2014年(平成26年)4月上旬の話。この日は京都府最南部(最南東部)の南山城村へ。
JR関西本線の月ケ瀬口駅(月ヶ瀬口駅)を起点として、駅から南、木津川本流に架かる笹瀬橋を渡り、木津川沿いに山中を歩き、名張川の高山ダムへ向かいます。
月ヶ瀬口は三重県伊賀市島ヶ原と接しており(平成の大合併以前は三重県阿山郡島ヶ原村)、今回の旅路とは向かう方角が異なりますが、駅から東、国道163号を徒歩で10分も歩けば府県境を越え、島ヶ原の山菅地区に出ます。
高山ダム(月ヶ瀬湖)の桜
高山ダム(月ヶ瀬湖)から名張川左岸の桜並木を望む。
このダムは初期の計画・調査段階では「高山堰堤」と呼ばれており、現在はダム湖を指して「月ヶ瀬湖」と呼ぶ方もいらっしゃいます。
高山堰堤の位置は京都府相楽郡高山村大字田山字剱(俗称夢絃峡)にあり,木津川の支流名張川が本流(伊賀川と呼んでいる)に注ぐ約500m手前の狭隘な地点に,基盤上高さ66.5mの堰堤の築造が予定されている。
『京都府高山堰堤地点地質調査報告』(産業技術総合研究所地質調査総合センター)
1955年(昭和30年)の予定地点調査報告書より。「俗称夢絃峡」については後述。
「相楽郡高山村 大字田山 字剱(つるぎ)」の高山村は高山ダムの由来ともなっています。
この1955年4月1日に高山村は相楽郡大河原村と合併して南山城村となり、地方行政区分としては失われましたが、高山ダムに名前を残しました。
ソメイヨシノにより淡いピンク色で彩られたダム湖は美しかったものの、この日はとくに霞んでおり、晴れているにもかかわらず、この薄い空の色。
春らしい霞み空と言えばそれまでですが、どうにもすっきりしません。
高山ダムの案内板と桜並木。「高山ダムにようこそ!」とあります。
貸し切り状態の高山ダムで、のんびりお花見を楽しむことができました。
名張川の上流、高山ダムから4~5kmほど川を遡れば奈良県奈良市月ヶ瀬、山辺郡山添村に至ります。
後述しますが、下流は0.5kmほど下ったあたりで木津川本流を合わせます。
高山ダムの裏山ハイキング
高山ダムの裏山、「?のこみちコース」などを散策。
目立ったピークも持たない名もなき山ですが、よく整備された歩きやすい山道です。
夢絃峡
木津川本流(伊賀川)と名張川(五月川)の合流地点が「夢絃峡(むげんきょう)」と呼ばれる峡谷です。
さほど知名度が高いとは言えないものの、「京都の自然200選」にも選定されています。
京都の自然200選 夢絃峡/京都府ホームページ
所在地 南山城村大字田山
夢絃峡は、木津川と名張川の合流地点の峡谷で、深い緑の中に静かに横たわる深淵です。ここには、平安時代の大和国司絃之丞と名張郡司の娘夢姫の悲恋物語が伝えられ、夢絃峡の名も二人の名にちなんで付けられたといわれています。
この件で久々に追記しておきますが、「京都の自然200選」を個別に紹介するページが消えてしまいましたね(おそらく2021年春頃のリニューアルで消えた?)。
もともと、「京都の自然200選」は1990年(平成2年)~1995年(平成7年)にかけて選定されたもので、選定から20年以上の月日が流れ、環境が変化したのかもしれません。
再追記しておきますと、またいつの間にやら夢絃峡を紹介するページが復活していました。
何度も確認しましたので、消えていた時期があったのは確かです。
追記ついでに触れておきますが、高山ダムの右岸域も「ヤマセミの生育する高山ダム右岸域」として「京都の自然200選」に選定されています。
京都府でヤマセミといえば宇治市の某ダムが有名ですが、ヤマセミはダム湖を好むのでしょうか。
(前略)選定した植物、動物、地形・地質、歴史的自然環境については、選定当時と状況が変わっている可能性があります。
【ご協力のお願い】
「京都の自然200選」選定事業は、市町村及び府民の方々からの推薦を踏まえた選定から、すでに約30年が経過しております。
改めて、現在の標柱や選定された植物等の状況の把握に努めているところですが、適切な管理を行うため、(後略)
トップページに追記されていました。
私が述べた「選定から20年以上の月日が流れ、環境が変化したのかもしれません」の見解は正しかったのでしょう。
夢絃峡|京都府レッドデータブック2015
https://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/geo/db/sur0054.html
「京都府レッドデータブック2015」で、夢絃峡は「要注意」地形の指定を受けています。
ここでも「夢絃峡の名は、大和国司の絃之丞と名張郡司の娘、夢姫の悲恋物語に由来すると伝えられている」と見えますが、1920年(大正9年)の『京都府相樂郡誌』(京都府相楽郡誌)などを調べても、この伝説はおろか、そもそも夢絃峡について触れておらず、どこから生じたのかよく分かりません。
