今回も小ネタを。
私が書く記事は、大半の方々にとって、おそらくどうでもいい話の積み重ねで成り立っています。
伏見稲荷大社さんの裏山にあたる稲荷山の四ツ辻(見付の峰)から眼下に京都市南部の街並みが見えることはよく知られています。
さらに、四ツ辻から少し足を延ばした先、荒神峰の展望地からは、京都市南部の街並みに加え、遠く大阪の高層ビル群まで見通せます。
あるいは、四ツ辻から少し下がったあたりも見晴らしがよくなり、昔は見えにくかった生駒山まで見渡せるようになりました。
ですが、意外なことに、それらの展望地からは京都タワーを眺めることができません。
では稲荷山の周辺から京都タワーが見えないかといえば、そうでもなく、たとえば、四ツ辻に所在する有名な仁志むら亭(にしむら亭)さんの窓から京都タワーの上部が見えます。
また、稲荷山四ツ辻から荒神峰の西を巻いて京都一周トレイル東山コースを下る道、これを「御幸辺(みゆきべ)の道」と呼びますが、そのままトレイルコースを泉涌寺さん方面へ下らず、トレイルコースから岐れ、西へ「帰り坂」を下れば仲恭天皇陵(仲恭天皇 九條陵)、その下の月輪南陵(崇徳天皇中宮 皇嘉門院 月輪南陵)、さらに下れば東福寺さんに出ます。
あるいは、四ツ辻の下、いわゆる三ツ辻から少し逸れて北へ向かう古い山道を取っても仲恭天皇陵に着きます。
このコースは後述の説話にちなみ「式部の道」(和泉式部の道)とも呼ばれています。
月輪南陵の前から、あるいは、月輪南陵から少しだけ坂を登り、月輪南陵と仲恭天皇陵の中間地点のあたりは見晴らしの良い展望地となっており、比較的近い距離から京都タワーや、あるいは背後の愛宕山を望めます。
仲恭天皇陵の周辺は小高い丘となっており、地形図ではこのあたり 。
山としては「本寺山」と呼ばれる約90m小ピークですが、当然ながら山名標のようなものは設置できません。
東福寺さんの付近は京都市東山区と伏見区の区境にあたりますが、管理する宮内庁さんでは仲恭天皇陵の所在地を伏見区深草本寺山町としていらっしゃいます。
周辺の行政界は複雑に入り組んでおり、民間企業が公表する成果(地図)では仲恭天皇陵の所在地を東山区とする例も見受けられます。
地理院地図の境界線に従えば、ぎりぎりながら仲恭天皇陵の所在地は伏見区側(伏見区深草車阪町や深草南明町)にあたるものの、座標から住所を求めると東山区側にあたるため、本記事の下部に表示される地図では住所が東山区本町十五丁目となってしまいます [1]。
本寺山は伏見稲荷大社さんの裏山というよりも、どちらかといえば東福寺さんの裏山にあたる山域ですが、稲荷山四ツ辻や三ツ辻から5~10分程度で下ることができるため、稲荷山の周辺と見なしてもよいでしょう。
ただし、近い遠いで言えば、東福寺さんのほうが近いエリアです。
なお、今回の記事において九條陵は「仲恭天皇陵」の表記を優先しますが、これは地理院地図に従ったものです。
本件に限らず、当サイトでは地理院地図に表示される地名を(基本的には)優先しています。
仲恭天皇九條陵・皇嘉門院月輪南陵からピンク色の京都タワーと夕焼けの愛宕山を望む。
遠くが見えるような山、展望地ではありませんが、愛宕山を背負う京都タワーの姿は美しく。
京都タワーの塔体がピンク色に照らされているのは、「ピンクリボン京都2015」 に伴うイベントです。
今年、つまり、2015年(平成27年)は10月3日、4日の両日に行われました。
この特別なライトアップ、2013年(平成25年)は京都東山の大文字山から、2014年(平成26年)は京都西山の釈迦岳から眺めました。
今年もどこか山の上から眺めるつもりでしたが、土壇場で気が変わり、3日の夕暮れ時は京都タワーが見えない山の上で過ごすことに。
後で知りましたが、知り合いの方々が大文字山からピンク色の京都タワーを眺めていらっしゃったらしく、それなら私も大文字山を登ればよかったです。
さておき、明けて4日、つまり昨日は夕方まで忙しく、とても山を登る時間的な余裕がありません。
そこで、大した労力を払わずに京都タワーが綺麗に見通せる場所はないかと考え、久々に本寺山から京都タワーを撮影することに。
