大福山から大阪湾を展望 小豆島や淡路島を遠望 紀泉アルプス

2012年(平成24年)も終わりを迎えようとする12月下旬の話。
和泉山脈でも西部山域にあたる紀泉アルプス(紀泉高原)の山々を縦走登山しました。
和泉山脈は大阪と和歌山を分ける山脈で、とくに大阪湾寄り(紀淡海峡寄り)の西部山域を指して「紀泉アルプス」と称します。
まずは大阪府阪南市側から俎石山(まないたいしやま)に取り付き、北展望台からの眺望を楽しみます。

俎石山から淡路島の観音さん(世界平和大観音像)を望む 2012年12月

俎石山 北展望台 明石海峡大橋、淡路島観音を遠望 阪南市

2013.01.20

北展望台から明石海峡大橋や淡路島を撮影した話は前回の記事に。今回はその続きです。

紀泉アルプス 俎石山から大福山へ

俎石山の北展望台からの眺めは素晴らしいもので、後ろ髪を引かれる思いではありましたが、次の目的地を目指して歩き始めます。
北展望台までは大阪府でしたが、いよいよ和歌山県との府県境です。
一等三角点が設置される俎石山の山頂を通過し、大福山方面へ向かいましょう。
今回、私が歩いたコースとしては、俎石山の山頂付近~大福山の山頂付近の区間のみ、紀伊国と和泉国の国境尾根にあたります。
私は展望愛好家ということもあり、このあたりの山域は秋~冬頃に訪れていますが、ササユリの山としても知られていますので、初夏に訪れるのも良いでしょう。

多少のアップダウンこそあるものの、俎石山と大福山は大した距離ではありません。
大福山弁天窟跡の分岐や経塚跡の分岐を見送り、あっさり登頂します。
大福山の経塚跡は、かつての「葛城二十八宿 第三番経塚 紀州大福山 妙法蓮華経 譬喩品」にあたるとされます。

大福山の山頂 和歌山県和歌山市・大阪府泉南郡岬町

紀泉アルプス 大福山の山頂 和歌山県和歌山市、大阪府泉南郡岬町 2012年12月
大福山の山頂に到着。和歌山県和歌山市と大阪府泉南郡岬町の府県境。
標高427mに所在する山頂の祠で弁天様がお祀りされています。

大福山の山中に所在したとされる大福山弁天窟については、1906年(明治39年)の『日本山嶽志』に、

懴法嶽
紀伊國海草郡ノ北方ニアリ、登路[式按スルニ、直川村カ]凡三十五町、
((地辭))大福山辨天窟より北に登る五十町、又修驗行所也、岩石嵯峨たり、
大福山(ダイフクサン)
紀伊國海草郡和泉國泉南郡ニ跨ル、登路[式按スルニ、直川村カ]凡一里四町、
『日本山嶽志』

とあり、この描写を見るかぎり、大福山の北(俎石山の南)では、どうも位置関係が合わないように思われます。
「式按スルニ」は、大雑把に申し上げて、「(『日本山嶽志』の編者である)高頭式が他の史料と照らし合わせて考えるには」といった意味合いです。
大福山の南(懴法ヶ嶽の北)にも弁天窟への道があるようで、今ひとつ事情がよく分かりません。
登路の起点だと考えられる「直川村」は、紀伊国名草郡の村で、現在の和歌山市直川(のうがわ)にあたります。
往古は弁天の窟にあったとされる本恵寺さんが、後に山麓の直川の地に移され、「大福山」を山号となさっています。

大福山の読みは「だいふくやま」ではなく「おおふくやま」が正しい?

本記事で扱う「大福山」の読みについて、長年、とくに疑うこともなく(深く考えることもなく)、「だいふくやま」あるいは「だいふくさん」だと思い込んでいました。
国の基幹となるデータソースである「電子国土基本図(地名情報)」では、「大福山」について、「名称のよみ」を「だいふくやま」、「名称のローマ字」を”Daifuku Yama” としているから、まず、それを鵜呑みにしていたというのもあります。
また、上でも引いた『日本山嶽志』では、「大福山」に「ダイフクサン」と振り仮名を振っており、これに従えば、明治時代頃には「だいふくさん」と呼ばれていたことになります。

