年(1860年)の『兎道川両岸一覧』(宇治川両岸一覧)では、「山吹瀬」について、「浮島の向といふ」とはしていますが、この地に源融の別荘があり、「川岸に山吹を多く栽給ひしより名づけし」としています。
嵯峨天皇の皇子である源融は、『源氏物語』の主役である光源氏のモデルと考えられていた人物で、後に藤原道長も当地に別荘を置き、道長の没後、それが平等院となりました。
この説は他誌でも見られ、こういった説に従えば、「山吹の瀬」は源融ゆかりとなりますが、宇治の名所は『源氏物語』の影響を強く受けていますので、江戸時代にはそのように考えられていた、程度の話かもしれません。
なぜここで『兎道川両岸一覧』を引いたかといえば、この地誌は、右岸側の名所案内で1冊、左岸側の名所案内で1冊の分冊形式となっており、「山吹瀬」を左岸側の坤巻で紹介しているからです。
これらも考慮して、あくまでも個人的な見解ですが、「川岸より門前までが琴坂」であることや、「岸」と組み合わせている点から察するに、『京羽二重』で選定された当時の「春岸酴醿」も、右岸左岸はともかくとして、平等院周辺の川岸に咲いていたヤマブキを指しているのではないかと考えています。
宇治市の南の井手町、「井手の玉川」の土手に咲き誇る「玉川のヤマブキ」はよく知られるところです。
「春岸酴醿」のヤマブキが「琴坂の山吹」のみを指すと断定するのは危ういと指摘しておきます。
「宇治十二景」と「宇治八景」に見る朝日山
「宇治十二景」では「朝日靄暉」、「宇治八景」では「朝日山紅楓」として、ともに朝日山の名前は挙がります。
「暉」は輝くの意で、とくに陽光を指すことが多く、「靄暉」は朝靄を照らす朝日を指しています。
『袖珍京都名勝廻覧記』に「朝日山 興聖寺の後山なり早曉丹霞翠靄の景描き難し」と見え、上のほうで引いた藤原公実の「うぢの河霧」を詠んだ歌、あるいは『扶桑京華志』の朝日山から昇った朝日が平等院鳳凰堂を照らす描写から見ても、川霧(朝霧)や朝靄に光差す山として知られていたのでしょう。
うぢどのに渡らせおはしましたりしに、さぶらひあはぬを口惜しがりて、さぬきより參らせたりし、としつな
神な月あさひの山もうち時雨いまや紅葉の錦おるらむ
返し
きみみねばあさ日の山ももみぢ葉もよるの錦の心ちせしかな
『祐子内親王家紀伊集』(一宮紀伊集)
朝日山は紅葉をモチーフに詠まれやすく、そういった和歌が「宇治八景」の「朝日山紅楓」に繋がり、さらに興聖寺琴坂の「紅葉山」に転じたのだろうと見ています。
祐子内親王家紀伊は私が好む平安時代中期頃の女性歌人で、恋愛の駆け引きにまつわる素敵な歌を何首も残しています。
「としつな」は祐子内親王家紀伊の恋人であろう橘俊綱です。
出生や育ちの経緯がやや複雑ですが、橘の氏を称しているものの、俊綱は藤原頼通の子で、つまり、道長の孫にあたります。
指月の地に伏見山荘を設けたことで知られ、後世の造園観に影響を与えた『作庭記』(前栽秘抄)の作者ではないかと考えられています。
本題とは無関係ですが、いちおう補足しておきます。
『群書類従』の編者である塙保己一は、『作庭記』の作者を後京極摂政良経公、つまり、九条良経としていますが、その後、研究が進み、現在では橘俊綱の作とするのが通説です。
(参考リンク→『群書類従』の巻三百六十二 )
補足終わり。
あがた祭り直前の縣神社
最後に縣神社さんを参拝し、宇治を後にしました。
祭事の時期ということもあり、縣神社さんの境内には多くの方々が集まっていらっしゃいましたが、お祭り当夜の宇治はさらなる盛り上がりを見せていたことでしょう。
縣さまと土地の人の言ふ縣神社の祭禮も近畿では賑やかなので有名だ。丁度、東京の羽田稻荷と言つたやうな風で、主として花柳界の人達がお詣りする神なので、その色彩は殊に濃やかであった。
兎に角、宇治は好い處だ。一つ其處たけ切り離して來ても、上方のリフアインドされた空氣がインプレツシヨニストの繪のやうに鮮やかに明るく咸じられる。
『山水小記』
長々と続けてきましたが、日本中を旅した田山花袋による宇治評で本記事を〆るとしましょう。
1917年(大正6年)の『山水小記』で花袋は宇治を誉めそやしており、よほど気に入ったと見えます。
「インプレッショニストの絵」は印象派の絵です。
以上、2016年(平成28年)6月の話。
追記いくつか
朝日山から花火と観覧車
2016年(平成28年)8月に朝日山観音展望台を再訪し、遠くで上がる花火と観覧車を撮影しました。
その話は上の記事に。
また、久美子さんと麗奈さんの「特別な」パネルは2016年(平成28年)9月24日に宇治市文化センター・大ホールで開催される宇治シネマ劇場『響け!ユーフォニアム』に合わせて文化センターで再展示される予定です。
大吉山展望台で展示されるわけではないのでお間違えないように。
朝日山の見え方について
上の記事本文でも少し触れていますが、宇治橋や朝霧橋あたりから仏徳山や朝日山を望んだ(撮影した)とされる構図で、朝日山(朝日山観音さんのお堂が山頂にある山)とは異なる山を指して朝日山としている例が少なからず見受けられます。
これも記事本文で触れましたが、古くは朝日山周辺の山域を広く「朝日山」と呼んでおり、たとえば、藤原公実が詠んだ歌に見える「朝日山」も同じだと考えられます。
その時代の朝日山を紹介する記事であれば、広く一帯を指して「朝日山」としても誤りとはいえませんが、現代において、どの山が朝日山の山頂(ピーク)であるかを紹介する場合は異なることに留意する必要があるでしょう。
これは地形図と実景から山姿を正しく把握できるかの好例となります。
大吉山の由来は「黄檗十二景」(黄檗十二勝)の可能性?
正徳元年(1711年)の『山城名勝志』に、「黃檗十二景」(黄檗十二景)なる景勝地が紹介されており、その中に「大吉峰」なる山の名前が挙がっています。
黃檗山萬福寺
黃檗十二景
妙高峯 寺ノ之後山
大吉峰 案山也艮峯也西ニ見ユ
五雲峰 妙高峯ノ左ニ在
白牛巗 柳宮ノ上ニ在
青龍澗 寺ノ左ニ在
双鶴亭 寺ノ右上ノ山ニ在
三級池 元山門道左ニ在今絶
龍目井 惣門前左右ニ在今一井ノミ
松隱堂 開山堂山門前ノ右ニ在
萬松岡 寺ノ右壽藏ノ北辺
中和井 開山堂ノ東ニ在
東林庵 寺ノ左半里ニ在『山城名勝志』
「大吉峰」なる山について、「案山なり艮峯なり西に見ゆ」としています。
「案山」は山名ではなく、山裾や山際の意味だと考えられます。
「艮峯」としていますので、丑寅(北東)の方角にも思えますが、どこの視点から「西に見える」なのでしょうか。
「三級池」(三汲池)は「今絶」としていますので、江戸時代中期頃には絶えていたらしいこと、「龍目井」は「今一井のみ」としていますので、左右の井戸のうち、1つは枯れていたらしいことが伝わります。
その後、1898年(明治31年)の『宇治郡名勝誌』では「黃檗山十二景」(黄檗山十二景)、1926年(大正15年)の『洛南史蹟 宇治黄檗の巻』や1938年(昭和13年)の『宇治誌』では「黃檗十二勝」(黄檗十二勝)として紹介されていますが、「黄檗十二景」「黄檗山十二景」「黄檗十二勝」と、それぞれ微妙に表記が異なります。
とくに、『宇治郡名勝誌』の「黄檗『山』十二景」は個人的に注目しています。
黃檗山十二景
妙高峯 大吉峯 五雲峯 白牛巌 青龍洞 雙鶴亭
三級池 龍目井 松隱堂 萬松岡 中和井 東林庵
『宇治郡名勝誌』
『宇治郡名勝誌』における十二景の描写はあっさりしすぎていて、所在の解説めいたものは見られませんが、十二景そのものは『山城名勝志』を踏襲しています。
十二景を挙げた後、続けて「五雲」を含む七言律詩と日付が記されていますが、天明7年(1787年)の『拾遺都名所図會』(拾遺都名所図会)と照らし合わせるかぎり、そちらは舎利殿の堂内に掲る勅書額(後水尾天皇より賜った勅書)のようで、十二景そのものと直接的な関係はなさそうです。
『洛南史蹟 宇治黄檗の巻』と『宇治誌』では、それぞれの所在や景観について具体的な描写がなされていますが、この両誌は(この件に限らず)全体的に似た描写が多いので、ここでは簡略化された『宇治誌』から引いておきます。
黃檗十二勝
隠元禪師が支那黃檗山に倣つて撰み、各題詞を自賛されて居るが、今は其址の二三が陸軍用地に収められて探る事を得ない。
即ち十二勝は、妙高峰(山後高く聳ゆる圓形の峰)。大吉峰(東南に亙る連峰の形鳳翼に似たるより名つく)。五雲峰(妙高の左の山)。白牛巌(其形白牛の踞するに似た巨石)。青龍洞(白牛巌の下にある)。雙鶴亭(西方丈の上にある)。三汲池(門前の西方、今俗に四ツ池と稱するもの)。龍目井(總門前松林中左右にある、一つは參道の角、一つは白雲庵の前)、松陰堂(宗祖退隱の處)。萬松岡(松隱堂の上にある小丘)。中和井(松隱堂の東、宮址苑内にある)。東林院(元南方半里餘の處にあつたが今は本山庫裡の西に移された)。『宇治誌』
松陰堂だったり松隠堂だったりするのは原文ままで、私が書き写しを誤ったわけではありません。
この内容が事実でしたら、「黄檗十二勝」は日本黄檗宗の宗祖である隠元(隠元隆琦禅師)が、祖国である中国福建省の黄檗山(古黄檗)に倣い、題詞となる漢詩と合わせて自ら選定されたことになり、世間一般に広く知られていたかどうかは別として、「黄檗十二勝」としての「大吉峰」じたいは江戸時代前期には成立していたことになります(それが今の大吉山と同義かは別問題です)。
興味深いのは、大吉峰について、江戸時代の『山城名勝志』では「案山なり艮峯なり西に見ゆ」としていたものが、大正昭和期になると、その描写が完全に失われてしまい、「東南に亙る連峰の形鳳翼に似たるより名つく」と別物に置き換えられていることです。
「東南に亙る連峰」「鳳翼に似たる」の描写から、この「黄檗十二勝」に見える「大吉峰」を、仏徳山や朝日山の丘陵地と見なし、近代以降、大吉山と呼ぶ人が現れたのではないでしょうか(近世以前に当地を大吉山と呼んでいた形跡は見当たりません)。
