章魚頭姿山(高津子山) 山名の由来 新和歌浦 和歌山市

和歌山市に所在する章魚頭姿山(高津子山)の山名について、別の記事で取り上げていましたが、本題から外れて長くなり、読みづらくなりましたので、本記事に分けて公開しておきます。
雑賀崎に近い「章魚頭姿山」の呼称に興味を持ち、その由来や歴史等について個人的に調査した成果を公表するものです。
章魚頭姿山の読み方は「たこずしやま」で、他に類を見ない、きわめて変わった不思議な山名のように思えますが、一般的には新和歌遊園の「高津子山」の呼称で知られています。
「調査した成果を公表する」などと申し上げても、大した内容ではなく、過去に現地でお会いした方から伺った話が少しと、可能な範囲で地誌や絵図、史料などに目を通したのみです。

雲山峰から大峰山脈は八経ヶ岳、弥山を望む 紀泉アルプス 2012年12月

紀泉アルプス 雲山峰から積雪する大峰山脈を望む 和歌山の夕景

2013.02.11

元は上の記事で公開していました。
独立させて個別の記事としましたが、内容は元の記事と同じです。
できれば、過去に私が章魚頭姿山(高津子山)で撮影した新和歌浦周辺の風景写真も併せて掲載しておきたかったのですが、どのHDDに保存したか……。

雲山峰 「青少年の森」広場の展望・眺望 和歌山市

雲山峰から六十谷橋と水管橋、紀の川大堰、沖ノ島、地ノ島などを望む 2012年12月
和歌山市最高峰の雲山峰から新和歌浦の章魚頭姿山(高津子山)を望む。
紀の川に架かる六十谷橋やJR阪和線の紀ノ川橋梁、あるいは有田の下津沖ノ島灯台など。
2012年(平成24年)12月に撮影した写真ですので、六十谷の水管橋など、現状を正しく伝えていない可能性があります。

よくよく見ないと分からないと思いますが、章魚頭姿山(高津子山)の展望台も写っています。
新和歌浦は夕日の名所として知られており、この展望台も過去に何度か訪れて写真を撮影していますが、かつて、山上にあった新和歌遊園やロープウェイ運行時の姿は知りません。
山の右手の突き出た岬が、いわゆる雑賀崎です。
そう思って眺めてみると、ピークが章魚(蛸)の頭で、雑賀崎に向けて足を伸ばす姿のように見えなくもありません。
章魚頭姿山(高津子山)の展望台からは、その足の先、和歌山北港を跨いで加太の田倉崎、その左には紀淡海峡に浮かぶ友ヶ島、その後方には目立つ山容の「淡路富士」先山などを見通すことができ、いずれも私にとっては思い出深い土地です。

章魚頭姿山(高津子山)の山名について

章魚頭姿山? 高津子山?

上の写真に写る、新和歌浦の三角点136.6m峰(点名「出島」)を地理院地図では「章魚頭姿山」としています。
地理院地図では「章魚頭姿」に「たこずし」と振り仮名を振っており、「章魚頭姿山」は「たこずし山」と読むことが分かります。
二等三角点の点名「出島」は章魚頭姿山の東麓の地名に由来し、少し古い地形図であれば、天神山の南に出島の地名も示されています。
この山の呼称について、新和歌遊園の新和歌浦ロープウェイ(1960年開業、1996年休止、1997年廃止)で「高津子山」の駅名が使用されていたこともあり、その頃の記憶をお持ちの方は「高津子山」とお呼びになる、あるいはお書きになるようです。
北東麓に所在する県立星林高校さんの校歌に「高津志」の歌詞が見え、高校さんの東(雑賀小学校さんの南)に「高津公園」が所在します。
「高津子山」の読み方は、地元の雑賀や関戸では「たかつし山」が普通と聞いていますが、星林高さんの校歌における「高津志」は「たかづし」(たかずし)らしいとも聞きました。
星林高さんは1948年(昭和23年)に設立されました。

上記の件で追記。
2023年(令和5年)8月、県立星林高校さんの校歌紹介動画 が公開されました。
公式チャンネルではなさそうですが、公式サイトからリンクされています。
歌詞に「むらさきはゆる たかづしの」と見え、やはり、校歌においては「高津志」を「たかづし」と読むようですね。
「高津子」と「高津志」が同義とは限らない点に留意。

紀伊続風土記に見る雑賀山

ただ、史料を遡って確認していくと、どうも高津子山の山名表記が先にあったわけでもなさそうです。
江戸時代後期に編纂された『紀伊續風土記』(紀伊続風土記)では、和歌浦(わかのうら)の北に連なる山並みを「雑賀山」としています。

