京都で一番高い山を愛宕山(や比叡山など)とする誤解はとくに珍しいものではありません。
京都の山について詳しい方であれば、京都市の最高峰は皆子山である [1]、否、京都市どころか、皆子山は京都府の最高峰でもある ことをご存じでしょうが、大原の北に位置する皆子山は京都盆地の平地部・地表から見通しにくい [2]ため、一般的な京都市在住者の間では知名度が高い山とはいえません。
京都盆地の平地部以外……、たとえば、大文字山の火床であったり、京都タワーの展望台といった高所から皆子山まで見通せますが、皆子山の存在を意識して京都の風景を眺める方は皆無に等しいでしょう。
やはり、京都を囲む山々で高く目立つのは、盆地の北西に聳える愛宕山、盆地の北東に聳える比叡山、それに北山の山並みです。
京都府の市町村別最高峰
以下に京都府における市町村別の最高峰について表形式でまとめておきます。
スマートフォンの表示にも対応していますが、横画面でないと正しく表示されない場合があります。
京都市上京区、中京区、下京区、南区は「山」の定義を満たせる地点 [3]を見出せないため、表から省いています。
下京区には京都市内で最も高い建造物であり、世界一高い無鉄骨建築とされる京都タワー(地上高131m)が所在します。
南区には純木造としては日本一高い仏塔(層塔)である東寺五重塔(地上高55m)が所在します [4]。
当項目における行政界は、地理院地図の標準地図タイルで示される行政界線を基準としています(分かりやすく申し上げれば、地理院地図の初期状態で表示される地図上の行政界)。
必ずしも境界を正しく表しているとは限りません。
京都府・京都市・区
市町村 コード | 市町村名 | 山名 | (改定前→) 標高 | 基 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
26 | 京都府 | 皆子山 | (971.5m→) 971.3m | 三 | 頂は滋賀県との境 点名「葛川」 |
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100 | 京都市 | 皆子山 | (971.5m→) 971.3m | 三 | 頂は大津市との境 |
101 | 京都市北区 | 桟敷ヶ岳 | (895.8m→) 895.7m | 三 | 点名「桟敷岳」 |
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103 | 京都市左京区 | 皆子山 | (971.5m→) 971.3m | 三 | |
105 | 京都市東山区 | 清水山 | (242.3m→) 242.2m | 三 | 点名「清水山」 |
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108 | 京都市右京区 | 地蔵山 | (947.6m→) 947.3m | 三 | 点名「地蔵山」 |
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109 | 京都市伏見区 | 千頭岳 (西千頭岳) (千頭岳三角点峰) | 601.8m | 三 | 点名「醍醐」 |
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110 | 京都市山科区 | 音羽山 | (593.2m→) 593.1m | 三 | 点名「小山」 |
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111 | 京都市西京区 | ポンポン山 (かもぜ山) | 678.8m | 三 | 頂は高槻市との境 点名「加茂勢山」 |
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京都市以外の市
市町村 コード | 市町村名 | 山名 | (改定前→) 標高 | 基 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
201 | 福知山市 | 三岳山 | (839.2m→) 839.1m | 三 | 点名「三岳山」 |
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202 | 舞鶴市 | 宇野ヶ岳 (宇野尾山) | 694m | 標 | 頂は宮津市との境 |
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203 | 綾部市 | 頭巾山 | 871.0m | 三 | 頂は南丹市、おおい町との境 点名「納田終村」 |
地図へのリンク | |||||
204 | 宇治市 | (最高地点のみ後述) | |||
205 | 宮津市 | 鍋塚 | (763.0m→) 762.9m | 三 | 頂は福知山市との境 点名「大江山」 |
地図へのリンク | |||||
206 | 亀岡市 | (最高地点のみ後述) | |||
207 | 城陽市 | (最高地点のみ後述) | |||
208 | 向日市 | (最高地点のみ後述) | |||
209 | 長岡京市 | (最高地点のみ後述) | |||
210 | 八幡市 | 鳩ヶ峰 (男山) | (142.3m→) 142.4m | 三 | 点名「八幡」 |
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211 | 京田辺市 | 千鉾山 | 311.3m | 三 | 頂は生駒市との境 点名「高船」 |
地図へのリンク | |||||
212 | 京丹後市 | 高竜寺ヶ岳 | 696.7m | 三 | 頂は豊岡市との境 点名「資母村」 (下の補足参照) |
地図へのリンク | |||||
213 | 南丹市 | 三国岳 (久多三国) | (959.0m→) 959.1m | 三 | 頂は京都市との境 点名「久多村I」 |
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214 | 木津川市 | 北山 | 487m | 標 | (北山の最高点は約498m) |
地図へのリンク |
町村
市町村 コード | 市町村名 | 山名 | (改定前→) 標高 | 基 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
303 | 乙訓郡大山崎町 | 小倉山 | 305m | 標 | 頂は長岡京市との境 (下の補足参照) |
地図へのリンク | |||||
322 | 久世郡久御山町 | 六石山 | (366.2m→) 366.3m | 三 | 頂は宇治市、宇治田原町との境 点名「末山」 |
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343 | 綴喜郡井手町 | 駒留山 (飯盛山) | (474.8m→) 474.6m | 三 | 点名「駒留」 |
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344 | 綴喜郡宇治田原町 | 釈迦岳 (釈迦ヶ岳) (鷲峰山三角点峰) | (681.2m→) 681.0m | 三 | 頂は和束町との境 点名「鷲峰山」 |
地図へのリンク | |||||
364 | 相楽郡笠置町 | (最高地点のみ後述) | |||
365 | 相楽郡和束町 | 空鉢峰 (空鉢ノ峰) (鷲峰山) | 682m | 標 | (下の補足参照) |
地図へのリンク | |||||
366 | 相楽郡精華町 | 嶽山 | 254m | 5 | 頂は京田辺市との境 (10mDEMでは約260m) (下の補足参照) |
地図へのリンク | |||||
367 | 相楽郡南山城村 | 牛塚山 | (647.2m→) 646.9m | 三 | 頂は甲賀市との境 点名「牛塚」 (最高地点と一致しない) |
地図へのリンク | |||||
407 | 船井郡京丹波町 | 長老ヶ岳 | (916.9m→) 916.8m | 三 | 頂は南丹市との境 点名「長老ヶ岳」 |
地図へのリンク | |||||
463 | 与謝郡伊根町 | 太鼓山 | (683.0m→) 683.2m | 三 | 頂は京丹後市との境 点名「太鼓山」 |
地図へのリンク | |||||
465 | 与謝郡与謝野町 | 大江山 (千丈ヶ嶽) | (832.5m→) 832.4m | 三 | 頂は福知山市との境 点名「千丈ヶ岳」 |
地図へのリンク |
最高峰と最高地点が一致しない市町村
市町村 コード | 市町村名 | 最高標高 | 基 | おおよその座標 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
204 | 宇治市 | 約579m | 5 | 地図へのリンク | 宇治市西笠取 西千頭岳の南南西0.17km |
206 | 亀岡市 | 約832m | 5 | 地図へのリンク | 亀岡市保津町 愛宕山の北西1.2km |
207 | 城陽市 | 約428m | 5 | 地図へのリンク | 城陽市奈島 高雄山の東北東0.57km |
208 | 向日市 | 約104m | 5 | 地図へのリンク | 向日市物集女 樫原廃寺跡の西 |
209 | 長岡京市 | 約482m | 5 | 地図へのリンク | 長岡京市長法寺 釈迦岳の南東0.83km |
212 | 京丹後市 | 約696m | 10 | 地図へのリンク | 京丹後市大宮町五十河 鼓ヶ岳の北北西2.4km (下の補足参照) |
214 | 木津川市 | 約498m | 5 | 地図へのリンク | 木津川市加茂町奥畑 北山の最高点 |
303 | 乙訓郡大山崎町 | 約303m | 5 | 地図へのリンク | 乙訓郡大山崎町字大山崎 小倉山 標高点としては305m (下の補足参照) |
364 | 相楽郡笠置町 | 約527m | 5 | 地図へのリンク | 相楽郡笠置町大字有市 国見岳の北西2.9km |
365 | 相楽郡和束町 | 約684m | 5 | 地図へのリンク | 相楽郡和束町大字原山 空鉢峰(鷲峰山) 標高点としては682m (下の補足参照) |
367 | 相楽郡南山城村 | 約658m | 5 | 地図へのリンク | 相楽郡南山城村大字北大河原 三国塚の北西0.71km |
「地図へのリンク」先では、地理院地図(gsimaps)で「地理院 標準地図」タイルに「地理院 基準点」タイルと「基盤地図情報(基本項目)」タイルを重ねており、「基盤地図情報(基本項目)」が示す行政界が表示されます。
「基盤地図情報(基本項目)」を表示したうえで、ズームレベルを17以上(ズームレベルの最大値は18)に設定し、行政界付近を確認すると、整備状況や都市計画区域であるかにもよりますが、複数の行政界が表示される地域があります。
