狐子坂(狐坂)の夜景と生駒山の花火 京都の子年の山 木列坂

2016年(平成28年)8月25日、京都タワーLEDライトアップの試験点灯が行われた日。
生駒山上遊園地で開催されるファイアーリュージョンと合わせて撮影するため、生駒山と京都タワーを結んだ直線の延長線上に位置する京都市左京区松ケ崎の狐子坂(狐坂、きつね坂)を訪れました。
狐子坂は松ヶ崎の京都盆地側から岩倉盆地側へ越える峠道で、峠の北東には宝が池(宝ヶ池、宝ケ池)や国立京都国際会館が所在します。
山としては松ヶ崎西山と松ヶ崎林山の間を通じており、いわゆる「五山送り火」(京都五山の送り火)の「妙」と「法」の間にあたります。
林山の東にはドンドコ山と呼ばれる山域があり、そのさらに東に松ヶ崎東山や松ヶ崎城山が連なります。
松ヶ崎を東西に連なる山域全体としては「虎ノ背山」(虎の背山)と総称するそうです。

狐子坂の峠道そのものではなく、峠の東側の山中に見晴らしの良い岩場があり、ちょっとした展望地となっています。
この岩場には、南の京都盆地側(地下鉄松ヶ崎駅や宝が池公園少年スポーツ広場側)にあたる岩上神社さんの付近から登ることも、あるいは北の岩倉盆地側(地下鉄国際会館駅や狐坂駐車場側)にあたる宝が池から登ることもできますが、この日は後者を選びました。
花火の開始時刻まで時間に余裕があったので、少しばかり宝が池で写真撮影を。

宝が池 寝子ヶ山(京都の子年の山)

夜の宝ヶ池と寝子ヶ山(ねねがやま) 京都市左京区 2016年8月
夜の宝が池(宝ヶ池)と寝子ヶ山(ねねがやま)。京都市左京区。
京都で子の方角(北)に位置する山と見なせるでしょう。

写真は強引に明るく撮影していますが、すでに日没後。
宝が池の南端、「野鳥の森」付近から北を向いて撮影しています。
対岸は池の北縁(北端)にあたる「寝子ヶ山」で、この山の東に国立京都国際会館が、西に菖蒲園が所在します。
「寝子ヶ山」は「ねこがやま」ではなく「ねねがやま」と読み、猫の山ではなく子の山です。
地理院地図では無名の小ピークですが、都市計画基本図には「寝子ヶ山」の山名が見え、その標高は134.4m。
京都では珍しい子年(ねどし)の干支の山といえますが、知名度はきわめて低く、現状、山上は立入禁止となっていることから、地元の方以外には知られていないようです。
ただし、いわゆるネズミさんを直接的に指し示しているわけではなく、古くは片仮名の「ネ」を「子」と表記しましたので、その名残でしょうか。
明治時代の松ヶ崎村北部の字名(字地)に「子ルケ山」と見え、この「ネルケ山」は寝子ヶ山を指すようです。
「子」は「ネ」ではないかの件は、記事後半の狐子坂の話(や、小野篁の話)へと続きます。

狐子坂の上の展望地にはどこからでも取り付けますが、「野鳥の森」からであれば松ヶ崎林山(標高点171m)を経由するコースや、その山頂を北に巻くコースなど。
「野鳥の森」の西側のハイキングコース(宝ヶ池トレイルコース)や、あるいはさらに西、宝が池の南西端には駐車場があり、その奥の梅林園から階段を上っても展望地へ行けます。
後者ほど楽な道のりですが、いずれにせよ現地には展望地へ導く道標のようなものはなく、こちらでも詳しくは述べません。
道中の危険箇所には補助ロープが備わっていますが、夜間は岩場の上から滑落しないように注意しましょう。

京都市左京区 狐子坂(狐坂、きつね坂)の展望

京都タワーと生駒山上の花火を遠望

生駒山上遊園地ファイアーリュージョン花火と京都タワーライトアップ試験点灯を遠望
生駒山上遊園地のファイアーリュージョンと試験点灯で青い京都タワーを狐子坂から遠望する。
撮影地点の京都市左京区松ケ崎狐坂から生駒山上遊園地まで約43km。

この日の生駒山周辺は悪天候で、イベントも中止されるかもしれないと考えていましたが、無事に上がった花火が狐子坂の上から見えていました。
より遠くの夜空では幕電(雲内放電)が起きており、紀伊山地の高峰は雷雨が降っていたと推測しています。
手前に見えているのは試験点灯で塔体がブルー系の色で照らされた京都タワーです。

生駒山上の花火とピンク色にライトアップされた京都タワー 2016年7月

京都タワーを好きな色でライトアップできるように 2016年9月

2016.09.01

私が「どこから」生駒山上の花火と京都タワーを撮影したか、前回の記事でクイズを出しておきましたが、よもや、あの写真の位置関係だけで正解なさる方がいらっしゃるとは思いもよらず。
素晴らしいです。

