懴法ヶ嶽から四国の伊島を遠望 紀伊水道の夕景 紀泉アルプス

2012年(平成24年)12月下旬、暮れも押し詰まる冬の日の話。
息抜きがてら、和歌山県と大阪府の府県境(阪和府県境)に所在する紀泉アルプス(紀泉高原)の山々を縦走。
俎石山からは阪神間、大阪湾、明石海峡方面の展望を楽しむことができ、続いて、大福山からは淡路島方面の展望を楽しむことができました。

紀泉アルプス 大福山の山頂 和歌山県和歌山市、大阪府泉南郡岬町 2012年12月

大福山から大阪湾を展望 小豆島や淡路島を遠望 紀泉アルプス

2013.01.23

大福山から淡路島を越えて瀬戸内海に浮かぶ小豆島などを遠望した話は前回の記事に。今回はその続きです。
「大福山」の読みは「だいふく」か「おおふく」かについて少し追記していますので、興味がある方はご覧ください。

紀泉アルプス 大福山から懴法ヶ嶽へ

大福山を後にし、この山域の最高峰である雲山峰の南側に位置する「青少年の森」を目指して歩き始めます。
今回、私が歩いたコースのうち、俎石山~大福山の区間のみ、紀伊国と和泉国の国境尾根にあたり、大福山から南西の札立山方面へと連なりますが、ここで国境尾根から岐れ、次の山となる南東の懴法ヶ嶽方面へ。

懴法ヶ嶽西峰から伊島を遠望

懴法ヶ嶽西峰から四国東端の伊島を遠望 紀泉アルプス 2012年12月
紀泉アルプスの懴法ヶ嶽西峰から四国東端の伊島を遠望する。

懴法ヶ嶽西峰から四国東端の島である「伊島」が肉眼でもはっきり遠望できます。
望遠レンズ越しには伊島の灯台まで見えていました。

上の写真では灯台はよく分からないでしょうから、そちらを切り出した写真も載せておきます。

四国東端の伊島灯台を遠望

和歌山市の懴法ヶ嶽西峰から徳島県阿南市の伊島灯台を遠望 2012年12月
和歌山市の懴法ヶ嶽西峰から徳島県阿南市の伊島灯台を遠望する。
撮影地点から伊島灯台まで62.4km。

これは四国方面の展望も期待できそうです。急がないといけません。
この時点で15時10分、四国方面の展望地まではまだまだ距離があります。

続いて、懴法ヶ嶽西峰から懴法ヶ嶽(懴法ヶ嶽東峰)へ。

懴法ヶ嶽と籤法ヶ嶽の表記 懺法か籖法か

懴法ヶ嶽(懴法ヶ嶽東峰)の山頂 紀泉アルプス 和歌山市 2012年12月
懴法ヶ嶽の山頂。懴法ヶ嶽東峰。少し前までは籤法ヶ嶽とも。和歌山市。紀泉アルプス。

懴法ヶ嶽のピークは巻いてもよかったのですが、1年ぶりに山頂を踏んでいきます。
山頂に建つ標柱では「籤法ヶ嶽」の表記となっていますが、本来、当地は「懴法ヶ嶽」と呼ばれていたようです。
「籤(セン)法ヶ嶽」か「懴(セン)法ヶ嶽」の問題であれば、漢字が異なるだけですが、「籤法ヶ嶽」は「籤(くじ)法ヶ嶽」とも読まれていました。
地形図でも「籤法ヶ岳」(振り仮名は「くぢほう」→「くじほう」)と表示される時代が長く続きましたが、近年になり、「懴法ヶ嶽」と改められました。
常々申し上げているように、ごく一部の慣例的な例外を除き、私は地理院地図の表記を基本的に優先しますので、本記事でも「懴法ヶ嶽」と扱います。

懴法嶽
紀伊國海草郡ノ北方ニアリ、登路[式按スルニ、直川村カ]凡三十五町、
((地辭))大福山辨天窟より北に登る五十町、又修驗行所也、岩石嵯峨たり、
『日本山嶽志』