1/25000ベースや1/2500ベースの「行政区画界線」、1/2500ベースの「町字界線」が同じような破線で表示されますが、線上でクリック(タップ)すれば、種別が吹き出しでポップアップされます。
吹き出しに表示される項目のうち、”orgGILvl”の要素が”2500″のものが1/2500ベースです。
1/2500ベースの「町字界線」(都市計画区域)は、1/25000ベースの「行政区画界線」より正確な行政界を示す場合がありますが、必ずしも境界を正しく表すとは限りません。
土地境界の現況や、ソースしだいで最高地点が変わる可能性があり、上の表のリンク先は、あくまでも地理院地図を基準とした場合に最高地点と考えられる地点の「おおよその座標」を示しています。
本記事における定義
最高峰の定義について
「市町村の最高峰」について、本記事では「山頂と見なせる地点が当該市町村にも所在し、固有の山名を持つこと」と定義しています。
これにより、「最高峰」と「最高標高地点」(以下、最高地点)が一致しないケースが生じます。
一例として、亀岡市の最高地点は地蔵山の南1.2km地点、あるいは愛宕山の北西1.2km地点、いわゆる「巡礼峠」付近の小ピークのやや西、標高としては約830m地点です [5]。
当地が亀岡市の最高地点ではあるものの、地蔵山や愛宕山の山頂は京都市右京区に所在するため、地蔵山や愛宕山を亀岡市の最高峰とは見なしていません。
こういった、”the highest mountain with its peak within L” 「土地Lに山頂を置く最高峰」と、“the highest point in L” 「土地Lの最高地点」が一致しない例は世界的に見ても珍しいものではありません。
ただし、上記は本記事における定義であり、他の方が地蔵山を亀岡市の最高峰と考えるのであれば、それで構わないでしょう(そういった場合、最高峰の定義を合わせて示すと良いでしょう)。
このピークには固有の山名があるため、こちらが最高峰ではないか、などの御意見は、「お問い合わせ」用のフォーム からお願いします。
標高の値について
標高の値は全て国土地理院が公開する測量成果を基準としていますが、「地理院地図」の「地理院 標準地図」タイルに表示される基本基準点(三角点)や、あるいは標高点の値を優先し、基本基準点や標高点を持たないピークについては、「基盤地図情報(数値標高モデル)5mメッシュ」(DEM5A)により補完しています。
「DEM5A」がカバーしていない範囲については「基盤地図情報(数値標高モデル)10mメッシュ」(DEM10B)により補完しています。
表中、「基」の列は標高の値の基準とした測量成果を示しており、「三」は「地理院地図」の「地理院 標準地図」タイルに表示される三角点の値を採用、「標」は「地理院地図」の「地理院 標準地図」タイルに表示される標高点の値を採用、「5」は「DEM5A」から読み取った値を採用、「10」は「DEM10B」から読み取った値を採用しています。
表における「標高」の値のうち、三角点の標高値を基準としたものは、2014年(平成26年)4月1日の「三角点の標高成果改定」に即日で対応し、改定後の値に置き換えています(地理院地図には反映されなかったので、基準点成果等閲覧サービスを確認しながら更新しました)。
「標高」の値のうち、「基盤地図情報(数値標高モデル)」を参照したものは、2024年(令和6年)12月時点の提供データに対応しています。
今後の提供データ更新しだいで値が変化する可能性があります。
※2025年(令和7年)4月1日の「令和7年度 全国の標高成果の改定」に対応予定。
行政界について
「山頂と見なせる地点」が行政界を跨ぐ場合、基準点の所在地にかかわらず、山頂はいずれの地方公共団体(自治体)にも属するものとします。
たとえば、皆子山の山頂は滋賀県大津市と京都市左京区に跨りますが、皆子山を滋賀県だけの山とは見なさず、京都府の山でもあると見なしています。
これは、国土地理院の「日本の主な山岳標高」で、皆子山や大比叡、あるいは頭巾山やポンポン山といった「山頂が府県境に所在する山」を「京都府の山」に区分していることにしたがったものです。
行政界の線引きは国土地理院が公開する測量成果、ならびに国土交通省が提供する数値情報を基準としていますが、とくに「電子国土基本図(地図情報)」、「国土数値情報 行政区域データ」、「基盤地図情報(基本項目)」を参照しています。
土地境界の現況や、公図(公図、地籍図、都市再生街区基本調査及び都市部官民境界基本調査の成果)、あるいは民間企業等が公表する成果とは行政界(と見なせる境界)が異なる場合があります。
個別の補足・説明
京都府の最高峰について
京都府で一番高い山は京都市左京区と滋賀県大津市の府県境に所在する皆子山(三角点971.3m)。
山域としては丹波高地に属しており、大雑把に申し上げれば大原の北部に所在します。
府下に標高1000mを超える山は無く、京都市左京区の峰床山(三角点969.9m)、京都市左京区と南丹市の市境に山頂を置く三国岳(三角点959.1m)などが皆子山に続きます。
したがって、京都府で1番高い山は皆子山、京都府で2番目に高い山は峰床山、京都府で3番目に高い山は三国岳が正解(学習用)。
京都市の最高峰について
京都市で一番高い山も皆子山(三角点971.3m)で、さらに左京区で一番高い山でもあります。
皆子山が京都市の最高峰となったのは1949年(昭和24年)4月1日に愛宕郡大原村が京都市左京区に編入されて以降。
皆子山の標高を971mとするのは三角点の標高値によるもので、2024年(令和6年)12月時点の「基盤地図情報(数値標高モデル)5mメッシュ」(DEM5A)によると、皆子山の最高標高は972m。
西京区の最高峰について
他の記事でも少し取り上げていますが、京都市西京区および大阪府高槻市で一番高い山のポンポン山は、古くは「加茂勢山」を称したとされます。
歴代の「点の記」では「加茂勢」に「かもぜ」と振り仮名を振っており、これにしたがえば「かもぜ山」と読むと考えられますが、必ずしも「点の記」の読みが正しいとは断定できません。
福知山市の最高峰について
三岳山が福知山市で一番高い山となったのは1955年(昭和30年)4月1日に天田郡三岳村が福知山市に編入されて以降。
佐々木川の上流、小野原の地に、「一本杉」と「見立山」の昔話が伝わります。
ただし、これはあくまでも伝承の部類だと見なされていたようで、
三岳山
海抜二千八百五十尺郡中第一の高山であります。その山容の壯大なるを以て常に地方の標準となつてゐます。
(中略)
半腹に三岳神社鎮座大己貴命を奉祀す。
(中略)
源賴光、坂田公時等六人が大江山へうち向ふ際まづこゝに詣でゝ祈願しふと北方を眺めるとかの大江山に立ち上るかすかな煙を認めこれに大いに力を得た、依つてそれより見立山ともいつたとの俗傳もあります。『新撰福知山名所』(山口加米之助)
1928年(昭和3年)の『新撰福知山名所』によると、源頼光に由来する「見立山」の異称は「俗伝」だとしています。
舞鶴市の最高峰について
地形図に山名が表示される山としては、宮津市との市境に所在する「赤岩山」(標高点669m)が一番高い山ですが、その西南西1.16kmに「宇野ヶ岳」(標高点694m)が所在します。
俗に青葉山を舞鶴市の最高峰と紹介したり、あるいは「青葉山西峰の西肩、福井県大飯郡高浜町との府県境にあたる地点が舞鶴市の最高地点」とする例も見受けられますが、青葉山西峰の実質的な標高は692m程度ですので、舞鶴市の最高峰も最高地点も宇野ヶ岳だと考えられます。
宇野ヶ岳が最高峰となったのは1957年(昭和32年)5月27日に加佐郡加佐町が舞鶴市に編入されて以降。
宇野ヶ岳は「宇野尾山」「宇ノ尾山」などとも称し、赤岩山や杉山、普甲山(千歳嶺)などの周辺山域を含め、いわゆる「與謝大山」(与謝の大山)に比定されます。
ただし、「與謝大山」については、大江山千丈ヶ嶽に比定する説や、宇野ヶ岳から普甲峠、千丈ヶ嶽まで含めた大江山連峰の山塊に比定する説もあります。
宇ノ尾ヶ嶽
丹後國加佐郡ノ西方ニアリ。岡田中村大字西方寺ヨリ一里二十九町ニシテ其山頂ニ達ス。『日本山嶽志』(高頭式)
現行の地形図上では無名峰ですが、1906年(明治39年)の『日本山嶽志』(日本山岳志)に山名が見えます。
大江山、宇ノ尾、赤岩山の連山及び由良嶽など西から東へ連つて與謝郡と境を劃してゐる。
昔鬼が住んでゐたといふ大江山は直立八一二米、郡内第一の高山で、その他の諸山は要塞地帯法によつて高さを記載することはできない『加佐郡誌』(京都府教育会加佐郡部会)
1925年(大正14年)の『加佐郡誌』にも「宇ノ尾」の山名が見えますが、大江山と異なり、高さを記載できないとしています。
青葉山の山頂を有していた福井県側の『大飯郡誌』(福井県大飯郡教育会)でも、青葉山について、「現今舞鶴港の境域及要塞の第三區地帯に屬するを以て描寫詳述の自由を有せず登攀者要留意矣」と見え、舞鶴周辺の山々は、なかなか厳重に警戒されていたことが伝わります。
いわゆる「要塞地帯法」の制限は厳しく、司令官の許可なく、要塞地帯内では測量、撮影、模写、録取できないと定められていました。
追記。
本記事の初稿を公開した時点では、宇野ヶ岳(宇野尾山)を舞鶴市の最高峰と見なすハイカーは(おそらく)いらっしゃらず、私が各所でそのように申し上げているのみでしたが、今ではハイカーのみならず、地元の方々にも受け入れられているようで何よりです。
2015年(平成27年)頃に設置された山名標にも「舞鶴市最高峰」と示されたことを確認しています。
綾部市の最高峰について
頭巾山が綾部市で一番高い山となったのは、1955年(昭和30年)4月10日に何鹿郡奥上林村が綾部市に編入されて以降。
山名については、行者さんの頭巾に由来する説ばかり広まっているようですが、
木地師
(前略)
当時の往来姿は、烏帽子・直垂姿であったので、村人にとっては高貴の落人だと思い込み、平家の落人となした事例は全国に多い。たとえば野鹿谷の頭巾山のごとき、この山名「トウキン」の呼称は室町以前のもので、それよりのち頭巾を「ヅキン」と呼ぶようになった。『わかさ名田庄村誌』(名田庄村)
隣接する福井県側の伝承によると、この呼称は烏帽子姿で往来した木地師が由来としています。
ここでは1971年(昭和46年)の『わかさ名田庄村誌』から引いておきますが、頭巾山の読みは「とうきん山」であることも窺えます。
頭巾山と尼来峠について雑にメモを残す。
1915年(大正4年)の『知三村誌』に「南川は本郡奥名田村納田終事木嶺葛籠谷(丹波國境頭巾岳)に發し」と見えます。
「本郡(遠敷郡)」「奥名田村」「(字)納田終」「事木嶺」「葛籠谷」と地名を分けると、事木嶺は頭巾山を指すのでしょうか。
福井県統計書(統計年鑑)では、南川の水源地名を「遠敷郡奥名田村納田終耳木嶺葛籠谷」としており、「事木嶺」ではなく「耳木嶺」となっています。
1909年(明治42年)の『福井縣治槪要』(福井県治概要)には「京都府丹波ノ國境耳木嶺葛籠谷ヨリ發スルモノヲ南川ト云フ」と見えます。
気になったので遡って調べてみると、江戸時代中期に成立した『若狹國志』(若狭国志)に「名田荘川」(南川)の水源が「納田終村甘木峠葛籠谷」とありました。