ただし、「黄檗十二勝」はあくまでも黄檗山萬福寺周辺の景色であり、他の十二勝との位置関係や、紹介の並び順を考えても、「黄檗十二勝」がいうところの「大吉峰」が、現代における仏徳山や朝日山の丘陵地を正しく指しているかは微妙なところです。
それはそれとして、大吉山の呼称は「黄檗十二勝」の「大吉峰」に由来するのではないか、とは考えています。
記事本文でも触れていますが、朝日山と平等院鳳凰堂は切り離せない関係にある(と考えられていた)ことからも、「鳳翼に似たる」に繋がりのようなものを感じています。
「五雲峰」は地形図にも名前が見える山ですが、「妙高の左」ですので、逆に申し上げれば、「妙高峰」は五雲峰の右に所在することになります。
しかしながら、萬福寺さんから見て、「山後高く聳える円形の峰」が、現在、五雲峰と呼ばれている山の右に聳えるのかという疑問が(地形上の観点で)残ります。
また、現在の萬福寺さんの公式的な見解と考えられる鳥瞰図 では、妙高峰を北(左)、五雲峰を南(右)となさっていて、「黄檗十二勝」の描写とは明らかな食い違いを見せています。
現在の萬福寺さんの観点における妙高峰は、おそらく地形図上の「高峰山」を指すと考えられ、これなら地形的にも納得できます。
大峰山脈の弥山など、「中心」となる山に対し、後世、(多くのケースで「深山」の当て字として、)弥山の名前が与えられたのは、もちろん、須弥山(妙高)に由来しますが、黄檗にとっては、この妙高峰がそれにあたるのでしょう。
この図において、大吉峰の姿が見えない点が興味深いです。
※大吉山の由来の件は、後年、調査が進みましたが、なかなか更新する時間を作れません、そのうち。
黄檗十二峰と十五峰
上記の補足。
「黄檗十二景」(黄檗十二勝)については隠元が寛文4年(1664年)頃に選定したとされますが、詳細不明な部分も多いとのこと。
「大吉峰」は「だいきっぽう」と読むが、具体的にどの山を指しているかは不詳(推測の域を出ない)。
中国の黄檗山には「黄檗十二峰」なる山々があり、宋代の王大復による七言絶句「敍題十二峰」にその名前が見られます。
「敍題十二峰」を受けたと考えられる、陳確による「咏十二峰」を題とした十二峰を称える詩があり、隠元(とその弟子)も十二峰のうち「天柱」を題材とした書を残しています。
招かれて日本へ来た隠元は、「黄檗十二峰」をなぞらえて、宇治の地でも「黄檗十二勝」を選定したと考えられますが、黄檗の環境では「峰」(山)ばかり選定するわけにもいかなかったのでしょう。
「黄檗十二峰」の記録上の初出と考えられる「敍題十二峰」によると、
敍題十二峰
宋王大復
寶峰屏幛紫薇邊 獅子香爐佛座前
羅漢鉢盂天柱上 五雲報雨吉祥連
十二峰は宝峰、屏嶂、紫薇、獅子、香炉、佛座、羅漢、鉢盂、天柱、五雲、報雨、吉祥の十二座としています。
このうち「五雲」は中国における十二峰と、日本における十二勝で名前が重複しています。
王大復については宋代の人であること以外、詳しいことが分かっていません。
隠元や、その門弟子である性幽らが編集した(中国の)『黃檗山志』(黄檗山志)では、
黃檗山寺志 卷一
山
峰十五
大帽峰
此峰最高爲本山祖代有黃檗瑞香生成不輟頂圓如帽因以得名靈石指爲留雪幛小帽峰
與大帽峰相連從峻圓頂似之寶峰
在大帽前羣巒環翠聳出漢表瑩潤如聚寶然中抽嫩枝靈氣鍾四潭中天老人塔焉屏嶂峰
在天柱右畔上有三台四時花草菁葱望若御屏紫薇峰
在天柱寶峰之間眾山環繞蒼翠異常宛似紫微獅子峰
在香爐溪北山勢雄崛形如臥地獅子即本山之捍門也香炉峰
端圓而秀一麓下垂如香爐有柄居前案末乃寺之華表也佛座峰
一峰獨挺高數百仞有頭顱足膝若大佛寶座寺以此峰作外案羅漢峰
在天柱上拔出衆岑狀若羅漢次于大帽乃本山之中峰也鉢盂峰
在羅漢肩左側形如釜因鄰羅漢得名天柱峰
乃羅漢右巍然獨聳勢若擎天五雲峰
自小帽迢下層巒叠巘屈曲有五如雲乍出報雨峰
居五雲東每天將雨輒先起雲里人以之占雨吉祥峯
與報雨峰連特朝而來作寺前案時有祥光現于其上故名絳節峰
卽本寺主山一起一伏斷而復連如絳節狀『黃檗山志』
「山」の「峰」として十五座の名前を挙げており、これを総称して「黄檗山十五峰」と呼ぶそうです(『黃檗山志』では他に「五嶺」なども挙げています)。
「黄檗十二峰」に、山(黄檗山)の最高峰としている「大帽峰」「小帽峰」、寺の主山としている「絳節峰」が加わってますね。
大帽峰の「頂が帽の如く円いので、よってこの名を得る」の描写は、日本における「黄檗十二勝」の妙高峰の描写に通じるものがあるように思われます。
香港の最高峰も大帽山(大霧山)を称しますが、山名の由来は同じなのでしょうか。
五雲峰の由来は五朶の如雲(めでたい雲)が出る山だとしてますね。
「敍題十二峰」や「咏十二峰」の詩も、この『黃檗山志』に収録されるのみで、それ以上のことは伝わりません。
しかしながら、中国における十二峰(古黄檗十二峰)の存在が、日本における十二勝(新黄檗十二勝)に影響を与えたことは確かで、それはつまり、宇治の風景に影響を与えたと考えると、長い歴史の繋がりのようなものを感じます。
大吉郎山? ペルム紀赤色チャート
あまり周知されているとは言い難いですが、仏徳山(大吉山)と朝日山の鞍部に分布する赤色層状チャートが、2013年(平成25年)の府レッドリスト改定に伴い、2015年(平成27年)版の府レッドデータブックで新たに「要注意」の指定を受けました。
「ペルム紀赤色チャート」
(前略)
地域
宇治市宇治、仏徳山─朝日山
(中略)
特徴(特異性)
本赤色層状チャートは、平等院や高聖寺など国内外で著名な文化遺産の近くで、交通至便な位置にあることから、中学校や高等学校の巡検や大学理科教育実践の場として利用できる貴重な露頭で、多産する化石は実体顕微鏡で容易に観察・同定可能で、極めて良好な保存状態である。現状
チャートは大吉郎山から朝日山にかけて分布するが、赤色を呈するのは二つの山の鞍部付近で、未舗装の林道に沿って分布し、簡単に採取可能な状況にある。
本記事の本文でも「仏徳山から朝日山への鞍部」の写真を掲載していますが、あのあたりで化石、と申し上げてもごくごく小さなミクロサイズの放散虫化石のようですが、それが産出するのですね。
さておき、レッドデータブックには「チャートは大吉郎山から朝日山にかけて分布する」と見え、「大吉郎山?」と思いましたが、興聖寺さんのことを「高聖寺」となさっていたり、誤字が目立ちます。
おそらく、「大吉郎山」も誤字だと考えられます(この件に限らず、府レッドデータブックは謎の誤字が多いです)。
高源院の墓(「鍋島信濃守室高源院殿乾秀正貞大姉」墓)
記事本文で触れた、『山城名所寺社物語』に見える「興聖寺のうしろの山に観音堂あり御経塚下に御茶屋のしょゑん有」の描写が気になり、「御経塚」とその下にあるという「御茶屋のしょゑん」について考えてみました。
経塚といえば、五輪塔や宝塔の形を取ることが多いように思われますが、また別の経塚について学ぶ機会があり、行者さんが記録なさった過去の史料に目を通していたら、経塚の形について(諸有經冢之形像)、「切立塔」「五輪形」「自然石」「石祠」「宝輪形」「石疊」「印は松」の絵が描かれており、たとえば、石畳(積石塚)の形を取ることや、それどころか、松を目印にすることもあることが伝わります。
朝日山の山頂にある五輪塔については、観音堂の墓誌によると、「鍋島信濃守室高源院殿乾秀正貞大姉」墓と伝わっているそうです。
高源院は徳川家譜代の家臣である岡部長盛の娘で、鍋島氏佐賀藩の初代藩主である鍋島勝茂の継室となった菊姫です。
菊姫は勝茂に嫁ぐにあたり徳川家康の養女となっており(『寛政重修諸家譜』によると「東照宮の御養女、實は岡部内膳正長盛が娘」)、あるいは、彼女が経塚の下の「御茶屋の所縁」と関係があるのでしょうか。
御壺藏
徳川氏より御茶詰として、毎年宇治に送る將軍直用の御茶壺を一行が、宇治滯在中納むる倉庫にして、これを御壺藏といふ
『宇治茶』
「御壺蔵」の名前は宇治の史料ではよく見ますし、徳川将軍家と宇治茶の間には深い関わりがあったのは確かなようですが、『宇治茶』では御壺蔵は里尻にあったとしていますので、朝日山とは繋がりません。
暑さを避けるため、御茶壺を愛宕山の山上に埋めて保管していた記録も残されています。
『徳川諸家系譜』や『寛政重修諸家譜』を見るかぎり、高源院は記録の上では鍋島家の菩提寺である江戸麻布の賢崇寺に葬られたようです。
慶長14年(1609年)に菊姫が嫁いで以降、鍋島勝茂と京都の関わりとしては、水尾天皇の行幸に先駆けて勝茂が二条城にソテツ(蘇鉄)の樹を献上した話や、愛宕山威徳院の護摩堂(この護摩堂は勝茂の父にあたる直茂が建立した)に燈明料を寄進した話、あるいは勝茂の子とされる碧翁愚完を開山とする麟祥院が花園の地に創建された話が見えます。
しかしながら、宇治と高源院の間に直接的な関わりは見えず、なぜ当地にも墓が所在するのかは分かりません。
まったく縁も所縁(ゆかり)もない土地の墓誌に記録が残るとも思えませんが……。
追記。
上の「勝茂の子とされる碧翁愚完を開山とする麟祥院」について、現状、碧翁愚完が鍋島勝茂の子である根拠が明示されていないようです(ので、私は「勝茂の子とされる」としています)。
『寛政重修諸家譜』によると、勝茂には菊姫との間に卿公なる男子や、あるいは某氏(生母不明を指す)との間に超譽(超誉)がいたようで、それぞれ「僧となる」としています。
超誉上人については佐賀大運寺の僧と伝わりますので、碧翁愚完は卿公を指すのかもしれません。
他に、諱が明らかではないものの、某氏との間に松吉なる男子や、彦太郎なる男子もいたようですが、彼らについては詳細が明らかでなく、可能な範囲で鍋島家の記録を調べても、これ以上のことはよく分かりません(早世したのであれば、『寛政重修諸家譜』には「早世」と書かれますが、松吉と彦太郎については幼名のみ記録されています)。
