2013年(平成25年)9月の話。
この日はAさんとポンポン山へトワイライトハイキング。
今年も夏場に体調を崩した私のリハビリに付き合っていただきます。
ポンポン山は、広義の北摂山系でも、とくに京都西山(老ノ坂山地)にあたる山域の最高峰ですが、訪れるのは久々。
過去の山行記録を調べたところ、どうやら2010年(平成22年)4月以来のようです。
ポンポン山の出灰登山口(鬼語条橋登山口)。出灰川を渡り上山。
「← 中畑 2km → 出灰バス停 2km ↑ ポンポン山 1.6km」の道標。
この日は出発が遅く、すでに日没が近いということもあり、短時間で登頂できる出灰登山口(鬼語条橋登山口)から上山しました。
「鬼語条橋」は「おごんじょう橋」、あるいは「おごんじょ橋」と読みます。
1909年(明治42年)測図、1912年(大正元年)発行の正式二万分一地形図「大原野」では、地名としての「鬼條」の「鬼」に「オゴン」と振り仮名を振っており、この当時は「鬼條」で「オゴンジョウ」と読んでいたと考えられます。
もし、「おごんじょ」が正しい読みであれば、地形図で「鬼條」に「オゴンジョ」と振り仮名を振るでしょう。
ところが、難読である「鬼」のみ「オゴン」と振り仮名を振っていますので、明治時代~大正時代頃には「おごんじょう」と読まれていた可能性が高いと判断できます。
出灰では他に「上條」や「旦(ダン)條」といった「~條(条)」の小字も確認できます。
この橋が架かる出灰川は蜿蜒とうねる複雑な流れをしており、本来の源頭は京都市西京区側にあたる釈迦岳の山頂の北の谷で、ポンポン山の東や北を回り込み、西京区大原野外畑町に所在する西京都変電所の付近から出る支谷の流れを合わせます。
さらに、高槻市大字中畑から出る支流も合わせ、やがて、高槻市営バスの出灰停留所のあたりで田能川を合わせて芥川となります。
江戸時代中期に編纂された『日本輿地通志 畿内部』、いわゆる『五畿内志』の描写を見るかぎり、出灰(いずりは)側から見て、ポンポン山は古くは「出灰山」と呼ばれていた可能性が高そうです。
出灰のあたり、古くは出灰川の西岸が京都府南桑田郡樫田村、東岸が京都府乙訓郡大原野村で、かつては全域が京都府に属していました。
その後、1958年(昭和33年)4月1日に樫田村が大阪府高槻市に転出合併し、1959年(昭和34年)11月1日に大原野村が京都市右京区(当時)と合併したため、現在は出灰川の西岸が大阪府高槻市出灰、東岸が京都市西京区大原野出灰町となり、大阪府と京都府を分ける府境となりました。
また、南桑田郡が丹波国、乙訓郡が山城国に属したため、あまり知られていませんが、出灰川は意外にも城丹国境にあたります。
これについては、たとえば、1924年(大正13年)の『南桑田郡誌』に「芥川の上流は樫田村東方の部分に於て山城丹波両國の國境に利用せられ、河流が境界に利用せらるる事の一例を示せり」と見え、かつては国境であったことを裏付けます。
丹波国といえば、現代における京都府と兵庫県に分かれた印象を受けますが、実は大阪府にも編入されているのです(丹波国から大阪府に編入された地域は他にもあり)。
正徳元年(1711年)の『山城名勝志』における乙訓郡石作郷では、灰方村(現在の西京区大原野灰方町)と出灰は隔てた地といえども、氏神は同じであり、同じ日にこの神を祭る、出灰は灰方村領の山に有る、としています。
これはポンポン山や、その周辺がどこに所属したかの観点において、意味のある描写だと考えています(が、話が長くなりすぎますので、また別の機会に)。
鬼語条橋を渡り、一休さん(一休宗純)ゆかりの尸陀寺跡(しだじ)を横目に山を登り始めます。
出灰は古くより石灰の産地として知られており、地名はそれに由来しますが、一休さんは「出灰(いずりは)」と和訓の読みが通じる「譲羽(ゆずりは)」を山号としたようです。
四十九歳(嘉吉二年)
讓羽山(ゆずりはさん)に入り、尸陀寺を創設す
『一休和尚伝』
一休さんが出灰山に入ったのは49歳、嘉吉2年(1442年)とされます。
『一休和尚年譜』(東海一休和尚年譜)や『一休和尚伝』によると、大徳寺の如意庵を去った後、しばらく民家を借りて譲羽山に山居し、その地に尸陀寺を創建して山を下り、嘉吉3年(1443年)には京都の大炊御門室町畔にあった陶山公(久我清通、当時の源氏長者)の妾宅へ移りました。