1906年(明治39年)の『日本山嶽志』には「懴法嶽」の山名が見えます。
「式按スルニ」は「(筆者である)高頭式が照らし合わせて考えるには」の意で、考察の結果、「登路は直川村から凡そ三十五町」としています。
その続きには「((地辭))」とありますので、それ以降は1900年(明治33年)の『大日本地名辭書』(大日本地名辞書)から引用していることが分かります。
そこで、次は『大日本地名辭書』に目を通してみると、「籤(セン)法嶽」の山名があり、「籤」の漢字を用いてはいるが、読みは「くじ」ではなく「セン」であることが伝わります。
『大日本地名辭書』における和歌山の地名は、江戸時代後期以降に刊行された『紀伊國名所圖繪』(紀伊国名所図会)を底本としている箇所も少なくないので、さらにそちらも確認してみると、ここでは「籖法ヶ嶽(せんほうがたけ)」の山名が見え、『日本山嶽志』における「大福山辨天窟より北に登る五十町」の典拠は『紀伊國名所圖繪』だろうと察せられます。

これらを見るかぎり、少なくとも「籤法ヶ嶽」を「籤(くじ)法ヶ嶽」と読むのは誤りで、「籤(セン)法ヶ嶽」か「懴(セン)法ヶ嶽」の問題のように思われます。
現地では西峰と東峰を「せん法ヶ嶽」と「くじ法ヶ嶽」で区別しようとする動きもあるようですが、上記の理由から、「懴」と「籤」、どちらの表記であれ、個人的には「せん法ヶ嶽」ではないか、と考えています。
「くじ法ヶ嶽」は「籤法ヶ嶽」の表記が正しいと考えられていた時代の口語表現ではないでしょうか。

名草郡第四
直川荘
直川村

懴法
大福山の東六町許にあり修驗者の行所なり
坂道三十五町甚險絕の地なり

『紀伊續風土記』

江戸時代後期に編纂された『紀伊續風土記』(紀伊続風土記)には上のように見え、絵図にも大福山の右に「懴法嶽」の山姿が描かれています。
『日本山嶽志』における、「大福山辨天窟より北に登る五十町」の描写の典拠は『紀伊國名所圖繪』だと考えられますが、それ以外、「登路は直川村から凡三十五町」「修験行所也」の典拠は『紀伊續風土記』だろうと察せられます。

「懴法」と「籤法」(籖法)の表記については、紀州藩の公的な藩纂の地誌である『紀伊續風土記』では「懴法」としていますが、『紀伊國名所圖繪』では「籖法」、『紀伊國名所圖繪』の影響を受けたと考えられる『大日本地名辭書』も「籤法」としています。
『大日本地名辭書』を引用したはずの『日本山嶽志』では「懴法」としていますが、『日本山嶽志』の編者は『紀伊續風土記』にも目を通しており、公的な地誌である『紀伊續風土記』の表記を優先的に採用した可能性があります。

改めて申し上げるまでもなく、葛城の山々は修験との関わりが深く、当地も『紀伊續風土記』に「修験者の行所」「険絶の地」と見えるように、その例外ではなかったようです。
「懺法」(懴法)は罪滅ぼしのために懺悔の文を読む法要で(他の形もある)、たとえば、平安時代の『栄花物語』の巻十二「玉の村菊」でも、とある場面で「念佛懺法」(念仏懴法)と見えますが、訳が難しいのか、現代語訳版では他の単語に置き換えられることもあるようです。
懺法でも、とくに「法華懺法」は比叡山延暦寺と関わりが深く、その法華懺法から分かれた「修験懺法」が修験者の間でも営まれていたようですが、それが葛城の地でも行われていたかは分かりません(知りません)。
吉野山(金峯山寺)や鞍馬山(鞍馬寺)で「花供懺法會」(花供懺法会)を営むことは存じています。
くじ引きを「抽籖(セン)」(抽選)ともいいましたが、「籤法」(籖法)では単語としては(現代人の観点では)意味をなさず、「籤」と「法」で切り分けて考えるか、「籤法」じたいに意味は無いか。
もし、「センポウ」「センホウ」の「音」が主体であるなら、漢字は音を借りただけの仮名に過ぎず、正直なところ、その表記に大した意味はありません。
たとえば、京都のあたご山は「アタゴ」の音ありきとされますので、その説に立つのであれば、愛宕山だろうが阿多古山だろうが間違いとまではいえません。
もし、この山の漢字の表記そのものに意味があるとするならば、「懺法」(懴法)という単語は存在しますが、「籤法」(籖法)はおそらく存在せず、「籤法ヶ嶽」とするのであれば、「籤法」の由来を確定させる必要があるでしょう。