麟祥院さんは妙心寺さんの塔頭寺院で、春日局ゆかりのお寺さんです。
そういえば、記事本文でも取り上げた、朝日山山麓に所在する恵心院さんも春日局や徳川将軍家と関わりがありますね……。
追記終わり。
鍋島勝茂と宇治茶
上記の件でさらに追記。
すっかり見落としていましたが、改めて『宇治茶』を読み直してみると、鍋島勝茂と宇治茶の間に関係があることが分かりました。
長くなるので端折らせていただきますが、『宇治茶』いわく、
徳川将軍家が宇治の茶師を厚遇するのは上林竹庵の功が無ければありえなかった、上林政重竹庵は宇治の茶師上林久重の三男にして、通称を又市、または越前と称す。元亀元年(1570年)から徳川家に仕え、三河土呂郷での諸職支配を命じられ禄百石を賜っていたが、後に天正8年(1580年)に宇治に帰り、もっぱら製茶を業としていた。
慶長5年(1600年)の秋に軍が起こり、西軍が伏見城を囲んだ(関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦い)、竹庵はこれを聞いて伏見城に馳せ参じ、力戦奮闘したが、城代の鳥居元忠と共に討ち死にした、その功により竹庵の兄弟(兄の六郎、弟の又兵衛)も旗下に列し禄を賜り、宇治における茶師の総支配となし、後代官を兼ねた、また御物御茶師十一家、御袋御茶師九家、その他御通御茶師十四家を定め、御物御茶師は禁裏及び将軍直用の御茶御用を勤め、御袋御茶師は毎年半二袋ずつ紅葉山御霊屋(ここでいう紅葉山は江戸城の城内にあった小山のことで、紅葉山東照宮や徳川家の霊廟が置かれました)へ献上した、云々、
といった出来事により、宇治茶が徳川将軍直用となり、毎年、御茶壺が宇治から江戸へ運ばれるようになった、としています。
『宇治茶』は大正時代に上林楢道により書かれたもので、上記の人物関係に限っては歴史的事実を正しく伝えているか私には分かりません。
宇治には上林を称する茶師の名家が複数あり、このあたりは少し事情が複雑です。
竹庵政重が伏見城で最期まで奮戦するエピソードじたいは関ヶ原の軍記ものでも描かれており、戦史では伏見城の太鼓丸に配置されたとあります。
『宇治茶』によると、徳川将軍家のみならず、宇治茶は諸大名からも好まれていたようで、
其他諸侯は、茶を嗜むも嗜まざるも嘉例として、悉く宇治の茶師に茶の調達を命じ、且つ茶師を遇すること甚だ厚く、中には扶持を贈り、又は一國賣と稱し、其領内に於ける茶の専賣權を與ふるもあり、左に諸大名より宇治の茶師に遺しゝ、消息文の二三を抄錄す、之を以ても如何に特別の待遇を受しかを、知るに足らむ。
(中略)
鍋嶋勝茂よりの書翰年頭之爲祝儀預丈札殊茶筅二本給幾久與畏悅之至に存候然者原之城先月廿七日我等者共二之丸に一番に乗入不殘燒拂數多討捨に仕一揆共本丸へ追籠則諸手押寄翌廿八日令落居條可御心安候何も期後音不具候恐々謹言
三月十三日
鍋嶋信濃守
上林三入老
御返報
(後略)
『宇治茶』
と、鍋島勝茂から上林三入(藤村三入)なる人物へ送られた書簡の文面が掲載されています。
内容に目を通すかぎり、島原の乱における原城攻めで、鍋島勝茂が2月27日に「抜け駆け」した時の話ですね……。
つまり、寛永15年(1638年)の3月に送られたのでしょう。
鍋島家から上林三入家に送られた礼状や書状の類については現存しているようで、佐賀市地域文化財データベースサイトによると、
上林家文書 一〇五六通 – さがの歴史・文化お宝帳
江戸時代の初期以来、宇治において茶の栽培と製茶に従事して、皇室や将軍家を始め、諸大名その他を対象として、手広く茶業を営んだお茶師仲間の中の一団があり、御物仲間と称して特に格式を誇ったといわれる。上林三入(かんばやしさんにゅう)家はその御物仲間8家(のち11家)の中のひとつであって、鍋島勝茂以来、鍋島家とは深い関係のあった家である。
とあります。
これは佐賀の上林茶店さんが所蔵なさる文書で、明治時代になり、鍋島家より佐賀に招かれたそうです(上林茶店さんの公式サイトでも鍋島勝茂と宇治の関わりについて触れていらっしゃいます)。
いつの間にやら、宇治市の公式サイトの宇治市歴史資料館さん から「収蔵文書調査報告書」がダウンロードできるようになっています。
収蔵文書調査報告書3 上林三入家文書 – 宇治市公式ホームページ
https://www.city.uji.kyoto.jp/soshiki/89/5910.html
「収蔵文書調査報告書3」が上林三入家について詳しく。
こちらは宇治の三星園上林三入本店さんが所蔵なさる文書のようです。
これらの話から考えて、高源院の墓が朝日山の上に残るのは、宇治と鍋島家の縁によるものでしょう。
ただ、個人的には墓ではなく供養塔ではないかとも考えています。
経塚の下の「御茶屋の所縁」についても、朝日山の山麓に所在する恵心院さんが、徳川将軍家や上林家と関わりが深かった点も踏まえると、やはり、宇治の御茶師や鍋島家と何かしら関係していた(と考えられていた)のではないかと推測します。
繰り返し申し上げておきますが、鍋島家との縁戚関係を築くためとはいえ、高源院は徳川家康の養女となっており、徳川家の諸系譜にも名前が挙がります。
現代的な感覚では「江戸幕府を開いた人」程度の扱いかもしれませんが、かつて、徳川家康は「神君」として神格化されていました。
朝日山城? と朝日山遺跡
朝日山の山頂域に「朝日山城」なる城郭が築かれたとする説が見受けられますが、その存在を裏付ける史料は現存せず、朝日山城の遺構だと断定できる跡も発掘されていません。
朝日山城については、1986年(昭和61年)の『京都市内およびその近辺の中世城郭 復元図と関連資料』(京都大学人文科学研究所調査報告 第35号)で指摘されるのみで、宇治市もその存在を確認していません。
宇治市の「埋蔵文化財包蔵地(遺跡)」では、朝日山には「朝日山遺跡」があり、種別を「散布地」としています。
「埋蔵文化財包蔵地」における「散布地」(遺物散布地)は、土器や石器の含有や散布が認められる地を指します。
見晴らしの良い山ですので、山の上に城が築かれた可能性は否定できませんが、現状、「朝日山城が存在した」とは断定できません。
中世において、朝日山は名の知られた山でしたので、もし、城が築かれたのでしたら、何かしら史料上の記録が残されていてもおかしくはない、とは考えています。
「朝日将軍」木曾義仲と宇治川の戦い
上記に関連して。
いわゆる源平合戦(治承・寿永の乱)において、「朝日将軍」木曾義仲(木曽義仲)(源義仲)の配下が守る宇治を源義経が攻めた「宇治川の戦い」はよく知られるところです。
この戦いや、続く京都での戦い(六条河原の戦い)で敗れた義仲軍は大津に撤退し、義仲は粟津(瀬田の付近)で討ち取られました(『平家物語』では「木曾最期」の巻)。
宇治川の戦いにおいて、京都にいた義仲自身は参陣していませんが、『平家物語』における「朝日将軍」(朝日の将軍)の呼称からでしょうか、義仲は朝日山に陣取った、山名はそれに由来する、といったお話もごく一部で散見されます。
先にも述べたように、宇治の朝日山を詠んだ歌は平安時代中期には見られますので、朝日山が義仲由来とは考えられません。
それはそれとして、朝日山と木曾義仲を結びつける考えは少し面白いと思いました。
木曾塚を祀る大津市馬場の義仲寺さんは、現在は山号を「朝日山」となさってるようですが(私が知るかぎり、古い史料に山号は見えません)、同じく朝日山を山号となさる平等院さんと異なり、義仲寺さんの「朝日山」は、おそらく朝日将軍に由来すると考えられます。
ただ、ご存じのとおり、大津から琵琶湖、瀬田川を下れば宇治に至ります。
2018年の台風21号
2018年(平成30年)の台風第21号が京都府南部を直撃し、暴風が吹き荒れた影響で、宇治神社さんの鳥居が倒壊し、宇治上神社さんの御神木や興聖寺さんの古木が折れ、琴坂から朝日山や仏徳山へ至る山道も荒れてしまいました。
現地の状況をよく見たうえで入山できるか否か判断してください。
自転車・バイクは通行できません
宇治上神社さん側の東海自然歩道(大吉山遊歩道)上山口に「ここから先は登山道です。登山者の通行の安全確保のため、自転車・バイク等の車両は通行できません。宇治市公園緑地課」と掲示されるようになりました。
バイクはもちろん、自転車も通行不可と明示されましたので、ご注意ください。
そういえば、「大吉山遊歩道」を「大吉山ユーフォ道」と呼ぶ方がいらっしゃって、なるほど、掛かってますねと。
名勝「宇治山」指定へ
どうやら、仏徳山や朝日山の一帯が、国の史跡名勝天然記念物、名勝「宇治山」として指定されるようです。
おめでとうございます。
もともと、宅地開発の話が持ち上がった二子山古墳(双子山)の周辺を公に保全するための動きだとか。
周辺は世界文化遺産の緩衝地帯を含んでおり、宇治市特別風致地区にもあたるため、将来的なことも見据えての指定なのでしょう。
文化庁さんによる2018年(平成30年)6月の広報発表によると、
宇治山 うじやま 【京都府宇治市】
宇治川が峡谷から山城盆地に流れる谷口を巡って峰を連ねる仏徳山(ぶっとくさん),朝日山(あさひやま),二子山(ふたごやま)などを含む丘陵地で,古くから多くの秀歌に詠まれ,興聖寺(こうしょうじ),宇治上(うじがみ)神社,宇治神社の境内地などを含み,特に江戸時代以来広く親しまれてきた名所の風致景観として優れている。
(古くから秀歌に詠まれてきた宇治川に臨む丘陵地の優れた風致景観)
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/__icsFiles/afieldfile/2018/06/14/a1406111_01.pdf (pdfファイル)