ところが、本記事を公開して約9年ほど経った2021年(令和3年)12月になり、コメント欄で地元の方から「大福山=おおふくやま と言います。」とご指摘いただきました。
元をただせば、本恵寺さん(直川の観音さん)が「大福(だいふく)山」を山号としていらっしゃり、お寺さんの縁起をそのまま解釈すれば、この山をはじめに「大福」と称されたのも本恵寺さんだと読み取れます。
したがって、本恵寺さんの山号としての「大福山」の読みが、そのまま山の読みにあたると考えましたが、コメントをいただき、この件について改めて調べてみると、嘉永3年(1850年)に序文が記された『葛嶺雜記 完』(葛嶺雑記 完)に興味深い描写が見られました。
『葛嶺雜記 完』が世に広まった経緯はやや複雑です が、犬鳴山七寶瀧寺(七宝瀧寺さん)に収められた葛城二十八宿の探索記録『葛嶺雜記』が、奥付に名が見える「常住窟置版」により『葛嶺雜記 完』として編纂され、当時、各地で流行していた観光案内書型の地誌の形を取って刊行されたものと考えられています。
これは口外厳禁とされる修験の記録を残すための策だったようです。

大福山本恵寺
日蓮宗
同国郡直川村にあり新宮本廣寺末
水野家菩提所と云々
開山神 変大士 本堂先手観音おくのいんといふ有
○福集童子本地師子相 東南佛 紀泉国界大福山に鎮座し給ふ
此尊号は佛の教示によつて信男信女の果福といふの義
また所名は大千界恒沙の衆生にあまねく大福祥禎を得さしめ給わんとの意
○たのもしな福集守りつかかるよをおほふく山となさむちかひそ
右の本堂より東にて落合村より丑寅にはかの谷といふ所に塚
妙 譬喩品第三之地
あさきりの大福山のおくまても経塚たてし人のたのもし

『葛嶺雜記 完』

鎮座地の所名(大福山)の由来の次に、この山号を詠んだ歌には「おほふく山となさむ」と見え、これに注釈を付ける素振りも見られないことから、江戸時代後期頃、正しい知識をお持ちだったと考えられる葛城の山岳関係者さんの間では「おおふく山」と呼ばれていたように思われます。
地元の方が現在でも「おおふく山」と呼んでいらっしゃるならなおさらで、これは私の見解を改める必要があるかもしれませんね。

俎石山から「あべのハルカス」、「りんくうゲートタワービル」を望む 2012年12月

桃の木台~俎石山を登山 関西国際空港、あべのハルカスを遠望

2013.01.14

上の記事や、他の記事でも話の種として取り上げていますが、「電子国土基本図(地名情報)」の読みは正確ではないと考えられるものがかなり混ざっているように思われます。
「電子国土基本図(地名情報)」で「大福山」の読みを「だいふくやま」としているからといって、必ずしもそれが正しい読みであるとは限りません。

次に、他の文献史料も見ておきます。
先に引いた『日本山嶽志』では「懴法嶽」の後段に「((地辭))」と見え、それ以降は1900年(明治33年)の『大日本地名辭書』(大日本地名辞書)から引用していることが分かります。

大福(ダイフク)山
直川村の上方にして葛城山脉の一峯なり、名所圖繪云、直川千手寺は役氏開創、葛城四十九院の其一たり、山を大福(ダイフク)と稱し本尊をもつて寺を千手と號せり、其後由良の興國寺の開祖法燈國師、法弟龍實上人に附命し、移して禪宗の淨刹とす、僧坊都て十有二舎、諸堂巍々然たりしが、天正年中日蓮宗の高德日忠上人を請して中興の開祖とし、寺號を改て本惠寺(ホンエジ)と云ひ法華宗とはなれり。籤(セン)法嶽は大福山辨天窟より北に登る五十町、又修驗行所也、岩石嵯峨たり。
『大日本地名辭書』

1907年(明治40年)版の『大日本地名辭書』では上記のように見えます。
ここでは「名所圖繪が云う」としており、役氏(役行者)から始まる本恵寺さんの縁起について、江戸時代後期以降に刊行された『紀伊國名所圖繪』(紀伊国名所図会)から引いていることが分かりますが、そちらにも大筋では同様の内容が(より詳細な描写で)記されています。
また、『紀伊國名所圖繪』でも「大福(だいふく)山本惠寺(ほんゑじ)」と振り仮名を振っています。

対象読み年代備考
葛嶺雜記 完御詠歌に「おほふく山」と見える江戸時代後期山田喜四郎他・編
紀伊国名所図絵大福(だいふく)山本恵寺(ほんゑじ)江戸時代後期高市志友他・編
大日本地名辞書大福(ダイフク)山
大福(ダイフク)山本恵寺(ホンエジ)
明治時代吉田東伍・編
日本山嶽志大福山(ダイフクサン)明治時代高頭式・編
電子国土基本図(地名情報)大福山(だいふくやま)現代国土地理院成果(日本国)