参考。

活動報告 | 天台寺門宗
宗報 第291号

「智証大師御正忌会法要」
(略)
潅頂堂において法華懺法講が修され
(後略)

「葛城入峰修行を終えて」
(略)
山伏の掟の厳しさと仏の慈悲とを表現した能の谷行の舞台でもある籖法嶽にて勤行。
(後略)

http://www.tendai-jimon.jp/report/40.html

ここでは「籖法嶽」となさっていますが、これは能の「谷行」の舞台を当地とする『紀伊國名所圖繪』(紀伊国名所図会)との関係で、慣例的に「籖法嶽」の表記を使用されたように思います。
わざわざ引用したのは、法華懺法を修される方々にとっても、当地が修験の地となりえることを示すためです。
天台寺門宗の総本山は近江の三井寺さん(園城寺)。

能の「谷行(たにこう)」は、禅竹(金春禅竹)の作とも伝わる謡曲で、中入前は京都が、中入後は当地が舞台ともされますが、当地(紀伊国)ではなく大和国の葛城山の峯入としている解説本がきわめて多く、混同が見られます。
今熊野の山伏が峯入(山岳修行)することになり、弟子の松若も同行を願いますが、松若の父はすでになく、母は風邪でふせており、幼い松若を連れてはいけないと師は諭します。
しかし、母のお祈りのために峯入したいと松若が強く希望するので、師は同行を許可しますが、葛城の「一ノ室」に到着したところで、慣れぬ長旅で疲れた松若も風邪をひいてしまいました。
峯入での病人は谷行と決まっており(峯入の時点で同行者に病人がいれば谷底に突き落としていく掟があった)、泣く泣く師は松若を生き埋めにしますが、師もその跡を追おうとしたため、他の山伏たち一同の祈りにより役行者が姿を現して、母思いの松若を救い出し、役行者は虚空に姿を消す、といった筋書です。
『紀伊國名所圖繪』に「籖法ヶ嶽(中略)最高頂にいたれは古松蓊蔚たる中に児の松といふありこれ即谷行といへる謡曲に作れりと云々」と見えるものの、観世流の謡では、京都から奈良を通る旅路で、宇治の里、みかの原泉川、春日、三笠の山、布留の神杉(石上)、三輪の山本と経由して、峯入する葛城の「一ノ室」に着きますので、この行程の果てをどう捉えるか、判断は委ねます。
ただ、最後の場面で「高間の」「岩橋の」とも見えますので、金剛山地側での出来事だと解釈するのもやむを得ないだろうとは。
「古松蓊蔚たる中に」の「蓊蔚(おううつ)」はなかなか難しい言い回しですが、草木が茂った様。
「児の松」は初期の地形図に「兒松」と描かれています。

追記しておきます。
金峯山寺さんや鞍馬寺さんにおける花供懺法会、上でも述べた『栄花物語』のケースと同様、意味が伝わりにくいためか、「花供会式」(金峯山寺)、「花供養」(鞍馬寺)などと言い換えることもあるようですが……、その歴史について調べていたら、興味深い記述が見付かりました。
日程的に見ても、鞍馬寺さんが言い換えていらっしゃる法会は、いわゆる灌仏会(花祭)の花供養とは性質が異なるようです。

「鞍馬寺の名所舊跡」
(略)
雲珠櫻
うずざくらとよむ。
(中略)
鞍馬山全躰の花の惣稱と知る可し。此花滿開の頃、花供籤法會とて盛大なる會式行はる。
(後略)

「年中行事の主なるもの」
(略)
花供養 (花供籤法會) 四月十五日より廿四日まで
(後略)

『鞍馬圖記』

鞍馬寺刊行寮発行、1921年(大正10年)の『鞍馬圖記』(鞍馬図記)では「花供懺法會」を「花供籤法會」と表記しています。
もし、これが誤字(誤植)でなければ、「懺法」と「籤法」は同義と見なされていた可能性があります。
これはあくまでも可能性の問題であって、必ずしもそうであると断定しているわけではありません。