海部郡

雜賀荘
荘中山川海

雜賀山
東の方は和歌關戸兩村の間に起ちて屏列して西に連り雜賀﨑に至りて海に入る
此山の南を和歌浦とし北を古の雜賀浦とす
今關戸西濵の兩村あり和歌浦といひ雜賀浦といふ此山を以て隔とす
山高さ大抵四町許峯續き各小名あり
東の端を權現山といふ
東照宮の坐します山なり
其西を天神山といふ
天滿宮の坐します山なり
其西にて少し高き處を蛸頭子(タコヅコ)といふ
其西に連り續くを五箇所山といふ和歌關戸西濵雜賀﨑田野浦五箇村立合の山なり
此所に至りて西南山巖海に臨して壁立し山最嶮し

『紀伊續風土記』

雑賀山の小名のうち、「天神山の西の少し高き処を蛸頭子」としていますが、「高津子山」の名前は見えません。
どうやら、江戸時代後期頃には「蛸頭子」と書いて「たこづこ」と読まれていたようですね。
さらに、その西に連なる山域を、和歌、関戸、西浜、雑賀崎、田野浦の五ヶ村立合山(入会山)の「五箇所山」と呼んだようですが、他の地域の入会山と同様、今は失われた呼称のように思えます。
この「五箇所山」については、明治時代頃の絵図の類でも名前が見えません。
当時の絵図の類によく名前が見えるのは、名所として知られていた玉津島神社の裏の天狗山=奠供山だったり、郭公山=妹背山だったりです。

少し追記しておきますと、現地に設置された案内板に、おそらく『紀伊續風土記』を典拠として「5か村の境にあたるため五箇所山とよばれ」と記されていますが、『紀伊續風土記』では「立合の山なり」としていますので、境界証文など、他の史学的根拠が明示されないかぎり、五箇所山の呼称は立合山に由来すると考えられます。
立合山は数ヶ村を対象とした共有林の山で、いわゆる境山とは異なります(立合山は村の所在地から外れていても成立します)。
『紀伊續風土記』は紀州藩による公的な藩纂地誌です。

新和歌浦と蛸頭子山 いつ頃から高津子山に?

新和歌浦が開かれて以降、1919年(大正8年)の『名所案内 和歌浦と新和歌浦』や1920年(大正9年)の『紀伊の名所 上巻』、1922年(大正11年)の『全国鉄道旅行案内』といった、大正時代発行のガイドブックでも「蛸頭子山」と見え、この時点ではまだ「高津子」の表記は確認できませんが、1933年(昭和8年)の『日本案内記 近畿篇 下』では「高津子山」、1937年(昭和12年)の『南海鐵道株式會社 大觀』(南海鉄道株式会社 大観)では「高津山」、あるいは、1940年(昭和15年)の『紀路熊野路 和歌山中心ハイキングコース 増訂版』や1941年(昭和16年)の『近畿ハイキング・コース』といったハイキングガイドブックでも「高津子山」と、昭和期に入ると「高津」系の表記も見られるようになります。
陸地測量部時代から現行の地理院地図に至るまで、地形図では一貫して「章魚頭姿山」の山名を採用しており、当サイトでは国土地理院の成果である地理院地図の表記を優先する方針であることから、ここでも章魚頭姿山の表記を優先する、あるいは章魚頭姿山(高津子山)としています。
もちろん、現代において、高津子山の表記を優先なさる地元の方が多いことも理解していますが、おそらく、高津子山は大正時代の末期頃に生まれた新しい表記ではないかと考えています。

『紀伊の名所 上巻』には、

新和歌の浦
(前略)
一番高い蛸坊主のやうな山は蛸頭子山(海抜四五五尺)だ。
(中略)
その西にある仝じ恰好の稍々ひくいのは小蛸頭山である。此等を總稱して雑賀山と言ふ。
『紀伊の名所 上巻』

と見え、付近一帯の山を総称して、やはり「雑賀山」としています。
蛸坊主のような山姿だとはしていますが、それが山名の由来であるかまでは読み取れません。
蛸頭子山の西に、蛸頭子山と似た山容の「稍々ひくい(やや低い)」「小蛸頭山」なる山も連なっていたようですが、小蛸頭「子」山ではなく、小蛸頭山なのでしょうか。
これが小蛸頭子山の誤表記か、正しく小蛸頭山か、よく分かりません。