「甘木峠」は現代における尼来峠ですが、もしかすると、この「甘木峠葛籠谷」が事木嶺や耳木嶺と誤植(翻刻ミス)されたのでしょうか。
当地がどうであるかは分かりませんが、「峠」の字を「嶺」の漢字で表し、「嶺」に「たうげ」と振り仮名を振るケースは、江戸時代や明治時代頃にはとくに珍しいものではありません。
『和漢三才圖會』(和漢三才図会)でも「嶺 たうげ 和字 峠」としています。
これは『大菩薩峠』や、私が個人的に注目する『黒谷夜話』の作者である中里介山も『「峠」という字』で触れていました。
『「峠」という字』は中里介山が1935年(昭和10年)に創刊した個人雑誌「峠」創刊号の巻頭に寄せた随筆。
宇治市の最高峰について
固有の山名を持ち、山頂が宇治市に所在する山としては「西千頭岳(千頭岳三角点峰)」(三角点601.8m)の南0.94kmに所在する「経塚山」(標高点490m)が最高峰。
宇治市の最高地点は西千頭岳の南南西0.17km、京都市伏見区との市境にあたる標高約580m地点、ならびにその周辺。
かつての京都国際カントリー倶楽部(京都国際CC)の奥で、訪れることじたいは容易ですが、現地に最高地点であることを示す標は見当たりません。
追記。
ゴルフ場の跡地にメガソーラーが建設されることになりました。
2015年(平成27年)1月現在、ハイカーは通行できますが、いずれ、醍醐山側(横嶺峠側)からのアプローチが制限されるかもしれません。
その場合でも千頭岳側から訪れることができるでしょう。
ちょっとした事情があり、近年、当地を定期的に訪れています。
2014年(平成26年)10月 広大なゴルフ場の跡地は荒れ放題
2014年(平成26年)12月 クラブハウスの解体が始まっていましたが、作業なさる方々には何も言われず
2015年(平成27年)1月 相変わらずハイカーは通行可能ですが、メガソーラー建設の告知有り
さらに追記しておきますと、2016年(平成28年)には本格的に工事車両が増え、ゴルフ場内を通行するハイカー用の道も失われてしまいました。
今のところは警備員さんに頼めば通していただけますが、基本的にはメガソーラー施設内は避けるほうが無難でしょう。
ゴルフ場のコース跡から明石海峡大橋の主塔や大阪の「あべのハルカス」を見通せるので、冬場に何度か訪れて撮影しましたが、上記の理由から「幻の展望」となりました(実は、この山域=醍醐山地が京都府から明石海峡大橋を望む最遠望地点なのです)。
メガソーラーが完成し、もし、ハイカーの通行が完全に禁止されることになれば、宇治市の最高地点でありながら、宇治市側からのアプローチが困難で、伏見区の千頭岳側から回り込む必要があるという、きわめて特殊な最高地点となりそうです。
亀岡市の最高峰について
亀岡市の最高地点は「地蔵山」(三角点947.3m)の南1.2km地点、あるいは「愛宕山」(標高点924m)の北西1.2km、京都市右京区との市境にあたる標高約830m地点で、現地にもそれを示す標があります。
亀岡市に山頂が所在する山としては大阪府豊能郡能勢町との境に所在する「横尾山(ホンヨコ)」(三角点784.8m、点名「土ケ畑」)が一番高い山で、これは1955年(昭和30年)1月1日に亀岡市が成立した時点から変わりません。
亀岡市(など)の最高峰をどことするかは、大阪府の最高峰をどことするかと同様の問題を抱えています。
また、仮に「最高地点がある山」を最高峰と見なすとしても、地蔵山が亀岡市の最高峰なのか、愛宕山が亀岡市の最高峰なのか、という新たな問題が生じます。
亀岡市の最高地点から見て、両座の山頂までほぼ等距離ですが、標高が高いのは地蔵山です。
地蔵山は亀岡盆地から見通すことができ、私は千代川の月読橋から地蔵山を望む構図を好んでいますが、信仰や知名度の点において愛宕山にはかないません。
城陽市の最高峰について
宇治田原町との市町境に三角点298.6m(点名「小野谷」)が所在しますが、現地を確認するかぎり、あくまでも尾根の一部に過ぎず、分かる範囲内では明確な山名を見出せません。
城陽市の最高地点は「高雄山」(標高点443m)の東北東0.57km、井手町・宇治田原町との市町境にあたる標高約430m地点で、現地にもそれを示す標があります。
高雄山の山頂は井手町に属しており、本記事では城陽市の最高峰とは見なせません。
向日市の最高峰について
固有の山名を持ち、山頂が向日市に所在する山としては「芝山」(三角点69.4m、点名「寺戸村」)が一番高い山ですが、市の北西端、京都市西京区との市境に標高点84mが所在し、さらに、その北に約100mの小ピークが所在します。
大雑把に見て、この周辺が向日市の最高地点だと考えられます。
長岡京市の最高峰について
長岡京市には、地形図上に山名が表示されないながら、固有の山名を有する「山」が多いものの、どこを最高峰とするかの判断は難しいです。
京都市西京区との市境に標高点436mが所在しますが、この標高点は西山のハイキングコースから外れており、今後も固有の山名で呼ばれたり、長岡京市で一番高い山と見なされる可能性は低いでしょう。
長岡京市の最高地点は標高点436mの西0.26km、大阪府三島郡島本町・京都市西京区との府境・市境にあたる標高約480m地点の周辺ですが、現地にそれを示す標は見当たりません。
何度か更新された「基盤地図情報(数値標高モデル)5mメッシュ」(DEM5A)によると、長岡京市最高点の標高は約482m。
本記事の当項目は2024年(令和6年)12月時点の見解であることをご了承ください。
京丹後市の最高峰について
地形図に基準点が表示される山としては、「高竜寺ヶ岳」(三角点696.7m)が京丹後市で一番高い山ですが、「基盤地図情報(数値標高モデル)10mメッシュ」(DEM10B)によると、高竜寺ヶ岳周辺の最高地点は約692mにすぎません。
「柳平(やながなる)」(三角点679.2m)の北西0.71km、宮津市との市境付近に、地形図上では無名峰ながら、丹後半島最高峰 [6]の「高山」(標高点702m)が所在します。
高山の山頂は明確に宮津市側にあたるため、本記事では京丹後市の最高峰とは見なせません。
ですが、この市境周辺をDEM10Bで細かく調べてみると、付近の最高地点が約696mであることが分かり、これは高竜寺ヶ岳周辺の最高地点約692mを上回っています。
よって、地理院地図の行政界とDEM10Bを基準とするのであれば、京丹後市の最高地点は当地点だと考えられます。
なお、当該地域は「基盤地図情報(数値標高モデル)5mメッシュ」(DEM5A)がカバーしていないため、最高地点も暫定的なものです(DEM10Bの標高精度は標準偏差で5m以内、DEM5Aの標高精度は標準偏差で0.3m以内もしくは2m以内)。
今後、参照するデータしだいで最高地点や座標は変化する可能性があります。
本記事の当項目は2018年(平成30年)12月時点の見解であることをご了承ください。
2024年(令和6年)12月時点でも見解は変わりません(DEM5Aがカバーすれば見解が変わるかもしれません)。
木津川市の最高峰について
固有の山名を持ち、山頂が木津川市に所在する山としては「北山」(標高点487m)が一番高い山ですが、その北0.18kmの地点、和束町との市町境に約490mの小ピークが所在します。
地形図に見える標高点487m峰ではなく、現地でも約490m小ピークに「北山」の山名標が設置されています。
北山最高点ともいえる約490m小ピークを木津川市最高峰として差し支えないでしょう。
何度か更新された「基盤地図情報(数値標高モデル)5mメッシュ」(DEM5A)によると、木津川市最高点(北山最高点)の標高は約498m。
本記事の当項目は2024年(令和6年)12月時点の見解であることをご了承ください。
大山崎町の最高峰について
地形図に基準点が表示される山としては「小倉山」(標高点305m)が一番高い山ですが、「基盤地図情報(数値標高モデル)5mメッシュ」(DEM5A)によると、標高点の標高は約299mで、付近の最高地点も約303mにすぎません。
小倉山の南南西0.41km、長岡京市・大阪府三島郡島本町との市境・府境付近に「十方山」(三角点304.3m)が所在します。
十方山の三角点じたいは明確に長岡京市側に設置されていますが、付近の標高300m等高線は大山崎町にも跨っています。
この市境周辺をDEM5Aで細かく調べてみると、十方山の大山崎町側の最高地点は約302mであることが分かりますが、DEM5Aを基準とした場合でも、小倉山周辺の最高地点の標高を下回ります(長岡京市側には約303m地点が所在する)。
よって、「現状では」小倉山が大山崎町の最高峰かつ最高地点だと考えられますが、参照するデータの更新状況しだいで、今後、最高地点や座標が変化する可能性があります。
「大山崎町の最高峰はどこ?」と問われたら、「(今は)小倉山である(が、十方山でも間違いとまではいえない)」と答えても差し支えないでしょう。
なお、以前のDEM5Aでは、十方山の周辺にも標高約303m地点があり、そちらが大山崎町の最高地点でしたが、更新後、周辺の最高地点は302mとなっています。
本記事の当項目は2018年(平成30年)12月時点の見解であることをご了承ください。
2024年(令和6年)12月時点でも見解は変わりません(参照するデータの更新状況しだい)。
久御山町の最高峰について
久御山町で一番高い山の六石山は、久御山町の飛び地として知られる「三郷山財産区」と、宇治市や宇治田原町との郡市境に所在します。
久御山町飛地の「府民スポーツ広場(みどりが丘)」の北、あるいは宇治田原町の「くつわ池自然公園」の北西の山で、三郷(旧久世郡と綴喜郡の各郷)の境界を成すため、俗に「三郷山」とも。
くつわ池ピクニックコース(散策路)の一部として整備されており、郡市境ながら、山頂の三角点「末山」はわずかに宇治田原町側に設置されています。
三角点の点名「末山」は三角点設置当時の所在地(綴喜郡田原村大字郷之口小字末山)の小字に由来します。
元来、この付近は複雑な飛び地が多く、六石山の北は槇島村飛地(→宇治市に編入)、南西は久津川村飛地(→城陽市に編入)でしたが、それらの飛び地は編入後に(結果的には)飛び地ではなくなりました。
現在の「三郷山財産区」は佐山村飛地でしたが、1954年(昭和29年)10月1日に佐山村が御牧村と合併して久御山町が成立したため、当地だけが飛び地として残りました。
そういった複雑な事情も影響したのか、境界が確定するまで時間を要したようで、1960年代までの地図では行政界が曖昧です。
1941年(昭和16年)の『近畿ハイキング・コース』には、
轡池
宇治西山に沿ふて約六粁の處にあり、山頂に池あり、規模小さけれども感じがよい。三郷山(國見峠)と田原の高原地帯にある傳説の池で、夏はキヤンプ地に最適。『近畿ハイキング・コース』(山陵會)
と見え、轡池(くつわ池)のある山を三郷山(国見峠)としています。
「国見」にふさわしく、現在もピクニックコース上に何ヶ所か展望台が整備されています(が、六石山の山頂は開けていません)。
笠置町の最高峰について
