鷲峰山 空鉢峰から明石海峡大橋を遠望 雪の金胎寺 京都

少し前の話ですが、この日は午後からAさんと鷲峰山ハイキング。
鷲峰山は京都府相楽郡和束町と綴喜郡宇治田原町の郡境に所在する山、あるいは周辺山域の総称です。
ご家族と共にAさんが昔よく登っていらっしゃった思い出の山ということは存じ上げていましたが、当時のお話などを伺いながら、楽しく山を歩くことができました。

鷲峰山の読み・地勢

「じゅぶせん」とも「じゅうぶざん」とも読まれる鷲峰山 [1]は、広義の鷲峰山地や笠置山地でも、とくに木津川以北の山域、鷲峰山系とも呼ぶべき山域にあたり、山城地区 [2]の最高峰となります。
また、古い山岳事典では湖南の山々や信楽高原の山々まで含めて「鷲峰山塊」や「鷲峰山地」と紹介しており、それこそ「近江富士」三上山や鏡山の丘陵地帯まで山域に含めていますが、あまりに広大すぎるため、当サイトでは宇治川以南、木津川以北の山々のうち、京都府寄りの山を「鷲峰山系」と見なしています。
私にとっては「京都府から明石海峡大橋を遠望できる山」ですが、そういったとらえ方をする人はきわめて例外的で、一般的には山岳信仰の霊山、山上に建つ金胎寺(こんたいじ)さんの山として知られています。

鷲峰山を宇治田原から登山

この日は京都京阪バス「維中前(いちゅうまえ)」バス停を起点として、宇治田原町側から上山しました。
京阪宇治駅か近鉄新田辺駅から緑苑坂・宇治田原工業団地方面へ向かうバスに乗車し、「維中前」停留所で下車。
宇治・新田辺方面から来た場合、国道307号を渡り、信西入道塚や大道寺さん、大道神社さん方面の道を取ります。
これは昔から利用されてきた鷲峰山登拝道で、今も道の端々に名残のようなものが見えます。
宇治田原工業団地の最奥部に位置する「中畑口」停留所を起点とするほうが、登山口にあたる大道神社さんまで(かなり)ショートカットできますが、通勤の時間帯に限定されますので、事前に時刻表をご確認ください。

鷲峰山登山道~祈りの参詣道 | 宇治田原町 観光情報サイト
https://ujitawara-kyoto.com/sansaku/course-5/

正確な地形図やコースモデルは宇治田原町さんの公式サイト(産業観光課)で公開なさっています。
この日、私たちが選んだのは、上のリンク先だと「旧登山道コース」にあたります。

大道神社(天満宮)

大道神社 京都府綴喜郡宇治田原町 2014年2月
鷲峰山の登山口にあたる大道神社さん。京都府綴喜郡宇治田原町。
鳥居の扁額にも名前が見えますが、古くは「天満宮」を称していました。

私は無雪に近いだろうと考えていましたが、山麓のお茶畑に軽く積雪しているのを見て、もしかすると、山中は雪が残っているのではないかという疑念が……。
Aさんがおっしゃるには、冬の鷲峰山では雪が降ることも珍しくなく、山上の金胎寺さんも積もっているのではないかとのこと。

準備を済ませ、山に入るとすぐに残雪が。
いきなりの急な登りに私が苦戦しますが、雪を踏みながら休み休み登ります。
もっとも、前半で高度を稼ぐことができたため、後半は楽な山行でした。

宇治田原町側の積雪状況

鷲峰山 北面(宇治田原町側)の積雪状況 2014年2月
鷲峰山の積雪状況。

宇治田原町側は鷲峰山の北面にあたるため、南面にあたる和束町側より少しは雪が深いものと推測されます。
上の写真はまったく踏まれていない仮設林道を撮影していますが、登山道(宇治田原町側からの参詣道)は他の入山者さんらに踏まれていました。
登りはともかく、下りは凍結して滑りやすくなっており、やや危なかったです。
その後、14日に降った大雪でさらに積もったことでしょう。

トイレも備わる休憩所のあたりで、地福谷林道から来る東海自然歩道を合わせ、山の上の金胎寺さんへ向かいます。
この休憩所が整備されてからは、東海自然歩道の「観音山休憩所」としていますが、あたりは開けており、「観音平」とも呼んでいるようです。
追記しておきますと、観音平に合わさるあたりは整備が進んでおり、この年の秋や、翌年以降も何度か訪れていますが、年々、環境が変化しています。