文化審議会文化財分科会の審議・議決を経て文部科学大臣に答申したとのことで、事実上、内定しています。
広報発表を拝読するかぎり、やはり、国としては大吉山は用いず、仏徳山の呼称に絞っていますね。
「古くから多くの秀歌に詠まれ」ていたことや、「特に江戸時代以来広く親しまれてきた名所」であることは本記事でも紹介しています。
ただ、少し気になったのは、名勝としての「宇治山」について、文化庁さんでは「宇治山は,その谷口を巡って峰を連ねる仏徳山,朝日山などを含む丘陵地の総称である」と定義なさってる点でしょうか。
歌枕としての「宇治山」については、喜撰法師ゆかりの「喜撰山」を指しているようにも思われますので、そのあたりは少し疑問に感じました。
私の中では、仏徳山や朝日山と、歌枕の「宇治山」は別の山として扱われていたという認識です。
仏徳山や朝日山と、歌枕としての「槇ノ尾山」を重ねて見る史料は残されていますが、その話はまた機会があれば。
「宇治八景」に見る宇治山と喜撰法師の謎
本記事でも話の種として取り上げている「宇治八景」では、冬の景色として「喜撰ヶ嶽の雪」を選定しています。
よく知られる「近江八景」など、いわゆる「八景」の基本的な様式である、対象地「喜撰ヶ嶽」+事象「雪」です。
これに合わせて選定者が新たに漢詩を詠んだり、過去の優れた短歌を引く形式がよく見られましたが、「宇治八景」は後者です。
記事本文からの再掲となりますが、
「宇治八景」
喜撰ヶ嶽の雪
宇治山の昔の庵の跡とへは都のたつみ名そふりにける (法眼慶融)
『平等院沿革略記』
慶融は『小倉百人一首』の撰者として知られる藤原定家の孫で、上の歌は『玉葉和歌集』(玉葉集)に収められています。
法眼慶融
うぢ山の昔の庵のあと訪へば都のたつみ名ぞふりにける
『玉葉和歌集』
これはもちろん、定家により『小倉百人一首』にも撰ばれた、
喜撰法師
わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふ也
『古今和歌集』
喜撰法師の歌を意識した派生歌で、慶融の歌に見える「昔の庵の跡」は喜撰法師の庵の跡を指しています。
慶融は「宇治山の昔の庵の跡とへは」と詠んでいますが、この当時、歌人の間で、喜撰の庵の跡とされる地を訪れて歌を詠むのが流行となっていました。
紀貫之が『古今和歌集』に仮名で付けた序文、『古今和歌集仮名序』で名前を挙げた当世を代表する6人の歌人、いわゆる「六歌仙」として知られる喜撰法師は、平安時代初期頃の僧で、憂して「うぢ山」に隠棲したともされる、半ば伝説的な存在ともいえる歌人です。
「わが庵は」の歌に見える「しかぞすむ」は、「然ぞ」と「鹿ぞすむ」が掛かるとする考え方もありましたが、これはわりと早くから否定されるようになり(近年になり否定されたわけではなく、それこそ藤原定家が否定しています)、現在では「然ぞすむ(そのように住む)」の意味のみで詠むのが通説です。
「都のたつみ」は「都の巽の方角(南東)」を示しており、「世をうぢ山」は「世を憂し」と「宇治山」が掛かっています。
つまり、「私は都の巽にある庵で静かに暮らしているのに、宇治山で世間を避けて住んでいると世の人は言うらしい」と解釈されます。
本来は「世間の人が勝手にそう言っている」のニュアンスだったのではないかと考えられるものが、後世では憂して隠棲したというイメージが定着してしまい、喜撰法師像が大きく変貌してしまいました。
喜撰法師が残した歌のうち、現代まで伝わるのは「わが庵は」の1首のみ(『玉葉和歌集』に収められる歌も喜撰法師の作とされることがありますが、これは経緯がややこしく、たとえ、その歌を含めても2首のみ)で、どのような人物であったか、事実として分かっていることがきわめて少なく、後世では橘諸兄の孫(奈良麻呂の子)で醍醐の法師とする説がとくによく見られますが、これも史学的な根拠があるわけではありません。
橘奈良麻呂は政敵である藤原仲麻呂に敗れて歴史の表舞台から姿を消しており(奈良麻呂の乱の後、おそらく獄死したと考えられています)、その子という設定であれば、憂して「うぢ山」の歌を詠んでもおかしくないと考えられていたのでしょう。
あるいは喜撰法師は逢坂関の歌で知られる蝉丸と同一人物で、その出自は紀氏であり、紀(木)の蝉、男子の称である「まろ」から、せみまろ(蝉丸)とも呼ばれた、この「木のせみ」が「きせん」となったとする説も見られます。
「木のせみ」は紀名虎の子(か、近い身内)と考えられていたようで、不遇の皇子として知られる惟喬親王の外祖父であり(名虎の娘の静子が文徳天皇に入侍し、惟喬親王らの母となりました)、最期は惟喬親王のために憤死したとも伝わる名虎の子として、憂して「うぢ山」の歌を詠んだのではないかとする解釈ですが、「紀名虎が惟喬親王のために憤死した」という話じたいが後世の創作であり、かつて、数多く見られた惟喬親王伝説のひとつです。
こういった惟喬親王伝説としては、惟仁親王(後の清和天皇)との後継者争いに敗れた惟喬親王が、その後、各地で隠棲する伝承がよく知られます。
史実としては、紀名虎の子である紀有常の娘が在原業平の妻となっており、義理の従兄弟となった業平と惟喬親王の間に交友関係が生まれたことは、(これはこれで物語ですが、)『伊勢物語』や惟喬親王について学んだ方ならよくご存じでしょう。
また、いわゆる「六歌仙」は惟喬親王に同情的な立場にあると見なされていた人々ではないかとする説もあり、業平はもちろん、僧正遍昭、小野小町、いずれも惟喬親王と関わりがあった人物です。
喜撰法師も同様に惟喬親王と関わりがあったのではないか、それは紀氏を出自としていたからではないか、喜撰法師と面識があったと考えられる紀貫之も同様に……、といったところでしょうか。
弘法大師の高弟である真済僧正も紀氏の出自とされ、同様に、惟喬親王派の僧として、惟仁親王派の僧と争う話が、『平家物語』(名虎相撲)など、後世の物語や伝記で多く見られます。
これは宗派的な対立(東寺と延暦寺の対立)から生まれた話だと考えられますが、清和天皇や清和源氏の正統性を強調するため、紀名虎の話と合わせ、後世の物語でよく採用されました。
具体的に誰を指すと明示されてはいないものの、喜撰法師を桓武天皇の裔(血統)とする説も見られますが、たとえば、同じ「六歌仙」の僧正遍昭は俗名を良岑宗貞といい、桓武天皇の男系の孫です。
長くなるので避けていましたが、やはり、少し補足しておきます。
題しらず
喜撰法師
樹間よりみゆるは谷の螢かもいさりに蛋の海へ行くかも
『玉葉和歌集』
喜撰法師の詠み歌として、「木の間より見ゆる谷の蛍かもいさりに海人(あま)の海へ行くかも」が、鎌倉時代後期の『玉葉和歌集』(玉葉集)に収められています。
しかしながら、この歌については、下記の理由から、基泉法師なる人物の歌であることは確かでも、喜撰法師の歌であるとは断定できないとされます。
この歌は平安時代後期の『古今和歌集目錄』(古今和歌集目録)に見え、その『古今和歌集目錄』では、平安時代中期頃とされる『孫姫式』(和歌式)がいう基泉法師の歌として引いています。
基泉法師一首雜。
孫姫式云。基泉法師。有レ歌。
このまよりみゆるは谷の螢かもいさりに蛋の海へゆくかも
宇治山僧喜撰。有レ歌。
我が家は都のたつみ鹿ぞすむよをうぢ山と人はいふなり
然者基泉。喜撰。各別之人歟。基泉者。山背國乙訓郡人云々。
宇治山記。作二窺詮仙人一也。髓腦稱二桑門一是也。或人云。彼住所宇治山。奥深ク入テ有レ山。名二溝尾一。下人伐レ薪之山云々。近日掘二出火垸一云々。『古今和歌集目錄』
『古今和歌集目錄』では基泉と喜撰を「各別之人歟」、この「歟」は疑問形の「か」を意味する助字で、つまり、「基泉と喜撰は別の人か?」としています。
「基泉は山城国乙訓郡の人と云々」「宇治山は窺詮仙人の作なり」「髄脳(歌学書)が桑門(僧)と称するは是なり」と続けており、喜撰は窺詮仙人と読み取れます。
『古今和歌集目錄』では「このまより」の歌を『孫姫式』から引いたとしていますが、私が知る、今に伝わる系統の『孫姫式』には基泉の歌が見えず、詳細が分かりません。
ですが、他の解釈本でも『孫姫式』に基泉の歌があると見えますので、伝本によっては基泉の歌を収めている可能性はあるでしょう。
『孫姫式(ひこひめしき)』は「詩八病」(詩病)に影響を受けたと考えられる「和歌八病」(歌病)や、長歌の歌式について解説しています。
漢詩を作るにあたり避けるべき八つの事柄、「詩病」の考えは中国南北朝時代に成立したとされますが(沈約による四声八病説)、(遣唐使として)唐から帰った弘法大師空海が『文鏡秘府論』で紹介していますので、遅くとも平安時代初期には日本に持ち込まれています。
『孫姫式』の成立年代は不明ですが、小野小町らの歌を引いており、『古今和歌集』の成立以降、藤原仲実の撰とされる『古今和歌集目錄』の成立より前、おそらく平安時代中期頃だと考えられています。
宝永6年(1709年)の『星会集』によれば、やはり平安時代中期頃の歌集『樹下集』に、基泉の作として「蛍の歌あり」と見え、『樹下集』にも「このまより」の歌が収められていた可能性がありますが、『樹下集』は散逸しており現存しません。
『玉葉和歌集』は、それまで日の目を見ずに埋もれていた過去の歌を掘り起こし、積極的に収めた勅撰和歌集として知られますが、「このまより」の歌は、おそらく『樹下集』か『孫姫式』あたりから引いたのでしょう。
ただし、『古今和歌集目錄』の描写を見るかぎり、『孫姫式』では基泉法師の歌としていた可能性が高く、『樹下集』でも基泉の歌としていた可能性が高いので、もし、『玉葉和歌集』が『樹下集』や『孫姫式』から引いたのであれば、「このまより」の歌の作者は喜撰法師ではなく基泉法師です。