京都タワーは約1分おきに次々と色が変化していました。
ですが、遠くからの視認では微妙な色の違いが分かりにくく、同じようなピンクや紫でも細かな差があることに気付けないままでした。
京都タワーさんの公式サイトによると、たとえば紫系であれば、「パープル」「真紫」「青紫」の3種のバリエーションが存在するようです。

当夜、撮影した動画を改めて確認してみると……、

生駒山上遊園地の花火と試験点灯で色が変化する京都タワーを狐子坂の上から動画で撮影。
約1分40秒。音声無し。

動画ではピンク系→紫系(パープル系)→ピンク系と移ろっていますが、冒頭のピンクと終盤のピンクは明確に異なる色だと分かります。
ピンク系には「ピンク」「うすいピンク」「ショッキングピンク」の3種があるようですが、動画で見るかぎり、終盤が「うすいピンク」でしょうか。

…すっかり京都タワーの話に夢中に。
大阪平野外縁では高い山上での催しということもあり、計算上、ファイアーリュージョンの火は恐ろしく遠くから見通せます。
ただ、遠望に適さない夏場という季節であることを踏まえると、わざわざ無理に遠出してまで撮影するようなものでもないでしょう。
間近で観賞するに越したことはありません。

京都の夜景

京都市左京区 狐子坂(きつね坂)の夜景 京都西山、紫色の京都タワーを展望 2016年8月
狐子坂(狐坂、きつね坂)の夜景。京都西山、紫色の京都タワーを展望。京都市左京区。

主な山、建造物距離標高
(地上高)
山頂所在地備考
生駒山42.8km642.0m奈良県生駒市
大阪府東大阪市
生駒山地最高峰
鳩ヶ峰20.8km142.4m京都府八幡市
天王山19.4km270m京都府乙訓郡大山崎町
大沢山
(向谷山)
20.2km478.2m大阪府三島郡島本町
ポンポン山
(加茂勢山)
19.4km678.8m京都府京都市西京区
大阪府高槻市
小塩山16.7km642m京都府京都市西京区
京都タワー7.7km(131m)京都府京都市下京区

眼下に狐子坂の車道を往来する車やバイクが見えており、写真にも軌跡が写っています。
夜の京都や、西山の山並み、鳩ヶ峰や天王山の向こうは大阪方面。
標高が低いため高度感に欠けますし、近くの松ヶ崎東山(送り火「法」の字跡の山)と異なり、大阪のハルカスさんも見通せませんが、なかなか美しい夜景ではないでしょうか。

キツネザカ(きつねざか)の話

狐坂の由来 狐? 狐子?

「狐子坂」は「狐子」の2文字で「キツネ」と読み、これは先ほどの「寝子ヶ山」を「ネコ」ではなく「ネネ」と読むことに通じています。
国土地理院の地形図では陸地測量部時代から一貫して「狐子坂」の表記ですが、住所地名としては「京都市左京区松ケ崎狐坂」で「子」が入りません。

元禄3年(1690年)の『名所都鳥』では、

「狐坂」
松が崎より岩倉に越る道也。
『名所都鳥』

としており、やはり「子」は入りません。
『名所都鳥』では「狐」に「きつね」と振り仮名を振っており、1文字で「キツネ」と読むことが分かります。
ここで『名所都鳥』を引いたのは読みが明示されているからですが、これより先んじて刊行された地誌、たとえば『扶桑京華志』や『雍州府志』でも同様の内容と表記です。
「松ヶ崎から岩倉に通じる峠道」として頻繁に名前が挙がるものの、こういった江戸時代前期頃の史料では「狐」の由来までは明示されていません。

松ヶ崎には古くからの友人がおり、私自身、学生時代には坂を越えて宝が池を訪れていましたが、会話(口語)では「キツネザカ」と呼んでいただけで、どのような綴りであるか意識することはなく。
先の「寝子ヶ山」「子ルケ山」を見ても、当地において、「子」の字で「ネ」とする地名があるのは確かなようです。

京都市:市道宝が池通(狐坂工区)の整備
https://www.city.kyoto.lg.jp/kensetu/page/0000012834.html (リンク切れ)

どうやら京都市でも「狐坂」の表記を採用しているようですね。
しかしながら、本件に限らず、現代における地名について、当サイトでは国土地理院の成果である地理院地図の表記を優先しますので、「狐子坂」としておきます。
すでに新道(新設された車両専用道)が通じて10年の月日が流れましたが、かつての狐子坂は南に膨らむヘアピン・カーブが特徴的な峠道でした。
その旧道を昔は京都市バス(京都バスではなく市営バス)が通じており、この市バス路線を利用して幼少時に家族で宝が池を訪れたことがあります。
道中、狐子坂の大きなカーブで揺られ、腰掛けていた座席から転がり落ちたことを今でも覚えています。
その日、宝が池で何をしたかの記憶がほとんど残っていないところを見ると、狐子坂の事件はよほど印象に残る出来事だったのでしょう。
「北~」号というバス系統に乗車したことは記憶していますが、はたして何号だったか……。

