鬼ヶ城 福知山 京都 登山と風景 氷ノ山や愛宕山を遠望

昨年、2013年(平成25年)5月の話となりますが、福知山市に所在する鬼ヶ城を登山した日の話でも。
要は積み記事、積み写真の整理です。

鬼ヶ城(おにがじょう)は現在でこそ全域が京都府福知山市の山と言えますが、2006年(平成18年)の合併以前は福知山市(昔の天田郡が主体)と加佐郡大江町の郡市境を成した山で、令制国で言えば丹波国と丹後国の国境(両丹国境)にあたる山でもありました。
酒呑童子の伝承に由来し、古くは大江山千丈ヶ嶽(や、あるいは他の山)を指して鬼ヶ城とする史料もあるので紛らわしいですが、本記事で取り上げる「鬼ヶ城」は三段池公園の北に聳える鬼ヶ城です。
史料によっては「鬼ヶ城山」や「鬼城峯」といった表記揺れめいた呼称や、「鬼ヶ洞」や「鬼ヶ嶽」などの異名も。

三千代池
(前略)
鬼ヶ城へ登る道……、由良のせゝらぎをきゝながら音無瀨橋を渡つて氣持ちのよい松林を行くと、左に松の翠にちらちらと見え隱れする池が三反池です。厳島神社から勸請したと傳へられる辨財天の祠が池の中にあります。昔は此の池を三千代池と云ひました。
(後略)
『郷土ものがたり 第二輯』

今回の記事とは直接の関係はありませんが、三段池は旧称を「三反池」と言い、天田郡の『郷土ものがたり』によると、地元である庵我村猪崎の伝承では「三千代池」とも呼ばれていたそうです。

鬼ヶ城の歴史

江戸時代中期、享保19年から20年(1734~1735年)にかけて記されたと考えられる『丹後舊語集』(丹後旧語集)に「鬼ヶ城」の名前が見えます。

「鬼ヶ城」
丹後丹波の境也、山は丹後田邊領也、古城主は内藤備前と云南山村之者也、赤井惣右衛門と一戰して兵粮攻落城と云
岩穴口は二間廻り程有奥程狹室尾谷本堂より廿町山上也。
『丹後舊語集』

「内藤備前」なる武将は、戦国時代に三好家の家臣として、主に丹波攻略で活躍した松永長頼(内藤宗勝) [1]を指していると考えられます。
丹波天田郡の地は、戦国時代には丹波船井郡の内藤氏と丹波氷上郡の赤井氏との決戦の舞台となりました。
「赤井惣右衛門」は「丹波の赤鬼」と恐れられた悪右衛門直正(荻野直正)を指していると考えられます。

「赤井惣右衛門武勇の事」
赤井悪右衛門ハ本小身の士たりしが武畧を以て漸盛になりてのち丹波半國を領す
『常山紀談』(湯浅常山)

例えば、雑話集『常山紀談』において、目次では「赤井惣右衛門武勇の事」としていながら、本文では「赤井悪右衛門」としている版本が見受けられます。
ただし、版本によっては目次も「赤井悪右衛門武勇の事」としていますので、『丹後舊語集』も含め、そもそも、「惣」は「悪」の翻刻ミスの可能性も考えられるでしょう。
「悪右衛門」の由来には諸説ありますが、江戸幕府が編纂した『寛政重脩諸家譜』(寛政重修諸家譜)に「弱年の時、外舅荻野某謀叛を企るにより、直正是をうちとる。よつて惡右衛門と號す」と見えます。

通説としては、永禄8年(1565年)に起きた「横山城の戦い」 [2]、ならびに「和久郷の戦い」 [3]において、松永長頼(内藤宗勝)は赤井勢によって討ち取られてしまい [4]、この戦いで敗走した内藤勢の残党が鬼ヶ城に逃げ込んだとされます。
鬼ヶ城は赤井勢に与した天田郡の土豪の攻撃により落城したとされますので、『丹後舊語集』に見える話とは微妙に展開が異なりますね。
その後、鬼ヶ城は赤井氏の拠点となり、明智光秀の丹波侵攻に備えたとされます。

永禄八年
八月
昨日二日、於丹波内藤備前守討死云々、翌日三日ニ聞了、松永甚介ト云シ人、其後蓬雲ト申由仁、則霜臺ノ弟也、
『多聞院日記』

『多聞院日記』の著者も、霜臺(霜台)(松永久秀)の弟、内藤備前守が丹波において永禄8年8月に討死したと耳にしています [5]

のっけから話が大きく逸れました。
ちょっとした事情があり、近年、年に何度か鬼ヶ城を登っていますが、いずれも、どちらかといえば遠くを見るには適していない時期に訪れており、せっかく大展望を誇る山なのに惜しいものがあります。
それでも、昨年、2013年5月に登った際には兵庫県最高峰の氷ノ山まで明瞭に遠望できました。
せいぜい60km未満で、大した距離ではないとは申し上げても、5月という時期を考えると、なかなか恵まれていたと言えるでしょう。

その後、福知山市はさまざまな被害を受けたと聞き及んでおり、2013年以前の写真を今さら掲載することにはためらいもありましたが、記録として残しておくことに意味があるかもしれないと考えるに至りました。