雪の鷲峰山金胎寺 和束町

雪積もる鷲峰山金胎寺 京都府相楽郡和束町 2014年2月
雪積もる金胎寺さんの境内へ。京都府相楽郡和束町。

江戸時代頃の縁起によると、「夫れ當山は山城國の東南群山の上に聳えて奈良の都の丑寅に方るもと喜多の峰といふ」と見え、昔は「喜多の峰」(北の峰)と呼ばれていたとされます(喜多は北の佳字)。
ここから、いわゆる奈良の大峰山(山上ヶ岳)に対し、山城の鷲峰山は「北の大峰」(北の山上)と呼ばれていたとする説も広く知られており、「北山上道場」として修験の行場・霊場の性質を強めたようですが、奈良の都(平城京)から見て丑寅の方角にある「北の峰」と呼んでいたようです。
どちらかといえば、京の都(平安京)の丑寅の方角にある比叡山を「王城の艮岳」と呼んだ話と似ていますね。
1920年(大正9年)の『京都府相樂郡誌』(京都府相楽郡誌)では、創立由緒に「南京の鬼門を護るを以て伽藍を建立し鎭護國家の勅願寺となし給ふ」と見えますが、北峯行場について「大和大峯山に對し北峯行場と稱す」としています。

Aさんの予想どおり、金胎寺さんはしっかり雪が積もっていました。
山門をくぐると、庫裏や行場巡り、Aさんにとっては思い出の地のようです。
この日は空気が澄んでいたのでしょう、こちらの展望地からは、遠く布引山地や室生、台高山脈の山々が明瞭に見えていました。
「伊賀富士」尼ヶ岳と大洞山がとくによく目立ち、その右手に曽爾高原、さらにその右手には北部台高の連なりを確認できます。
夕暮れ時が近付いてきたためか、台高山脈の高峰は雲に隠れつつあり、三脚を出して撮影するかどうか迷ったものの、時間の都合もあり、この日は見送ることに。

続いて、本堂や多宝塔へお参り。

雪の多宝塔

美しく雪化粧する金胎寺 多宝塔 2014年2月
鎌倉時代の建立と伝わる多宝塔も美しく雪化粧。
上の写真の左端に見えている山道を登ると、いよいよ山頂です。

先の縁起には「(前略)人皇九十一代の帝伏見院あつく御信仰ましまして永仁中多寶塔を御建立あり後正和中遂に此山に此隠遁あり」と見えます。
多宝塔の建立は永仁6年(1298年)とされ、後段は正和2年(1313年)の伏見院(伏見上皇)の御落飾(出家)を指しています。
和束町さんによる「鷲峰山・金胎寺」の記事 には、「伏見天皇が退位後この寺にきて僧侶となり、伽藍や多宝塔(重文)を建立し」と見えますが、仮に「正和中遂に此山に此隠遁あり(正和年間になり、ついには鷲峰山に隠遁なさった)」を受け入れるとしても、歴史的な時系列を確認するかぎり、まず、勅願により多宝塔を建立されたのが先で、その後、仏門に入られたのが正しいと考えられます [3]
『本朝通鑑』では、伏見天皇の正応4年(1291年)3月に紀伊由良の鷲峰山と鷲峰山寺についての話が見えますが、御代を通じ、山城の鷲峰山には触れていません。

空鉢峰(鷲峰山)の山頂 宝篋印塔

宝篋印塔が建つ空鉢峰(鷲峰山)の山頂 2014年2月
宝篋印塔が建つ空鉢峰(鷲峰山)の山頂。

台座に「正安二年」の刻銘が残りますので、宝篋印塔の建立は鎌倉時代後期~末期の正安2年(1300年)でしょうか。
今は刻字が薄れていますが、大正時代の記録では「正安二年」「庚子」としています。
鎌倉時代後期~末期頃の宝篋印塔は他地域でも見られますが、きわめてよく似た宝篋印塔が2基、奈良県生駒市の円福寺さんにあり、そのうち1基は「永仁元年壬辰十二月十六日」の刻銘が残ります。
「元」と「六」の翻刻が曖昧で、「永仁元年」(1293年)ではなく、古くは「永仁六年」(1298年)ではないかとも考えられていたようですが [4]、いずれにせよ、空鉢峰の宝篋印塔と近い時期のものです。