追記。
この市バスはおそらく北4号系で、北大路駅から洛北高校前~松ヶ崎道~(旧・狐子坂~宝池トンネル~)宝ヶ池公園北口を経由して岩倉方面へ向かう路線でしたが、前世紀の終わり頃に廃止されたようです。
72号系を前身としていますが、元々がマイナな路線ですので、今となっては覚えている人も少ないのではないでしょうか。
追記終わり。

別に追記。
当時、口頭では間違いなく「キツネザカ」と呼んでいましたが、国土地理院の「電子国土基本図(地名情報)」のうち、「住居表示地名」データを確認してみると、住所としての「松ケ崎狐坂」の読みを「まつがさききつねさか」としています。
これにしたがうと、どうやら住所表示の場合は「キツネザカ」ではなく「キツネサカ」のようですが、どなたに聞いても「ザカ」では? という反応しか。
続いて、「電子国土基本図(地名情報)」のうち、「自然地名情報」を確認してみると、なんと、「狐子坂」の読みを「きつねこざか(Kitsuneko Zaka)」としています。
「深泥池」の読みを「みぞろいいけ(Mizoroi Ike)」としていたり、「電子国土基本図(地名情報)」のデータは、少なくとも読みについては、あまり信用できません。
「深泥池」については、「みぞろがいけ」か、あるいは「みどろがいけ」の読みが適切です。
追記終わり。

木列坂(きつれざか)

長くなるので避けていましたが、いわゆる「木列坂」について追記。
ある一説が、さも歴史的事実であるかのように断定的に広まるのは適切とはいえない(公平とは思えない)ので、こちらでも紹介しておきます。
ここでは「狐子坂」ではなく、古文に見える「狐坂」の表記を優先します。

先の『名所都鳥』よりやや遅れ、正徳元年(1711年)の『山州名跡志』に、

「櫻井里(サクラヰノサト)」
或書に松崎にありと云云。松崎東西一村の外無別名。古老云櫻井といふは、村の西北岩蔵に到る坂の前、右の路傍に山神と號して社あり。其西に少き淺井あり。是櫻井の跡也と云云

堀川百首
見わたせは春のけしきに成にけり、霞たな引櫻井の里
顕季

夫木集
花を見し春の錦の名殘とて、木葉色つく櫻井のさと
爲家

右之和歌暫載之。櫻井里は當所の舊號なる歟。但別處なる歟。不決。

「木列坂(キツレザカ)」
櫻井西北の坂也。是より石藏幷御菩薩池等に到る。今狐坂といふは誤歟。古老説古此山繁茂せり。此故に實は木摺坂といふと。然ども石藏大雲寺境界證文古記に限木列坂の文あり。此坂をいふ。今猶此坂の北より石藏領也。

『山州名跡志』

と見えます。
これに限らず、やたらと『山州名跡志』を引用する天明7年(1787年)の『拾遺都名所図會』(拾遺都名所図会)もほぼ同じ内容です。
「石藏」は岩倉(石蔵)、「石藏大雲寺」は(かつては)寺領広大だった大雲寺さん、「御菩薩池」は深泥池。
これも長くなるので控えますが、『山州名跡志』で「石藏山大雲寺 院號實相院 法親王門主御住持」と見えるように、この当時の大雲寺は実相院門跡ときわめて関わりが深く。

「(木列坂を)今狐坂といふは誤歟」、この「歟」は疑問形の「か」を意味する助字で、つまり、「木列坂を、今、狐坂というのは誤りか」としています。
さらに、「この坂は実は木摺坂という」とする地元の古老による説を紹介した後、しかしながら、より古い時代の記録である、大雲寺の境界証文に「(寺領の境界は)木列坂に限る」と見えるので、「狐坂」説や「実は木摺坂」説を訝しんでいます。
かつては「木摺坂」だった地名が、後に「木列坂」に転じたのであれば、土地の境界証文でも「木摺坂」でなければおかしい、と言いたいわけです。

木列坂と合わせて語られる、いわゆる「桜井の里」についても同様で、「ある書に桜井の里は松ヶ崎にあるというが、(この当時、)松ヶ崎は東西一村のほか別の名が無い」としたうえで、『山州名跡志』では、六条顕季(藤原顕季)や藤原為家の古歌に見える「櫻井の里」について、「桜井の里は当所の旧号なるか、ただし別処なるか、決められない」としています。