この隠宅が、後の売扇庵と考えられますが、正確な所在地は不明。
久我家は村上源氏の嫡流で、『本朝通鑑』の嘉吉2年11月の足利義勝元服からの流れで「久我前内大臣源清通、大炊ノ御門」と見えます。
その後、文安4年(1447年)に大徳寺の僧が獄に繋がれる事件が起き、現状を憂いて一休さんは譲羽山に隠れ、断食による死を試みますが、後花園天皇の働きかけで帰京 [1]。
『一休和尚伝』には、そのさらに翌年、文安5年(1448年)4月に「蜷川新右衛門が逝く」 [2]とあります。
なお、現在の尸陀寺跡は、尸陀寺が創建された地点ではなく、山麓のやや開けた土地を見なし跡地として、御堂や石碑等を建立したものです。
実際には案内板が設置される地点より少しだけ山の上に所在したと考えられています。
病みあがりの私、登りは苦戦するだろうと予想していましたが、急坂を少し登っただけで息も絶え絶え、先が思いやられます。
先日の台風第18号により、大文字山や音羽山も大きな被害を受けたため、もしかするとポンポン山も……、と考えていましたが、出灰からのハイキングコースではとくに目立った崩落や倒木などは見当たらず。
標高600mあたりまで登ったところで後ろを振り返り、夕日の姿を探してみると、木々の合間に眩しい光が差しています。
「まだ日没に間に合うでしょうから、私のことは気にせず先に登頂してください」とAさんに申し上げましたが、私を置いてはいけないと判断なさったのでしょうか、一度は「もう今からでは間に合わないでしょうから……」と断られてしまいます。
そこをおして、「走っていけば間に合いますよ」と申し上げると、やや思案なさった後、Aさんは頷いて、「ではトレーニングのため走ってきます」と軽く駆け登ってゆかれました。
あっという間にその姿は私から見えなくなり、私も負けじと登ろうとしますが、気ばかり急いて、なかなか足が前に進みません。
この日の目的はあくまでもリハビリであることを思い出し、ゆっくりと歩を進めます。
けっきょく、登山口から1時間ほどの時間を費やして私も登頂。
日没後、ポンポン山の山名標越しに愛宕山を望む。
撮影地点から愛宕山(京都市右京区)まで13.9km。
右のピークが愛宕山で、左のピークが地蔵山。
「19.3」なら「いっきゅうさん」ですが、愛宕山までの直線距離は13.9kmです。
私の記憶にあるポンポン山の山名標は、小数点が薄れて「6789m」と読める洒落たものでした [3]。
ところが、久々に訪れてみると、そう誤読しないように配慮したのでしょうか、新たな山名標が設置されていました。
もっとも、国土地理院の成果によると、ポンポン山の現在の標高は678.82mであり、古い値である678.9mのままとなっているのは手落ちといえるかもしれません(→「測地成果2024」により、678.73mと改定)。
この山の旧称は「カモゼ山」とされており、それが「ポンポン山」と呼ばれるようになった理由は複数の説があります。
一般的によく知られているのは足音ポンポン説ですが、実は、山麓の催しに由来する説があり、現代において、この説は全くといってよいほど知られていません。
聞き取り調査による記録として残る話ですが、それですら、あくまでもそういう説もある、といった程度です。
こういった話も、そのうち、話の種にできればと考えていますが、いつになるかは分かりません。
なお、二等三角点「加茂勢山」の「点の記」では、1901年(明治34年)の設置当時から一貫して「加茂勢山」に「かもぜやま」と振り仮名を振っており、よく言われる「かもせやま」の読みではありません。
この点名は設置時における所在地の小字(京都府乙訓郡大原野村大字小塩字加茂勢山)に由来すると考えられます。
私がポンポン山への登頂を果たした頃にはすでに日は沈んでいましたが、Aさんは日没に間に合ったようです。
先に登っていただいて正解でした。
山頂は風が吹いており、あっという間に汗も乾きます。
少し休んだ後、すでに暗くなり始めたポンポン山でAさんと山座同定を楽しみます。
京都タワー、愛宕山、比叡山、音羽山、鷲峰山などが大きな手助けとなります。
9月も下旬とはいえ、まだまだ気温が高い日々が続いており、この日も展望には不向きな空模様。