写真では見切れていますが、このすぐ右側に「天狗握り岩」と呼ばれる岩があります。
分かりにくいですが、上の写真の左奥にうっすら琵琶湖方面が写っています。
三脚を出す時間がなく、こちらも写真は撮影していませんが、遠く湖西の山々、比良山地、比叡山、それに、大文字山の頂などが見えていました。
逆に、大文字山の山頂から空鉢峰の山頂域のみ見通せます。

空鉢峰と釈迦岳

宝篋印塔が建つ標高点682m峰が、いわゆる「空鉢峰」(空鉢ノ峰)(からはちのみね)で、固有の山名を持つ山としては和束町の最高峰です。
この山とは別に、空鉢峰の北東0.73kmには「釈迦岳」(釈迦ヶ岳)と呼ばれる三角点681.2m峰(点名「鷲峰山」)が所在し、この山が宇治田原町の最高峰です。
NTTさんや京都府の無線中継所が遠くからでもよく目立つこの山は、一等三角点や天測点を有する山としても知られています。
一等三角点「鷲峰山」の「点の記」を確認してみると、1886年(明治19年)観測時の「点の記」に「釋迦ヶ岳ノ西頂 但シ著名ナル鷲峯山ニ接近ス因テ本點ノ名稱トス」(釈迦ヶ岳の西頂、ただし著名なる鷲峯山に接近す、よって本点の名称とす)と見え、「釈迦岳」(釈迦ヶ岳)が正しい山名であることが分かります。
より厳密に申し上げれば、「点の記」では「釋迦ヶ岳ノ西頂」としていますので、三角点峰のすぐ東に所在する小ピークが本来の釈迦岳である可能性もありそうです。

さらに釈迦岳(釈迦ヶ岳)の東0.83kmには標高点684m峰が所在し、近くに関西電力さんの無線中継所が建つこの独標が、固有の山名は持たないものの、基準点としては和束町の最高地点にあたります [5]
金胎寺さんの山号である「鷲峰山」はこの山域の総称であり、とくにハイカー間では標高点682m峰を「空鉢峰」(空鉢ノ峰)、三角点681.2m峰を「釈迦岳」(釈迦ヶ岳)と呼ぶ方が多いものの、標高点682m峰を「鷲峰山」、三角点681.2m峰を「鷲峰山三角点峰」と呼ぶ方もいらっしゃいます。
たとえば、比叡山の西峰を「四明岳」(四明ヶ岳)、東峰(最高峰・三角点峰)を「大比叡」、山域の総称として「比叡山」と呼びますが、総称のほうが一般に広く知られています。

安永9年(1780年)の『都名所圖會』(都名所図会)には、

鷲峯山金胎寺
(前略)
天武天皇の御宇白鳳四年九月に役優婆塞此山に來り天竺の霊鷲山をうつし八ツの嶺は八葉の蓮華に表し釋迦嶽阿弥陀嶽弥勒嶽寶生嶽阿閦嶽虚空蔵嶽不空嶽妓楽嶽と號し巌頭に坐して修法する事五十七日なり是當山の開基とす
(後略)
『都名所圖會』

※「阿閦嶽」については、『都名所圖會』の原文では、「阿」の次の字に「門がまえ(もんがまえ)」に「夕」の字で「しゅく」と振り仮名を振っていますが、後述する『山州名跡志』の描写から、阿閦如来の「阿閦(あしゅく)」を指すと考えられます。