『大日本地名辭書』や『日本山嶽志』の読みについては、『紀伊國名所圖繪』の影響を受けていると考えられます。

少し追記や補足。
江戸時代中期(享保年間)に編纂された『日本輿地通志 畿内部』(いわゆる『五畿内志』)では、和泉国日根郡の山として「大福山」を「在箱作飯峯畑邑上方」と紹介していますが、読みは伝わりません。
江戸時代後期に編纂された『紀伊續風土記』(紀伊続風土記)でも、大福山について詳細な描写が見られますが、「大福山本恵寺」と「大福山」、いずれも振り仮名は振られていません。
1902年(明治35年)の『帝國地名大辭典』(帝国地名大辞典)では「大福山」に「ダイフク山」と振り仮名を振っており、「大阪府和泉國泉南郡の西南端に位し、淡輪村の南方に聳え、其西方飯盛山に連り南方和歌山縣紀伊國海草郡に跨れり」としています。

かつて、直川には「大福山焼」なる焼き物の窯があったらしい。別名を「直川焼」とも。
小野賢一郎による『増補 やきもの讀本』(やきもの読本)の「日本諸窯總覽」(日本諸窯総覧)では、「大福山焼」の読みを「だいふくざんやき」としています。
同誌によると、「大福山は紀伊國直川村本惠寺の山號。弘化嘉永年間直川村で水野大炊守領地發展策として製陶業を創始。偕樂園燒に摸した交趾釉で紫淺黃の流れ藥が多い。」としていますが、紀州藩附家老で大炊頭の水野忠幹は、年齢的に見て弘化年間は藩政に関わっておらず、その父である水野忠央との混同が見られます。
いずれにせよ、大福山焼が起こったのは幕末期(弘化嘉永年間に立案され、安政年間に京都の陶工を招いて始まった)とされますが、短期間で廃窯となりました。
終わり。

この件については当方でも調査を続けますが、いかんせん、私は京都市在住の身ですので、できることにも限りがあります。
何かご存じの方がいらっしゃったら気軽にコメントをください。
私のごく親しい友人のご先祖さんがこのあたりのご出身だそうですが、その友人自身は和歌山の生まれではなく、この山のことは分からないと申しています(親戚の集いがあれば聞いておいてあげる、とのこと)。

『葛嶺雜記 完』に見える、「はかの谷といふ所に塚」は、現在のハイキングマップ等では「墓の谷」となっており、あるいは「母の谷」とも呼ばれているようですが、現地には行者堂があります。

墓の谷、なぜ毎月7日に参る? | ニュース和歌山
https://www.nwn.jp/feature/201121nazo_hakanotani/

「墓の谷」だったり「母の谷」だったりについては、ニュース和歌山さんの2020年(令和2年)11月21日更新の記事が参考になります。

大福山の展望・眺望 紀泉アルプス

上で掲載している、山頂で撮影した写真で、左の奥に見えているのが淡路島方面の展望地。
こちらも俎石山の北展望台と同時期に切り開かれたそうです。
この日は空気が澄んでおり、遠くの海に浮かぶ島嶼まで条件良く見通せました。
撮影した写真を何枚か掲載しておきます。

淡路島を一望

紀泉アルプス 大福山から淡路島を一望する 和歌山県、大阪府 2012年12月
紀泉アルプスは大福山から淡路島を一望する。
撮影地点から淡路島最高峰の諭鶴羽山(兵庫県南あわじ市)まで37.0km。

淡路島の南東部(諭鶴羽山地)から北端部(汐鳴山)、さらには明石海峡大橋までを1枚の写真に収めることができる、めったにない機会だったにもかかわらず、こういう日に限って超広角レンズを置いてきたのは失敗でした。

一般的な広角レンズ(24mm)では上の写真が限界。
俎石山から見えない淡路島の南東部を優先したため、淡路島の北部(~明石海峡大橋)が欠けています。

とくに示していませんが、柏原山の右手前、本州側の山が和泉飯盛山(泉南飯盛山)です。

淡路富士を遠望

大福山から多奈川第2発電所、「淡路富士」先山を望む 2012年12月
大福山から多奈川第2発電所、「淡路富士」先山を望む。
撮影地点から先山(兵庫県洲本市)まで34.5km。

多奈川第2発電所、淡路島の向こうに高い山が見えていることに気付きます。
方角的には小豆島ですね。

小豆島を遠望

大福山から多奈川第2発電所、淡路島を越えて小豆島を望む 2012年12月
大福山から多奈川第2発電所、淡路島を越えて小豆島を望む。
撮影地点から小豆島最高峰の星ヶ城山(香川県小豆郡小豆島町)まで85.2km。