私が展望地に着いた時にはすでに夕日が沈んだ後でしたが、ちょうど、京都タワーの塔体がピンクに色づき始めていました。
伏見稲荷大社さんから稲荷山を経て訪れる場合は先に述べたとおりですが、下から訪れる場合は京阪電鉄さんの鳥羽街道駅から0.2kmほど北上し、東を向いて東福寺さんの参詣道を進みます。
長い坂道を上り、あとは道標に従い石段の道を少し登れば月輪南陵。
鳥羽街道駅から徒歩10分、1km未満の道のりです。
鳥羽街道駅の東には伏見稲荷大社さんの境外摂社である田中神社さんが所在しますが、かつては「田中明神」を称していました。
鎌倉時代中期頃に成立した説話集『古今著聞集』や『十訓抄』には、平安時代中期の女性歌人、和泉式部が伏見の稲荷神社へ参詣したお話が収録されています。
この説話は平安時代後期(末期)の藤原清輔による歌論書『袋草紙』(袋草子)に収録される「賎夫ノ歌」の話を参考にしたのでしょう。
先に『古今著聞集』について軽く触れておきます。
序文によると、『古今著聞集』の編者は散木士を称する橘南袁。
「南袁」は「南理須袁(なりすえ)」からいただいたもので、橘成季とされます。
『小倉百人一首』の撰者として知られる藤原定家の日記、『明月記』の寛喜2年(1230年)4月24日の条に、「右衛門尉成季」なる人物の名前が見え、「故光季養子。基成清成等一腹弟。」の割註が付されています。
橘氏とは明示されていないものの、この「右衛門尉成季」を橘成季として、橘光季の養子と見るのが、とくに近代以降の通説ですが、他の系図とは齟齬も生じます。
和泉式部、忍びて稲荷に参りけるに、田中明神の程にて、時雨のしけるに、いかゞすべきと思ひけるに、田かりける童の、襖(あを)といふものを借りて著て参りにけり。下向の程に晴れにければ、この襖をかへしとらせてけり。さて次の日、式部、端の方を見出してゐたりけるに、大やかなる童の、文もちてたゝずみければ「あれは何者ぞ」といへば「この御文参らせ候はん」といひて、さしおきたるを、ひろげて見れば、
時雨する稲荷の山のもみぢ葉は あをかりしより思ひそめてき
と書きたりけり。式部あはれとおもひて、この童を呼びて「奥へ」といひてよび入れけるとなん。
『古今著聞集』巻第五 和歌
和泉式部は稲荷を詣でた後、本寺山を下り、童に襖(ここでは庶民が着た上着)を返したと推測されており、このお話にちなみ、三ツ辻から本寺山へ至るコースを「式部の道」とも呼ぶそうです。
もちろん、当時は京都タワーは建っておらず、本寺山の山麓には東福寺さんも存在しません。
ですが、見えた山並みは現代と大差ないでしょうから、雨上がりの参詣道を歩いた和泉式部は雲がかった愛宕山を眺めたかもしれませんね。
この説話から派生して、後に謡曲「稲荷」が作られました(が、終盤以降の展開が大きく異なります)。
分かりやすいよう、謡曲「稲荷」では「(旧暦で)秋の頃」「(和泉式部が)紅葉狩の御時」と具体的な設定を加えていますので、まさに今これからの季節です(昔は現代より紅葉するのが早かった)。
ラブレターに記された「時雨する稲荷の山の~」の歌は、女性に対する恋慕の情を表しています。
「稲荷の山のもみぢ葉の青かりし(葉)」はいくつかの歌に詠まれますが、この歌では「青かりし」と「襖借りし」を掛け、歌を通して自分の恋心の色づきを表現しています。
この歌はよく知られていたようで、後世、「先に立つ丹波太郎や道しるべ」の俳句で知られる大伴大江丸が、『源平盛衰記』に描かれる(貞操を守って散った)袈裟御前の話と合わせ、高雄山で「はつ恋や袈裟も紅葉も青きより」の句を作りました [2]。
少年を可愛いと思った(興味を持った)和泉式部は家へ招き入れます。
(それが歴史的事実を正しく伝えているかは別問題ですが、)和泉式部が恋多き女というイメージは今も昔も共通するものがあったのでしょう。
この日の京都タワーの色にふさわしい艶っぽいお話でした。
…ちなみに、演目「頼光勲功往昔噺」では、和泉式部に対し、娘の小式部(小式部内侍)が「歌の情にほだされて操を破るのか」と泣きながら母を諫めます。