南山城村との町村境付近に「国見岳」(標高点513m)が所在しますが、地形図に描かれる標高点は明確に南山城村側に所在してます。
標高点は必ずしも山頂に描かれるわけではなく、現地で確認するかぎり、山頂と見なせる地点は南山城村側にも跨っていますが、判断が難しいです。
また、町の北西、和束町との町境に標高点518mが所在し、その北(南山城村・和束町との町村境)や南に約530mの小ピークが所在します。
このうち、標高点518mの南の約530m小ピークが笠置町の最高地点だと考えられますが、今後のデータ更新しだいで最高地点や座標は変化する可能性があります。
2018年(平成30年)12月現在、当該地点付近は「基盤地図情報(数値標高モデル)」の整備状況が複雑で、「基盤地図情報(数値標高モデル)5mメッシュ」(DEM5A)の対象となっている区画と、そうではない区画が接しています。
本記事の当項目は2018年(平成30年)12月時点の見解であることをご了承ください。
2024年(令和6年)12月時点のDEM5Aによると、当該地点の標高は527m。
今後も値が更新される可能性があります。
和束町の最高峰について
地形図に表示される基準点としては「空鉢峰(鷲峰山)」(標高点682m)の東北東1.5kmに所在する標高点684mが一番高い山ですが、「基盤地図情報(数値標高モデル)5mメッシュ」(DEM5A)によると、空鉢峰(標高点682m)付近の最高地点が約684mで、標高点684m付近の最高地点が約679mとなり、両基準点周辺の高さ関係が逆転してしまいます。
地理院地図の行政界+DEM5Aを基準とした場合、和束町の実質的な最高峰は空鉢峰だと考えられます。
また、現状、標高点684mは明確な山名が見出せず、本記事では固有の山名を持つ山として扱えません。
私の調査によると、かつて、「釈迦岳」(釈迦ヶ岳)(三角点681.2m)の東に「阿弥陀ヶ峰」を称する山が、その東に「弥勒岳」を称する山があったそうです。
標高点684mはそのいずれかを指す可能性もありますが、確定できません。
なお、以前のDEM5Aでは釈迦岳(釈迦ヶ岳)のすぐ東の小ピークが和束町の最高地点で、一時的に本記事でもそのように紹介していました。
データの更新後は空鉢峰を和束町の最高峰と扱いますが、今後も最高地点や座標は変化する可能性があります。
本記事の当項目は2018年(平成30年)12月時点の見解であることをご了承ください。
2024年(令和6年)12月時点でも見解は変わりません(参照するデータの更新状況しだい)。
精華町の最高峰について
現行の地形図に山名が表示される三角点や標高点が町内に一座も見当たりませんが、町の北西、京田辺市との市町境、東畑神社さんの裏山が「嶽山(だけやま)」と呼ばれており、精華町さんの公式サイトでは嶽山を町の最高峰と見なしています。
現行の地形図では山名が消えていますが、陸測時代から終戦直後の地形図までは「嶽山」の山名が示されていました。
一次ソースは1908年(明治41年)測図、1912年(明治45年)発行の正式二万分一地形図「高山」。
「嶽山」の山名と254.7mの基準点が描かれています。
1906年(明治39年)の『日本山嶽志』(日本山岳志)にも、
嶽山
山城國綴喜郡ノ西方ニアリ。普賢寺村大字水取ヨリ一里十町ニシテ其山頂ニ達ス。全山花崗岩ヨリ成ルモノヽ如シ。標高凡千尺。『日本山嶽志』(高頭式)
と見え、かつては名の知られた山だったことが窺えますが、現行の地理院地図においては標高点も有さない無名の小ピークとなってしまいました。
現行の「基盤地図情報(数値標高モデル)5mメッシュ」(DEM5A)を参考に、こちらでは標高を254mとしておきます。
地理院地図が示す郡市境を見るかぎり、わずかとはいえ、嶽山の最高地点(いわゆる山頂)は京田辺市側に所在しますが、「精華町の最高峰は嶽山である」と大雑把に見なして問題ないでしょう。
行政界の件で補足しておきます。
別件で京阪奈の府県境の行政界を調査する機会がありましたが、森林基本図を確認するかぎり、地理院地図が示す行政界とは「ずれ」が大きいようです。
参照する成果によっては、嶽山の山頂と見なせる地点は市町境となるでしょう。
補足終わり。
以前の「基盤地図情報(数値標高モデル)10mメッシュ」(DEM10B)では最高標高が約260mだったため、やや古い情報ながら、嶽山の標高を260mとしても誤りではありません。
過去のDEM5Aでは最高標高の値が約255mだった時期や、約258mだった時期もあるので、それらの値を採用しても誤りとまではいえません。
当該地点付近は「基盤地図情報(数値標高モデル)」の整備状況が複雑で、今後も標高の値が変化する可能性があります。
本記事の当項目は2024年(令和6年)12月時点の見解であることをご了承ください。
南山城村の最高峰について
固有の山名を持ち、山頂が南山城村に所在する山としては、「牛塚山」(三角点646.9m)が一番高い山ですが、その南1.4km、滋賀県甲賀市との府県境に約660mの小ピークが所在します。
現地を訪れることじたいは容易ですが、個別の山と見なされる可能性は低そうです。
もし、この小ピークに適切な山名が付き、それが認知されれば、本記事としては、その山を南山城村の最高峰として扱う可能性が高いでしょう。
京丹波町の最高峰について
長老ヶ岳は京丹波町で一番高い山ですが、丹波全体の最高峰ではありません。
丹波国(丹波地域)でも、兵庫県側(丹波市)には「粟鹿山」(962.3m)が所在しますし、京都府側に限定しても、南丹市には「三国岳」(959.1m)や「ブナノキ峠」(939.2m)、「傘峠」(935m)といった山々が所在します。
日本語における連濁の基本的な決まりとして、助詞「の」「が(ケ)」の後ろの言葉は連濁しません。
たとえば、大日ヶ岳の読みは「だいにちがたけ」ですが、大日岳の読みは「だいにちだけ」です。
前者は両白山地や英彦山系など、後者は立山連峰や飯豊山地、大峰山脈など日本各地に見られる山名です。
長老ヶ岳は、近年では「ちょうろうがだけ」の読みが通例となりましたが、これはあくまでも例外的なケースだと考えられます。
この山は古くは「長老嶽(ちょうろうだけ)」や「長老山(ちょうろうさん)」と呼ばれており、「点の記」によると、一等三角点「長老ヶ岳」の読みは明治時代から一貫して「ちょうろうがたけ」です。
近年における「ちょうろうがだけ」の読みは、どこかで混同が生じたのではないかと考えています。
与謝野町の最高峰について
大江山連峰の最高峰が与謝野町の一番高い山であることは疑いようもありません。
丹後地方の最高峰でもある大江山連峰最高峰の山名について、現行の地形図では「大江山(千丈ヶ嶽)」と見え、まず「大江山」の山名を優先的に表示し、括弧付で「千丈ヶ嶽」と表示しています。
1889年(明治22年)観測時の「点の記」では、三角点「千丈ヶ岳」の所在地について、「俗称千丈ヶ嶽小字大江山」としていますが、1985年(昭和60年)更新時の「点の記」で「俗称 大江山」と改めています。
このあたりの経緯から見ても、現状、「大江山」の呼称が優先されるのもやむを得ないでしょう。
三岳山を大江山連峰の最高峰とする記事も見受けられますが、間には雲原川が流れており、三岳山は大江山連峰から外れていると見なすべきでしょう。
新設された大江山連峰トレイルでも、雲原川の左岸、赤石ヶ岳以北を「大江山連峰」と扱っています。
京都府最高峰 皆子山を遠望する
京都府最高峰である皆子山は遠くからどのように見えるのでしょうか。
1000mに満たない高さとはいえ、意外に遠くの山からでも眺望できますが、西側にあたる山域から望む場合、その後方に連なる比良山地の山並みに埋もれてしまうので、意識して探さないと見付けにくいものがあります。
雲取山から皆子山の撮影例
古い写真ですが、下は厳冬期の雲取山から撮影した写真です。
撮影地点は冬道としては昔から知られていましたが、あまり利用する方のいないコースでした。
見晴しも良く、広い範囲を見渡せましたが、現状、どうであるかは分かりません。
京都府最高峰の皆子山、京都府の山では2番目に高い峰床山、加えて、滋賀県の山ですが、比良山地最高峰の武奈ヶ岳、南比良最高峰の蓬莱山、さらに、同じく滋賀県の山ですが、福井県との県境近く、野坂山地最高峰の三重嶽などが写っています。
愛宕山や桟敷ヶ岳、雲取山など、西側(南西側)にあたる山域から皆子山を望む場合、このように、より標高が高い武奈ヶ岳や蓬莱山に挟まれる、あるいは比良山地を背負う形となり、京都府最高峰でありながら皆子山の姿は目立ちません。
ところが、南側にあたる山域から望んでみると、なだらかで控えめな山容とはいえ、後方には皆子山より高い山が存在しないため、その姿はなかなか目立って見えます。
過去の記事における皆子山の撮影例
私が南の遠方から皆子山を撮影した写真は以下の記事に。
大雑把に申し上げて、下に行くほど、撮影地点から皆子山までの距離が遠くなります。
↑比叡山(京都一周トレイル)からの撮影例を掲載
↑比叡山(四明岳)からの撮影例を掲載
↑比叡山地(京都東山)に属する大文字山からの撮影例を掲載 (皆子山まで約20km)
↑醍醐山地に属する音羽山からの撮影例を掲載 (皆子山まで約25km)
↑生駒山地に属する交野山からの撮影例を掲載 (皆子山まで約48km)
↑和泉山脈に属する岩湧山からの撮影例を掲載 (皆子山まで約96km)
↑間近から皆子山を撮影した写真として、峰床山からの撮影例を掲載
余談
如意ヶ岳(大文字山)が京都市最高峰だった時代が?
1889年(明治22年)4月1日の市制移行時、京都市の最高峰は上京区(当時)の如意ヶ岳でした。
その後、1931年(昭和6年)4月1日に京都市の市域(範囲)が大きく広がり、愛宕郡修学院村(比叡山)や葛野郡嵯峨町(愛宕山や地蔵山)といった高峰を含む町村が京都市に合併されたため、京都市最高峰の座を地蔵山に明け渡しました。
つまり、京都市の成立から42年間、如意ヶ岳が京都市の最高峰だった時代があります。
1889年(明治22年)測量の仮製二万分一地形図「大津」では如意ヶ岳の山名が見えません。
等高線から470mより高いことが分かりますが、山頂には標高の値も示されておらず、山頂の東の山肩に469.5mの基準点が見えるのみです。
この当時、假製図に山名が表示される京都市の山としては大文字山が最も高く、山頂に466mの基準点が見えます。
1922年(大正11年)測図の二万五千分一地形図「京都東北部」では、やはり如意ヶ岳の山頂に標高の値は示されていないものの、「如意嶽」の山名が表示されており、やや離れた東の小ピーク、これは假製図とは別の位置ですが、そちらに459.0mの基準点が見えます。
大文字山でお会いする方から、「如意ヶ岳に三角点があった?」という質問を受けるので、こちらでもお答えしておきますが、私が調べたかぎりでは如意ヶ岳に三角点が設置された記録は見付かりません。
聞き取り調査の際、戦前生まれの方から、子どもの頃、如意ヶ岳で三角点を見た(ような気がする)、といったお話も伺いましたが、大文字山と混同なさっているか、他の石標と勘違いなさっている可能性があります。
地蔵山(愛宕山)が京都市最高峰だった時代が?