とくに意識したわけではありませんが、2012年はさまざまな場所から小豆島を撮影する機会に恵まれました。
岩湧山、生駒山、河内飯盛山(島の端のみ)、大福山、千ヶ峰……。

小豆島から視点を右に動かし、淡路島の低くなっている部分の向こう、地図上では淡路市と洲本市の市境、先ほどの淡路島を一望する写真だと、先山と妙見山の間、そちらには瀬戸内海の海上や家島諸島も見えていました。

家島諸島を遠望

大福山から淡路島を越えて瀬戸内海、家島諸島を望む 2012年12月
大福山から淡路島を越えて瀬戸内海、家島諸島を望む。
撮影地点から家島諸島に属する西島(兵庫県姫路市)の「頂ノ岩」まで78.4km。

瀬戸内海、家島諸島の後方に薄く写っているのは岡山県の山ですが、この写真ではなにがなにやらよく分かりませんね。
無理やり補正すれば少しは明るくできなくもありませんが、それもつまらないので。

そういえば、過去に和泉山脈の西端域から家島諸島方面を撮影した時は、上の写真で左端のあたりに「淡路ワールドパークONOKORO」が写っていた記憶があります。
しかしながら、どう目を凝らして確認してみても、上の写真に観覧車は写っていないようで、どこに消えたのか?

世界平和大観音像(淡路観音)、淡路妙見山を遠望

大福山から淡路島の観音さん(世界平和大観音像)、淡路妙見山を望む 2012年12月
大福山から淡路島の観音さん(世界平和大観音像)、淡路妙見山などを望む。
撮影地点から釜口山(兵庫県淡路市)まで32.4km。

とくに場所を示していませんが、観音さんは右下、飛行機と船の間です。

大福山の淡路島展望地からは、友ヶ島(ぎりぎり)、淡路島の端から端まで、それに、明石海峡大橋にかけてを一望できますが、京阪神を望むことができず、俎石山の北展望台からは、淡路島北部、明石海峡大橋、京阪神を望むことができますが、淡路島南部を望むことができません。
それぞれ違った良さがあります。

こちらも名残惜しいですが、次の山となる懴法ヶ嶽(せんぽうがだけ)へと向かいます。
大福山からは札立山(ふだたてやま)方面へと県境尾根(国境尾根)が続きますが、和歌山市側にあたる雲山峰(うんざんぽう)を目指して。

整理の都合で記事を分けます。

懴法ヶ嶽西峰から四国東端の伊島を遠望 紀泉アルプス 2012年12月

懴法ヶ嶽から四国の伊島を遠望 紀伊水道の夕景 紀泉アルプス

2013.02.05

続きは上の記事に。
「懴法ヶ嶽」と「籤法ヶ嶽」について掘り下げていますので、ぜひ、併せてご一読ください。

関連記事 紀泉アルプス(紀泉高原)を縦走

すべて同日の山行記録です。併せてご覧ください。

大福山(地理院 標準地図)

クリック(タップ)で「大福山」周辺の地図を表示
「大福山」
標高427m
和歌山県和歌山市、大阪府泉南郡岬町

※「大福山」の山名の読みについては、従来、ハイカーの間では「ダイフクサン」「だいふくさん」あるいは「ダイフクヤマ」「だいふくやま」と読まれており、私自身もそのように呼んでいましたが、地元の方から「オオフクヤマ」「おおふくやま」が正しいとご指摘いただきました。

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2 件のコメント

    • コメント感謝いたします。
      地元の方のお話はとても参考になり、ありがたく思います。
      大福山の読みについては、長年、とくに疑いもせず「だいふくやま」あるいは「だいふくさん」だと思い込んでいました。
      本恵寺さん(直川の観音さん)が、「大福山」を山号としていらっしゃり、お寺さんの縁起をそのまま解釈すれば、この山をはじめに「大福」と称されたのも、本恵寺さんだと読み取れます。
      したがって、本恵寺さんの山号としての「大福山」の読みが、そのまま山の読みにあたると考えましたが、コメントをいただき、この件について改めて調べてみると、『葛嶺雜記』(葛嶺雑記)の「本恵寺」に、この山号を詠んだ歌に「おほふく山となさむ」と見え、たしかに「おおふく山」と呼ばれていたように思われます。
      お礼申し上げるとともに、この件を記事に追記しておきます。
      これからも何かお気付きの点がございましたらぜひご教示ください。

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    ABOUTこの記事をかいた人

    Maro@きょうのまなざし

    京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!