さすがに遠くまでは見えそうにありません。
また、体力の問題もあり、この日は三脚は置いてきたため、手持ち撮影のみ。
真っ暗になってしまうと撮影は困難、その前に1枚だけでも日没後の風景を撮影しておくことに。
ポンポン山から京都南部の夜景を望む。
撮影地点から音羽山(京都市山科区、滋賀県大津市)まで21.4km。
ポンポン山は京都市西京区と大阪府高槻市の府境に所在します。
大雑把に申し上げて、手前には向日市、長岡京市などの街並みが、その向こうには京都市の南部、宇治市などの街並みが写っています。
左端、京都タワーはこの写真ではぎりぎりの位置で見切れています。
少し条件が良ければ、千頭岳の右遠方に金勝アルプスの山々、音羽山の左遠方(如意ヶ岳の右遠方)に「近江富士」三上山を遠望できますが、この日のもやもやした見え方でははっきりとは分かりません。
三上山の山影そのものは写っていませんが、湖南方面の街明かりは写っていますね。
ひとしきり日没後の景色を堪能したところでポンポン山ともお別れです。
登りと同じコースを利用して下山するのも味気なく、だからといって、釈迦岳を経由して長岡京や水無瀬へと向かう体力も今の私には無く。
杉谷地区や東海自然歩道を経由し、往時の姿を留めてはいませんが……、かつての「逢坂」、府道733号柚原向日線から大原野石作、長峯寺さん方面へと下ることにします。
こちらも大雨による影響のようなものはとくに感じません。
杉谷地区は三鈷寺さんや善峯寺さんの上、現在の住所地名で申し上げれば京都市西京区大原野小塩町の山間に所在する小さな集落で、標高としては約460~470m。
宝暦4年(1754年)の『山城名跡巡行志』では、三鈷寺の上の杉谷村から国境を越え、摂津国原村の本山寺へ向かう道のりを「本山越」としており、その道中に「カモセガ嶽」があるとしています。
私たちは出灰からポンポン山を登り、京都盆地側へ下りましたが、もちろん、大阪側(高槻側)の本山寺さんや神峯山寺さん方面から登るコースもよく知られています。
登りは苦戦しましたが、下りはさしたる問題もなくひと安心。
この夏、Aさんが縦走なさった八ヶ岳や北アルプスなどのお話を伺ったり、真っ暗な山中から星空を眺めたり、金蔵寺さんの上の夜景を楽しみながら、大原野灰方へ下山しました。
前述したように、三脚が無かったため、星空や夜景などの写真はありません。
そちらはまた別の機会に。
余談ですが、杉谷地区の先にある立入禁止の「世界平和祈念大宝塔」(西山宝塔)は2002年(平成14年)に建立されました。
この施設が西陣の妙顕寺さん ゆかりとは知らなかった。
後年、大阪の超高層ビル「あべのハルカス」などをポンポン山から撮影した話は上の記事に。
ポンポン山の山名の由来考も少し。
ポンポン山(地理院 標準地図)
「ポンポン山(ポンポンヤマ)(ぽんぽんやま)」
別称として「加茂勢山(カモゼヤマ)(かもぜやま)」
標高678.7m(二等三角点「加茂勢山」)
京都市西京区、大阪府高槻市(山体は大阪府三島郡島本町に跨る)
脚注
- 一休宗純を後小松天皇の皇子とする説にしたがえば、一休宗純は称光天皇の兄であり、経緯や関係が複雑ながら、後花園天皇の義兄とも見なせます。[↩]
- 「蜷川家系図」では「文安5年5月12日逝く」としています。この蜷川新右衛門は一休宗純に師事し、親交が深かった蜷川親当(智蘊)。アニメの『一休さん』でおなじみ「新右ヱ門さん」のモデルのひとり。ただし、親当はアニメ作品『一休さん』における「将軍さま」である足利義満には仕えていません。そのため、義満に近侍した伊勢貞行も「新右ヱ門さん」のポジション的なモデルと考えられます。伊勢氏と蜷川氏は縁戚関係(たとえば、貞行の次男とされる伊勢貞国の妻は蜷川親当の姉妹)。[↩]
- 8000ers.com が公開するリストで確認すると、K2 の東南東、あるいはGasherbrum I の東方に所在するMarpo Kangri峰が標高6789mらしい。人類未踏峰の一座。ただし、標高6830mとする記事もある。世界の標高6789m峰は他に2座あり。[↩]
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