と見え、役行者が天竺の霊鷲山 [6]を当地に遷し、八葉蓮華になぞらえた八座を置いたとしています。
いわゆる富士山の山頂も、古くは八葉蓮華になぞらえて八座を置いたことが知られています。
『都名所圖會』に名前が見える八座のうち、最初に名前が挙がる「釈迦岳」は三角点峰(か、そのすぐ東の小ピーク)ですが、個人的な調査の結果、かつて、釈迦岳(釈迦ヶ岳)の東の山を「阿弥陀ヶ峰」、さらにその東の山を「弥勒岳」と呼んでいたことを確認しました。
どちらかが標高点684mの山かもしれませんが、すでに具体的なピークを特定するのは困難なように思われます(推測で当てはめることはできるでしょうが、それが正しいかは別問題です)。
いわゆる三世仏ともされる、釈迦、阿弥陀、弥勒の並びが『都名所圖會』そのままですので、残る「宝生岳」「阿閦岳」「虚空蔵岳」「不空岳」「妓楽岳」(伎楽岳)といった山々も続いていたのかもしれません。
『都名所圖會』の少し後、寛政年間とされる木版『山城州鷲峯山金胎寺圖』(山城州鷲峯山金胎寺図)に [7]、写実的な図案で西の「空鉢」から東に連なる山々の姿が描かれています。
あるいは、八葉蓮華になぞらえていますので、大きな華を描いていたのかもしれません。
宝暦4年(1754年)の『山城名跡巡行志』には、「天竺霊鷲山ニ似嶺廻立テ上八峯ニシテ蓮華ノ如」と見えます。

これに限らず、『都名所圖會』は、正徳元年(1711年)の『山州名跡志』から引いて派手にアレンジしたと思わしき描写が多々見受けられますので、次に『山州名跡志』も確認してみると、こちらでは山の名所として、他の名所と合わせて、「妓楽嶽 阿閦嶽 不空嶽 釋迦嶽 虚空蔵嶽 寶生嶽 阿弥陀嶽」の七座を紹介していますが、弥勒嶽の名前だけ見えず、役行者による八葉蓮華の話も見えません。
ただ、最後に『喜多峯記』なる書名を挙げて、「其外委」(その他は『喜多峯記』が委しい)としていますので、弥勒嶽はそちらに名前が挙がるのかもしれません。
金胎寺さんの本尊は弥勒菩薩と伝わりますので、弥勒の名を避けた可能性もあります。
「喜多峯」(北の峰)は鷲峰山の旧称であり、『喜多峯記』はおそらく『喜多峰先達記』を指すように思われますが、知識がなく、私には断定できません。

空鉢峰の宝篋印塔についても、『都名所圖會』では「北斗星の拝所」としていますが、上記の理由から、そのまま鵜呑みにはできません。
当寺において、北極星や妙見菩薩、あるいは天之御中主神に対する信仰と関わる記録は見当たりませんが、当山が「北の峰」と呼ばれていたらしきことや、当地が北向きに開けていることは確かです。
ただ、これは逆に、「北の峰」の呼称から、『都名所圖會』の編者が北辰信仰と重ねた可能性もあります。
北斗星の件はすぐ下に追記あり。

空鉢峰の読み

追記。
いつの間にやら、インターネット上で「空鉢峰」を「くはちのみね」と読む記事が散見されるようになりました。
当山については、これまで、ハイカーの間では「からはちのみね」、あるいは「からはちみね」の読みが通説でしたので、「くはちのみね」なる読みの登場には少しばかり驚いています。

たとえば、1924年(大正13年)発行の『近畿の登山』では、

「鷲峯山(じゆぶせん)」
(前略)
本堂を左方にめぐりて二町程登れば最高峰空鉢峰(からはちみね)である。山頂平地となり、中央に空鉢塔(からはちとう)あり、傍らに天狗握り岩あり、周圍に老杉めぐりて琵琶湖のほのかなるを眺める。
(後略)
『近畿の登山』

と振り仮名を振っています。

ただし、『都名所圖會』や、『都名所圖會』が影響を受けたと考えられる『山州名跡志』では、「空鉢峯」「空鉢峰」に「くうはちのみね」と振り仮名を振っていますので、たしかに、江戸時代にはそのように読まれていたのかもしれません。
『都名所圖會』には、加賀白山を開いたことで知られる泰澄による、当地に伝わる空鉢の伝説も記していますが、これは鎌倉時代の『元亨釋書』(元亨釈書)に名前が見える「法道仙人」なる「飛鉢の法」を用いた仙人の伝説や、同種の伝説との関連性が指摘されます。
これはいわゆる「飛鉢譚」や「飛鉢の説話」などと呼ばれる種類の説話で、他の高僧にも見られるものです。
法道仙人は、やはり天竺の霊鷲山から渡来したとされる神仙で、広い地域の寺院で開基として扱われており、とくに東播磨地方や六甲山系ではよく知られていますが、俗に「空鉢(くはつ)(くばつ)」の「空鉢仙人(からはちせんにん)」と呼ばれて敬われていました。
当地における「くはち」の読みは、おそらく、「くはつ」か「くうはち」からの転訛(転化)だろうと考えています。