家集さくら井の里(櫻井、山城或攝津)
西行上人
こせりつむさはのこほりのひまたえてはるめきそむる櫻井の里


實方朝臣
秋風のふくにちりかふもみちはを花とはおもふさくら井の里

家集名所歌
權中納言長方
さくら井の里にて春のはなをみて秋はかつらのつきをなかめん

弘長四年(毎月)一首中
民部卿爲家
花をみし春のにしきのなこりとて木葉いろつくさくら井のさと
『夫木和歌抄』

鎌倉時代後期に成立した『夫木和歌抄』(夫木集)において、「さくら井の里」4首の頭注では、歌枕としての「櫻井」を「山城或攝津」としており、摂津国に所在する可能性も指摘されます。
摂津の桜井は、楠木父子別れの場面で知られる桜井駅(現在の大阪府三島郡島本町桜井)。
戦前教育の影響はあまりに大きく、近現代では「桜井の里」といえば摂津との印象が強くなりましたが、明治天皇御製歌のように、明確に摂津の「桜井の里」を詠んだ歌を除けば、山城の可能性もあります。
また、古くは水無瀬川を山城と摂津の国境と見ていた時期があるようで、(歌枕としての)水無瀬川を山城の歌枕とする歌論書と、摂津の歌枕とする歌論書に分かれます。
これは「桜井」の所属にも影響を与えた可能性があります。

『夫木和歌抄』は、西行の「小ぜりつむ澤の氷の~」の歌を私家集『山家集』から引いていますが、『山家集』の同歌には詞書も無く、「題しらす」であり、所在は特定できません。
自撰の秀歌集と考えられる『山家心中集』にも収載されますが、扱いは同様です。
藤原長方(権中納言長方)は定家の従兄弟で、「続国歌大観」版の私家集『按納言集』(長方集)では、上の名所歌を「さくらゐの里にて春は花をみて秋は桂の月を詠めむ」として収めています。
藤原為家(民部卿為家)は定家の子で、『十六夜日記』の作者として知られる阿仏尼を愛したことでも知られます。
「桜井の里」の話も長くなりすぎますので、このあたりで止めておきますが、それぞれどの地を詠んだ歌か思いを巡らすのも良いでしょう。

大雲寺領の境界については、1911年(明治44年)の『京都府愛宕郡村志』で、「其寺域は當時の文書に限東安禪寺阪葛岡直道限西篠阪大道西端直道限南木列阪峠限北靜原氷室山とあり」としています。
「限北靜原氷室(山)」(北は静原の氷室山に限る)を見るかぎり、上高野ではなく、静原にも氷室があったのでしょうか?
「安禅寺阪」は分かりかねますが、「篠阪」は市原の篠坂ですね。

ただし、その「当時の文書」について、「實相院文書」(実相院文書)では、

勘錄

北石藏大雲寺於四至雖相交他領致(到)地頭文幷諸役檢斷堰料河水以下者可江爲寺管領之堺事

天祿三年 公驗

四至

限東 安禪寺坂菖岡 限西 篠坂大道西端 限南 木行坂垰(挊) 限北 靜原氷室山谷河越

右境等所被裁許大雲寺之也仍使廳勘錄狀如件

應德二年九月廿六日
左衞門尉安倍(部)賴重

と、「木列阪峠」ではなく、「大日本史料」版では「木行坂垰」、あるいは「古事類苑」版では「木行坂挊」としています。
これが同義であるのか、翻刻の誤りなのか、文書の原本を確認しないと判断できません。
「致」は「大日本史料」版で「到」ではないかと指摘しています。
「天禄3年」は平安時代中期の972年、「応徳2年」は平安時代後期の1085年。
証判を与えた左衛門尉の頼重は、「大日本史料」版では「安倍頼重」、「古事類苑」版では「安部頼重」。
応徳年間頃に衛門府や、おそらく検非違使の役人だったと考えられます。

「小野橋」「小野畷」
山鼻北南北芝橋是也。是より北方は花園・長谷等に到るなり。畷は北の橋爪を西に到る道也。其西は木行(キツレ)坂の北に出る。或説云、石藏の小野秋津とよめるは此所なるべしと云云。如前云小野といふ所、當國所々にあり。今此邊を小野橋(ヲノノハシ)・小野畷(ヲノナハテ)といひ、又石藏にも近し。又井蛙抄云、秋津の小野は大和、秋津野は紀伊國、石藏の小野の秋津は山城國と云云

「龜山(カメヤマ)」
木行坂を越て、石藏に到る道東西に二つの間あり。何も南北え長し。其形龜に類す。向南向北形あり。仍て出入の龜と稱す。出は右方南北二町許。入は左方南北三町餘。又同路傍北より流るゝ河、是長谷河也。

『山州名跡志』

『山州名跡志』でも、岩倉盆地側の記事で「木行坂」が見えます。
亀山は古い絵図にも描かれる出亀山と入亀山ですね。

また別の地誌では、大雲寺の境界証文に見える木列坂を、江戸時代に狐坂と呼ばれていた峠に当てはめる説そのものを疑問視しています。
『山州名跡志』より前、江戸時代前期の地誌では、先に引いたように「狐坂」とするのみです。
これについては昔から議論の的になっており、私としても本記事では深入りするのを避けていましたが、ここでは「木列坂」を世に広めたと考えられる『山州名跡志』を引いておきます。
「木列坂」に「きれつざか」と振り仮名を振っている記事等も見受けられますが、『山州名跡志』では「キツレザカ」としています。