上記の件と直接的な関係はありませんが、余談として追記しておきます。
なんでもどこかの記事にメモしておかないと忘れてしまう。

「懺法會の供花」
 その頃每年二月初午の日に、伏見の稻荷山に懺法會があつて、觀世音の像を三十三幅かけて、その每幅の前に挿花を供へることとなつて居つた。その懺法會が濟むと群衆が爭つてその花を奪ひ、遂には斬り合ひまで始まつたことがある。そこで當時稻荷を管轄して居つたと思はれる東福寺の長老たちが相議して、結局その花を供へることを止めて、ただ松の木を一本挿すことにしたといふことが、碧山日錄(長祿三年[一四五九]二月五日、寛正六年二月一日條)に見えて居る。又鹿苑日錄(長享二年[一四八八]九月二十六日條)にも、景徐周麟が六角堂に詣でて挿花をみるといふことがある。その時に六角堂の池之坊に居つたのは仙波といふ人であつた。この後、池之坊某といふものが、公卿衆の仲間に挿花上手の譽を博して居る。その様子は二水記(鷲尾中納言隆康の日記、大永五年[一五二五]三月六日條)などに見える。
『日本佛教史槪説』

1948年(昭和23年)の『日本佛教史槪説』(日本仏教史概説)で、挿花(神仏への献供花)の歴史について触れています。
辻善之助による『日本佛教史槪説』は、1937年(昭和12年)の『日本文化と佛教』(日本文化と仏教)に「多少の修訂を加えて改題した」書で、そちらは後年に新訂版も出版されました。

前段の「挿花の發達」(挿花の発達)や「池之坊の專慶」(池之坊の専慶)から話が続いており、「懺法會の供花」(懴法会の供花)における「その頃」は室町時代中期。
これら花会における供花が、いわゆる華道(いけばな)に繋がるとされます。
名前が見える『碧山日錄』(碧山日録)は、太極を号した東福寺の僧による日記ですので、稲荷山の件については、いわば関係者による記録といえるでしょう。
『鹿苑日錄』(鹿苑日録)の原文では、景徐周麟は他のある人物と連れ立って六角堂を訪れています(が、話が長くなりすぎるのでここまで)。

懴法ヶ嶽の読み

懴法ヶ嶽の山名の全体を通じた読みについては、個人的に「せんぽうがたけ」としていましたが、国土地理院の「電子国土基本図(地名情報)」では「センポウガダケ」としています。
これにしたがうと、「タケ」ではなく「ダケ」となりますが、「電子国土基本図(地名情報)」の読みはどうもあやしいものが多く、今ひとつはっきりしません。

補足しておきます。
日本語における連濁の基本的な決まりとして、助詞「の」「が(ケ)」「つ(ツ)」の後ろの言葉は連濁せず、それが脱落すると連濁します。
私が「せんぽうがたけ」と呼んでいるのはそのルールにしたがったものです。
たとえば、大日ヶ岳の読みは「だいにちがけ」ですが、大日岳の読みは「だいにちけ」です。
前者は両白山地や英彦山系など、後者は立山連峰や飯豊山地、大峰山脈など日本各地に見られる山名です。
京丹波の長老ヶ岳は、現代では「ちょうろうがけ」の読みが通例ですが、これはあくまでも例外的なケースです。
この山は古くは「長老嶽(ちょうろうだけ)」や「長老山(ちょうろうさん)」と呼ばれており、「点の記」では、一等三角点「長老ヶ岳」の読みを一貫して「ちょうろうがけ」としています(ので、おそらく、後に「ちょうろうがたけ」と「ちょうろうだけ」が混同されたものと見ています)。

和泉山脈には燈明ヶ岳(西ノ燈明ヶ岳)と燈明岳(東ノ燈明ヶ岳)があり、これも本来は燈明ヶ岳を「とうみょうがけ」、燈明岳を「とうみょうけ」と読んでいたものを、どこで混同されたのか、いつの間にやら、燈明ヶ岳をも「とうみょうがけ」と読む方が増えてしまいました。
現状、ネット上に限定すれば、多くの記事で「とうみょうがだけ」としていますが、たとえば、山が属する泉佐野市の公式サイトでは、

文化的景観「日根荘大木の農村景観」| 泉佐野市

大木地区の盆地周辺は、和泉山脈の三峰山・灯明ケ岳(とうみょうがたけ)・高城山(たかしろやま)などと、雨山(あめやま)・土丸城山(つちまるじょうやま)などが遠景近景の山並みを構成しています。

https://www.city.izumisano.lg.jp/kakuka/kyoiku/bunkazaihogo/menu/keikan/1371687858961.html