少しばかり調べてみましたが、現地に設置されている案内看板で、「空鉢の峰」に「くはちのみね」と振り仮名を振っているのが出元のようです。
ただ、その読みの根拠はこれだけではよく分かりません。
なお、この案内看板には「拾遺都名所図会は、北斗星の拝所地としている」と見えますが、上でも述べたように、北斗星の拝所としているのは『拾遺都名所圖會』ではなく『都名所圖會』です。
この件で『拾遺都名所圖會』としている記事等は、ご自身で底本をチェックなさっておらず、ただコピペ的に広めていらっしゃるだけだと考えられます。
追記終わり。

追記。
1888年(明治21年)の『役行者畧傳』(役行者略伝)によると、役行者が日本を去るにあたり、父母の恩に報いるため千基の石塔を空鉢が峯(くうばちがみね)に作り、その供養の導師として大唐(もろこし)の北斗大師を招いた、としています。
こういった役行者伝説も当地に影響を与えている可能性があります。
ただし、後世の役行者伝説に多大な影響を与えた、平安時代初期の『日本國現報善悪靈異記』(日本霊異記)における「孔雀明王ノ咒ヲ修シ仙トナツテ登天スル事」の段に、空鉢が峯や北斗大師の話は見えません。
平安時代後期以降に成立した『扶桑略記』にはベースとなりそうな話が見えます。
唐の仙人、北斗大師の名前が現れるのは、鎌倉時代初期に成立したとされる『諸山縁起』からだと考えられますが、それを受けた鎌倉時代中期の『私聚百因縁集』(百因縁集)では、この説話の舞台を大峯深仙の空鉢嶽(クウハツノタケ)としており、大峰山脈は大日岳の下に所在する「深仙宿」(深仙の宿、深仙ノ宿)に比定されます。
役行者に招かれた北斗大師なる仙人については、「大唐第三ノ仙人」とするのみで、詳細はよく分かりません。
漢籍にも名前は見えず、いわゆる八仙でもなさそうですが、もし、北斗星君(や、北斗真君と重ねて見られていた神々 [8])を指すのでしたら、「北斗星の拝所」とも通じるものがあります。
また、当地に限らず、「空鉢」の読みはかなり曖昧であることも伝わり、何が正しいと断定するのも困難でしょうか。
追記終わり。

空鉢峰の展望・眺望

山城中南部では最も高い山である鷲峰山からの絶景は古くよりよく知られており、正徳元年(1711年)の『山城名勝志』には、

「鷲峰山寺」
(前略)
塔北山頂上有寳篋印塔此地云空鉢江州勢州伊州和州河州當國不及云布一望中
(後略)
『山城名勝志』

と見え、空鉢峰からは、当国(山城国)は言うに及ばず、近江国、伊勢国、伊賀国、大和国、河内国を一望できる、とあります。
たしかに、この日、私は布引、室生、台高、それに琵琶湖を望んでおり、これは伊勢国、伊賀国、大和国、近江国を望んだといえるでしょう。

さらに、『都名所圖會』(都名所図会)には、

「鷲峯山金胎寺」
(前略)
抑此山は山城の高山にして北の方は帝城繞圍山々中にも比叡愛宕の嶺高く聳え
右手の方には琵琶湖の漫々たる水面雲に連なり三上鏡の翠巒は旭に鮮なり
弓手のかたは志貴生駒金剛山蒼天には西海の海原兵庫の洲崎淡路島山見はれ
あるひは摩耶六甲山の高根も只此巓より一眼の中に遮りて雙眸の客となりぬ
(後略)
『都名所圖會』

と見えます。

リズム感あふれる美しい文章、当時の光景が目に浮かぶようです。
こちらは『山城名勝志』とは異なり、伊勢国、伊賀国方面の展望、つまり、布引、室生、台高方面の展望については触れていないものの、京都を囲む山々、とくに比叡山と愛宕山が高く聳え、京都の右手には琵琶湖、三上山、鏡山、京都の左手には信貴山、生駒山、金剛山、それに、大阪湾や淡路島、摩耶山や六甲山までも鷲峰山から一望できる、とあります。
江戸時代の人が鷲峰山からの展望を正しく理解していたことには驚きます。