もっとも、これは明治時代に創作された脚本ですので、当時の社会的な倫理観などが反映されている点に留意する必要があるでしょう。
稲荷山の帰り坂、本寺山から桃色の京都タワーと京都の夕景、夜景を望む。
主な山、建築物 | 距離 | 標高 (地上高) | 山頂所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
京都タワー | 2.1km | (131m) | 京都府京都市下京区 | |
山上ヶ峰 (北松尾山) | 12.6km | 482.2m | 京都府京都市西京区 | |
牛松山 | 17.6km | 636m | 京都府亀岡市 | 丹波富士 |
愛宕山 | 16.1km | 924m | 京都府京都市右京区 | |
地蔵山 | 17.9km | 947.3m | 京都府京都市右京区 | |
竜ヶ岳 | 17.3km | 921m | 京都府京都市右京区 | |
朝日峯 | 16.6km | 688.1m | 京都府京都市右京区 | |
沢山 | 11.3km | 515.6m | 京都府京都市右京区 |
昨日は日没後の夕焼けがなかなか鮮やかでした。
京都タワーがオレンジ色にライトアップされる日であれば、橙色の夕焼けと映えるかもしれませんね。
上の写真は、いずれも仲恭天皇陵と月輪南陵の間から撮影していますが、構図としては上の写真に写る範囲が撮影地点から見える範囲の大半です。
少し下って北を向けば、比叡山四明岳の山頂部のみが見え、京都北山の稜線も見えやすくなりますが、京都タワーの下部が隠れ、京都駅の周辺も見えなくなります。
また、月輪南陵の奥、防長藩士崇忠碑や鳥羽伏見戦防長殉難者墓の裏にあたる南側の山道を下れば京都西山の山々を一望できますが、京都タワーは見えません。
全て、つまり、比叡山、北山、愛宕山、京都タワー、西山を本寺山の同じ地点から同時に眺めることはできず、いずれも視界が限定されます。
幼くして承久の乱に巻き込まれた仲恭天皇は、歴代で最も在位期間が短かった天皇として知られます。
仲恭天皇の諡号は明治政府による後付けで、それまでは「九条廃帝」や「後廃帝」などと呼ばれていました。
「九条廃帝」は、承久の乱の後、母(九条立子)の実家である九条家に引き取られたことに由来し(その後、17歳で崩御するまで九条家で暮らした)、「後廃帝」は、先の廃帝、「淡路廃帝」とも呼ばれた淳仁天皇に対しての「後」。
他にも、「承久の廃帝」や「半帝」、あるいは単に「廃帝」とも扱われており、一定しません。
明治政府により、九条陵の地が御陵と治定されるまでは、伏見街道の東(現在の東山区本町十六丁目)に所在した「廃帝社下円丘」で仲恭天皇がお祀りされていたようです(東山本町陵墓参考地)。
1877年(明治10年)の『諸墓一覽表』(諸墓一覧表)に、「廢帝社下圓丘」の所在地について、「山城國紀伊郡」「伏水街道塚本町」の「稱塚本社(塚本社と称す)」と見えます。
円丘に所在した「廃帝社」(塚本社)の神霊は、この1877年に五条坂の若宮八幡神社さんに遷され、そちらに仲恭天皇は合祀されました。
若宮八幡神社さんは、1949年(昭和24年)に椎根津彦命(陶祖神)を合わせたことにより、現代では陶器神社として知られます。
皇嘉門院(藤原聖子)は崇徳天皇の中宮で、崇徳天皇をお祀りする白峯神宮さんをよく参拝し、崇徳天皇と関わりが深い大原の金毘羅山をよく登っていた私にとっては縁がある方とも言えます。
また、私が時おり話の種にしている九条兼実や慈円の姉(異母姉)でもあります。
仲恭天皇の生母である東一条院(九条立子)は九条良経の娘で、つまり、九条兼実の孫。
したがって、仲恭天皇から見て、皇嘉門院は母方(九条家)の曾祖父の姉。
東福寺を建立した九条道家は東一条院の同母弟です。
以上、2015年10月の話。
稲荷山周辺の紅葉は上の記事に。
仲恭天皇陵(OpenStreetMap日本)
「本寺山(ホンジヤマ)」標高90m
京都府京都市東山区、伏見区
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