と、正しく「とうみょうがたけ」を採用しています。

ただし、これらはあくまでも基本的な決まりであって、たとえば、「花つ月(はなつづき)」や「天の川(あまのがわ)」など、「月」や「川」に繋がる場合は例外が(かなり)増えます。
季語などで「花つ月」を「花津月」と表記するのは、上代日本語の表記にしたがった当て字で、この「つ」は「の」と同義の格助詞です。
したがって、本来の用法から、「天の川」を「あまのかわ」と読んでも、それが誤りとまではいえません。
「~ヶ月(~かげつ)」や「~ヶ条(~かじょう)」は、助数詞「ヶ」(箇)+「月」や「条」ですので、また異なります。

懴法ヶ嶽の読みについても、例外である可能性は捨て切れず、「今ひとつはっきりしません」としておきました。
ですが、懴法ヶ嶽であれば「せんぽうがたけ」の読みが、懴法嶽であれば「せんぽうだけ」の読みが(私個人としては)適切ではないかと考えています。

紀泉アルプス 雲山峰「青少年の森広場」の展望と夕景

次の山、「バベ尾」(山の名前です)のピークは巻くことにして、井関峠を越え、「青少年の森」へと急ぎます。
16時5分頃には雲山峰の南、青少年の森の広場へと到着しました。
ハイキングマップでは「青少年の森」の西の標高点446m周辺を「地蔵山」としていますが、歴史的な経緯もありますので、本記事では雲山峰の一部としておきます。

雲山峰(うんざんぽう)は紀泉アルプスの最高峰にして和歌山市の最高峰。
この日は立ち寄らなかった山頂は木々が多く、展望の面については大きな期待はできませんが、こちら、青少年の森広場からの見晴らしはなかなかのものです。
広場の端からは、岩出市、紀の川市の向こう、雪を被った大峰山脈の山々が浮かび上がるように見えていました。
整理の都合で、そちら、大峰方面の写真は次回に譲ります。

まずは、風車がよく目立つ有田川ウインドファーム方面を撮影。

有田川ウインドファームを遠望

雲山峰から長峰山脈、千葉山、有田川ウインドファームを望む 紀泉アルプス 2012年12月
雲山峰から長峰山脈、千葉山(せんばやま)、有田川ウインドファームを望む。
撮影地点から千葉山(和歌山県有田郡有田川町)まで22.6km。

上の写真の左手には生石高原方面が見えています。

生石高原を遠望

雲山峰から生石無線中継所、黒沢ハイランド方面を望む 2012年12月
雲山峰から生石無線中継所、黒沢ハイランド方面を望む。
撮影地点から黒沢ハイランド(和歌山県海南市)まで18.8km~。

とくに示していませんが、生石ヶ峰の無線中継所は左上です。
上の2枚の写真の間、つまり、有田川ウインドファームと生石高原の間には、海南市は藤白山脈方面の山々も見えていました。
昨年、ナイトハイクなどで藤白山脈や長峰山脈の山々を何度か歩いたため、感慨もひとしお。
撮影しながら、その時のことを思い出していました。

写真を撮影している間に、西向き、南向きはすっかり夕景の色に……。

和歌山市の夕景を望む

雲山峰(青少年の森広場)から和歌山市の夕景を望む 2012年12月
雲山峰(青少年の森広場)から和歌山市の夕景を望む。
眼下に紀ノ川、遠くに紀伊水道、伊島、四国の東端などなど。

紀泉、紀ノ川、そして、雑賀庄。素晴らしい眺めです。
あくまでも戦国時代の話ですが、織田信長による雑賀攻めの舞台となった地ですね。

伊島の島影と夕景

和歌山市の雲山峰から四国東端、阿南市の伊島を望む 紀泉アルプス 2012年12月
雲山峰から四国東端、阿南市の伊島を望む。
夕暮れの空は霞んでいますが、引き続き、伊島は明瞭に見えています。