1922年(大正11年)の『和歌浦名勝案内』では、

山を開いた新和歌浦
(前略)
第一隧道を出ると後は雑賀山の續きで、松樹が生ひ茂つて居る。その山の一番高い所を蛸頭山と言ひ、
(後略)
『和歌浦名勝案内』

とあり、ここでは「子」を省いた「蛸頭山」に「たこづしやま」と(歴史的仮名遣いで)振り仮名を振っていますので、『紀伊の名所 上巻』における「小蛸頭山」も、同様の読みを取ると見てよさそうです。
また、『和歌浦名勝案内』の続きには、

眺望絕佳な新天橋
第二隧道の上は遊園地になつて居る。其山頂を「新天橋」と呼ぶ
對岸は鹽津で遥に大崎を望み、水平線の彼方に茫乎として見えるは阿波の山である。
二つ並んだ島は沖の島、地の島で合はせて浦の初島と呼ぶ。
(後略)
『和歌浦名勝案内』

とも記されています。
新道の供用に伴い、旧・新和歌浦隧道は第一、第二ともに廃止されましたが、トンネルそのものは現存しており、第二隧道の西口跡の上に和歌山バスさんの「新和歌遊園」バス停もあります。
「雑賀山の一番高い所にある蛸頭山」と「遊園地の山頂である新天橋(しんてんきょう)」は同じ場所のように思われますが、なぜ区別しているのか分かりません(→後述する鳥瞰図により、蛸頭子山=高津子山の山頂と、第二隧道の上の新天橋はどうやら別に所在したらしきことが分かりました)。
「対岸は塩津で遥かに大崎を望み」は海南市下津町の塩津や大崎を指しています。

正確な発行年は不明ながら、新和歌浦を紹介するパンフレットの附図では、山頂の展望台を「十州台」としています。
ここでは「十州台」「新吉野」と見えますが、高津子であったり、蛸頭子であったりといった山名は見えません。
和歌山軌道線の和歌浦支線が描かれており、琴の浦を「新田別荘」としていますが、海南線も海南まで全通しているように見えますので、1929年(昭和4年)以降に成立した図のように思われます。
「十州台」の呼称は、神戸六甲の摩耶山を「八州嶺」と呼ぶのと同様、もちろん、多くの令制国を見渡せる展望を誇ったものでしょう。
鉄道省による1933年(昭和8年)の『日本案内記 近畿篇 下』にも「高津子山からは十州の地が望まれ」と見えます。
「十州」については、おそらく宣伝的な意味合いに過ぎず、標高の関係で、実際に10ヶ国を見通せるか、ぎりぎりかな、という印象を受けますが、こういったケースで、「八」や「十」といった数値は正確性を求めるものではありません。
私は展望愛好家ですので、「答え」を書くのは簡単ですが、興味が湧いた方は、現在の展望台から実際に何ヶ国を見通せるか、考えたり、調べたり、現地で確認してみてはどうでしょうか。
たとえば、まず、紀伊国は眼下眼前に見渡すことができ、淡路国も紀淡海峡を跨いで見えますし、国境を成す山をその国と見なすのであれば、和泉国の山も近くに見えます。
気象条件が良ければ、紀伊水道の向こうには四国の阿波国(徳島県)の山も見通せるでしょう。

なお、この当時の展望台「十州台」は、後の回転展望台(や現在の展望台)とは異なります。
新和歌遊園の廃業後、南海電鉄さんは山頂の回転展望台を解体し、1999年(平成11年)には現在の展望台に置き換わりました。
山頂に設置される二等三角点「出島」は2004年(平成16年)に再設されたものですが、再設時の「点の記」に目を通すかぎり、設置点の土地所有者は南海電鉄さんから変わっていません。

江戸時代後期頃には「蛸頭子」と書いて「タコヅコ」と呼ばれていたらしき山が、大正時代には「タコズシ」と呼ばれていた経緯はよく分かりません。
さらに、「蛸頭子」(章魚頭姿)が「高津子」になった経緯については、新和歌浦の発展に伴い大正末期頃に改称された、らしいといったお話も伺いましたが、史料上で確認できないことは断定できません。
新和歌浦の開発を計画した森田庄兵衛により、1910年(明治43年)に周辺の土地が買収され、1911年(明治44年)に新和歌浦遊園が落成。
新和歌浦土地株式会社が1917年(大正6年)に設立され、森田庄兵衛が社長に就任。
森田庄兵衛は1924年(大正13年)に亡くなりましたが、その後も新和歌浦の開発は続けられ、南海遊園株式会社が1926年(大正15年)に設立。
改称があったとすれば、たしかにその時期かなとは推測されます(大正15年は大正の最終年です)。
新和歌浦一帯の旅館や料亭、土産物屋などの施設は「南海遊園」を称するようになりましたが、この南海遊園は明治時代の和歌浦で計画された同名の観光施設とは異なります。
推測で物申してよいのであれば、「高津子山」は新和歌浦に設定された「名所」のひとつで、他の観光名所は失われても、「高津子山」だけが残ったのだろうと考えています。
これらの点について、より詳しい経緯をご存じの方がいらっしゃったら、コメント欄にてご教示ください。