平安時代中期の藤原明衡による、当時の世俗や風俗を描いた『新猿樂記』(新猿楽記)に、「野干坂伊賀專之男祭(きつねざか いがたうめのおまつり)」と見え、この「野干(きつね)坂」は現在の狐坂に比定されます。
したがって、平安時代の中期頃には「野干坂」があったのだから、木列坂は別の地を指す、とする指摘があります。
先に述べたように、古くは片仮名の「ネ」を「子」と書いていました。
たとえば、江戸時代後期の国学者、小山田与清による『松屋筆記』の84巻本や、国書刊行会版の活字本では、「野干坂伊賀專之男祭」の「野干」に「キツ子」と振り仮名を振り、これを京の狐坂としています。
『松屋筆記』は、ある単語や表現などについて、歴代の和漢籍から引いて考証や解釈を書き連ねており、類書的な性質が強い随筆です。
『新猿樂記』や「野干坂伊賀専之男祭」の話はやや性的に過ぎるので、今回は取り上げませんが、そういった話とはまた別に、松ヶ崎には狐にまつわる昔話が伝わっており、なにかしら、狐に関わる風習があったのではないかとも考えられています。
また、『源氏物語』の第五十帖「東屋」に「今更に伊賀專女にや」(今さら伊賀専女のようで)と見え、この「伊賀専女」(を狐とする説)については、古くから多くの人々の関心を集めていました。
そのため、類書的に書き綴った随筆では「伊賀専女」も取り上げられやすく、たとえば、1922年(大正11年)の細川潤次郎による『吾園随筆 賸(よう)編』でも、江戸時代以前に流布された既知の説に考証を加えています。
細川潤次郎は吾園を号した文学博士で、「古事類苑」の編修総裁を務めました。

北山の邊にまかりけるにみちしるべに人くべしと聞えけれど見えざりけるにきつねざかといふ所に馬にのりてはしらせていできたるをみて
中宮亮仲實
わづかにきつねざかにきたれり
つく
こうこうといひけるしるべはしらせて
『散木奇歌集』

平安時代後期の歌人、源俊頼による私家集『散木奇歌集』に「きつねざか」の歌が見えます。
上の句を詠んだ「仲實」は俊頼と親交が深かった藤原仲実。
仲実が北山のあたりを訪れた際、道しるべ代わりの道案内をする者もおらず、やっと狐坂に来た、ここでは「(わずかに=やっと、かろうじて)来つ」と「狐(坂)」がかかっています。
それに対し、俊頼は「こうこう」という狐の鳴き声を「来う来う」の呼び声に掛けて、それを道しるべとして狐坂まで走らせてきたと継いでいます。
よって、この歌が詠まれた平安時代の後期頃にも、北山にキツネを意味する狐坂が所在したことが分かります。
江戸時代になり、狐坂と呼ばれるようになったわけではありません。
古くは狐の鳴き声を「こうこう」と聞きなして、あるいは表現しており、いわゆる「コンコン」と同義です。
「来う来う」(こんこん)、あるいは「来う来」(こんこ)は、かつての幼稚園唱歌の「雪やこんこん」における「こんこん」や、今でもよく知られる童謡の「雪」(雪やこんこ)における「こんこ」と同義だろうと考えられています(後者は「来う此」説もあるようです)。
また、平安時代末期~鎌倉時代初期の歌人、『小倉百人一首』の撰者としても知られる藤原定家による日記、『明月記』の建保元年(1213年)7月2日条に「仍不參狐坂云々」と見えます。
この日、後鳥羽院(後鳥羽上皇)が狐坂に御幸なさったらしい。

少し補足しておきますと、インドや中国では、「野干(やかん)」は狐や狼と似てはいるが異なる獣(ベトナム・タイ以西に生息するキンイロジャッカルとされる)を指しますが、日本にはその獣が存在しないため、とくに狐に対して用いられるようになりました。
荼枳尼天と野干を重ねる真言密教の影響で、日本では豊穣を司る稲荷神と荼枳尼天が習合しましたが、一般的に荼枳尼天は白狐に跨る母神・天女の姿で描かれています。
平安時代初期の『日本國現報善悪靈異記』(日本霊異記)には、いわゆる狐を野干(ここでは狼とする)と重ねて表記する先例が見受けられます。
これは野干が美女に化け、美濃国の男性との間に子を成す異種間成婚型の説話で、その子孫を狐直氏(狐の直)としており、正体が露見した後も夫が愛する妻に共寝を請い(常に来たりて相寝よ)、妻もそれに応じた(来つ寝る)ことから、この「来つ寝」が「きつね」に転じたとしています。
この説話を見るかぎり、「寝子ヶ山」の地名にも何か意味があるかもしれません。
狐にまつわる物語や祭事は、古くは男女間の営みなどとも関わりがあるとも考えられていたようです。
時代が下がると、狐が人を化かしたり、妖狐が男性をたぶらかして精気を吸う狐媚譚へと性質が変化していき、狐に対してあまり良くないイメージも広がりました。
よく知られる九尾の狐と妲己の話は、平安時代末期の『本朝續文粹』(本朝続文粋)所収、平安時代後期の大江匡房による『狐媚記』(康和三年狐媚記)に見えますが、創作としては江戸時代後期の『繪本三國妖婦傳』(絵本三国妖婦伝)で詳しく語られます。
「悪意を持って狐が人を騙す」イメージは後に作られたもので、先の『日本霊異記』に見える説話は悪を描くものではなく、『三國相傳陰陽輨轄簠簋内傳金烏玉兎集』(簠簋内伝)(金烏玉兎集)の注釈書である『簠簋抄』や、『蘆屋道満大内鑑』における安倍晴明の出生譚(白狐の「葛の葉」と、人間の男性との間に生まれた子である童子丸を後の晴明とする)に影響を与えたと考えられています。