1931年(昭和6年)4月1日に葛野郡嵯峨町が京都市に編入されたことにより、京都市右京区と北桑田郡細野村(当時)の境に所在する地蔵山が京都市の最高峰となりました。
戦後、1949年(昭和24年)4月1日に愛宕郡大原村が京都市左京区に編入されたため、皆子山に京都市最高峰の座を明け渡しましたが、18年間、地蔵山が京都市の最高峰だった時代があります。
愛宕神社さんが山上に鎮座する愛宕山と比較すると、隣接する地蔵山は知名度が高い山とはいえませんが、1930年(昭和5年)の『京都市編入と洛西地方』では、龍華山(竜ヶ岳) [7]について触れた後、
その隣りに地藏山と云ふのがある。之は海抜三千何十尺と云ふのであつて、愛宕より数尺まだ高い。之は参謀本部の測量によつて高い事が證明されてゐる。さうすると京都としては叡山より愛宕の方が少し高い。その愛宕より尚少し高い。即ち地藏山が最高の山と云ふ事になります。
『京都市編入と洛西地方』(嵯峨町役場)
と地蔵山についても触れており、当時から「愛宕山より地蔵山のほうが高い」ことは知られていました。
この史料は京都市への編入を翌年に控えた嵯峨町が編纂しており(大雑把に申し上げれば、当時の嵯峨町長の発言や見解をまとめたもので、非常に愛郷心あふれる内容)、愛宕山の地元の嵯峨では、いわゆる「京都」の最高峰は比叡山や愛宕山ではなく地蔵山だと正しく認識なさっていたことが分かります。
80年以上も前に生きた人々が正確に把握し、広めようとなさっていたことを、現代の人間が歪めて伝えるような行いには賛同できません。
皆子山の山名について
1932年(昭和7年)の『近畿の山と谷』(初版) には、
971mの頭。
安曇川べりで出逢つた炭焼に、此山の名前を聞いて見たが知つて居なかつた、多分無名なのであろう。強いて名付けるとすれば、谷の名を取つてミナゴ谷の頭とでも稱したい。『近畿の山と谷』(住友山岳会)
と見え、1934年(昭和9年)の『山城三十山記 上篇』には、
皆子山
陸測地図上においては全くの無名峰、唯九七一.五米の頭といふに過ぎない。が然し名称の由来は未だ知る所でないが、通常僕等は「皆子山」と称してゐる。『山城三十山記 上篇』(京都府立京都第一中学校山岳部)
と見えます。
971m峰=ミナゴ谷の頭=皆子山であることは明らかです。
また、皆子山は「みなごやま」と読むことも分かります。
したがって、皆子山の読みを「みなこやま」とする記事等は、その根拠が明示されないかぎり、誤りだと考えられます。
以降、1938年(昭和13年)の『京都北山と丹波高原』(森本次男)でも「皆子山(みなご山)」と紹介しています。
『京都北山と丹波高原』では「この山へ登つた人は少い」「久しい間私は由良川源流の三国嶽がさうだ(京都府最高地点だ)と思つてゐた」と見え、知名度が低かったことが窺えます。
私の父 [8]は戦後生まれで、それなりに山にも親しんでいたようですが、それでも京都市で一番高い山について、かなり適当なことを申しておりました(笑
京都市の山の俗称(「点の記」より)
古い「点の記」で確認できる旧称・俗称。調査用の個人的メモを兼ねています。
「点の記」には所在地の「俗称」が併記されていることがあり、それらはおおむね現在の山名や、あるいは既知の旧名、ないし当時の大字や小字と一致しますが、稀にそうではない場合があります。
そういった例外のみピックアップしてリスト化しています。
これらは実際に「俗称として」そのように呼ばれていたと考えられますが、必ずしも「正しい山名」であるとは限りません。
大暑山の読みについて 三角点567.6m峰
小塩山の北に連なる大暑山(おおしょやま)は、ハイカーの間では長らく無名のピークでしたが、いつの頃からか(戦後?)大暑山とされ、それが現称として定着したもので、古くからそう呼ばれていたわけではありません。
1903年(明治36年)観測の「点の記」では「(三角点は)大原野山ト云フ山ノ上ニアリ」としています。
そもそも存在しない幽霊山名ですから、大暑山の「正しい読み」はありませんが、二十四節気の大暑(たいしょ)由来ではなく、「おしお」と「おおしお(よ)」の音的な駄洒落で成立したと考えられており、一般的には「おおしょ」と読まれています。
また、小塩山には「王城の滝」なる、「おじお」と「おうじょう」が掛かったネーミングの滝があります。
これは「王城の山」が訛って「小塩の山」となったとする説も。
大暑山か、その周辺峰が、古くは「日野嶽」(日野岳)と呼ばれていた可能性について、上の記事で取り上げています。
私見ですが、大暑山(オーショ山)は王城山(オージョー山)説を知る人が洒落で決めたのでは?
西野山と二石山について 三角点239.0m峰
「西野山(二石山)」についてのメモ。
伏見区の稲荷山の東に山科区の三角点239.0m峰が所在します。
ハイカーの中には稲荷山三角点と呼ぶ方もいらっしゃるようですが、山頂に設置される三角点の点名は「西野山」であり、「稲荷山」ではありません。
この点名「西野山」じたいは、所在地の大字(京都府宇治郡山科村大字西野山字岩ヶ谷→宇治郡山科町同→京都市東山区大字山科西野山字岩ヶ谷→京都市山科区西野山字岩ヶ谷町→山科区西野山岩ヶ谷町)に由来しますが、山名については、西野山であったり、二石山であったり、あるいは稲荷山であったり、以前より議論が重ねられるところです。
現代においては、この山から東麓にあたる地域を、地名(地域名、冠称地名)としての「西野山」と呼びます。
西野山
西野山は元山科鄕に屬す南花山又は西花山と稱すと然れども其詳なる得て攷ふ可からず何れの時か今の稱に改む。『京都府宇治郡誌』
地名としての西野山について、1923年(大正12年)の『京都府宇治郡誌』には上のように見えます。
「地名が先か山名が先か」であったり、あるいは「地名が先か寺名(神社名)が先か」といった疑問は多くの土地で見られますが、西野山はどうでしょうね。
古い「点の記」では、三角点の所在地について、「俗称 惣山」としています。
これが入会山の意味であるのか、そうでないのかは分かりません。
山名としての二石山(弐石山)については、伏見区側にあたる深草村の『山城國紀伊郡深草村 村誌』(深草村誌)に、
字地
一丈ヶ原 貳石山ノ絕頂稲荷山ノ巽
山
貳石山ト云フ有リ
本村ノ東北ニ亘リ耕山ニ屬ス
耕地ノ外ハ荒山ナリ樹木少シ髙サ八十丈周囲貳拾町餘
山上ヨリ東ハ宇治郡西ノ山村ニ屬ス
西山村ニテハ大日山ト云
西ノ方ハ本村ニ屬ス
山脉北ハ稲荷山ニ續ク
南ハ宇治郡勧修寺境ニシテ竟ル
登路貳町本村字東瓦町ヨリ登ル易ニシテ近シ
溪水微ナリ深艸山ト云アリ
(中略)
半ハ上ニ言二石山ニ並ヒ續ク半ハ大津街道ノ南ニ分ル
(後略)
『山城國紀伊郡深草村 村誌』※太字は同誌で「朱書ハ再調追加ナリ」としている箇所。
と見えます。
『深草村誌』は明治政府による地誌編纂事業の稿本として編纂されたと考えられますが、上は大正時代の謄写から引いており、それまでの過程で「再調追加」されています。
「一丈ヶ原は二石山の絶頂(ピーク)で、稲荷山の巽(南東)の字地」としています。
ただし、「一丈ヶ原」はあくまでも深草村の字地(小字)ですので、東に接する西野山村の字地ではありません(西野山村に跨っていた可能性はあります)。
その二石山については、「山上より東は西ノ山村(西野山村)に属する」「西の方は本村(深草村)に属する」「南は宇治郡勧修寺の境にして竟る」「髙さ八十丈(約240m)」としています。
「山上より東は」としていますので、山上は西野山村に属していたと考えられます。
それに対し、深草村に属していたのは「西の方」と曖昧にしています。
これらの描写を見るかぎり、二石山は三角点239.0m峰を指しているようにも思えます。
しかしながら、「山脈の北は稲荷山に続く」「本村字東瓦町(現在の深草東瓦町)より登る」「登路2町(約220m)で易しく近い」だと、二石山は稲荷山の南、しかも登り口である東瓦町のかなり近くに所在するように思われ、三角点239.0m峰とは少し位置関係が合わないような気もします(ただし、「一丈ヶ原は二石山の絶頂で、稲荷山の巽(南東)」ともしています)。
これが書き写しの誤りで、実は2町ではなく20町ということであれば、距離の観点では三角点239.0m峰と合うように思いますが、そうすると「近し」をどう考えればよいのか分かりません。
「西山村(西野山村?)では大日山と言う」とする再調追加を見るかぎり、深草側で二石山と呼ばれていた山は、西野山側では大日山と呼ばれていたようです。
深艸山(深草山)は現在の大岩山周辺を指しており、深草山と二石山は接していることが明示されています(「並び続く」は隣接して連続する状態です)。
ただ、よく読めば分かりますが、「(深草山の)半は二石山に並び続く」「半は大津街道の南に分る」としていますので、どうやら深草山は大津街道(現在の京都府道35号大津淀線)の「北」にも跨っていたようです。
おおよそ深草山と見なされる山域が大津街道の北のどのあたりまで広がっていたのか、『深草村誌』の描写だけではよく分かりません。
三角点239.0mの設置点は山科区側(西野山側)に属しますが、山の上の区境付近には大岩大神・小岩大神なる神様がお祀りされていて、これは大岩山の大岩神社さんとの関連性が指摘されます。
かつてはどちらも「大岩稲荷」を称していた可能性がありますが、そのあたりの話は大岩山側の記事で取り上げています。
これはあくまでも絵図ですので、正確な所在地を示しているとは限りませんが、江戸時代後期(天保年間)とされる『城州伏見町圖』(城州伏見町図)には、稲荷(伏見稲荷)の南、宝塔寺の東に、おそらく北西から南東にかけて「三石山」「一ノ谷」「二石山」の並びで山姿が描かれています。
まず左手前に「三石山」、その右肩後方に三石山より低く「一ノ谷」、それら二座の後方に「二石山」です。
これは現代における七面山周辺の丘陵を指しているようにも見え、『深草村誌』の「山脈の北は稲荷山に続く」「本村字東瓦町より登る」の描写とも一致するように思えますが、「七面山」を「宝塔寺山の絶頂(の字地)」としていますので、『深草村誌』では七面山や宝塔寺山を二石山と同義とは考えていません。
『城州伏見町圖』では、「三石山」「一ノ谷」と比較して、その後方に位置する「二石山」を明確に高く描いており、絵図で左(北)から右(南)に連なるようにも見える山並みが、実際には手前(西)から奥(東)に連なっている可能性があります。
そう捉えると、この絵図の「二石山」も、三角点239.0m峰を指している可能性があります。
そもそも、『深草村誌』がいう「髙さ八十丈(約240m)」に合致するような山が、周辺では三角点239.0m峰か、いわゆる稲荷山しかありません。
一ノ「谷」、二「石」山、三「石」山について、この「谷」と「石」は同義の可能性があります(どちらも音が「コク」)。
また、一ノ谷も、いわゆる谷筋を指すものではなく、おそらく山を示しています。
「西山村ニテハ大日山ト云」の大日山については、(深草側では)いにしえ失われた大日寺ゆかりだと考えられていたようで、
字地
大日 深草ノ東極勧修寺領ニ屬ス古ヘ大日寺ノ旧地ナランカ不詳
寺院
以下廃没寺院
大日寺宗㫖創建僧名興廃年月不知
山城名勝誌云不レ知二大日寺旧跡一
拾芥抄諸寺ノ部ノセル
按スルニ深草ノ郷極樂寺貞観寺ノ辺カ
貳石山ノ東極勧修寺領ニテ大日山ト云コレカ『山城國紀伊郡深草村 村誌』
※太字は同誌で「朱書ハ再調追加ナリ」としている箇所。
と見えます。