京都府福知山市 鬼ヶ城ハイキング

鬼ヶ城、それに、その南に所在する烏ヶ岳は、福知山市側にあたる丹波下中(庵我小学校さんの付近)から林道河谷線(河谷林道)を経由して容易に訪れることができます。
それでは物足りず、ハイキングとして登るのであれば、やや大回りになるものの、旧大江町側にあたる南山室尾谷の観音寺さんから登るのが一般的でしょうか。

実質、1日1便のみなうえ、山野口から観音寺さんまで約30~40分ほど歩く必要がありますが、京都交通バス川北線(山野口行)、JR福知山駅前(北口)10時40分発、山野口11時13分着のバスを利用すれば、公共交通機関でも観音寺さん(や鬼ヶ城)を訪れることができます。
林道を利用して丹波下中へ下山すれば、庵我バスや徒歩で福知山駅まで戻るのも難しくないでしょうし、(季節にもよりますが、)時間配分に不安も生じません。

注意
上記は記事初稿時の時刻表です。
最新の時刻表は公式サイト でご確認ください。

山野口はかつての京都府何鹿郡佐賀村の一部にあたりますが、1956年(昭和31年)に福知山市と合併しました [6]
山野口(丹波)から小さな峠を越えれば大江町南山(丹後)です。

観音寺から鬼ヶ城を登山

ツツジ咲く観音寺 京都府福知山市室尾谷 2013年5月
ツツジ咲く観音寺さん。京都市福知山市。「鬼ヶ城 登山道入口」案内標。

観音寺さんは鬼ヶ城、烏ヶ岳への登山口にあたりますが、6月にはアジサイなどのお花も楽しむことができます。
福知山市には観音寺を称するお寺さんが他にもありますが、こちらは旧大江町に所在する真言宗の室尾谷山観音寺です。

「室尾谷山觀音寺」
河東村字南山
眞言宗であつて、元明天皇の和銅七年に行基菩薩が開基せられたものであるが後に一度廢頽してゐたのを後堀川天皇の貞永年間に蓮乗上人が再與せられたのである。本尊の十一面觀音は行基菩薩が大和の室尾山本尊觀音の木片を以て彫刻したものであると傳へられてゐる。
『加佐郡誌』

案内にしたがって境内の奥から鬼ヶ城へ入山します。
目立つ道標も設けられており、とくに迷うような山ではありません。

観音寺と鬼ヶ城、烏ヶ岳の分岐

観音寺、鬼ヶ城、烏ヶ岳の分岐を示す道標 2013年5月
観音寺、鬼ヶ城、烏ヶ岳の分岐を示す道標。

この前年に訪れた際には見当たらなかった、新しい道標が設置されていました。
どうやら、2012年(平成24年)から2013年にかけて整備が進んだようです。この分岐から鬼ヶ城の山頂へ。

整理の都合上、今回の記事では鬼ヶ城からの眺めのみ取り上げていますが、方角によっては烏ヶ岳のほうが見晴らしが良いです。
一等三角点を有する烏ヶ岳の読みについて、「からすが『だ』け」か「からすが『た』け」が気になり、個人的に少し調べてみたところ、「点の記」では陸軍省時代から近年に至るまで、三角点の点名としての「烏ヶ岳」に「からすがたけ」と振り仮名を付けています。
ただし、必ずしも点名の読み=山名の読みであるとは限りません。
初期の「一等三角點の記」には「柴草山ノ頂上ニアリ」と見えますが、「柴草山」の名前は初めて見ました。
明治時代頃にはそのように呼ばれていたのでしょうか?
(→他の山々も調べているうちに分かりましたが、烏ヶ岳に限らず、「点の記」では柴草を刈る山を指して「柴草山」としています)

鬼ヶ城の展望・眺望

福知山市街 方面

鬼ヶ城の展望 福知山市街、播丹国境周辺の山々を望む 2013年5月
鬼ヶ城から眼下に福知山市街地を一望、遠くに播丹国境周辺の山々を望む。

主な山距離標高山頂所在地
西光寺山36.7km712.9m兵庫県西脇市
兵庫県篠山市
妙見山33.3km622.0m兵庫県西脇市
兵庫県丹波市
篠ヶ峰27.1km827.0m兵庫県丹波市
兵庫県多可郡多可町
五台山14.7km654.6m兵庫県丹波市
五大山16.9km569.2m兵庫県丹波市
親不知10.4km604.6m京都府福知山市
兵庫県丹波市

眼下には福知山の市街地が広がり、左には由良川に架かる音無瀬橋や、その手前には三段池公園の周辺が見えています。
背負う山並みに目を向けてみると、親不知(おやしらず)など丹波の山々の向こう、遠くに播丹国境(播磨丹波国境)の山々を望むことができます。
上の写真では見切れていますが、写真の構図より少し右(北西)に所在している、播丹但国境(播磨丹波但馬国境)の三国岳も含め、播丹国境周辺の高峰からは、計算上、遠く離れた大阪の「あべのハルカス」をわずかに遠望できる可能性があります。
ただし、超高層ビルの最上部が見えるのみですので、事前に方角や見え方などを正しく把握していないと、そうとは認識できないでしょう。