500年前の平安京を再現したという触れ込みで出版された寛政3年(1791年)の『花洛徃古圖』(花洛徃古図)には、つまり、設定どおりであれば鎌倉時代の地図となりますが、「松ヶ崎」の西部に「狐坂」が描かれており、その北には「八塩岡」「万年岡」が東西に並び、さらに北には「岩倉」「大雲寺」が描かれています(が、木列坂は見えません)。
八塩岡(八鹽の岡)(ヤシホノヲカ、やしおのおか)は紅葉の名所と歌に詠まれた地で、『山州名跡志』や、安永9年(1780年)の『都名所圖會』(都名所図会)などの描写を見るかぎり、長谷八幡宮さんの北、時尾(トキノヲ、ときのお)に連なる丘と考えられていたようです。
万年岡(マンネンヲカ、まんねんおか)の所在も見解が分かれているようですが、『山州名跡志』では「在大雲寺門前北一町許左。初の名は丸岡。」としており、この描写を信じるのであれば、『花洛徃古圖』の並びとは一致しないように思われます。
もちろん、『花洛徃古圖』はあくまでも往時の京都を描いたという設定の絵図であり、正確な地図ではありません(とくに、大雲寺は再建にあたり移転しています)。
『続群書類従』や『大日本仏教全書』に収録される、後世に撰略された「大雲寺縁起」に目を通すと、かつての大雲寺は多くの諸堂を抱える一大寺院だったことが伝わります。
それほど広大な寺領を誇った大雲寺も戦国時代には衰退しましたが、江戸時代前期に再興されました。
江戸時代前期の地誌には境界証文や「木列坂」の話が見えないのに、江戸時代中期以降の地誌に名前が出るのは、そういった事情(つまり、大雲寺や実相院門跡の再興による影響)もあるのでしょうか。
追記終わり。

小野篁の「子子子子子子」 片仮名の「子(ネ)」

これは余談ですが、鎌倉時代前期に成立した説話・物語集『宇治拾遺物語』に小野篁(おののたかむら)の話が収録されています。
古典の教科書などに載ることも多く、ご存じの方も多いでしょう。

「小野篁廣才事」
今は昔、小野篁といふ人おはしけり。
嵯峨のみかどの御時に内裏に札を立てたりけるに、無惡善と書きたりけり。
みかど篁に「讀め」と仰せられたりければ、「讀みは讀みさふらひなむ。されどおそれにて候へばえ申し候はじ」と奏しければ、「唯申せ」と度々仰せられければ、「さがなくてよからむと申して候ふぞ。されば君を呪ひまゐらせて候ふなり」と申しければ「おのれはなちては、たれか書かむ」と仰せられければ、「さればこそ申し候はじとは、申して候ひつれ」と申すに、みかど「さて何も書きたらむものは讀みてむや」と仰せられければ、「何にても讀み候ひなむ」と申しければ、片かなのねもじを十二書かせ給ひて、「讀め。」と仰せられければ、「ねこの、この、子ねこ、しゝの、この、子しゝ」と讀みたりければ、帝ほゝゑませ給ひて事なくてやみにけり。
『宇治拾遺物語』巻第三

(私による前半の現代語訳)
今となっては昔の話だが、小野篁という人がいらっしゃった。
嵯峨天皇の御世(平安時代初期)、内裏に札が立てられ、「無悪善」と書かれていた。
帝が篁に「読め」と仰せになられたところ、篁は「読むことは読みましょう。しかしながら、恐れ憚るので、その内容を申し上げることはできません」と申し上げると、帝は「構わないから申せ」と何度も仰せになられるので、「さが(ここでは生まれつきの性質を意味するサガを悪の字に当て、そのサガと嵯峨天皇が掛かっている)がなくてよいであろうと申しております。それで君(帝)を呪詛し奉ってございます」と申し上げたところ、「お前を除いて誰が書けるというのか」と仰せになられた(これを書いたのは、「無悪善」を読めた篁ではないかと疑った)ので、「だからこそ(疑われるだろうと考えていたので)申し上げることはできませんと申していたのです」と申すと、