もちろん、『玉葉和歌集』の撰者は基泉と喜撰を同一視したのでしょうが、その根拠は明示されていません。
また、『孫姫式』などと合わせて「四家式」(和歌四式)の一つとされる、『喜撰式』(倭歌作式)なる歌学書も喜撰法師の作とされていましたが、これは平安時代中後期頃に、別の人が喜撰の名を借りて書いたと考えられています。
平安時代から鎌倉時代にかけて、「宇治山の喜撰法師」は非常に人気があり、あやかる風潮があったのは確かです。
よって、紀貫之の「お墨付き」がある、『古今和歌集』に収められた「わが庵は」の歌以外、喜撰法師の作とは断定できません。
紀貫之による『古今和歌集仮名序』では「うぢやまのそうきせん」と仮名で名前を挙げているだけですので、基泉と喜撰が同一人物である可能性もあります。
仮名序とどちらが先に成立したか、その経緯についての見解が分かれますが、紀淑望による『古今和歌集真名序』では「宇治山僧喜撰」としています。
補足終わり。
喜撰法師は最後には仙人となり雲に乗って山の上から飛び去ったともいわれており、とくに江戸時代以降、かなり広く知られるお話だったようですが、他の伝承との混同も見られ、これは伝説的要素が強いでしょう。
「わが庵は」の歌だけでは「うぢ山」がどこなのかも分かりませんが、ここでは「喜撰ヶ嶽の雪」を題(テーマ)として、慶融の歌を選んでいるわけですので、「宇治八景」の撰者は、歌枕としての「宇治山」を、山としては「喜撰ヶ嶽」(喜撰山)と見なしていたように思われます。
平安時代後期の歌学書『和歌初学抄』では、「所名」の「山部」で、山城国の歌枕として、「あさひ山」と「うち山」の名前を挙げています。
『和歌初学抄』は、記事本文中でも取り上げた歌学書『袋草紙』と同じ、藤原清輔の筆によるものです。
ここでは、「あさひ山」を「うちにあり」(宇治にあり)と所在地を示していますが、「うち山」では「よをうち山」(世をうぢ山)の歌を引き合いに出すだけです。
具体的な所在地よりも、まず、喜撰法師の歌で知られるあの山、という印象が強すぎるのでしょう。
『和歌初学抄』では、歌枕としての「朝日山」と「宇治山」を同義とは考えておらず、明確に別の山と見なしていることだけは確かです。
この考え方は後世にも引き継がれており、とくに、「宇治山とは(喜撰法師が)世をうぢ山と詠んだ山である」ことが決定づけられたといえるでしょう。
紫式部『源氏物語』「宇治十帖」と宇治山
『源氏物語』の「宇治十帖」の始まり、「橋姫」の巻に、都から遠ざけられ、宇治の山荘に隠棲していた八の宮(宇治八宮)が、宇治山に住む阿闍梨に師事し、それが遠因となり、異母兄である薫の君との親交が始まる、といったエピソードが見えます。
改めて申し上げるまでもなく、『源氏物語』は平安時代中期に成立した「物語」ですが、「宇治山にひじりだちたる阿ざ梨住みけり」(宇治山に聖だちたる阿闍梨住みけり)、これは喜撰法師の歌を意識した表現であり、「宇治山に住む阿闍梨」は喜撰法師がモデルだと考えられています。
「宇治十帖」のお話から推測できるのは、(薫の君が都から宇治の八の宮邸を訪れるにあたり、宇治川を渡る必要がなく、八の宮邸から見て、平等院がモデルとされる夕霧大将の別荘が宇治川の対岸にあることから、)八の宮邸は宇治川の右岸域の川辺に所在したのだろうということや、その後、八の宮が近くに移り住もうとした宇治山の寺も同じ右岸域ではあるが、宇治川の川辺からは少し離れた山中にあったのだろうということです。
この「宇治山の寺」については、当時、宇治に所在した山寺は限られており、どうやら三室戸寺がモデルではないかと考えられていたようです。
「橋姫」の巻以降も、「宇治十帖」では喜撰法師の歌から引用した表現(引き歌)が何度か見られ、宇治川の右岸は(華やかな左岸に対して)「憂し山」の印象を強めています。
こういった「宇治十帖」における八の宮のエピソードや表現が、後世における「宇治川の右岸にある宇治山」や「宇治山とは憂して隠棲する山」のイメージ形成に大きな影響を与えたと考えられます。
また、藤原俊成が六百番歌合の判詞で、歌の評価にあたり、「源氏見ざる歌詠みは遺恨事也」としており、歌人であれば『源氏物語』にも目を通しておくべきとする風潮が伝わります。
したがって、当時の歌人は『源氏物語』の知識も有していたと考えられます。
八の宮の人物設定は惟喬親王を意識しているとされますが、上でも触れたように、いわゆる六歌仙は惟喬親王との関係が指摘されます。
紫式部が(在原業平と惟喬親王の関係なども描いた)『伊勢物語』から多大な影響を受けたことは知られていますが、彼女は今に伝わらない事情も把握していたのかもしれません。
紫式部は藤式部なるを、源氏物語の若むらさきの巻を、たくみにかゝれしより、當時紫式部とよぶといふ。按ずるに、式部は、紫野雲林院の境内のほとりに住まれしゆへの紫式部の名なるべし。
『四方の硯』
『源氏物語』の注釈書である『岷江入楚』などにも見えますが、紫式部は紫野の雲林院に住んだとされます。
『源氏物語』でも雲林院に参籠する光源氏の姿が描かれますが、この雲林院は「六歌仙」僧正遍昭や惟喬親王ゆかりの地でもあります。
紫式部の墓所は、現在の(後世に再興された)雲林院さんや、惟喬親王を祀る玄武神社さん(かつての惟喬社)のすぐ近く(神社の東側)に所在します。
余談。
現在、紫式部の墓所のすぐ隣には、かの小野篁の墓所もありますが、両者の墓が同じ場所にあるのは、いわゆる「源氏供養」によるものだとする話が(とくに近年)広まっています。
ただし、これは半ばこじつけであり、たとえば、『源氏物語』の注釈書である『河海抄』では「式部墓所は雲林院にあり白毫院の南小野篁墓の西也」としているだけで、小野篁の墓の西方に紫式部の墓がある理由が「源氏供養」にあるなどとは書かれておらず、また、この描写だけでは両墓の距離関係も分かりません。
この墓所は半ば忘れ去られた存在となっていましたが、江戸時代後期の寛政7年(1795年)頃、上で引いた『四方の硯』の作者である、京都の儒医、畑鶴山に碑文を乞い、「墓の跡」に碑を建てた人がいます。
明治時代以降の経緯がやや不詳ですが、1903年(明治36年)に紫式部の墓を探した人の紀行文によると、その当時、紫野織物会社の工場の敷地内、社宅の長屋の奥の分かりにくい場所に紫式部と小野篁の墓所があり、その地に上記の大きな碑板とは別に小碑を建て、それを墓と見なしていたようです。
碑文によると、小野篁の小碑は篁の遠裔により1891年(明治24年)に、紫式部の小碑は古蹟保存会により1899年(明治32年)に建立。
ところが、明治時代には失われていたらしき墓が、なぜか現代では復活しています(が、この経緯が伝わりません)。
織物会社の工場の跡地が島津製作所さんの紫野工場で、現在の紫式部の墓所や小野篁の墓所と隣接していますが、描写から見て、1903年当時とは場所が異なっています(工場の敷地の中から移したのでしょうが、確証が得られません)。
1909年(明治42年)測図、1912年(大正元年)発行の正式二万分一地形図「京都北部」でも、「紫野織物工場」の「中」、現在地より西に「墓地」の地図記号が描かれており、これを裏付けます。
1937年(昭和12年)に織物会社の工場から墓所の敷地を拡大して整備したとの話もあります。
いずれにせよ、「源氏供養」の話はどこにも見えず、どなたが言い出したのか分かりません。
もちろん、好色を説いた罪で不遇な扱いを受けた(と考えられていた)紫式部を供養する「源氏供養」や、それを基にした演目じたいは存じていますし、小野篁が夜は閻魔庁に勤めていたとする伝説も存じていますが、それを紫式部の墓と小野篁の墓が相並ぶ理由とする根拠が分かりません。
雲林院の西には小野篁と関わりが深い千本ゑんま堂さん(引接寺)があり、私も時おり記事に写真を掲載しています。
千本ゑんま堂さんの境内には、北朝の至徳3年(1386年)に円阿上人が建立した十重石塔があり、国の重要文化財に指定されています。
この仏塔は紫式部の供養塔と伝わりますが、ここから小野篁の墓所も「源氏供養」扱いされているのでしょうか。
宇治山と喜撰山と朝日山について
「宇治山」と「喜撰山」の件で追記しておきます。
念のために申し上げておきますが、本項目はあくまでも後世においてどのように考えられていたかの話であり、歴史的な事実とは別問題です。
安永9年(1780年)の『都名所圖會』(都名所図会)には、
明星山三室戸寺は黄檗の南大鳳寺のひがしにあり本尊千手觀音は圓浮檀金の立像にして長八寸二分也宇治山の東岩淵の水底より出現す
宇治山は三室戸山の南也喜撰法師此所に住給ひしとなん
喜撰嶽は三室戸より一里ばかり巽にして櫃川村の山上にありこゝに岩堀ありてこれを喜撰洞といふ此絕頂より喜撰法師雲に乗して登天し給ふとそ
『都名所圖會』
とあり、この描写を見るかぎり、喜撰法師が住んでいたとされる「宇治山」と、喜撰法師が仙人となり登天したとされる伝説の地「喜撰嶽」を分けて考える向きもあったようです。
『都名所圖會』では、宇治山と朝日観音がある「朝日山」も区別しており、それぞれ別の山として紹介しています。
山科川を指すと考えられる歌枕としての「櫃河」とは異なり、「三室戸の巽(南東)」ですので、ここでいう「櫃川村」は志津川村のことでしょうか。
「岩淵は宇治山の東」ですので、逆に申し上げれば、『都名所圖會』がいう「宇治山」は岩淵より西に所在したことになります。
三室戸寺さんの観音さんが出現した岩淵については、1938年(昭和13年)の『宇治誌』から孫引きとなり申し訳ありませんが、『三室戸寺縁起』によると、
三室戸の地名と十八神社
(前略)