疑問点を1点追記で。
上でも名前を挙げた、1922年(大正11年)の『全国鉄道旅行案内』に「蛸頭子山頂に通ずるケーブルカーは架設中にあり。」と見えますが、この架設中だったケーブルカーはどうなったのでしょうか。
1919年(大正8年)に建設が始まるも、どうやら1922年(大正11年)の時点でも完成しておらず、新和歌浦土地株式会社から南海遊園株式会社に移行する過程で、いつの間にやら姿を消したような?
大正末期や昭和初期の新和歌浦を描いた絵図にもケーブルカーは見えません。
このケーブルカーは、後の新和歌浦ロープウェイや、明治時代に和歌浦の奠供山に設けられたエレベータ施設「明光臺」とは異なります。
そういえば、名草山の中腹に所在する紀三井寺さんで新たにケーブルカーを建設中のようですね(→2022年(令和4年)4月5日に運行を開始しました)。

新和歌浦の開発も、第一次世界大戦後の長期的な不況、いわゆる「戦後恐慌」の影響を強く受けたようです。
1919年(大正8年)の投資ブーム(大正バブル)から、翌1920年(大正9年)の株価大暴落、そこからの慢性不況、たしかに、ちょうど、時期的には重なります。
長引く戦後恐慌の流れは各地に大きな影響を与えており、たとえば、京都では1922年(大正11年)7月10日に「京都パラダイス」(岡崎のパラダイス)を称する遊園地(複合型レジャー施設)が岡崎で開業しましたが、1925年(大正14年)に閉園しました。
この「京都パラダイス」を経営していた奥村電機商会は1929年(昭和4年)に倒産しています。
追記終わり。

最近は、大正時代から昭和初期頃に記された和歌山の紀行文を読み、そこから雑賀山の(山名の変遷の)歴史を探ろうとしていますが、新和歌浦を訪れた記録は多そうでなかなか見かけません。
これは記事の本題とは無関係ですが、若山牧水の紀行文『旅の或る日』に、初瀬から高田で乗り換え、和歌山線の終点まで行くつもりで「和歌山」行の切符を買い、和歌山駅を終点だと思って下車したら、終点は隣の和歌山市駅だった、という話が見えます。
これは1918年(大正7年)の旅の記録ですので、初瀬駅は後に廃線となった長谷鉄道の駅で、この当時の和歌山駅は現在の紀和駅です。
この体験は昔の和歌山旅行あるあるだったそうですが、今は今で、和歌山駅(かつての東和歌山駅)や和歌山市駅の乗り換え等はまた違ったややこしさがあるように感じます。

あとは、1920年(大正9年)から1940年(昭和15年)にかけて、鉄道省やジャパン・ツーリスト・ビューロー(日本旅行協会)が編纂した『旅程と費用概算』の大正時代版、1920年(大正9年)の初版と、1926年(大正15年)の増補改訂版を確認したい。
昭和期以降の一時期の版本に高津子山の名前があるのは存じています。

「新和歌に遊ぶ」
(前略)
海岸と野原との間の細い道を通つて新和歌浦へと急ぐ。
 途中に名高い權現社や玉津神社がある。新和歌浦の山の上でお辨當を喰べた。食後暫く海岸で遊んだ。山の綠が水に映つて心地良い事此の上もない。
 大小の岩が所々に突き立つて、飛び込んで泳ぎたい樣な心地がした。其の美しい景色に、恍惚として見とれる中にもう一時半位になつた。
 そしてお友達と共に、新和歌浦の停留塲へと急いだ。行き着くともう皆集まつて『早くお出で』と言はんばかりに私達を待つてゐて吳れた。
(後略)
『白百合 第二號』

今から約100年前、1924年(大正13年)の『白百合 第二號』(白百合 第2号)より、大阪府立阿部野高等女学校(当時)の女学生さんによる遠足の記録。
お弁当を食べた「新和歌浦の山」は、おそらく後の高津子山だと考えられますが、楽しそうな様子が伝わりますね。
「新和歌浦の停留場」は和歌浦支線の新和歌浦停留場です(が、この当時の和歌山軌道線の経営母体は南海電鉄ではなく京阪電鉄)。