このように、江戸時代頃には無垠の眺望を誇っていた鷲峰山ですが、植林が進み、雑木も多く、また、かつては開けていたものの、その後、木の生長に伴い展望を失ってしまった場所も多く、近年に限れば展望は期待できない山だという印象を持つ方が多そうです。
ですが、台高山脈方面が開けた地点、琵琶湖方面が開けた地点だけではなく、京都方面が開けた地点、奈良方面が開けた地点、それに、大阪湾方面が開けた地点など、よく探せば、今でも鷲峰山からは多くの景色を望むことができます。

大阪湾、明石海峡大橋、淡路島を遠望

鷲峰山金胎寺 空鉢峰の展望 大阪湾、明石海峡大橋、淡路島を遠望 2014年2月
空鉢峰(鷲峰山)から大阪湾、明石海峡大橋、淡路島の夕景を遠望する。

主な山、建築物距離標高
(地上高)
山頂所在地
汐鳴山88.5km305.3m兵庫県淡路市
明石海峡大橋 南主塔85.5km(298.3m)兵庫県淡路市
旗振山19.2km344.9m大阪府交野市

表中、「距離」は撮影地点からの直線距離であり、鷲峰山の他の展望地から撮影した場合は変化します。

日没の直前、なんとか間に合いました。
この景色を撮影するため、他の展望地からの撮影は諦めたようなものです。
夕日に照らされた大阪湾が美しく、日没後の夕焼けも長時間にわたり楽しむことができましたが、あいにく、明石海峡方面は雲が多く、太陽が沈む姿そのものを眺めることはできず。

上の写真では北主塔(神戸市舞子側の主塔)が分かりにくいですが、木津川市に所在する三上山と並び、鷲峰山は京都府から大阪湾の海面(水面)、明石海峡大橋の橋桁まで見通せる数少ない山です [9]
写真には大阪湾海上交通センター、それに、淡路風力発電所の風車も写っていますが、後者は木の枝に遮られており、まず分からないでしょう。
手前に見えている旗振山は、交野山の南に所在する山で、交野市の最高峰でもあります。

上の写真の撮影地点からは、河内飯盛山と生駒山麓公園の間、竜間山のあたりでしょうか……、その向こうに「あべのハルカス」の上部が見えますが、木々に遮られるため、現状では明確に望むことができません。
近年になり、木々が伐採されて開けた別の展望地から、大阪湾、明石海峡大橋、淡路島、それにコスモタワーなどを見通せることを確認しています。
この日は慌ただしい山行となりましたが、いずれ、昔時に思いを寄せながら穏やかに景色を楽しみたいものです。

以上、2014年(平成26年)2月の話。

追記しておきますと、2015年(平成27年)10月末日に、その「別の展望地」から「明石海峡大橋の向こうに沈む夕日」の写真を撮影できました。
時間の都合で放置しています(他所に写真だけ掲載しておきました)が、いずれ、記録として残せればと考えています。

主だった地点から撮影を終え、もう広まっても構わなくなったので、こっそり書いておきますが、京都府から明石海峡大橋の主塔を実際に見通せる最遠望地点は醍醐山地の山々です。
2013年~2014年頃に熱心に訪れて写真を撮影していました。

鷲峰山 空鉢峰(地理院 標準地図)

クリック(タップ)で「空鉢峰」周辺の地図を表示
「空鉢峰(カラハチノミネ)(からはちのみね)」
あるいは総称として「鷲峰山(ジュウブザン)(じゅうぶざん)」
標高682m
京都府相楽郡和束町(山体は綴喜郡宇治田原町に跨る)

「大道神社(オオミチジンジャ)(おおみちじんじゃ)」
京都府綴喜郡宇治田原町立川宮ノ前 付近
「金胎寺(コンタイジ)(こんたいじ)」
京都府相楽郡和束町大字原山 付近