三室戸寺縁起には、「光仁帝の宝龜元年、天皇菟道離宮に行幸ありし時、離宮の東方、山奥に當つて、紫雲靉靆金色の光を發し、禁闕を照らすあり、天皇この奇瑞に感じ給ひ、右小辨犬養に勅して、靈光の所を尋ねさせられ、志津川の渓流に觀音像を得たるより、
(後略)
『宇治誌』
としており、正徳元年(1711年)の『山州名跡志』では、
明星山三室戸寺
(前略)
此像ハ往昔炭山ノ麓。岩淵ノ水底ヨリ出現ス。炭山ハ醍醐ノ東南ニアリ。
(後略)宇治山
在リニ三室戸ノ西三町許ニ一 傳ヘ云フ喜撰法師世ヲ宇治山ト詠ゼシ所ナリト。但シ不レ見二實記ヲ一喜撰嶽
在リニ三室ノ巽三十餘町ニ一 麓ニ民村アリ。云フニ櫃川一 山上ニ巌洞アリ。内ニ有リニ石塔一。銘消損シ。大同二年ノ字見エル絕頂八疊敷許岵(ハダカヤマ)ニシテ無ニ丁木一。依テ常ニ風アツテ一塵ヲ不レ置。遠境目前ニアリ。喜撰法師此ノ所ヨリ雲ニ乘ジテ飛去シト。或ハ云フ此ノ人非スニ喜撰一。規仙別人ナリト『山州名跡志』
としています。
炭山は志津川を遡り、日野岳(日野山)や天下峰の東麓、あるいは上醍醐(醍醐山)の南の集落ですね。
『三室戸寺縁起』がいう「離宮の東方の山奥」や、『都名所圖會』がいう「宇治山の東」は志津川の流域を指すようです。
したがって、これらの描写を信じるのであれば、宇治山は志津川より西に所在していることになり、喜撰山は候補から外れるでしょう。
『都名所圖會』で「宇治山」と「喜撰嶽」を別の山と見なしているのは、こういった位置関係からも明らかです。
『都名所圖會』では「宇治山」の所在地を「三室戸山の南」としていますが、『山州名跡志』では「三室戸の西3町ばかり」としています(3町=約330m)。
よく読むと、『都名所圖會』は「三室戸山の南に宇治山があり、喜撰法師がここにお住まいだったという」としていますが、『山州名跡志』は「三室戸の西に宇治山があり、喜撰法師が歌に詠んだ宇治山だと伝えられている、ただし実記を見ず」としており、微妙にニュアンスが異なります。
『都名所圖會』の「三室戸山の南」を検討してみると、朝日山の東(南東)に連なる山域か、あるいは集落としての志津川あたりでしょうか。
この志津川には「喜春庵」という禅寺(禅室)の跡が今も残りますが、この「喜春庵」は元は「喜撰庵」で、禅寺となる前は喜撰法師の庵の古跡だったとも伝わります。
延宝5年(1677年)の『出來齋京土產』(出来斎京土産)では、
朝日山
宇治山の南かたそびえたる嶺を朝日山といふ
『出來齋京土產』
とあり、ここでは宇治山の南方に朝日山がそびえるとしています。
朝日山の北西には仏徳山が所在しますので、宇治山は仏徳山を指すようにも思えます。
ただ、より後世の『五畿内志』を見るかぎり、おそらく、朝日山と仏徳山(離宮山)の位置関係は南北ではなく東西と扱われていたようです。
開発が進み、朝日山と三室や莵道(この莵道は地域名)の間、明星町が開けてしまったこともあり、現在の地図からは伝わりにくいですが、昔は朝日山から北も山続きの丘陵地帯でした。
もし、朝日山から北に連なる(連なっていた)丘陵が「宇治山」だとすると、『山州名跡志』の「(宇治山は)三室戸の西3町ばかり」とは距離的にも合う気がします。
日野山に庵を結び、『方丈記』を著したことで知られる鴨長明による随筆的な歌論書『無名抄』に、
喜撰が跡
またみむろとのおくに、廿余丁ばかりやまなかへ入りて、宇治山の喜撰の住みけるあとあり、いへはなけれど、堂のいしずゑなどさだかにあり。これらかならづたずねて見るべき事也。
『無名抄』
「また三室戸の奥に二十余丁ばかり山中へ入りて、宇治山の喜撰の住みける跡あり。家は無けれど堂の礎など定かにあり。これら必ず訪ねて見るべき事なり。」との一文があり、鎌倉時代初期頃には「三室戸の奥20余丁ばかりの山中」に喜撰法師の古跡が残る地があったことが伝わります。
20余丁となると、おおむね2.5km程度の距離でしょうか。
三室戸から2km以上も離れるとなると、それなりに深い山奥のように思われますが、方角すら明らかではありません。
元は都人であった鴨長明の視点から、「三室戸の奥」をどう見るかにもよるでしょう。
『古今和歌集目錄』における「或人云。彼住所宇治山。奥深ク入テ有レ山。」の描写に影響を受けているようにも思われます。
少なくとも、距離的な観点では後世の『出來齋京土產』や『山州名跡志』がいう「宇治山」とは一致せず、どちらかといえば喜撰山のほうが近いように思われます。
そもそもで申し上げれば、鴨長明ほどの歌人が朝日山の存在を知らないはずがなく、もし、朝日山の周辺に「宇治山の喜撰の住みける跡」があると考えていたのであれば、『出來齋京土產』のように紐付けて書くでしょう。
また、『無名抄』では喜撰が跡について「かならづたずねて見るべき事也」(必ず訪ねて見るべき事なり)と紹介しており、歌人に対して強く勧める内容となっています。
これは上で紹介した慶融の「宇治山の昔の庵の跡とへは」の歌もそうですが、
宇治山の喜撰跡などいふ所にて、人々歌よみける秋の事なり
あらし吹くむかしの庵の跡たえて月のみぞすむ宇治の山本
『寂蓮法師集』
寂蓮法師も詞書で「宇治山の喜撰跡(喜撰が跡)などいう所にて、人々が歌を詠みける」、「人々が」としていますので、多くの歌人が訪れていたのでしょう。
寂蓮は俗名を藤原定長(中務少輔)といい、藤原俊成の甥にして養子(藤原定家の従兄弟)で、鴨長明と近い世代の人です。
定家が『小倉百人一首』を撰んだ頃、喜撰法師が歌人の間で非常に人気があったことが伝わります。
ただし、この『無名抄』に見える「喜撰が跡」について、賀茂真淵は「(長明無名抄に宇治山御室戸のおく廿餘丁ばかり山中に入て庵の石ずゑのあと有などいふは)論にたらざる事をこしらへおく物なれば信ずるにたらぬなり源氏は作りごとなるを宇治十帖の所々今社など有を以て知べし」(論として十分ではない事を拵えた物であるから信じるに値しないのだ、源氏物語は作り話なのに宇治十帖の地に今は神社などがあることからも分かるはずだ)としており、創作の類だと見なしていたようです。
『源氏物語』にあやかり、宇治の地に「宇治十帖」ゆかりの神社や名所が作られたのと同様、喜撰法師の庵の跡を訪ねて歌を詠む流行も、当時の歌人の間で「ここに喜撰法師が住んでいた」と勝手に見なしていただけだ、と考えていたのでしょう。
また、歌人の間での流行や喜撰法師像も、『源氏物語』からの影響が大きいことも把握していたように思われます。
もっとも、たとえ創作であったとしても、『無名抄』の「喜撰が跡」の描写が、おそらく後世の喜撰山の描写に影響を与えたのだろうと考えています。
これに限らず、宇治は数々の「見なし」により流行が作られた観光都市で、どうも真淵はそれをあまり良く思っていなかったようですが、こういった「遊び」は風流の表れともいえるでしょう。
後世、どの地誌にせよ、宇治山について、やたらと三室戸を引き合いに出し、三室戸からの方角や距離を示そうとするのは、『源氏物語』や『無名抄』の影響が大きいと考えられます。
真淵の言い分を見たうえで、改めて『無名抄』の「喜撰が跡」を見てみると、たしかに鴨長明は宇治山を名所案内的に紹介しているようです。
かつて長明が庵を結んだとされる日野山の地が、江戸時代頃には「方丈石」なる名所として多くの観光案内書や地誌で紹介されるようになったのも歴史の面白いところで、これは長明も想像していなかったでしょう。
1891年(明治24年)の『日本歌學全書 第十貳偏』(日本歌学全書 第十二編)における『無名抄』の解題では、長明について、「和歌管絃に達し、又老莊の道を極む」としています。
「老荘の道を極む」が事実であるかはさておき、隠棲した人を老荘思想と結び付ける風潮がありました。
仙人に通じる老荘思想が、日本ではそれこそ万葉の時代から非常に人気で、日野山に隠棲した長明が、後世、「老荘の道を極む」と考えられていたように、喜撰法師も同様に扱われていたのかもしれません(日本における隠者伝)。
『山州名跡志』では「喜撰山」の伝説に見える人物を、「あるいは喜撰ではなく規仙という別人とする話もある」としていますが、後年の『都名所圖會』ではこれを省いています。
規仙(窺仙)なる仙人については、鎌倉時代の『元亨釋書』(元亨釈書)の「神仙五」に「釋窺仙居宇治山持密兼咒求長生辟穀服餌一旦乗雲而去」と見えます。
描写があまりにも似ていることから、後世の諸書に見える喜撰法師の登仙伝説は、元をたどれば『元亨釋書』に影響を受けていると考えられますが、窺仙と喜撰は同一人物である、あるいは別人である窺仙と喜撰が混同された、もしくは「宇治山の喜撰法師」のイメージから窺仙が創作されたのではないか、など諸説が唱えられました。
平安時代後期の『古今和歌集目錄』には、すでに「窺詮仙人」の名前が見え、喜撰法師と同一視しているように読み取れますが、この時点では登仙伝説は見られません。
『古今和歌集目錄』と同時期に成立したと考えられる『本朝神仙伝』にも、「窺詮」(窺仙)なる法師の説話が記されていたとされ、『元亨釋書』は『本朝神仙伝』を引いたのではないかとも考えられていますが、残念ながら、『本朝神仙伝』の当該部分は散逸しており、その内容を確認できません。
「三室戸の西にある宇治山」と「喜撰法師が歌に詠んだ宇治山」を重ねる伝承についても、『山州名跡志』では「実記を見ず」(事実を書いた記録は見ていない=定かではない)と但し書きを付けています。
『山州名跡志』では全体的に曖昧な物言いに留めているものを、後年の『都名所圖會』で、(引用的な言い回しとはいえ)断定的に書いている理由は分かりません。
いずれにせよ、『山州名跡志』や『都名所圖會』(など)の編者が「宇治山」と「喜撰嶽」を区別していたことは確かで、おそらくは、朝日山や三室戸山そのものではないが、朝日山や三室戸山周辺のどこかの丘陵地を指して「宇治山」と捉えていたのでしょう。