兵庫県には妙見山を称する山が多いですが、上の写真に写る妙見山は、その南西に所在する白山と併せて語られることが多い、播丹国境の妙見山です。
妙見山の南西、西脇市黒田庄の白山は好展望の山として知られており、過去に登った際には明石海峡大橋を遠望できましたが、計算上、ハルカスさんの姿は見えません。

由良ヶ岳 方面

鬼ヶ城から丹後の由良ヶ岳、由良川を望む 福知山市 2013年5月
鬼ヶ城から丹後の由良ヶ岳と宇野ヶ岳、由良川を望む。

主な山距離標高山頂所在地備考
由良ヶ岳 東峰21.0km641m京都府舞鶴市
京都府宮津市
丹後富士
由良ヶ岳 西峰21.1km640.0m京都府舞鶴市
京都府宮津市
赤岩山18.2km669m京都府舞鶴市
京都府宮津市

南東の三角点585.1m峰、最高峰(東峰)、北西の三角点640.0m峰(西峰)、鬼ヶ城から「丹後富士」由良ヶ岳の姿を分かりやすく望むことができます。
かつては由良ヶ岳を頻繁に登っていましたが、近年、林道の延伸に伴い、多くの植物が失われたため、もう昔のように足しげく通うことはないでしょう。

赤岩山の左に見えている緩やかなピークは宇野ヶ岳(宇野尾山)と呼ばれる標高点694m峰です。
私が調べたかぎりでは舞鶴市の最高峰だと考えられますが、現状、そのようなとらえ方をする方はいらっしゃらないようです。

追記。
「現状、そのようなとらえ方をする方はいらっしゃらない」は2014年2月時点での見解でしたが(より正確に申し上げれば2013年時点での見解)、当方も各所で広めているからか、舞鶴市最高峰であることが少しずつ周知されているようで、2018年(平成30年)にはそのように紹介なさる記事も増えてきたようです。
この件は当サイトの「京都府の市町村別最高峰」の記事 が詳しい。
追記終わり。

青葉山 方面

鬼ヶ城から「若狭富士」青葉山を望む 福知山市 2013年5月
鬼ヶ城から「若狭富士」青葉山を望む。

主な山距離標高山頂所在地備考
青葉山
(青葉山 東峰)
35.9km693m福井県大飯郡高浜町若狭富士
青葉山 西峰35.5km692m福井県大飯郡高浜町

若狭丹後国境、双耳峰として知られる青葉山も望むことができました。
そろそろ今年も青葉山にミスミソウのお花が咲く季節が近付いていましたね。

ミスミソウ(三角草) ユキワリソウ(雪割草) 青葉山 2013年4月

青葉山の花 ミスミソウ ピンクのミヤマカタバミ 若狭富士

2013.04.17

なお、計算上では青葉山西峰の左遠方に白山(加賀白山)まで鬼ヶ城から見通せます。
日本海側は悪天候となりやすいのがネックですが、冬場の空気が澄んだ日であれば見える可能性もあるでしょう。
遠望において、東向きは有利な条件ですので、白山眺望としては容易な部類だと考えられます。

愛宕山 方面

鬼ヶ城から遠く京都市の愛宕山を望む 福知山市 2013年5月
鬼ヶ城から遠く京都市の愛宕山を望む。

主な山距離標高山頂所在地
愛宕山54.6km924m京都府京都市右京区
地蔵山52.8km947.6m京都府京都市右京区
竜ヶ岳53.5km921m京都府京都市右京区
三峠山22.9km667.8m京都府船井郡京丹波町

木々の合間に愛宕山や地蔵山まで遠望できます。
この向きは故意に開いているような印象を受けましたが、愛宕山を望むためでしょうか、それとも三峠山を望むためでしょうか。
大天狗の太郎坊や火伏せでも知られる愛宕山を福知山から見通せることには価値があるでしょう。

氷ノ山、中国山地東部 方面

鬼ヶ城から兵庫県最高峰の氷ノ山を望む 福知山市 2013年5月
鬼ヶ城から兵庫県最高峰である氷ノ山などを望む。

主な山距離標高山頂所在地備考
東山69.3km1388.0m鳥取県八頭郡若桜町
鳥取県八頭郡智頭町
氷ノ山
(須賀ノ山)
57.1km1509.6m兵庫県養父市
鳥取県八頭郡若桜町
兵庫県最高峰
赤倉山58.2km1332m兵庫県養父市
兵庫県美方郡香美町
鳥取県八頭郡若桜町
鉢伏山55.4km1221.6m兵庫県美方郡香美町
(兵庫県養父市)
妙見山
(但馬妙見山)
45.9km1139m兵庫県養父市
兵庫県美方郡香美町
龍ヶ城10.4km645.6m京都府福知山市

遠くに但馬や因幡の山々まで望むことができました。
この山域では群を抜いて高いため、氷ノ山は遠くからでも目立つはず……、なのですが、山陰地方は天候が安定しないこともあり、京都市在住の私にとっては遠くから望む機会が少ない山です。