ここまでが前振りですね。
この前段部分じたいは、平安時代後期に成立したと考えられる説話集『江談抄』の巻第三「嵯峨天皇御時落書多々事」ですでに見られます。
続いて、嵯峨天皇から「お前は(「無悪善」に限らず)書かれた文字ならなんでも読めるのか」と尋ねられ、「なんでも読めます(ので自分は立て札を立てた張本人ではない)」と弁明した小野篁に対し、それならこれを読んでみよと天皇が篁に示した「片かなのねもじを十二」は、もちろん、「子子子子子子 子子子子子子」の十二字で、篁は「ねこのこのこねこ ししのこのこじし」と答えたので、天皇はその答えに微笑み、この件でお咎めを被ることはなく、無事に終わった。
反復される「ねこのこのこねこ(猫の子の小猫)」の言葉遊びにおいて、「子」の読みに「ね」と「こ」が混在しているあたりに興味を惹かれます。
また、「片仮名のネ」が「子」文字であることも伝わり、これは狐子坂の「子」に通じるのではないかと考えています(もう少しはっきり書けば、狐子坂は狐ネ坂の意ではないかと考えています)。

同様の話が、江戸時代初期に成立し、京都で流行した小咄集『きのふはけふの物語』(昨日は今日の物語)などにも、(その頃にはもはや笑い話として)採録されています。
こちらでは、「無悪善」について、「たかむらよりはるかものしりさへゑよまぬ物を、此ものよみ申たるは、さだめて其たかむらのたてつらん(篁よりはるかに物知りさえ読めないものを、この者が読み示したのは、間違いなくそれを篁が立てたからだろう)」と考え、「御門げきりんなさるゝ(逆鱗なさるる)(「逆鱗」は天皇の怒りの意)」「るざいにおよびける(流罪に及びける)」としています(が、もちろん、その後で「子子子子子子」を読むことで免れます)。
『宇治拾遺物語』では、嵯峨天皇は(この件の前から)篁を高く評価していたように読み取れますが、『きのふはけふの物語』ではそうでもなかったような扱いですね。
小咄にするため、『一休さん』における将軍様(足利義満)のように、嵯峨天皇を難癖をつけるポジションに置いたのかもしれません。
嵯峨天皇は坂上田村麻呂を送って薬子の変(薬子の乱、平城太上天皇の変)を鎮め、名臣として名高い藤原冬嗣や、あるいは弘法大師空海を重用し、農地の開発を進め、書を嗜んでは「三筆」の一人に数えられるなど、後世においても高い評価を受けていたと考えられます。
その一方で、平城上皇との軋轢が薬子の変を招いたり、これは譲位後、嵯峨上皇の晩年の出来事ですが、遣唐使事業を風刺する漢詩を作った小野篁の官位をはく奪し、隠岐国への流罪に処した(後に赦免され復位)ことから、こういった話も生まれたのでしょう。
この漢詩(西道謡)は散逸しており今に伝わりませんが、『続日本後紀』に「其詞牽興多犯忌諱」と見え、避けるべき表現を故意に多用したことが問題視されたようです。
小野篁は文才に優れており、清貧な生活を送ったとされ、後世においては反骨精神の人としても知られていました。
当サイトでよく写真を掲載している西陣の雨宝院さんも嵯峨天皇と弘法大師ゆかりのお寺さんであり、その北西には小野篁と関わりが深い千本ゑんま堂さん(引接寺)があります。
あるいは北に上った紫野の地には小野篁と紫式部の墓所が並んでおり、時おりお参りしています。

きつねの歌

余談の余談。もはやただのメモ代わり。

縣(あがた)のものに狐つきたりし時
きつねならきつねならぬぞ心得ぬきつねにせよやきつねなりせば
其のち落ぬやらさたなし
『今日歌集』

江戸時代中期の幕臣、『見た京物語』の作者としても知られる狂歌師、木室卯雲の歌集『今日歌集』から。
念のために申し上げておきますが、この歌は狐子坂(狐坂)とは関係がありません。
反復法に掛詞を交えており、「その後、(狐つきが)落ちたであろうか、沙汰が無い」とする一文を添えていますが、私には解釈が難しいです。
蜀山人(大田南畝)の『奴師労之』(奴凧)では、「其のち落ぬやらさたなしとかけり此古注尤妙なり」と高く評価しています。
「きつね」は上でも述べた「来つ」や「来つ寝」だけではなく、「来つ音」や「き常」など、多くの掛詞、言葉遊びに用いられました。
たとえばの話ですが、「木摺=木擦れ(きすれ)」や「木列=木連れ(きつれ)」も、そういった駄洒落から生じたのかもしれません。