脚注

  1. 一般的に、金胎寺さんの山号としての鷲峰山は「じゅぶせん」、あるいは「じゅうぶさん」と読まれますが、新版の地理院地図では、山としての鷲峰山に対し「じゅうぶざん」と振り仮名を付けており、「さん」ではなく、「ざん」と濁音読みしています。地理院さんにおける「~山(せん)」の読み方は一定せず、兵庫県最高峰である氷ノ山(ひょうのせん)の一等三角点「氷ノ山」の点名の読みを「ひょうのやま」としていながら、扇ノ山の二等三角点「扇ノ山」の読みは「おおぎのせん」、鳥取県最高峰である伯耆大山(弥山)の三等三角点「大山」の読みは「だいせん」としています。[]
  2. 京都地方気象台による区分では山城中部ならびに山城南部にあたります。[]
  3. ただし、森林太郎(森鷗外)(森鴎外)による、宮内省図書寮の『帝謚考』(帝諡考)では、伏見院が落飾した地は伏見殿(離宮伏見殿)だろうとしています。伏見天皇は多作の歌人としても知られますが、詞書に「伏見にて」とある「ふしみ山かすむたのもになくたつのこゑのとかなる春のひくらし」などの歌を残しています。永仁6年(1298年)7月に後伏見天皇に譲位する形で退位、正和2年(1313年)10月15日に伏見殿に御幸、同17日に御出家、それ以降も法皇として(伏見から八幡を参詣するなど)各所を頻繁に御幸していますので、「正和年間に隠遁」説には疑問が残ります。文保元年(1317年)9月に持明院殿で崩御。他には、兵庫県姫路市八代御茶屋町にも伝伏見天皇離宮址があります。[]
  4. 正応5年(1292年)が壬辰の年。正応6年(1293年)8月5日に永仁と改元。干支の年にずれがある理由は不明。[]
  5. ただし、国土地理院が提供する「基盤地図情報(数値標高モデル)5mメッシュ」(DEM5A)では、空鉢峰の標高が約684m、標高点684m峰の標高が約679mで、両者の高さ関係が逆転してしまい、けっきょくのところ、空鉢峰が和束町の最高地点となります。[]
  6. お釈迦様が法華経を説いたとされる伝説的な霊山でしたが、現在ではインド北東部のビハール州に所在する山に比定されています。サンスクリットでは”Gṛdhrakūṭa” で、ハゲワシの山の意味。京都東山の霊山など、霊鷲山由来と考えられる日本の山名は多く、あるいは比叡山も「鷲の山」と呼ばれていました。[]
  7. 同じ図題の木版画が何種類かあり、それぞれ図案が異なりますが、ここで取り上げるのは寛政年間のものとされる図です。[]
  8. かつては北極紫微大帝(北斗真君)と北斗星君は分けて考えられていました。[]
  9. 現状では見晴らしがよくないため、明確な展望は期待できませんが、もし、状況に変化があれば、宇治田原町に所在する大峰山・荒木山、久御山町に所在する六石山、京田辺市に所在する甘南備山、京田辺市と奈良県生駒市の府県境に所在する千鉾山(旗振山)、井手町に所在する駒留山(飯盛山)、木津川市と和束町の境に所在する北山、和束町と南山城村の境に所在する三ヶ岳、南山城村と滋賀県甲賀市の府県境に所在する牛塚山などから遠望できる可能性もあるでしょう。[]

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2 件のコメント

  •  わたくし、50代の男性会社員です。
    盆休み最終日昼下がりのメールです。今後頻繫にメールすることはないと思います。
     さて本文ですが、
    鷲峰山からの眺望で比叡山・琵琶湖・大阪湾の眺望について触れられていますが、
    富士山可視マップ(田代博 氏)によると、富士山まで見られる可能性もあるのではないでしょうか。
    実際には東方向には眺望は開けていないのでしょうか?
    富士山が見られた実績があるのなら、大阪から最も近くで富士山が見られる場所として、
    いつかは足を運んでみたいと思います。

    • コメントありがとうございます。
      あくまでも計算上では鷲峰山の一部山域から鈴鹿山脈の低所を越えて富士山の山頂域を見通せる、可能性がある、ことになっていますね。
      実は、私も何度か冬場に訪れてチェックしていますが、実際のところは難しいようです(厳密に申し上げれば、ごく一般的な気象条件下で、一般的な人間の視点=立脚点から、それと分かる形で明確に望むのは困難だと考えられます)。
      また、コースを外れて山に踏み入るのは(可罰的違法性があるかは別として)法に触れる可能性を指摘される行いであることにも留意が必要でしょう。

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    Maro@きょうのまなざし

    京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!