今回、掲載した写真に写る山々は、私にとって思い入れのある山が多く、そういった山々を一望できる鬼ヶ城の展望は素晴らしいものがあります。
この日は丹波、丹後、若狭、山城、播磨、但馬、因幡の各国に属した山々を望むことができ、これだけでも十分ですが、いずれ、遠望に適した季節にも訪れてみたいものです。
あるいは、秋に雲海を眺望するのもよいでしょう。

東山(とうせん)の山頂 標高1388.0m 中国山地東部 鳥取県 2014年6月

東山(とうせん)を登山 鳥取県若桜町・智頭町 中国山地東部

2014.06.18

不思議な縁と言いますか、本記事を公開した数ヶ月後に、鬼ヶ城から眺めた東山も登ることになりました。
ある山を登り、その山から遠くに見えた山に興味を持ち、その山を訪れる。
これを(私が勝手に)「展望の数珠繋ぎ」と呼んでおり、私にとって、山の楽しみのひとつです。
「東山」と申し上げても、京都の東山ではなく、鳥取の東山(とうせん)で、氷ノ山と同様、中国山地東部山域に属します。

2022年(令和4年)2月、かなり久々に追記しておきます。
こちらでお答えしておきますが、一般的な気象条件下で、地に足を付けた状態では、鬼ヶ城の山頂から扇ノ山は見通せない可能性が高いと考えられます。
妙見山(但馬妙見山)に遮られますので、少なくとも上に掲載している写真には写っていません。
積雪期に鳥取県側の「下」から登るなど、扇ノ山は私にとって思い出深い山ですので、もし、「見える範囲」に含まれていれば、上の表からその山名が漏れることはないでしょう。
伯耆大山はもちろん見えません(中国山地東部の山々に遮られるため、大山は南東から見通せる範囲がきわめて狭い)。
追記終わり。

鬼ヶ城山の山名の由来について諸説・異聞

鬼ヶ城に籠城した人物や、その城址については、本記事の冒頭で述べた、丹後側の地誌である『丹後舊語集』に見える内藤氏の城説があります。
ある程度、史学的な根拠に基づく説だと考えられますが、丹波側ではどうでしょうか。

「釋迦牟尼佛(ニグルベ)」の居館説(『天田郡記畧』より)

1896年(明治29年)の『天田郡記畧』(天田郡記略)には、鬼ヶ城の由来についての俗説が見えます。

鬼ヶ城山は、郡中の名山にして、山腹に醍醐寺あり、春秋の交杖を曳くもの多し。
此山は今より三百年の昔、釋迦牟尼佛といへる兇賊、其頂上にいかめしき舘を構へ、同類を集めて、近郷を暴れ廻りければ、鬼とはかゝる奴をやいふなど人々いひ合へり。
其よし領主に訴へ出ければ、領主、やがて数多の捕手を差向けて、かの賊ばらを平げしめしとなん。
今も頂上に其遺址とも覺しき礎など存せり。
『天田郡記畧』

醍醐寺さんは今も鬼ヶ城の南に所在しており、この「鬼ヶ城山」が今の鬼ヶ城を指すことは疑いようもありません。
約300年前の話としていますので、大きなぶれが無ければ、内藤氏と赤井氏の決戦より少し後、安土桃山時代の設定でしょうか。
原文では「釋迦牟尼」に「ニグルベ」と振り仮名を振っていますが、お釈迦さんを称する賊(鬼)とはなかなかのものです。
時代設定や考証はともかくとして、この「釋迦牟尼佛(ニグルベ)」を称する福知山の賊の伝説じたいは、他の史料や地域でも名前を見ることができ、実在した可能性や、あるいはモチーフとなった人物がいた可能性があります。
また、『天田郡記畧』では「大江山」で酒呑童子と源頼光の伝承を「俗説」として取り上げた後、「因に云ふ此時かの鬼ヶ城山にも茨木童子となんいへる彼の同類の住ひしとも傳ふ」と付記しています。

「茨木童子」が住む鉱穴説(『福知山名所』より)

鬼ヶ城山福知山の東北凡一里山麓までにして巍然たるもの則鬼ヶ城山なり頂上に城址とおぼしきもの存す
又頂より東方の谷へ下ること數町の所に岩窟あり
土俗茨木童子と呼べる兇賊の住まひしものとて山名にさへおはせたれど恐くは古の鑛坑ならん
『福知山名所』

他方、1899年(明治32年)の『福知山名所』では、「山頂より東の谷へ下った所に岩窟があり、そこに茨木童子と呼ばれる凶賊が住んでいたとして山名にされたと住民は言うが、おそらくは鉱坑(鉱山)の跡ではないか」としています。
茨木童子説には疑問を抱いているような書き方ではありますが、こちらでは「釋迦牟尼佛(ニグルベ)」の名前は見えず、『天田郡記畧』と近い時代に刊行された史料で、『天田郡記畧』の編者による筆でありながら、なぜか内容が一致しません。
もっとも、釋迦牟尼佛にせよ、茨木童子にせよ、「鬼とは賊をいう」扱い、山賊=鬼の住処を鬼ヶ城の由来とする点は共通しており、大江山の酒呑童子伝説と合わせて興味深いものがあります。

明智光秀が釋迦牟尼佛を退治した説(『新撰福知山名所』より)

上の2誌より約30年後、1928年(昭和3年)の『新撰福知山名所』に興味深い記述が見えます。
真実を伝えているかどうかは別として、これは上の2誌と同じ編者による「答え」とも言える内容です。