整理の都合で記事を分けます。

雲山峰から大峰山脈は八経ヶ岳、弥山を望む 紀泉アルプス 2012年12月

紀泉アルプス 雲山峰から積雪する大峰山脈を望む 和歌山の夕景

2013.02.11

続きは上の記事に。

追記

大福山~金剛童子山~札立山の鳴滝越コースについて

今回の記事では大福山から懴法ヶ嶽方面へのコースを選びましたが、大福山から見返り山を経て札立山方面へ岐れるコースもあります。
このコースは「大阪朝日新聞推薦に入った」「鳴瀧越コース」として親しまれていたようで、戦前から戦中にかけてのハイキングガイドブックにもよく名前が見えます。
ただし、いわゆる「要塞地帯法」の影響で、あまり詳しい描写が残されていません。
比較的当時の状況が伝わりやすいと思われる1941年(昭和16年)の『近畿の山々と史蹟巡り』から少し引いておきます。

紀泉國境鳴瀧越

南海箱作驛―紀州街道―出合ノ瀧―大福山―金剛童子山―札立山四寳臺―切立三寳臺―鳴瀧不動―紀ノ川驛
徒歩距離 約十八粁

 和泉山脈の西端を尾根傳ひに大阪湾を俯瞰し乍ら進む本コースは飽く迄明朗廣濶であり、隣りの紀泉アルプスと同様に、アルプス登山氣分も味はふ事が出来る。
 箱作驛を出て妙見山の遊園地を巡り、小川に沿うて進み登山にかゝる、大福山よりは紀泉の國境線たる尾根を傳ひ金剛童子山を經て札立山に至る、道は山頂を上下して變化に富み、大體禿山で目を遮るものが無い。札立山は紀淡海峡を眼下に見下し、六甲淡路、四國のの山々、さては瀨戸内海の島々をも遠望し、背後は紀伊の山々の重疊たるを見る、將に一大パノラマである、
(後略)
『近畿の山々と史蹟巡り』

※「四國のの」は原文まま

「紀泉の国境線たる尾根を伝い金剛童子山を経て札立山に至る」の描写を見るかぎり、「金剛童子山」は現代における「見返り山」(大福山の南方、奥辺峠の南に所在する小ピーク)か、あるいは周辺のピークを指すと考えられます。
「切立三寳臺」(切立三宝台)は札立山の先にあり、今でも見晴らしが良く開けています。

また、同誌や、同時期に発行されたガイドブックでは、雲山峰を指して「大パノラマ峯」や「大パノラマ台」としています。

紀泉アルプス縦走コース
(前略)
小パノラマより約五粁の行程で大パノラマ台につく。雲山峰とも云ひ四九〇米。此所にもトーテムポールがありその側にも神さびた石の祠がある。
(後略)
『紀路熊野路 和歌山中心ハイキングコース 増訂版』

1940年(昭和15年)の『紀路熊野路 和歌山中心ハイキングコース 増訂版』では上のように見えます。
まるで雲山峰のほうが別称のような扱いを受けていますね。
「神さびた石の祠」は、今も山頂に残る祠でしょうか。
かつて、雲山峰の山頂では八大龍王社(雨ヶ明神さん)がお祀りされていましたが、これは「葛城二十八宿」の経塚と無関係ではないでしょう。
いわゆる和泉葛城山の山上でも八大龍王社がお祀りされています。

雲山峰から剣山地に沈む夕日、剣山、三嶺を望む 和歌山市 2012年12月

雲山峰 夕日と夜景 四国の剣山や三嶺を和歌山から遠望

2013.02.16

この話は上の記事でも少しだけ。

また、「雲山峰」の山名について、長年、個人的には「うんざんぽう」と読んできましたが、どうも古くは「うんせんがみね」と呼ばれていた可能性があります。
たとえば、記事本文でも引いた『日本山嶽志』では「雲山峰」に「ウンセンガミネ」と振り仮名を振っています。
この件についても合わせて上の記事で取り上げています。

関連記事 2012年12月 紀泉アルプス(紀泉高原)を縦走

懴法ヶ嶽(地理院 標準地図)

すべて同日の山行記録です。併せてご覧ください。

クリック(タップ)で「懴法ヶ嶽」周辺の地図を表示
「懴法ヶ嶽(センポウガダケ、センポウガタケ)(せんぽうがだけ、せんぽうがたけ)」
標高381m
和歌山県和歌山市
「雲山峰(ウンザンポウ)(うんざんぽう)」
標高489.9m(三等三角点「天下森」)
和歌山県和歌山市(山体は大阪府阪南市に跨る)

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Maro@きょうのまなざし

京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!