2015年(平成27年)5月の話。
下山後、夕涼みがてら、この日は空也滝へお参り。
夏の暑い盛りにはイワタバコのお花が咲くことでも知られますが、京都府では珍しい、ある植物が付近の某所に分布する(かもしれないので確認して欲しい)、といった情報が当サイトに寄せられ、その調査も兼ねて。
愛宕山の南東麓にあたる空也滝は、古く空也上人が開いた霊場とも伝わります。
月輪寺さん(鎌倉山)の南を流れる大杉谷の豊かな水が打つ瀑布は、アクセスが容易な京都市内の自然滝としては立派な部類と言えるでしょう。
大杉谷は梨ノ木谷(梨の木谷)を合わせ堂承川となり、やがて清滝川に流入します。
初夏の空也滝(空也の滝、空也瀧)。水量豊富。
古くは空也滝の上流にあたる「ひぐらしの滝」(日晩滝、寒蝉滝、ヒグラシの滝)と混同されていたか、あるいは同一視されていたようです。
ひぐらしの滝は大杉谷の奥まった位置、標高約400m~の地点に所在しており、山を歩き慣れたハイカーでないと訪れるのは難しいでしょう。
※ひぐらしの滝の所在地を標高約300m地点と紹介している記事等は誤りです。
細川幽斎(藤孝)が愛宕山や月輪寺を登拝、参詣した際に詠んだ歌として、
愛宕山より月輪にまかりて秋立て二日といふに下山しける道に瀧のありけるを人にたつねけれは日くらしの瀧とこたへけるに折ふし日くらしの名にもたかはす鳴けるをきゝて
きのふけふ秋くるからに日くらしの聲打そふるたきのしら浪
『衆妙集』
があります。
「ひぐらしの滝」の呼称は、この歌や、その詞書に見えるエピソードが元となり広まったようですが、元々は別の名前で呼ばれていたとか?
上でも触れましたが、現在、空也滝と呼ばれる滝と、ひぐらしの滝と呼ばれる滝は混同されており、本来、空也上人ゆかりと考えられていたのは、現在、ひぐらしの滝と呼ばれている滝のほうだったとする説も。
武家ながら、幽斎は安土桃山時代を代表する文化人として知られますが、日野の方丈石も訪れたり、山や峠の歌も好んでおり、とくに山歩きを苦にしなかったようです。
幽斎が日野を訪れた話は上の記事に。
大杉谷の下流にあたる参道も雰囲気がよく。
日本において、八大龍王は雨水の神様ですが、法華経における仏法の守護尊であり、とくに修験道とは関わりが深く、たとえば、大峰や和泉葛城の山々でもお祀りされています。
愛宕山においても、空也滝と関わりが深い月輪寺さんで、かつては龍女滝(龍女水)や龍王堂(竜王社)(竜神の社)がお祀りされていました。
空也上人が愛宕山に住む龍神を救う(あるいは教化する)といった伝説があり、これは能の謡曲「愛宕空也」として知られています。
この龍神は弘法大師が唐の青龍寺から日本に招いた清瀧権現(龍女)であり、清滝の地名の由来とも伝わります。
ただし、嵯峨町の伝承では役行者と泰澄上人が清滝の四所明神を清滝の上の山(後の愛宕山)の神廟に祀ったとしており、それにしたがうのであれば、「清滝」の名は弘法大師より前に存在したことになります(が、もちろん、いずれも伝説的な要素が強く、どれが正しいというものではありません)。
この清滝四所明神は明治の神仏分離(神仏判然令)で廃されましたが、室町時代に愛宕山から西麓の原(現在の右京区嵯峨樒原)に勧請されており、そちらは今も四所神社としてお祀りされています。
少し追記しておきます。
1893年(明治26年)の『日本地名全辭書 巻一』(日本地名全辞書)に、
鎌倉山・月輪寺
(前略)
空也上人が月輪寺に來住した時、寒蝉の瀧の龍女が婦人に化して上人に見えていふ、「師の誦經の軸に必ず佛舎利あり、我に與へよ」と。それから軸を割いて見た處、果たして其言つた通りであつた。其處で其佛舎利を龍女に授けた。もと此山には水が無かつたが其恩を報ずるために惣ち清泉が迸り出て、今日いふ靈水が出來たといふ。『日本地名全辭書 巻一』
と見えます。
「愛宕空也」と近い筋書ですが、江戸時代頃に月輪寺さんでお祀りされていた龍女滝や龍王堂は、こういった説話に由来すると考えられます。
やはり、寒蝉の瀧も空也上人ゆかりと考えられていたことが伝わりますね。
「今日(こんにち)いう霊水」は、月輪寺の後ろで湧いたとされる龍女水のことで、古い絵図には御堂の裏に「龍女水」として滝の絵が描かれますが、これはイメージなのか、実際に滝のような流れだったのか分かりません。
江戸時代頃、修験の地において、龍王様と弁天様が並んでお祀りされるケースが多く見られましたが、当地も例外ではなく、月輪寺さんでも(かつては)弁財天堂がお祀りされていたようです。
こういった信仰も、明治政府による修験禁止や神仏分離の影響を受けました。
追記終わり。
空也滝への参道。
山中はすでに薄暗いですが、沢の流れが美しく。
上で申し上げた、古くは「ひぐらしの滝」と「空也の滝」が混同されていた可能性について軽く触れておきます。
正徳元年(1711年)の『山州名跡誌』では「日晩瀧(ヒグラシノ瀧)」と「日暮瀑」を別々に紹介していますが、「空也滝」の名は見えません。
ここでは「日晩瀧」と「日暮瀑」を明確に異なる滝として扱っており、空也上人の説話に見える滝は「日暮瀑」としています。
また、「日暮瀑」は「高野瀑(コウヤノ瀑)」なる、おそらく失われたであろう滝と合わせて、「月輪寺の巽(南東)の谷にある」と紹介していますが、「高野」は弘法大師ゆかりでしょうか。
「こうや」と「くうや」の音が似ているのも少しばかり気になりますね。
このように、それぞれの滝がどこを指しているのか曖昧な時期があり、混同も見られましたが、遅くとも明治時代には現在の形に収まったようです。
おまけ程度に動画も。
30秒程度の短いファイルです。
この日は谷間に吹き込む風も強く、暑さをしのぐにはもってこいの涼しさでした。
今年は「哲学の道」などのホタル(蛍)の出も例年より早く、春だけではなく、夏の訪れも早いように感じます。
2ヶ月ほど後、他の方と夏の愛宕山を登り、山上から遠くを見晴らした話は上の記事に。
愛宕山 空也滝(地理院 標準地図)
「空也滝(クウヤノタキ)(くうやのたき)」
標高約250m~
京都府京都市右京区
最近のコメント