上の歌じたいは、鎌倉時代後期の『夫木和歌抄』に収載される一遍上人の釈教歌、「心よりこゝろをうるとこゝろえてこゝろに迷ふこゝろなりけり」「心をはこゝろの跡とこゝろえてこゝろのなきをこゝろとはせよ」を本歌とした諧謔ではないかと考えていますが、あくまでも私個人の見解です。
「心をばこころの跡(あと)とこころえて」の歌を「心をばこころの怨(あだ)とこころえて」とする版もあるようですが、国書刊行会版では「跡」としており、その底本である寛文5年(1665年)版本に「跡」の朱書きを入れています。

木室卯雲は「初午や地に白狐天にやつこ凧」の句も作っており、いわゆる「奴凧」はこの時期に始まったと考えられています。
「初午や地に白狐」で分かりますが、これは江戸における初午の稲荷詣りの光景ですね。
『見た京物語』でも、京の町には地蔵が多く、稲荷が多い江戸とは異なる、といったことを述べています。
狐がお稲荷さんの御使いではなく、稲荷神そのものと重ねられていた可能性について、民俗学者の柳田國男が「巫女考」で、「狐坂の伊賀専女」以来、狐を神として祭った例は無数にある、諸国の狐塚はその祭場である、関東では狐を「トウカ」「オトウカ」と呼ぶが、これは「稲荷」の音韻だといったことを指摘しています。
ウカノミタマと同一視されていた御食津神(みけつ神)を、過去に三狐神(みけつ神)と当て字で表したように、この考えは広まっていましたが、神と(獣である)狐を同一視することについて、「神威冒涜も甚だしい」と強く批判した書もあります。
現代の伏見稲荷大社さんでも、そうひどく目くじらを立てるほどの物言いはなさってませんが、そのような見解を示していらっしゃいます(→「稲荷勧請|伏見稲荷大社」)。

雨旦評
春駒
エレキテル玉藻の前の後に出來
『誹風柳多留 卅九篇』(柳樽)

文化4年(1807年)頃の狂句(川柳)。
謡曲『殺生石』の「玉藻の前が身より。光を放ちて。清涼殿を照らしければ。」の一節を踏まえて、日本に持ち込まれたエレキテル(により発生する静電気)を怪事と見なしていた風潮と掛けています。
玉藻の前や殺生石の伝説は、狐に対するイメージの形成に一役買ったと考えられます。

謎の光の正体は?(未解決)

さておき、生駒山上の花火も終わり、京都タワーの試験点灯も終わりが近そうで、そろそろ下山しようとして遠くを眺めてみると……。

青色の京都タワーと鳩ヶ峰(男山)周辺から放たれる謎の光を狐子坂から撮影 2016年8月
青色の京都タワーと八幡の鳩ヶ峰(男山)周辺から放たれる謎の光(照明)を狐子坂から撮影。
京都タワーのライトアップは淡いブルー系のようです。

八幡市の鳩ヶ峰(男山)の周辺から謎の光が上空に伸びていることに気付きます。
撮影時刻は20時34分前後。

撮影した写真をその場で確認後、改めて男山のほうを向いてみると、すでに照明は消えていました。
これは清水寺さんの「慈悲の光」(観音慈光)などと同様、それなりに強力なサーチライトのようにも見えます。
写真で見ても鳩ヶ峰の手前か奥か、あるいは山上の石清水八幡宮さんか、どこから放たれた光かよく分かりませんが、何か催しでもあったのでしょうか。
もし、八幡より向こうであれば、大阪側となります。

松ヶ崎東山(五山送り火「法」の山)から夜景を一望する 京都市左京区 2015年3月

松ヶ崎東山(妙法)登山 あべのハルカス、京都の夜景を望む

2015.03.16

過去に松ヶ崎東山(五山送り火「法」の山)を登った日の話は上の記事に。
狐子坂と異なり、東山からは大阪の「あべのハルカス」を見通せます。

白いカキツバタが咲く深泥池と裏山たる179m峰 京都市北区・左京区 2015年4月

深泥池の白いカキツバタと新緑の裏山ハイク 松ヶ崎高山

2015.04.29

狐子坂の西側の山(松ヶ崎西山や標高点179m峰)を越えれば深泥池ですが、現状、通行可能な場所が限られています。

虚空蔵山の法輪寺 駒虎と寒桜(カンザクラ) 十三まいり 嵐山

京都の寅年の山 虎ノ背山(虎山、虎の背山) 干支の山

2019.03.24

この付近の山域を総称して「虎ノ背山」と呼び、京都市では貴重な「寅年の干支の山」であるという話は上の記事に。

松ヶ崎 狐子坂(地理院 標準地図)

クリック(タップ)で「狐子坂」周辺の地図を表示
「狐子坂(キツネザカ)(きつねざか)」 別の表記として「狐坂」
標高約100m~
京都府京都市左京区

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Maro@きょうのまなざし

京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!