初稿の時点では、「按ずるに(筆者が照らし合わせて考えるには)大日寺は深草の極楽寺や貞観寺のあたりか」としていますが、大日寺は深草に接して東の勧修寺側に所在したと考えられていて、今も住所地名(推定地は山科区勧修寺北大日町)に名を残します。
その後の再調追加で、字地に「大日は深草の東極、勧修寺領に属している、いにしえ大日寺の旧地らしいが詳しいことは分からない」と付け加えたうえで、大日寺と大日山について、「二石山の東極の勧修寺領にて大日山と言うのはこれか?」としていますが、おそらくそう(二石山が勧修寺側で大日山と呼ばれているのは大日寺に由来するから)でしょう。
大日寺については、このように、勧修寺側にあったとは考えられていたものの、長く所在が分かっていなかったようですが、戦前に三角点239.0m峰の南、山麓近くの斜面から土器や瓦といった遺物が発掘され、1976年(昭和51年)に大日寺跡碑 が建立されました。
これらを考慮すると、二石山は、南西端の東瓦町あたりを深草側における登山口(起点)として、北は稲荷山、東は西野山、南東は勧修寺に至る山域、これはもちろん三角点239.0m峰も含みますが、その広い山域の深草側における呼称ではないでしょうか。
二石山は山の東にあたる西野山側や勧修寺側では大日山と呼ばれていた可能性がありますが、今は失われた異称のようです。
これはおそらく、(地域としての)西野山側の方々にとっては、大日山と呼ぶより(山としても)西野山と呼ぶほうが馴染みやすいからではないかと推測しています。
また、三角点239.0m峰を稲荷山三角点峰と呼ぶことについては、三角点が明確に山科区側(西野山側)に所在することや、『深草村誌』における「一丈ヶ原」「貳石山」の描写を見るかぎり、二石山と稲荷山は別の山と扱われていた可能性が高いことから、現状ではあまり賛同できません。
参考。
寛延4年(1751年)の『城南伏見地圖 伏見廻附』(城南伏見地図) では、「俗呼 高山」の上に「名所 深草山」が、その上に「名所 霞谷」が、その上に「稲荷山」が、「霞谷」の左(宝塔寺の右)に「名所 竹ノ葉山」が描かれていますが、「二石山」は描かれず。
『城南伏見地圖』に描かれておらず、約100年後の『城州伏見町圖』に描かれているからといって、『城南伏見地圖』が描かれた時代には「二石山」と呼ばれていなかった、というわけではありません。
歌などでよく知られた「名所」ではないので描かれなかった可能性や [9]、所在推定地的に右端で見切れている可能性も考慮する必要があります。
発行年不明ながら、伏見の図 では、石峯寺と宝塔寺の後方に「二石山」が描かれています。
明和年間、おそらく明和7~8年頃(1770~1771年頃)の『稲荷山十二境圖誌』(稲荷山十二境図誌)、あるいは『稲荷山十二景記并詩画』、この「稲荷山十二境」の境は、いわゆる八景の「景」と、境内の「境」を掛けているのでしょうか。
八景の様式に則り、対象地+事象・事物を選定していますが、この対象地がそれぞれどこを指しているのかやや分かりにくく、後世の推察に頼っています。
十二境(十二景)に「二石山」の名を直接的に示す対象地は挙げられていませんが、「三角明月」(三角名月ではなく明月です)に描かれる画が、東に比叡醍醐山地、眼下に山科盆地を見晴らす構図となっており、牛尾山(音羽山)の左、おそらく京街道(東海道)と考えられる山間部(逢坂)の上から月が昇っています。
山科を見渡せる構図から見て、これはおそらく三角点239.0m峰あたりから山科へ抜ける道のりを指すと考えています。
この推察が正しいのであれば、時代によっては、その道のり(稲荷山から東の山科へ抜ける道)も「稲荷山の境内」と見なされていた可能性があります。
現在も三角点239.0m峰の山中には大岩大神・小岩大神などがお祀りされています。
これは逢坂山(相場山)の記事でも取り上げていますが、当地は「旗振り通信」の「旗振山」だったとされており、見晴らしも良かったのでしょう。
実は、私自身、「旗振山」の検証の一環として、この山の上から、逢坂山の向こうで打ち上げられる琵琶湖の花火を撮影したことがあります(動画まで撮影しましたが、未整理のまま、長年放置しています)。
上記の件で追記と訂正。
「三角明月」はどうやら三角谷の上(の峠道)を指すようで、「三角点239.0m峰あたりから山科へ抜ける道のりを指すと考えている」の推察は的外れでした。
追記終わり。
『稲荷山十二景記并詩画(いなりやまじゅうにけいきならびにしいが)』
http://www2.dhii.jp/nijl_opendata/searchlist.php?md=thumbs&bib=200017610(リンク切れ)国文学研究資料館の館蔵和古書画像のためのテストサイト
「国文学研究資料館の館蔵和古書画像のためのテストサイト」で2021年(令和3年)末頃まで閲覧できましたが、2022年(令和4年)1月頃より閲覧できなくなりました。
今後は下のリンク先から。
『稲荷山十二境図詩(いなりやまじゅうにけいずし)』
https://doi.org/10.20730/200017610「国書データベース」(国文学研究資料館)
データベース上のタイトルは異なりますが、内容は『稲荷山十二景記并詩画』です。
京都府南部の山の俗称(「点の記」より)
上と同様、古い「点の記」で確認できる旧称・俗称。調査用の個人的メモを兼ねています。
宇治市、八幡市、向日市、長岡京市以南。
京都府南部の三角点の設置点について、特殊なケースとして、奈良市と木津川市の府県境に所在する三等三角点「経松塚」(324.5m)があります。
1889年(明治22年)観測時の「点の記」を見ると、当初は所在地を「奈良県~」としていましたが、この付近は飛び地や国境が複雑なことも影響したのか、「敷地ハ全部京都府ニ屬スルヲ以テ訂正」とし、所在地が「京都府相楽郡加茂村~」と全面的に修正されています。
1971年(昭和46年)更新時の「点の記」でも所在地は「京都府相楽郡加茂町~」のままですが、その後、2009年(平成21年)現況調査時の「点の記」では、なぜだか所在地が「奈良県奈良市~」と替わっています。
「点の記」の要図を見るかぎり、そもそも設置点が奈良市側に移っているようにも見えますが、三角点を移設した形跡はありません。
京都府中部の山の俗称(「点の記」より)
上と同様、古い「点の記」で確認できる旧称・俗称。調査用の個人的メモを兼ねています。
亀岡市、南丹市、京丹波町。
府北部は調査中。
時間も足りないので気が向いた時しか作業しません。
「点の記」に見える「俗称」の話題について、上の記事に移行中。
京都府 森林計画区の基本図(森林計画区の計画書より)
山林を対象とした地形図として森林基本図があります。
県によっては、古い年代に作成された森林基本図から更新されていないものがあり、すでに失われつつある珍しい山名や地名が地図上に残っていることがあります。
オープンデータ構想に基づき、インターネット上で森林基本図を公開する地方公共団体も増えてきましたが、現状、京都府では閲覧ならびに交付に申請が必要です。
ただし、森林基本図ではなく、国有林の地域森林計画における基本図は公開されています。
京都府では、府内を二つの森林計画区(淀川上流、由良川)に区分し、5年ごとに地域森林計画を立てています。
(京都府ホームページより)
京都府 森林計画区の計画書
https://www.rinya.maff.go.jp/kinki/keikaku/shinrin_keikaku/system_summary/kyoto/newlist.html
近畿中国森林管理局
上記リンク先の「図面【由良川】」「図面【淀川上流】」から、それぞれの基本図を閲覧できますが、国有林に限定されるため、範囲が限られています(逆に申し上げれば、国有林の範囲はこれで確認できます)。
ピークを示しているかは別として、愛宕の「歓喜山」であったり、木津川市の「光明山」であったり、国有林としての山名や谷名が見えます。
他県における森林基本図の公開例として。
森林基本図の公開について
https://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/070600/jyouhou_teikyou/d00157259.html
和歌山県 農林水産部 森林・林業局 林業振興課
和歌山県の森林基本図は更新が進んでいるようで、そこまで古い山名は見出せませんが、あまり知られていないような地名も見受けられます。
四石山を指して「石石山」としている地図(QC23)は初めて見ましたが、これが誤表記に過ぎないのか、そのように呼ばれることもあるのか調査中。
「守っていきたい京都の風景」に見る京都の山名
「平成28年度第1回京都市歴史的景観の保全に関する検討会の結果について」より。
守っていきたい京都の風景・視対象候補<一覧>
https://www.city.kyoto.lg.jp/templates/shingikai_kekka/cmsfiles/contents/0000217/217547/2801ref03.pdf
京都市情報館
「神宮寺山」と「片岡山」を別の山としている点など、個人的に疑問に思う点がありますが、ハイカー間では知られていないような呼称も含んでおり、とても参考になります。
ただし、根拠が明示されない俗称については正確さを求める調査が必要でしょう。
1900年(明治33年)に陸地測量部は「地名および物名を注記せんには町村役場、郡市役所、時としては地方庁に質し、あるいは中央官衙、地方庁などにおいて出版する地誌に鑑みて、これを定め、および俚音の如きは再三相異なる人に問ふの後、これを採り、もって誤謬を防ぐへし」と指示しています。
「俚音」はローカルな読みを指しており、そういったケースは多くの人に問い合わせたうえで採用し、誤りを避けましょうと見えますが、これは自然地名の確定作業において、現代でも通じる考え方と言えるでしょう。
法務省登記所備付地図データ
https://front.geospatial.jp/
G空間情報センター
2023年(令和5年)1月23日に、全国の法務局(登記所)に備え付けられている地図等の電子データが公開されました。
ダウンロードにはログインが必要です。
ただし、法務省は「地図証明書・図面証明書に代替するものではありません」としています。
登記所備付地図データ(地図XML形式)変換コンバータの公開について
https://www.digital.go.jp/news/4b7250a3-3fcf-4b83-8d52-4bb131e1ba9d/
デジタル庁
合わせて、XML形式 → GeoJSON形式の変換コンバータも公開されています。
地図技術を体験できるマップルラボで「MAPPLE法務局地図ビューア」を公開。日本全国の登記所備付地図がシームレスで閲覧可能に | 株式会社マップル
https://mapple.com/news/20230214/
マップルさんからビューアが一般公開されましたが、やや処理が重い。
全国の三角点マップ表示が容易に
あまり知られていないようですが、「地理院地図」上に三角点を含む全ての基本基準点を重ねて表示でき、これがなかなか便利です。
昔、こつこつ京都府の三角点地図的なものを作製していた時に欲しかった(笑
地理院地図はGitHub でソースコードが公開されており、他に重ねるレイヤ等を編集できます。
皆子山を中心とした、地図上で全基本基準点を表示した例
https://www.kyotocity.net/diary/gsimaps/#12/35.202272/135.835142/&base=std&ls=std%7Ccp&disp=11&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