「鬼城山」
福知山の東北丹後の國境に聳えたる地方の名山であります。
(中略)
山頂に少許の平地があつて城址と傳へて居ます。天正中光秀が丹波を討つた時この城には釋迦牟尼佛太郞時盛が據つてゐたのを攻め亡ぼしたといつてゐます。
『新撰福知山名所』

「釋迦牟尼佛」に「ニグルベ」と振り仮名を振っています。
『新撰福知山名所』では鬼ヶ城の「釋迦牟尼佛(ニグルベ)」を討ったのは明智光秀としており、これは『天田郡記畧』の「三百年前」と時期的には一致します。
ただし、光秀の丹波攻略時には、鬼ヶ城には赤井勢が入っていたとする説もありますので、そのあたり、「丹波の赤鬼」赤井直正の武名も何かしら影響を与えたのかもしれません。

鬼ヶ城は本郡にあらざれど佐賀村字山野口附近にあり。黒井猪ノ口城の出城にて、赤井刑部少輔忠家の守る所なり。
『何鹿郡誌』

鬼ヶ城の東にあたる何鹿郡側の地誌、1926年(大正15年)の『何鹿郡誌』には上のように見えます。
赤井忠家は赤井家の当主で、忠家の叔父(父の弟)である直正が後見していました。

江戸時代前期に成立した『信長公記』の天正7年(1579年)7月19日条には、

維任日向守 丹後へ出勢の處に 宇津構明退候を人數を付追討に數多討捕頸を安土へ進上それより 鬼か城へ相働近邊放火候て鬼か城へ付城の要害を構維任人數入置
『信長公記』

と見え、維任日向守(惟任日向守)光秀が鬼ヶ城の近辺に火を放ったとはしていますが、先に誰が鬼ヶ城に入っていたとは示していません。

それにしても、『新撰福知山名所』でも名前が挙がる「ニグルベ」さん、太郎時盛を称するところを見ても、ただの賊とは思えませんね。
『新撰福知山名所』の続きには、

一説に時盛は、かの治承年間石橋山の合戦に俣野五郞卽ち大庭景久の從者で此外次郞淸時、茨木小太郞富長仝小次郞捨盛等敗北の餘諸國を經めぐり終に此所へ落ち着き近在を荒らし非道を働いたから人々耐へかねて之を平家に訴ふ。依つて之を打ち亡ぼしたりと。年代が大いに違いますがともかく籠城して居つたことは事實とおもひます。又大江山酒呑童子の一類茨木童子が棲んでゐて東西相應して居たなどといへるはかの落武者茨木小太郞を附會したものと思ひます。
『新撰福知山名所』

と見えます。

「釋迦牟尼佛太郞時盛は俣野景久 [7]の従者で、太郎時盛の他に、釋迦牟尼佛次郎清時、茨木小太郎富長、茨木小次郎捨盛らの仲間がいた、彼らは俣野景久が敗れた後 [8]に落武者となって諸国を経巡り、ついに鬼ヶ城を拠点として近在を荒らし非道を働いたから、人々が耐えかねて平家に訴えた、よって釋迦牟尼佛太郎時盛らは滅ぼされた」といった説もある、としています。
これは源平合戦時代の話で、先ほどの明智光秀説とは年代が大きく違いますが、「鬼ヶ城に『釋迦牟尼佛太郞時盛』なる人物が籠城していたことは事実だと思う」としています。

また、『新撰福知山名所』では、「鬼ヶ城に茨木童子が棲んでいて大江山の酒呑童子と『東西相応していた』(東の鬼ヶ城と、西の大江山)などというのは、先ほどの話に見える茨木小太郎と『附会した』(無理やりこじつけた)ものと思う」として、『福知山名所』より強く茨木童子説を否定しています。
『福知山名所』から『新撰福知山名所』にリファインされるまで、約30年の年月が流れており、その間に調査や聞き取りも進んだのでしょう。
これらの編者や著者である山口加米之助さんは、福知山の小学校や中学校の先生を経て福知山淑徳高校の初代校長となられた方で、『新撰福知山名所』の後、多くの史料の編纂にも携われたそうです。

念のために申し上げておきますが、これらは明治・大正時代頃に、福知山の地元の人々にどのように伝わっていたか、地元の人々がどのように考えていたか、という推測には役立ちますが、歴史的事実を正しく伝えているとは限りません。
当時、各地で地誌の編纂が活発となり、このようなフィールドワークが盛んに行われました。

釋迦牟尼佛は丹波亀岡の豪族?(『丹波興敗記』『絵本太閤記』より)

「釋迦牟尼佛(ニグルベ)」は光秀に抵抗して鬼ヶ城に立て籠もった丹波の国人衆の一人とする説もあるようで、確かに、なにかしらモデルとなった人物や集団はいたのかもしれません。

鬼ヶ城、又鬼け洞とも云ふ、猪崎村也、天正二年、明智入國の時、籠城久下七郎左衛門、長澤越後守、釋迦牟尼佛靱負佐、並河四郎左衛門、河田甚右衛門、丹波興敗記に出づ、この文意、通せず