宇治山の所在地とは直接的な関係が無いと考えられるため、窺仙について、とくに引用しなかった他の文献、『本朝神社考』『扶桑隱逸傳』『本朝列仙傳』『本朝高僧傳』の4誌について、インターネット上で閲覧できるページに対してリンクしておきます。
『元亨釋書』では宇治山の窺仙なる仙人が喜撰法師とは書いていませんが、後世、同一視する風潮が強まったことが伝わります。
ここまでは宇治山と喜撰山を別と見なしている地誌を中心に見てきました。
宇治山
京都府山城國宇治郡なる喜撰山の別稱なり
『帝國地名大辭典』
ところが、1902年(明治35年)の『帝國地名大辭典』(帝国地名大辞典)では上のように見え、ハイキングガイドブックや事典、あるいは公的に編纂された地誌などでも「宇治山」を「喜撰山」の別称と断定しているものがきわめて多く、混同が見られます。
1925年(大正14年)の『登山と遊覽』(登山と遊覧)では、
【興聖寺】
(前略)
興聖寺、宇治神社等の後ろの山を【朝日山】といふ、山に登ると脚下に宇治川の清流展けて眺望が非常によい【喜撰嶽】
宇治橋の北詰から三室戸寺道に岐れて右し、朝日山を經て志津川迄十八丁、更に廿七丁にして其山頂に至る、笠取の西なる峻峰で又の名を宇治山と言ひ、標高四一六米突、羽化の仙人と傳へらる喜撰法師の舊蹟で、半腹に其住址といふ岩窟がある「我宿はみやこの辰巳しかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」山を北に下れば池の尾を經て宇治川の沿岸曾塚渡に出で、外畑に至つて岩間山より下る道と合し、立木觀音を經て石山に至るは一日の行樂として恰好の行程である。『登山と遊覽』
と、具体的な描写がなされており、池の尾や立木観音さんとの位置関係などから見ても(池尾は喜撰山ダムの北東に所在する集落)、『登山と遊覽』の編者は、現代において「喜撰山」と呼ばれている415.6m峰を「喜撰嶽」=「宇治山」と見なしていたのは確かだと考えられます。
その翌年に発行された、1926年(大正15年)の『洛南史蹟 宇治黄檗の巻』では、
三室戸寺
(前略)
菟道山の奥、志津川の水源岩淵に於て黄金の靈佛を得たれば、
(後略)岩淵
は、三室戸の奥志津川の中流に在る東西五間南北八間、深さ二丈の岩淵の碧潭である、三室戸觀音出現の碑を建つ喜撰山
は、一名を仙鄕山と稱し宇治山ともいひ、三室戸の東南一里餘、志津川村を經て神女神社の前を、仙鄕川の渓流に沿うて、奇巌處々に横はる緩やかなる山路行く事廿町許で其山麓池尾道に出づ。山頂までは急坂八町程で、喜撰法師隠栖の古址に抵る、頂上の眺望頗る廣く、都の巽より平安の帝城を望みて法師登仙の昔を偲ぶ、古址岩窟を喜撰洞といひその側ら石標を存し纔に大同二年の文字を見るを得るのみである。『洛南史蹟 宇治黄檗の巻』
と見え、どうも「菟道山」と「宇治山」を区別しているようにも読み取れます。
『洛南史蹟』における三室戸寺の「菟道山の奥」の描写は、ほぼ同じ内容の文章が同時期に刊行された他誌にも見られますので、この部分に限れば、当時の三室戸寺さんの寺伝をそのまま書き写しただけかもしれません。
同様に、「喜撰山」の描写は『山州名跡志』に見える話と近く、後年の『宇治誌』でもほぼ同じ内容となっています。
ここでの「菟道山」は、記事本文でも取り上げた、菟道稚郎子を葬った山としての菟道山を指しているのでしょうか。
後世では、その山を朝日山に治定していました。
「岩淵」に見える「三室戸観音出現の碑」については、1898年(明治31年)の『宇治郡名勝誌』には、炭山の志津川にある岩淵に「三室戸觀世音出現門と刻した石碑を建てた」と見え、1957年(昭和32年)の『宇治市政』第75号(12月10日号)にも、炭山の岩淵に「山城州明星山三室戸寺観世音出現の門と刻みのある碑の石の灯篭が其の岸に建っています」と見えます。
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ただし、『宇治郡名勝誌』では石碑、『宇治市政』では「碑の石の灯篭」としており、碑文も異なりますので、場所は同じにせよ、両者は別物かもしれません。
実は、三室戸寺さんの山門の外(参詣者用駐車場の付近)にも、明治時代に建立された「觀世音出現門」の石碑が立っています。
その石碑には、「いわま 石山 ちか道」と西国三十三所の道標が刻まれており、元から三室戸寺さんに置かれていたものではないように思われます(三室戸寺さんに置いても近道とは思えません)。
これは日野岳(日野山)の記事でも申し上げましたが、『方丈記』にも「峯つゞき炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間にまうで」と見えるように、炭山から笠取を越えて、岩間寺へ詣でる山道がありました。
この石碑も、炭山にある岩淵あたりの「ちか道」に置かれていたものが、後年、三室戸寺さんに運ばれたのではないかと推測しています。
「仙郷山」は喜撰山の旧称(初名)とされ、今も住所地名(宇治市池尾仙郷山)や林道(林道仙郷山線)にその名を残していますが、1935年(昭和10年)の『京都府茶業史』に、伝聞ながら(傳ふる所によれば)「建仁年間に仙郷山から喜撰山と改めた」といった話が見えます。
この話が事実であるかは別として、建仁年間(1201年~1204年)となると、先にも名前を挙げた鴨長明や寂蓮法師らが生きた時代と重なりますね。
これは、この当時、歌人の間で「喜撰が跡」を訪れて歌を詠むのが流行していたことと無関係ではないように思われます。
たとえばの話ですが、池尾では「センゴウ山」と呼ばれる山があった、これは窺仙なる仙人が住んでいたから「仙郷山」だったのかもしれませんが、その山に「喜撰が跡」があるからという理由で多くの人々が訪ねてくるので、その当時の人が「喜撰山」と改称したのかもしれません。
あるいは、そういった「喜撰が跡」の話にあやかって、(「喜撰が跡」が当地であったかは別として、)より後世の人が「仙郷山」を「喜撰山」と改称した可能性もあるでしょう。
上でも述べましたが、『無名抄』の描写だけでは、「喜撰が跡」の所在地は断定できません。
また、喜撰法師が池尾の地に茶畑を開いたとする話も伝わりますが、宇治における茶の伝来の観点から考えて、これはあくまでも伝説の類だと見なされていたようです。
この説を肯定すると、宇治の他の地域における茶史と整合性が取れなくなるのでしょう。
長々と見てきましたが、「喜撰法師が住んでいた山」「喜撰法師が歌に詠んだ山」という観点での「宇治山」は、「ここに庵の跡があった」「ここに住んでいたらしい」といった伝承を元にした、あくまでも見なしに過ぎません。
そのうえで、喜撰法師が住んでいたとされる山と、登仙したとされる山を別と見る考えと、同一視する考えがあり、これが宇治山と喜撰山の混同を招く要因となったのでしょう。
さらに、これは江戸時代には朝日山と重ねて見られるようになりましたが、菟道稚郎子が葬られたとされる「菟道山」(宇治山)だったり、これは喜撰法師の「宇治山」と性質が近く、後世においてはほぼ同一視されていたと考えられますが、『源氏物語』の「宇治十帖」に見える「宇治山」だったり、同じ「宇治山」であっても、どういった観点での「宇治山」か、その前提が明らかでないと、それぞれどこを指しているかは伝わらない可能性があります。
名勝としての「宇治山」については、文化庁さんが「宇治山は,その谷口を巡って峰を連ねる仏徳山,朝日山などを含む丘陵地の総称である」と定義なさった以上、それに従うよりほかありませんが、残念ながらその根拠は国民市民に分かる形で明示されていないようです。
『宇治名所古跡之繪圖』を引き合いに出し、「江戸時代後期から近代にかけては,『宇治名所古跡之繪圖』(江戸末期)などに見られるように,北西方から宇治橋を左中ほど手前に,平等院を右下に宇治山を鳥瞰する図郭で紹介されることが広く普及し,名勝地たる宇治の枢要を成した」となさってますが、『宇治名所古跡之繪圖』には「仏徳山」と「朝日山」の山姿と山名こそ描かれているものの、それらを指して「宇治山」とは描かれておらず、この絵図だけでは「宇治山」=「仏徳山、朝日山などを含む丘陵地の総称」説の論拠とはなりえません。
江戸時代頃の史料に目を通すかぎり、当時、数多く刊行されたいずれの地誌においても、朝日山と宇治山を別の山と見なしていたことだけは伝わります。
総称であれば、「A山あり、またB山あり、総じてC山と言う」といった感じの言い回しが江戸時代頃の地誌によく見られます。
以下、参考程度に、宇治山と喜撰山を区別している『山州名跡志』や『都名所圖會』と異なり、宇治山と喜撰山はほぼ同じと描写をしている江戸時代の地誌も引いておきます。
これらは窺仙の登仙伝説の山を喜撰法師が住む宇治山と重ねて見ています。
山之部
宇治郡
第一 宇治山
第二 朝日山
第三 三室戸山宇治山
彼喜撰法師が住ける所は。三室戸山の北。池の尾の山のうへにあり。其岩屋今に有。行道嶮岨にして。至りがたし。其所を窺仙が嶽といふ也朝日山
宇治川の東にたてり三室戸山
宇治の東北にあたる也『名所都鳥』
元禄3年(1690年)の『名所都鳥』では、「宇治山」を「三室戸山の北」としていますが、おそらく「北」は「奥」か「東」の誤りで、「池の尾の山のうへ」「其所を窺仙が嶽といふ」の描写から考えて、喜撰山を指していると考えられます。
「池の尾の山」が「三室戸山の北」に所在するとは考えられません。
また、『名所都鳥』では宇治山と朝日山、三室戸山を明確に区別していることが分かります(とても「総称」の描写とは思えません)。
志津河村名
在二三室戸ノ東南半里計ニ一宇治山
在二同村巽一尚宇治領也喜撰ヵ洞
在二志津河村ノ巽二十四五町宇治山ニ一巌ノ洞也傍ニ小石塔ニ有レ銘喜撰ヵ嶽