対象となる基準点をクリック(タップ)すれば、点名や基準点コードなどが分かります。
ただし、すでに廃点となった過去の基準点は表示されません(成果異常の措置対象点や処置保留点は表示されます)。
このタイル(基準点タイル)のURLは、
https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html#cp
で表され、地図ライブラリとしてLeaflet を利用している地理院地図(gsimaps)だけではなく、Google Maps API などでも呼び出せます。
自作の地図アプリや、自分のWebページなどでも、国土地理院コンテンツ利用規約に従って利用できます。
近年の京都府の廃棄三角点(廃点) (把握している範囲)
- 四等三角点87.8m 点名「竹田(たけだ)」 TR45335022301 京都府綾部市七百石町大蔵5-4(綾部ジャンクションの東)
- 四等三角点262.8m 点名「妙見山(みょうけんやま)」 TR45235172101 京都府相楽郡加茂町大字銭司字清水嶽21番地(→京都府木津川市加茂町銭司清水ケ嶽)
この間(2017年頃)、当方の確認不足により、抜けている可能性があります。あしからず。
- 四等三角点22.0m 点名「西ノ岡(にしのおか)」 TR45235356502 京都府向日市物集女町吉田24
- 四等三角点210.5m 点名「西谷(にしたに)」 TR45235177301 京都府相楽郡和束町大字原山字西ノ谷8番地(→京都府相楽郡和束町原山西ノ谷)
「TR~」は設置当時の基準点コードです。
これが分かっていれば、ごにょごにょするだけで、すでに廃点となっている三角点の「点の記」も閲覧できます。
(→2022年2月1日頃から、ごにょごにょな方法では過去の「点の記」を閲覧できなくなりました)(ので、今後、この項目は更新しません)
大阪府の最高峰について
まったく意図していなかったことですが、いつの間にやら、「大阪府 最高峰」や「大阪府の最高峰」の検索結果から流入する方が増えたため、こちらでも取り上げておきます。
大阪府の最高峰については諸説あり、「山頂と見なせる地点が大阪府にも属しており、かつ、固有の山名を持つ山としては最高峰」である大和葛城山、「大阪府に所在する独標としては最高地点であるが、固有の山名を持たない無名峰」である標高点1028m(伏見峠の北西0.3km)、「大阪府の最高地点であるが、金剛山の山肩にすぎず、山頂(金剛山葛木岳)の所在地は奈良県」である大阪府最高地点1056m(金剛山の南東0.75km)などが挙げられます。
かつて、大阪府の公式サイトでは「大阪府の最高峰である大和葛城山」と紹介しており、大和葛城山を大阪府の最高峰と見なしていました(が、2017年5月のリニューアルでページが消滅しました)。
あくまでも個人的な見解だと前置きしておきますが、金剛山葛木岳は大阪平野を囲む山(大阪平野外縁の山)の最高峰だと考えています。
「金剛山には大阪府の最高地点がある」程度が無難でしょう。
フィンランドの最高峰について
少し補足しておきますと、金剛山は「大阪府の最高地点がある山」であって、「大阪府に山頂を置く最高峰」ではありません。
どこがどう違うのか分かりにくいかもしれませんが、両者が一致しないケースはとくに珍しいものではなく、規模の大小を問わなければ、世界中の行政区画の間で多く見らるものです。
さすがに国単位ともなると限られてきますが、まったく例が無いわけではなく、ここではフィンランドを引き合いに出しておきます。
ノルウェーとフィンランドに跨るHalti(ハルティ)周辺峰のうち、Halti (1331m) の山頂はノルウェーに属します。
山頂から僅かに離れた国境線上にフィンランド最高地点のHálditšohkka (1324m) が所在するものの、この地点は”Slope Point”であり山頂とは呼べず、”Haltin rinteellä rajapyykillä 303B.” 「ハルティの傾斜上にある(ないし中腹にある)境界303B」とされます。
Haltiは「フィンランドの最高地点がある山」であることは確かですが、山頂はフィンランドには属していません。
そのため、フィンランド領内に山頂が所在するRidnitšohkka(1317m) が「フィンランドに山頂を置く最高峰」とされます。
Halti周辺最高峰のRáisduattarháldi (1361m) は明確にノルウェー領内に所在します。
fi.wikipediaやen.wikipediaによると、Halti には”the highest point in Finland.” フィンランドの最高地点がある。
Ridnitšohkka は”the second-highest point in Finland, though it is the highest mountain with its peak within Finland.” フィンランドで2番目に高い地点だが、フィンランドに山頂を置く最高峰である。
これが分かりやすい紹介文だと考えられます [10]。
初期座標の中心に表示される、国境線上に描かれる”Halti 1323.6m”がフィンランドの最高地点です(追記しておきますと、後に地図が更新されたことにより、”Halti 1323.6m”が表示されなくなりましたが、記事はこのままにしておきます)。
“Halti 1323.6m”のすぐ西、ノルウェー領内に描かれる”Halti 1328m”が山頂を指しているようですが、実際の山頂の位置や標高とはずれがあります。
Haltiの山頂域はなだらかな丘陵が広がっており、山頂が二転三転した歴史があるそうで、その影響かもしれません。
現在、Haltiの山頂と見なされているのは、”Halti 1323.6m”のすぐ北に描かれる1331mピークで、地図上に山名は表示されませんが、よく見れば1330m等高線が描かれています。
また、Halti周辺の最高峰であるRáisduattarháldiは初期座標の北北東に、フィンランドに山頂を置く最高峰のRidnitšohkkaは初期座標の南東に所在しますので、興味がある方はスクロールしてみてください。
いずれの山も広義のHaltiに属します。
Haltiの山頂は国境線から大して離れておらず、Haltiをフィンランドの最高峰とするため、ノルウェー側の提案によりフィンランドに土地を譲渡する形で山頂まで国境線を下げようとする動きもありましたが、憲法上、ノルウェーの領土は不可分であるとして却下されたそうです。
もし、国境線が変化して山頂がフィンランド領に跨れば、フィンランドの最高峰はHaltiとなります(現在はあくまでも”highest point”であって、”highest mountain”ではありません)。
わずかな距離ですが、それほど「山頂がどこに所在するか(どこに属するか)」は最高峰の定義において大きな意味を持ち、常に議論の的となります。
金剛山の頂が大阪府ではないのは江戸時代に遠因が?
大阪府の最高峰の件で追記しておきます。
元来、この山域は、河内国(大阪府)と大和国(奈良県)の間で国境問題が発生しており、そういった点でも難しい問題を抱えていました。
日本地図学会の機関紙『地図』 Vol.32 No.2 に収録される河村克典先生の記事がなかなか興味深く。
「大和と河内の国境論争に伴って作製された立体図」
https://doi.org/10.11212/jjca1963.32.2_13『地図』 Vol.32 No.2 1994年(平成6年)(日本地図学会) より
江戸時代(元禄年間)に河内国側(淀藩の分散所領)と大和国側(高取藩領)の間で金剛山周辺の境界争いが激化し、結果、京都所司(江戸幕府)により大和国寄りの裁定が下されたようです。
この際に定められた国境が、現在の府県境にも少なからず影響を与えているように思えます。
当時、河内国側では「篠峰・水越峠・水無ヶ峰・横峯・湧出ヶ嶽」の峯筋より西を河内国だと主張していました。
「篠峰」は現代の大和葛城山を指しており、大和国側からは「戒那山」、河内国側からは「篠峰」と呼ばれていました。
「峯筋」(主稜線上)に位置するということや、「かんとか木場」(かんとけ木場)との位置関係から判断するかぎり、「水無ヶ峰」はダイトレ旧パノラマ台のすぐ北の標高点831m付近を指しており、「横峯」は旧パノラマ台の南、ダイトレのコース付近だと推測できます。
「湧出ヶ嶽」は現代の湧出岳周辺ですが、かなり大雑把に申し上げて、現代でいえばダイトレより西を大阪府だと主張していたようなもので、今の府県境とは随分と異なりますね。
もし、この時、河内国側の主張が受け入れられていれば、現代において、金剛山葛木岳の山頂が大阪府に属していた可能性もあります。
もちろん、これは仮定や可能性の話であって、必ずしもそうなったとは限りません。
福井県の最高峰について
地形図に山名が表示される山としては「二ノ峰」(三角点1962.3m)が福井県の最高峰ですが、「打波ノ頭(越前三ノ峰)」(標高点2095m)が数値上の最高峰です。
打波ノ頭(越前三ノ峰)は地形図(地図)ではこのあたり で、福井県大野市上打波と岐阜県高山市荘川町尾上郷の県境にあたります。
私は以前より「比叡山から福井県最高峰が見える?」の記事 などで打波ノ頭(越前三ノ峰)を福井県の最高峰として紹介していましたが、かつては二ノ峰が最高峰だと見なされており、打波ノ頭(越前三ノ峰)を最高峰と考える方は少なかったように記憶しています。
その後、打波ノ頭の呼称が広く知られるようになり、2015年(平成27年)頃には福井県の最高峰として紹介するウェブサイトや記事も増えました。
ただ、従来の呼称である「打波ノ頭」(打波の頭)と、近年になり命名された「越前三ノ峰」の呼称が混在しているため、地形図(地理院地図)では無名峰のままか、将来的にどちらが採用されるか注目しています。
スウェーデンの最高峰について
Skanderna(スカンディナヴィア山脈)に属するKebnekaise のうち、Sydtoppen(南峰)がスウェーデンの最高峰とされてきましたが、近年、気温の上昇に伴い、Sydtoppenの山頂を覆う氷河が溶け、年々、標高が低くなっています。
ストックホルム大学の調査 によると、ついに2018年8月にはNordtoppen(北峰)の標高を下回り、最高地点が逆転したようです。
リンク先の記事には「南峰は雪に覆われた氷河で構成されており、温暖化の影響で沈下して北峰の高さを下回ると研究者たちは予測してきました。北峰の最高点は岩で構成されており、安定しています」とあります。
この傾向が続けば、いずれ、標高の変化が少ないNordtoppenがスウェーデンの最高峰として扱われるようになるでしょう。
氷河は絶えず変化しているので、Tarfala forskningsstation(ストックホルム大学の研究機関)では、毎年、夏の終わりに標高を測定する、としています。
2018年8月の時点で、Nordtoppenの標高2096.8m、Sydtoppenの標高2096.5mとのこと。
Sydtoppenの標高約2060m地点より上が氷河とされます。
2013年頃の値のようで、Sydtoppenの標高が2099mとなっています。
また、地形図と山頂の位置や登山道もずれているようです。