頭注に
先生曰是等數里内に數多の城主あるは疑はし古は地主の大なる者賤民の兇暴を防がんが爲に住宅を堅固にせしもの多し是其址なるべし云々と
『郷土史料 下巻』

この説は『丹波興敗記』(丹波國興敗畧記、丹波家興敗畧記)によるものですが、1900年(明治33年)の『郷土史料 下巻』では「この文意、通せず」と否定的で、その理由は注記に示しています。
『丹波興敗記』は成立年代不詳の地誌・軍記で、書写により類本が生じており、表題が一致しておらず、写本によっては『丹波輿敗記』の外題なども見受けられますが、ここでは、釋迦牟尼佛さんの名前を「靱負佐(ゆきえのすけ)」としていますね。
同様の話は江戸時代中期に成立した読本『絵本太閤記』の「光秀丹波國平均」の回にも描かれていますが、そちらでは釋迦牟尼佛さんの名前を「靱負」としています。
『絵本太閤記』は江戸時代初期に成立した『川角太閤記』を下敷きとしていますが、元となる『川角太閤記』はいわゆる「本能寺の変」の直前(甲州征伐)からお話が始まるため、「釋迦牟尼佛」の名前は見えません。
したがって、光秀による丹波攻めのくだりは『絵本太閤記』による付け足しであり、この話だけでは釋迦牟尼佛靱負佐の鬼ヶ城籠城は証明できません。
この件で個人的な見解を付記しておきますと、鬼ヶ城に立て籠もった釋迦牟尼佛某を光秀が攻めるくだりの初出は、『丹波興敗記』でもなければ、『絵本太閤記』でもなく、江戸時代前期の終わり頃に成立したとされる軍記物『明智軍記』だろうと考えています(「丹波鬼ケ嶽落城事」の回)。

細川家史料『永源師檀紀年録』にも、細川忠興が丹波の久下(現在の兵庫県丹波市山南町)で釋迦牟尼佛靱負佐らの豪族を撃ち破った描写が見られますが、同書は細川家の功績を強調する内容となっており、やはり差し引いて考える必要があるでしょう [9]

由緒アル地名
亀岡町
釋迦牟尼佛屋敷
「ニグルベ」は名族ナリ大字下矢田ニ其屋敷跡アリ
『南桑史蹟』

1912年(明治45年)の『南桑史蹟』によると、南桑田郡亀岡町大字下矢田(現在の亀岡市下矢田町)に釋迦牟尼佛の屋敷跡があり、土地の名族だとしています。
この伝承にしたがえば、釋迦牟尼佛さんは丹波福知山の賊などではなく、丹波亀岡の名家ということになりますが、過去形であるところから見ても、明治時代にはすでに廃れていたのでしょう。

鬼ヶ城は「丹波国大江山」説(『宮津府志』『前太平記』より)

丹波側にあたる福知山の郷土史『新撰福知山名所』では茨木童子説を否定しています。
「丹波国の大江山」に住み悪事を働いた酒呑童子なる賊(鬼)の物語は、室町時代の『御伽草子』 [10]で広く知られるようになりました。
いわゆる大江山千丈ヶ嶽の山頂は丹後に属しており [11]、丹波の山とは言えません。

江戸時代中期、宝暦11年(1761年)に成立した、丹後側にあたる宮津の地誌『宮津府志』(丹後州宮津府志)によると、酒呑童子が住まう「丹波国の大江山」とは、丹後の大江山千丈ヶ嶽のことではなく、丹波福知山の鬼ヶ城のことだとしています。
『宮津府志』の「千丈ヶ嶽」は長いので少し端折りますが、いわく、千丈ヶ嶽は丹後国与謝郡に属す、この山をも大江山と呼ぶが、小式部内侍が「大江山生野乃」と詠んだのは大枝の坂のことで丹波の今の老の坂のことである、また源頼光が兇賊を誅した大江山は丹波の内で福知山の領内である、としています。
続いて、土地の俗説では千丈ヶ嶽の岩窟は酒呑童子の一族が住まう出城で、はじめ酒呑童子は丹波の大江山にいたが、王城(京都)に近きを憚って千丈ヶ嶽に移った、丹後国では俗に丹波の大江山を「大江山鬼ヶ城」と呼び、丹後の千丈ヶ嶽を「千丈ヶ嶽鬼が窟」と呼んでいる、としています。
これと似た内容の話が『丹後舊事記』(丹後旧事記)にも収められています(が、『丹後舊事記』の成立は『宮津府志』より少し後で、内容も『宮津府志』を脚色しているように見受けられます)。