同キ山頭也絕頂ニ無二一木一遠境有二目前ニ一此所喜撰法師乗レ雲ニ飛去シ所也高淨水
在二洞ノ下ニ一此水雖二旱天一無二衰滅一宇治祭ノ日氏子作二柄一置レ此ニ喜春庵
在二志津川村ニ一『山城名跡巡行志』
宝暦4年(1754年)の『山城名跡巡行志』では、「宇治山」を志津川村の南東に所在するとしたうえで、宇治山の「喜撰ヵ洞」を、さらに「宇治山の喜撰ヵ洞」の山頭(ピーク)として「喜撰ヵ嶽」を紹介しています。
ここでは引いてませんが、もちろん、『山城名跡巡行志』でも宇治山を朝日山と区別しています。
喜撰法師と結び付けてはいませんが、上でも少し話に出した「喜春庵」の名前も見えますね。
喜撰ヵ洞の下から湧く「高浄水」なる水が、当時、宇治祭(宇治離宮祭)に欠かせなかったことも伝わります。
「此水雖二旱天一無二衰滅一」、この水は旱(ひでり)といえども勢いが衰えない。
この高浄水については、「宇治七名水」としても名前が挙がりますが、どうもアクセスが容易な平地の井戸に置き換わったようです。
「宇治七名水」としての「高浄水」はJR宇治駅の西にあったとされますが、今は失われて石碑が残るのみとなりました。
平安時代末期~鎌倉時代にかけての宇治山ブーム
これは上で触れた鴨長明や寂蓮法師、あるいは藤原定家の時代に、宇治山の「喜撰が跡」を訪れて歌を詠むのが当時の歌人の間で流行していた、という話の補足のようなものです。
寂蓮入道嵯峨に住み侍りける此秋の風ことの外にて裳のひはだも皆吹きみだりて侍りしとて
我が庵は都の戌亥住詫びぬ浮世のさがと思ひなせども返しに
道をえて世をうぢ山と云し人の跡に跡そふ君と社見れ『拾玉集』
『拾玉集』は天台座主であった慈円(慈鎭)が詠んだ歌(や返歌)を、後年、尊円入道親王が編纂した歌集です。
慈円は藤原忠通の子、そして九条兼実の同母弟で、奇しくも鴨長明と同じ年の生まれ、『小倉百人一首』での肩書は「前大僧正」。
『愚管抄』の著者としてもよく知られ、歴史上、さまざまなエピソードに名前が見える高僧でもあります。
交わりがあった歌人も多く、慈円から見て、藤原俊成は41年、西行は37年、顕昭は25年(24年説有)、寂蓮は17年(18年説有)の年長、藤原有家は同年齢、藤原家隆は3年、藤原定家は7年、藤原(飛鳥井)雅経は15年の年少です。
周囲の歌人に憧憬の念を抱き、多作ではあったものの、慈円自身は職業歌人ではなく、(歌人としては)後世の評価はさほどでもありません。
嵯峨の寺で静かに暮らしていた寂蓮入道(寂蓮法師)は「我が庵は都の戌亥住詫びぬ」の歌を詠み、これを比叡山無動寺の慈円に送りました。
寂蓮と慈円はかなり仲が良かったようで、比叡山と嵯峨の間で、他にも歌のやり取りをしています。
「ひはだ」は「檜皮(ひわだ)」で、秋風により寺の裳階(もこし)の檜皮葺きが思いのほか吹き飛ばされてしまった年に詠んだ歌といった解釈がなされます。
「世を憂し」と「うぢ山」と同様、ここでは「浮世のさが」と「嵯峨」が掛かっています(性質を意味するサガと、地名などを指す嵯峨を掛ける表現も流行っていたようです)。
先に述べたように、寂蓮は「宇治山の喜撰跡などいふ所にて、人々歌よみける」を詞書とした歌も詠んでいますので、もちろん、喜撰法師の「わが庵は都のたつみしかぞすむ」の歌を知ったうえで、本歌が簡単に分かるように「我が庵は都の戌亥住詫びぬ」と詠んでおり、受け取った慈円もそれを理解しています。
喜撰の「わが庵は」の歌、寂蓮や慈円の時代の歌人の間では「宇治山の喜撰が跡」が流行していた、それに、寂蓮は当代屈指の歌人として絶賛されていた、これらの知識があれば、慈円が「道をえて世をうぢ山と云し人」の歌を寂蓮に返した理由も分かりやすいでしょうか。
この歌における「君と社」の「社」は「こそ」の読みをあてますが、願望の意の助詞です。
「道をえる」、得道とは悟りを開くの意、「世をうぢ山と云し人の跡」は喜撰の跡で、これは「喜撰が跡」と「歌人としての喜撰法師の足跡」が掛かっており、「跡そふ君」も同様です。
つまり、喜撰の跡(後)にあなたこそ(歌人としても)足跡を残すのでしょうといった、歌人に対する最大級の賛辞です。
建久元年十一月十九日東大寺棟上御幸云々法皇先十七日巳刻令レ着二宇治平等院一給二淨衣一御幸第二度例也殿下十五日夕先立令レ入給御所小川也本堂の北廂を爲二院御所一御装束如レ例御堂所々修理等傍增二先例一是破壞之條當時之故也殿下御供に左少將定家朝臣令レ參同十八日早旦十首詠送之物忌之間沈二思和歌一甚無骨然而爲二其道之人一不レ忘二其時之景氣一不二默止一之條好上之至也尤有レ與云々殿下十七日御幸御詠之後十八日巳刻南都御下向御幸春日詣之義也前駈衣冠随身毛車を被レ用左大將同被レ參明十九日先參二御社一自レ其東大寺棟上御幸に可二令レ參給一云々件十首詠云
哀とも唯に云てか山城の宇治のわたりの明る夜の空
鳴初むる鳥の初音におきゐれば唯宇治山の有明の月
(8首略)唯今殿下御出とてひしめきし折節ひまもなかりしかど人の道をすさむるになりぬべしまだ返り事せずば本意なかるべければやがて筆をとりて返しに申し遺す十首
宇治に來て唯には云て山城の思ひけるこそ哀よの空
月影はおりゐの山に傾きて鳥のそらねも有明のそら
(8首略)此の歌のことを定家の朝臣申したりけるとて又左大將よみて遺したる
喜撰餘流
あたら夜を我もただには山城の世を宇治山の古の跡
鳥の音の哀をかくる袖のうへに月も色ある宇治の曙
(8首略)(後略)
『拾玉集』
建久元年(1190年)、後白河法皇の奈良東大寺御幸(「御幸」は法皇や上皇の行幸)の道中、宇治平等院に滞在した期間の出来事を描いています。
この時期の慈円は平等院の執印に就いており、宇治のこともよく理解していました。
「殿下」(関白)は慈円の実兄である九条兼実、その御供をした左少将定家朝臣はもちろん若き日の藤原定家、「左大将」は兼実の次男で、慈円の甥にあたる九条良経です。
両親を早くに失った慈円にとって、兄の兼実は保護者でもあり、慈円から見ると14歳も年下とはいえ、良経に対しては甥というより弟のように親しく接していたのではないかとも考えられています。
この出来事を『拾玉集』では11月としていますが、兼実の日記『玉葉』を読むかぎりでは10月だと考えられます。
長男の良通が病により22歳の若さでこの世を去り、さらには対立勢力との不得手な政争を避けられず、兼実は重圧に耐える多忙な日々を送っていました。
東大寺御幸から帰京して直後の話となりますが、翌11月7日には源頼朝が(幼少期を除いて、)初めて上洛し、『玉葉』によると、9日には兼実と頼朝の対面が果たされます。
この当時、定家は九条家の家司として仕えており、九条家サロンの一員として、このように慈円や良経とのやり取りがあったのでしょう。
当時の歌人にとって、宇治といえば喜撰法師であり、宇治山であることが伝わります。
位置関係から見て、平等院で詠まれた「有明の月」の歌に見える「宇治山」は、朝日山の周辺を指しているようにも思えますね。
もっとも、旧暦の10月18日に、平等院から「有明の月」が東の山際に見えることはないでしょうから、これはあくまでも宇治山の持つ寂しいイメージと、有明の月のイメージを重ねただけにも感じます。
あるいは、自身を喜撰法師と重ねた設定かもしれません。
それに対し、慈円が詠んだ「月影はおりゐの山に傾きて」の返し歌は、有明の空、南西の折居の山に月が傾いているようで、これは日付から想定される「有明の月」の位置に(どちらかといえば)近いように思われます。
この歌は「月影はおりゐ(下る、降りる、下り居る)」と「折居の山」(現在の太陽が丘周辺)が掛かっていると考えていましたが、そもそも、折居の地名が「(季節と月齢にもよりますが、宇治から見て)月がおりゐ」に由来しているのかもしれません。
このあたりは私の知識が不足していますが、もしかすると、「折居山」は「朝日山」と対になっているのでしょうか。
私は宇治川の右岸以北(宇治郡、紀伊郡)の歴史を主に学んでおり、左岸以南以西(久世郡、綴喜郡)の歴史には疎いです。
新たな興味が湧いてきました。
「宇治山百首」より
冬
網代
風さゆる宇治の網代の夕波は物の哀をまづ寄する哉雑
山
世中に山てふ山は多かれど山とはひえの御山をぞ云
河
四方の川は淀の流に落合ひて一つ渡りに成りにける哉『拾玉集』
本記事の冒頭、「あじろぎの道」でも軽く触れましたが、「宇治の網代」(宇治川の網代木)は多くの歌に詠まれており、室町時代の『風雅和歌集』(風雅集)では、前大納言為世(定家の曽孫、二条為世)の歌として、「風さゆるうちのあしろ木瀬をはやみ氷も波もくたけてそよ(み)る」を収めています。
山の歌は……、「世の中に山は多いが、山とは比叡山(延暦寺)のことを言う」、あまりにも直球すぎる歌としてよく知られており、延暦寺さんの公式サイトでも紹介なさっています。
川の歌を見るかぎり、淀川が鴨川(北から)、宇治川(雑に東から)、木津川(雑に南から)、桂川(雑に西から)の四方から流入する四川から成ることは古くから理解されていたようですね。
標高369mの高尾山(高雄山)、槇尾山展望台について(天ヶ瀬ダムの裏山)
(※気が向いたら書きます)
(※基本的に私は暇人ですが、他にも興味を持っている事象・事物は多々ありますので、こちらはあまり期待しないでください)
志津河村名
在二三室戸ノ東南半里計ニ一槇ノ雄山
同村上ノ方ニアリ『山城名跡巡行志』
槇尾山(槇ノ尾山)がなぜ宇治川の左岸にも右岸にも所在するか、といった話です。
朝日山(地理院 標準地図)
「仏徳山(ブットクサン)(ぶっとくさん)」別称として「大吉山(ダイキチヤマ)(だいきちやま)」
標高131.6m(三等三角点「旭山」)
「朝日山(アサヒヤマ)(あさひやま)」
標高124m
京都府宇治市
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