追記しておきますと、後に地図が更新されたことにより、Sydtoppenの標高が2096mと表示されるようになり、さらに山頂等も正しく表示されるようになりましたが、記事はこのままにしておきます。
本項目の初稿公開時に指摘したように、今後はNordtoppenが最高峰として扱われる流れとなるでしょう。
本件を最初に日本語で紹介したのは本記事だと考えられます。
令制国別の大雑把な最高峰(京都府の周辺のみ)
京都の最高峰は皆子山ですが、山城国や丹波国、あるいは丹後国といった、令制国別の最高峰はどうでしょうか。
京都府の周辺のみですが、個人的に調べてみました。
明治政府による第1次府県統合後の国郡区域を基準としていますが、この頃は完全に国境(国界)が確定していたわけではない地域(山域)があります。
時代によっては丹波国に属していたとされる八升村、大布施村、別所村の諸村(現在の京都市左京区花脊)は山城国として扱います。
あくまでも参考程度に。
若狭国の最高峰
大御影山(三角点949.9m、最高地点は約952m) 福井県三方郡美浜町、滋賀県高島市
若狭と近江を分けますが、地形図に山名の表示がないことから見落としやすいです。
百里ヶ岳(931.4m)を若狭の最高峰とする記述は誤りです(が、地形図に山名が表示される山としては最高峰といえるでしょう)。
また、福井県を嶺北と嶺南に二分する場合、大御影山は嶺南地方(若狭国+敦賀市)の最高峰でもあります。
かつては大御影山の最高点をノト又山(能登又山)とも呼んでいたようで、1937年(昭和12年)の『スキー適地案内』に、「大御影山、九五一米一(ノト又山)には雪が多く展望も絕佳であつた。」「此の邊の山名は村々で違ふ樣で(中略)大御影山 能登野では三尾と云ひ松谷ではノト又山と聞いた。」と見えます。
記事のタイトルでは分かりにくいですが、ノト又山の件は上の記事で少し取り上げています。
近江国の最高峰
伊吹山(1377.3m) 滋賀県米原市(、岐阜県揖斐郡揖斐川町、不破郡関ケ原町)
山頂域は米原市にあたりますが、山体は近江と美濃に跨ります。
現在も伊吹山の山頂東部に境界未定地がありますが、山頂の所在地や所属に大きな影響は与えないと考えられます。
丹後国の最高峰
大江山(千丈ヶ嶽)(832.4m) 京都府与謝郡与謝野町、福知山市
現在の福知山市にあたる地域はおおむね丹波国に属していましたが、千丈ヶ嶽の山頂を分ける旧加佐郡大江町、与謝郡与謝野町は全域が丹後国に属します。
よって、千丈ヶ嶽の山頂は丹後国にあたり、両丹(丹波・丹後)国境とする記述は誤りです。
ただし、千丈ヶ嶽の南面や、あるいは千丈ヶ嶽から南西に連なる赤石ヶ岳など、大江山連峰に属する一部の山々は丹波国にも跨っています。
室町時代の『御伽草子』に描かれる酒呑童子の物語で、賊(鬼)が住まう山を「丹波国の大江山」としているため、大江山は丹波国という印象を持たれやすいですが、江戸時代中期、宝暦11年(1761年)に成立した『宮津府志』(丹後州宮津府志)によると、この「丹波国の大江山」とは福知山の鬼ヶ城のことであり、「丹後国の千丈ヶ嶽」のことではないとしています。
いわく、酒呑童子は丹波の大江山に住んでおり、千丈ヶ嶽は酒呑童子の一族が住まう出城だったが、大江山は王城(京都)に近きを憚って千丈ヶ嶽に移った、丹後国では俗に丹波の大江山を「大江山鬼ヶ城」と呼び、丹後の千丈ヶ嶽を「千丈ヶ嶽鬼が窟」と呼んでいる、とのこと。
福知山の鬼ヶ城については上の記事で取り上げています。
ただし、『前太平記』などの記述を読み解くかぎり、茨木童子が守ったとされる丹波の大江山鬼ヶ城は、本来、京都西山老ノ坂の大枝山を指していたと考えられます。
その件についても上の記事に。
丹波国の最高峰
粟鹿山(粟鹿峰)(962.3m) 兵庫県丹波市、朝来市
丹波と但馬を分けます。
この山は「丹波市最高峰」と紹介されることが多いものの、丹波全体の最高峰です。
伝説や神話の上では「大山」や「見国岳」と呼ばれていたとされ、とくに高い山と扱われていました。
「粟鹿」は但馬国側の地名ですが、古くより丹波国の山として名が挙がっており、国境上とはいえ、丹波の山でもあると見なされていたのは確かでしょう。
京都市左京区に所在する皆子山や峰床山は粟鹿山の標高を上回りますが、いずれも山城の山です。
丹波國
山岳
粟鹿峯ハ、氷上郡ノ西北ニ聳ヘ、山下ニ稻土村アリ、其山脈、延テ、西北境ニ亘レリ『小學校用 兵庫縣管内地誌要略 上』(教育書房)
但馬國
山岳
朝來山、一名粟鹿山ハ、朝來郡粟鹿村ノ北方、丹波ノ境上ニ秀峙スル峻山ニシテ、山上茂樹森々トシテ、翠欝乎タリ、頂上ニ粟鹿神社ヲ鎮座セリ、祠宇頗ル宏壯タリ『小學校用 兵庫縣管内地誌要略 下』(教育書房)
1883年(明治16年)の『小學校用 兵庫縣管内地誌要略』(小学校用 兵庫県管内地誌要略)から引いておきます。
上巻に地名が見える「稻土村」は現在の兵庫県丹波市青垣町稲土。
但馬国側から見て、朝来山の一名を粟鹿山とする、あるいは粟鹿山の一名を朝来山とする描写は他誌でも見られますが、下巻では「粟鹿村の北方」としているのが気になります(南方では?)。
地理院地図における三角点756.4m峰の「朝来山」とは異なります。
また、「頂上に粟鹿神社を鎮座せり」とも見えますが、電波塔だらけになる前は祠もあったのでしょうか。
但馬五社としての粟鹿神社さんは山麓に所在します。
丹波国のうち、現在の京都府に属する山の最高峰
三国岳(久多三国)(959.1m) 京都府南丹市、京都市左京区(、滋賀県高島市)
近江と山城、丹波の3国を分けますが、現在の山頂は丹波と山城の2国を分けるのみです。
山頂北東の小ピークが3国の国境を成しています。
報道記事で、「長老ケ岳は丹波地域最高峰の標高917メートル」と紹介されていますが、長老ヶ岳は旧船井郡や京丹波町の最高峰であっても丹波地域 [11]の最高峰ではありません。
京都丹波地域の最高峰は三国岳であり、山頂が国境を分ける山を除き、山頂と見なせる地点が丹波地域のみに属する山に限定するとしても、例えば旧美山町芦生(丹波国桑田郡)に所在する「ブナノキ峠」(939.2m)、「傘峠」(935m)、「天狗峠(天狗岳)」(928m)が長老ヶ岳の標高を上回ります。
一個人の見解であればともかく、残念ながら、真実や正確性を尊重した報道とはいえません。
マスメディアさんの影響力はきわめて強く、この手の謬説を放置しておくと、やがてはそれが定説のように広まりかねないため、改めてこちらでも述べておきます。
山城国の最高峰
皆子山(971.3m) 京都府京都市左京区、滋賀県大津市
近江と山城を分けます。
大原と葛川を分ける山ですので、少なくとも皆子山を丹波の山とする記述は誤りです。
ただし、歴史的な経緯を見ると、古くは近江の山と見なされていたようで、単純な国割り・府県割りで見るのは難しいかもしれません。
たとえば、比叡山も府県境の確定に時間を要しています(山城国側住民と延暦寺側で国境の認識が異なっていたが、後世に分かりやすく伝えるため、比叡山地の主稜線を府県境とすることで合意しています。この経緯は調べれば調べるほど興味深い話が見られ、たとえば、京都府側の八瀬村では比叡山の山域を延暦寺から「永代請地」としていました)。
摂津国の最高峰
六甲山(931.3m) 兵庫県神戸市北区、神戸市東灘区
摂津の山でも六甲山最高峰は頭ひとつ抜けて高く、六甲山地のみならず、摂津国全体の最高峰であることは疑いようもありません。
いわゆる北摂地域の山に限定すれば、大阪府豊能郡能勢町と京都府南丹市の府境に所在する深山(790.6m)が最高峰。
本記事における北摂地域は、大阪府が定義する三島地域と豊能地域、それに兵庫県が定義する阪神北地域に限定しますが、かつての有馬郡の全域を北摂地域に含むとする考え方もあるらしく、その場合は最高峰も変化します(六甲山最高峰が北摂最高峰となる)。
脚注
- ただし、1949年(昭和24年)4月1日に愛宕郡大原村が京都市左京区に編入されて以降。1949年(昭和24年)3月31日以前の京都市最高峰は京都市右京区と北桑田郡細野村(当時)の境にあたる地蔵山。1921年(大正10年)3月31日以前の京都市最高峰は京都市上京区(当時)の如意ヶ岳。[↩]
- 不可能というわけではありません。一例として、出町柳や加茂大橋(賀茂大橋)のあたりから皆子山の西稜が見える可能性があります。ただし、この地点から山頂は見えません。京都市内を南下すれば皆子山の山頂が見える地点が増えます。計算上、伏見区の宇治川流域や巨椋池跡の広い範囲から皆子山の山頂が見えます。場所を選べば鴨川の南部流域や桂川の南部流域の堤防や橋からも皆子山の山頂を見通せることを私自身の目で確認しています。また、地表ではなく建築物・構造物からとなりますが、京阪電鉄さんの淀駅ホームから皆子山の山頂を遠望できることも確認しています。[↩]
- 本記事においては、その標高(海抜)にかかわらず、固有の「山名」を持ち、「頂」と見なせる地点を有すること。[↩]
- 東京の日本橋に地上高70mの純木造ビルが建築される予定で、東寺五重塔は日本一高い純木造建築物ではなくなります。もちろん、日本一高い純木造の塔であることに変わりはありません。[↩]
- 現地には「亀岡最高地845m」を示す標があります。「基盤地図情報(数値標高モデル)10mメッシュ」(DEM10B)では832m、「基盤地図情報(数値標高モデル)5mメッシュ」(DEM5A)でも832m。[↩]
- 丹後半島最高峰であって丹後地方最高峰ではないことに留意。これは私の独断による定義ながら、本記事では日本海に突出した半島部のみを丹後半島とする。[↩]
- 竜ヶ岳は愛宕山の北、地蔵山の東に所在する山。現代においては、愛宕山と地蔵山、そして竜ヶ岳の三座を俗に「愛宕三山」などと呼びます。「龍華」の当て字は、竜華三会の竜華樹になぞらえただけではなく、当時、竜ヶ岳(龍ヶ嶽)でシャクナゲが多く見られたことによります。竜ヶ岳のシャクナゲについては『京都北山と丹波高原』に「この附近(山頂)は石楠花の多い所で五月頃には實に見事なものである」などと見えます。また、吉田初三郎の鳥瞰図『嵐山嵯峨御室清瀧愛宕嵐峡下り』には龍ヶ嶽の東方(下方)に「石楠花谷」や「象ヶ鼻」なる地名が描かれています。ただし、竜ヶ岳は嵯峨町の山ではなく細野村の山です。山の上に地蔵山運動場や愛宕山天幕村などを整備し、すでにあったスキー場などの施設と、高雄や清滝、あるいは西麓の樒原や越畑を結ぶ大ドライブウェイの構想があったそうで。[↩]
- 私の父は本記事の初稿を記した時点で他界しています。父は大文字山の山麓にあたる左京区浄土寺の生まれで、大文字山についてとても詳しく、京都の山についても一定の知識を持っていましたが、生前、山について話す機会を持てなかったことが悔やまれます。[↩]
- ただし、他の絵図にも地名が見える「高山」は、「名所」ほどの知名度がある山とは言い難いものの、『城南伏見地圖』でも「俗に高山と呼ばれる」山として載せています。[↩]
- もっとも、「最高地点」と訳すべき”highest point”を「最高峰」と誤訳しているせいで、(本項執筆時点では)ja.wikipediaの「ハルティ」の項目は誤った内容となっています。よくある話ですので、何事も自身で原文を引き、可能であれば地図を見るべきでしょう。[↩]
- 京都府の定義によると、「京都丹波地域」は、京都府のほぼ中央部に位置する亀岡市、南丹市及び船井郡京丹波町の地域を指す。南丹市の全域が含まれることに留意。[↩]
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