公的に編纂された地誌である『京都府相樂郡誌』の附図に「夢絃峡」が描かれていないのは不自然だと考えています。
大正時代末期か、あるいは昭和初期頃に突如として現れた伝説のような?(おそらく、舟下りの観光が始まった時期と重なる)
野暮を承知でいちおう述べておきますと、「国司」「郡司」を強調する平安時代に、「絃」や「丞」の字を人名に用いるケースはきわめて珍しいというか、まずありえません。
律令制における「丞」は八省の三位(三等官)を示す官職であり、「助」など、他の官職と同様、それが後に名前(名乗り)の一部に使用されるようになりました。
1926年(大正15年)から連載された吉川英治の『鳴門秘帖』、主人公の法月弦之丞が人気を博しましたが、あの作品の舞台は江戸時代であり、(絃ではなく弦ですが、)あくまでも創作の人名です。
「夢絃峡」を木津川の下流から望む。
撮影地点や、その下流のあたりは大きく湾曲する地形で、弓ヶ淵(弓ヶ渕)とも呼ばれており、柳生十兵衛(三厳)が亡くなったとも伝わる地です。
いわゆる「夢絃峡」と呼ばれる地点は、上の写真では最奥(右奥)にあたります。
合流地点の左が木津川本流で、写真では隠れ気味ですが、右が名張川や高山ダム方面。
ダムや車道が整備された現代はともかく、かつては深山幽谷の趣があったのでしょう。
合流前の木津川本流は伊賀川とも、当地では長田川や田山川とも呼ばれており、名張川は奈良では五月川とも、当地では高尾川とも呼ばれていました。
現行の地理院地図や、戦後の地形図からは消えましたが、戦前の地形図では当地に「夢絃峡」と表示されており、川幅も今より細い印象を受けます。
国土基本図(大縮尺図)(VI-OE-60)にも「夢絃峡」は描かれません。
「上野から名張へ」
伊賀ライン夢絃峡
(關西線島ヶ原驛から約一丁)
島ヶ原橋下手から乗船して翠巒迫る伊賀川に沿ひ奇石怪岩を縫うて矢の如く船を下す、笹橋を潜り夢絃峡に至る間約六キロ、四季の舟遊に好適『名古屋・岐阜→三重→奈良 觀光ガイド』
1938年(昭和13年)の『名古屋・岐阜→三重→奈良 觀光ガイド』といった観光案内ガイドブックに目を通すかぎり、昔は舟下りも行われていたようですね。
1933年(昭和8年)の『日本案内記 近畿篇 下』によると、下流の北大河原に発電所のダムが設けられたことで(大河原発電所と大河原取水堰)、渓谷に「瀞(とろ)」が形成され、舟遊びに適するようになったとか。
漢字(中国の文字)としては、「瀞」は水の音が聞こえず静かで清らかの意、日本では峡谷において流れが緩やかになる深淵を指す例が多いですが、大河原のダム造成以前は流れが急すぎたのでしょうね。
「翠巒(すいらん)」は青く(あるいは緑に)連なる山並みを形容した表現で、「笹橋を潜り」の「笹橋」は、本記事の冒頭で私が渡った(現在の)笹瀬橋の前身となる橋だと考えられます。
『京都府相樂郡誌』によると、笹瀬橋は1907年(明治40年)に初めて架橋されるも、同年8月の水害で墜落し、ただちに架設。
1917年(大正6年)10月にも出水で墜落し、再び架橋したと見えます。
それから戦後までの経緯は分かりかねますが、京都府に大きな被害をもたらした、1953年(昭和28年)の台風第13号(テス台風)でも流出しており、その後、現在の橋が架橋されました。
国鉄関西本線の月ケ瀬口駅が開業したのは、戦後、1951年(昭和26年)12月ですので、戦前のガイドブックでは触れていません。
話は変わりますが、川沿いを散策中に、野生のテンさん、つがいらしき2頭を見ました。
過去にアナグマさんやタヌキさんは何度も間近で見ていますが、テン(ホンドテン)をあんなに間近で見たのは初めてかもしれません。
この日も渓谷美や自然を楽しむことができましたが、いずれ、他の季節にも高山ダムの周辺を訪れてみたいものです。
現在、京都国立博物館さんで特別展覧会「南山城の古寺巡礼」が開催されていることもあり、私の中でもちょっとした山城南部ブームが起きています。
追記
久々に追記しておきます。
この記事の公開当初は、インターネット上では知る人も少ない花見スポットでしたが、近年は広まってきたようですね。
それは喜ばしいことですが、高山ダム(月ヶ瀬湖)を奈良県と紹介なさる方がぼちぼちいらっしゃるようです。
高名な月ヶ瀬梅林の影響だろうとは思われますが、ダムは明確に京都府下に所在します。
単純な直線距離の観点だけで申し上げれば、ダムからは(京都府と)奈良県との府県境より、(京都府と)三重県との府県境のほうが近かったりします。
奈良市はもちろん、南山城村も良い場所ですよ。
高山ダム(月ヶ瀬湖)(地理院 標準地図)
「高山ダム(月ヶ瀬湖)」
「夢絃峡」
京都府相楽郡南山城村
最近のコメント