源頼光による酒呑童子退治の顛末が詳しく描かれている『前太平記』にも、「丹波國大江山鬼ヶ城」と「千丈ヶ嶽」が明確に別の山として描かれており、大江山に住んでいた酒呑童子は千丈ヶ嶽に引き籠り、「茨木童子」「茨木といふ者」に大江山の城を守らせたと見えます。
『前太平記』じたい、江戸時代前期頃に創作された軍記物語ですので、室町時代以前からそのように考えられていたかどうかは疑問が残りますが、このあたりから「(大江山鬼ヶ城の)茨木童子と(千丈ヶ嶽の)酒呑童子が東西相応していた」説が生まれたのではないか、と考えています。
ただし、ここがとくに重要ですが、『前太平記』が言うところの茨木童子が守る「丹波國大江山鬼ヶ城」は、「都に近い」「愛宕山の大天狗の為にさまたげられる」の描写や、物語の時系列から見て、京都西山老ノ坂の大枝山を指すとされます。
したがって、『前太平記』を引いて、「茨木童子と酒呑童子が東西相応していた」説を唱えるのは、そのあたりを正しく把握していないことによる混同、勘違いでしょう(よく読まないと分かりにくいのは確かです [12])。
現代に伝わる酒呑童子の物語は、だいたいが『御伽草子』や『前太平記』、それらを受けて江戸時代に数多く発行された絵草紙や、あるいは『前太平記』から派生した浄瑠璃や歌舞伎の演目をベースとしており、頼光が生きた平安時代からそのような設定だったかどうかは分かりません。

『西北紀行』に見る「大江山の酒呑童子」 (参考)

後書きに元禄2年(1689年)書、宝永8年(1711年)に紀行を顧みて昔を懐かしむとある、江戸時代中期の正徳3年(1713年)に刊行された貝原益軒の紀行文『西北紀行』(諸州巡覧記 西北紀行)に、

(前略)
沓掛村。是より五町許り西路の左に大石あり。里人是を酒顚童子が腰かけ石と云。
をいの坂。是れ山城丹波の境也。本名は大江山也。大江の坂を。誤つておいの坂と云なるべし。大江山生野の道の遠ければ。と小式部が詠みしは此處の事なり。生野も。天の橋立に行く道にあり。又丹後にも大江山あり。昔酒顚童子が住たる所也と云。夫は天の橋立に行く道にあらざれば。小式部が歌によめる大江山にはあらず。大江の坂の嶺(とうげ)より少し西に地蔵堂あり。其側に龜山城主の休所あり。地蔵堂の少し北に。山城丹波の境あり。嶺より京都及び山城諸山。能(よく)見えて佳景也。地蔵堂の西南に一村の松林あり。是れ酒顚童子が首塚なりと俗にいへり。
(中略)
生野村(名所なり)。民家頗る多し。大江山生野の道と詠めるは此処の事也。
(中略)
鬼が城は福知山の北にあり高山也。福知山より鬼が城の嶺まで一里あり。
(中略)
二瀨川(内宮より一里許り。大江山の麓也)。左に大江山見ゆ。土人御嶽と稱す。高山也。二瀨川より麓まで八町許りあり。麓に池あり(長四十間横廿間許り)。馬塲の跡あり。其邊に礎石殘れり。是酒顚童子が住し所也と云。山上に岩窟あり。入口方四間許りあり。葛蘿生茂りて人の行く事不自由なり。酒顚童子は古の盗賊なり。夜叉の形を眞似て人を威(おど)し。人の財寶を奪ひ。人の婦女を掠む。近世近江の伊吹山の邊にも。斯(かか)る賊聚(あつま)りて。鬼の形を學び人を惱ましけるが。加賀の井彌八郎と云ふ勇者に切殺されしと云ふ。
(後略)
『西北紀行』

と見えます。
『西北紀行』は大江山の鬼伝説を紹介した書としてよく取り上げられますが、ネット上では正しく引用しているケースを見ません。
福知山の鬼ヶ城の名前も見えますが、城主や茨木童子については触れていません。
「伊吹山の辺に集まった賊」は「近世」の話ですので、酒呑童子の時代の話ではありません。
伊吹山の賊を退治した「加賀の井弥八郎という勇者」は、加賀野井弥八郎(加賀井重望)を指していると考えられます。

ふるさと歴史散歩 04 「弥八郎(やはちろう)の山賊退治」 | 羽島市公式Webサイト
https://www.city.hashima.lg.jp/0000003332.html (2023年5月頃にリンク切れ)

鬼の正体見たり、コスプレした山賊であった、という点は、『西北紀行』や諸誌に見える酒呑童子の伝説と同様です。

このように、鬼ヶ城の伝承や、あるいは酒呑童子や茨木童子の伝説については諸説の混同が見られます [13]
いずれも後世の伝承や俗説、あるいは創作であり、今となっては断定できません。
鬼ヶ城に籠城した人物について、茨城童子説のみ広まる風潮はとてもフェアとは言い難いと考えており、本記事でできるかぎり多くの説を紹介しておきました。
念のために申し上げておきますが、どの説が正しい、歴史的事実だ、などと申し上げているわけではありません。

鬼ヶ城(地理院 標準地図)

クリック(タップ)で「鬼ヶ城」周辺の地図を表示
「鬼ヶ城(オニガジョウ)(おにがじょう)」
標高540m
「烏ヶ岳(カラスガタケ)(からすがたけ)」
標高536.5m(一等三角点「烏ヶ岳」)
京都府福知山市

「観音寺」
京都府福知山市大江町南山 付近

脚注

  1. 備前守。はじめ松永甚介、後に内藤蓬雲。松永久秀の弟。内藤如安(小西飛騨守)の父。『丹後舊語集』では内藤備前を「南山村之者」としていますが、内藤氏は丹波八木城を本拠地としており、南山村の土豪というわけではありません。[]
  2. 横山城は福知山城の前身で塩見氏(横山氏)の居城。永禄8年の「横山城の戦い」では赤井氏に攻撃され、塩見氏の救援に向かった内藤氏との間で「和久郷の戦い」が発生(したとされます)。その後は波多野・赤井勢に加担して明智光秀の丹波侵攻にあたりますが落城(したとされます)。丹波を平定した光秀により福智山城と改められました。[]
  3. 塩見氏が籠る横山城を攻めた赤井氏と、横山城の救援に向かった内藤氏との間で発生したとされる戦い。この戦いで塩見頼勝や松永長頼(内藤宗勝)が戦死(したとされます)。和久郷は後の和久荘。鬼ヶ城から見ると由良川を渡った南西側の地域一帯。1925年(大正14年)の『丹波・丹後』に「丹波志云、和久郷廢、和久荘存、領原、岩井、奥野部、和久寺、和久市、大門、荒河ノ諸邑」「今曾我井村に大字和久市遺り、豊富村に大字和久寺遺る」などと見えます。[]
  4. 松永長頼(内藤宗勝)が戦死した場所・戦いには諸説あります。たとえば、何鹿郡の伝承では下原(現在の綾部市下原町付近)で白波瀬肥前守忠次なる土豪に討ち取られたとしており、鎗場山に無銘の墓碑が今も残ります。[]
  5. ただし、『多聞院日記』の記述だけでは内藤備前守が丹波のどこで討死したか伝わりません。『多聞院日記』は奈良興福寺の塔頭である多聞院の僧が残した記録。霜台は弾正忠を指す。[]
  6. 佐賀村の一部は同年に綾部市と合併しています。山野口の南東、佐賀村私市は土地を分けて両市と合併したため、今も福知山市私市、綾部市私市町、どちらの市にも地名を残します。佐賀村の「私市」は難読地名として知られる大阪府交野市の私市(きさいち)と同じ読みで、ともに私部に由来すると考えられます。[]
  7. 源平合戦で平家方に与し、兄の大庭景親と共に「石橋山の戦い」で源頼朝を破りました。相撲の名手として知られます。[]
  8. 「石橋山の戦い」の直後、「波志田山の戦い」で甲斐源氏に敗れて逐電したとされます。[]
  9. 『永源師檀紀年録』では光秀の丹波攻めの功績は忠興によるところが大きいですが、忠興の生年から考えても、そのまま全て鵜呑みにすることはできません。同書では鬼ヶ城を「鬼ヶ嶽」としていますが、釋迦牟尼佛靱負佐らの豪族が籠城した描写はありません。なお、私は忠興の父である細川幽斎(藤孝)をとくに好んでおり、当サイトでも時おり話の種として取り上げていますが、『永源師檀紀年録』における忠興の丹波攻めにまつわるお話については、少し差し引いて考える必要がある、と申し上げているだけです。[]
  10. 絵を入れた民間説話的な物語が室町時代に広まりを見せ、江戸時代になり、それを編纂したものが「おとぎ」ものとして出版され、人気を博しました。室町時代から『御伽草子』(御伽草紙)の名前で知られていたわけではありません。[]
  11. 千丈ヶ嶽の山頂はかつての丹後国与謝郡と丹後国加佐郡を分けています。大江山連峰全体としては、千丈ヶ嶽より南の山域で丹波国と丹後国を分けています。[]
  12. 茨木童子は茨木(現在の大阪府茨木市)や愛宕山とも縁があるとされますので、地図と照らし合わせてみてください。[]
  13. 本来、酒呑童子が住んでいたとされる大江山は京都西山老ノ坂の大枝山だったとする説が根強く、府立福知山中学校が1942年(昭和17年)に発行した郷土教育読本『岳南讀本』(岳南読本)でも、「古く大江山と呼ばれたのは此處ではなく、丹波と山城との境にある大枝山の事で、大江山とも書き、今老ノ坂と呼ばれて居る山である」「酒呑童子の住んだ大江山も亦老の坂だと云はれる」「平凡社の地名大辭典に『酒呑童子の傳説は丹波の大枝山に出没して行人を惱ませる山賊を頼光が退治したるを誤り傳へしものならん。』とある」と教えていたことが確認できます。ただし、大枝山説を認めたうえで、『岳南讀本』では「古くから此處の大江山の傳説として傳へられて居る以上、我々は此の土地の傳説として尊重してもよいと思ふ」「今更此の土地の大江山の話では無いなどと否定するにもあたらないだらう」としており、私もその見解に同意します。他説の存在を黙殺するのではなく、諸説を紹介したうえで、それらを受容する姿勢は見習いたいものです。この件について補足しておきますと、『前太平記』を読むかぎり、(元は酒呑童子が住んでいて、後に茨木童子が守ることになる)大江山の城は老ノ坂の大枝山だったのかもしれませんが、(後に)酒呑童子が籠っていたのは正しく千丈ヶ嶽だと思われますので、『前太平記』の描写に限定すれば、双方ともに誤りではないと考えています。『岳南讀本』は『前太平記』をとくに重視しており、後世の流行のベースとなったことを正しく把握しています。[]

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Maro@きょうのまなざし

京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!