出島灯柱と新和歌浦廃灯台

蛸頭子山を蛸頭山とも表記した件について、少し追記しておきます。
日本海軍水路部や海上保安庁による戦前戦後頃の「燈台表」(灯台表)にも「名称 出島(和歌浦仮設) 種類 燈柱 位置 蛸頭山(144)より86° 約650m」などと見え、どうやら、公的に「蛸頭山」と表記するケースもあったようです。
ただし、当時の海上保安庁は「蛸頭山」のローマ字表記を”Takogasira Yama”(たこがしらやま)としています。

現在の「和歌浦漁港西防波堤灯台」が建設される以前、かつて、和歌浦港内に大阪商船株式会社立の「出島燈柱」(旧称・和歌浦仮設燈柱)が所在したことを知りました。
燈柱(戦前は燈竿とも)は灯台とは異なり、当時の「燈台表」では「鉄柱、木柱又はコンクリート柱の上部に燈器を掲げたもので、大きな光達距離を必要としない場合に用い、主として港口又は港内に設けられる」と定義しています。
所在地や灯器の構造から見て、出島燈柱は「新和歌浦廃灯台」や「新和歌浦の廃灯台」と呼ばれている廃灯台でしょうか。
廃灯台について、ネット上の記事では「昭和40年頃に建てられた灯台」と見えますが、「出島燈柱」は戦前から存在を確認できます。
おそらくですが、1969年(昭和44年)11月を初点(運用が開始された初点灯日)とする和歌浦漁港西防波堤灯台の建設時期と混同されているのでは?
同じ時期に、目と鼻の先とも言える距離に灯台を2基建設したとは考えにくいものがあります。
このあたりの経緯は分かりかねますが、1964年(昭和39年)に大阪商船が三井船舶と合併した(現在の商船三井)ことも影響したのでしょうか。
追記終わり。

数年間、様子を見ていますが、「新和歌浦廃灯台は昭和40年頃(昭和40年代)に建設された」とする話がコピペでネット上に次々と拡散している状況は問題があると考えます。

南海遊園(南海遊園地)と高津子山

高津子山の成立時期について、少し追記しておきます。
1925年(大正14年)の『和歌浦名所 交通案内鳥瞰圖』(和歌浦名所 交通案内鳥瞰図)の附図「新和歌ノ浦を中心とせる名所圖繪」(新和歌ノ浦を中心とせる名所図絵)に「南海遊園」「高津子山絶佳台」「新吉野」「新天橋」などが、1937年(昭和12年)の『観光の和歌山』(3版)に「南海遊園地」「高津子山」「新吉野」「絶勝台」などが描かれています。
これらを見るかぎり、展望台の呼称は「絶佳台」やら「絶勝台」やら「十州台」やら、どうも頻繁に変わっていたか、一定しなかったようですね。
また、大正時代の末期には「高津子山」の呼称を用いていたことも確認できましたが、やはり、南海遊園の開発に伴い、山名が蛸頭子山から高津子山に置き換わっていったのでしょう。

和歌浦御案内
(前略)
眺め見渡す高津子山(たかつこやま)の絶佳台から白菊の吹上の濱の優婉な景色を薄紫の袂に包み、
(中略)
新和歌浦
(中略)
高津子(たかつこ)、仙童(せんどう)の二山高く聳えて滿珠干珠の出でしてふ玉出島の名も相應しく、山頂海抜五百尺。
『和歌浦名所 交通案内鳥瞰圖』

ただし、『和歌浦名所 交通案内鳥瞰圖』の紹介文「和歌浦御案内」では、「高津子山」「高津子」に「たかつこやま」「たかつこ」と振り仮名を振っており、どうやら当初は「たかつし山」ではなく「たかつこ山」と呼ばれていたようです。
先に述べたように、「蛸頭子」も本来は「たこづこ」と読まれていたと考えられますが、それを踏襲したのでしょうか。
「仙童山」は絵図にも描かれていないので、どの山を指すのか分かりません。
仙童の「童」と蛸頭子(高津子)の「子」、あるいは小蛸頭子の「小」、蛸頭子山(高津子山)と隣接していたと考えられる小蛸頭子山が仙童山と改称された可能性も考えられます。
現代では「蓬莱岩」になってしまいましたが、新和歌浦には仙聖(仙人)が住まうとされる蓬莱島を称する島も浮かびますね。
これは元々は比丘尼岩(びくに岩)と呼ばれていたものを蓬莱島や蓬莱岩に改称したとか?(→高津子山と同時期に「比丘尼の奇巌」を「蓬莱島」と改称したらしい)
1912年(大正元年)の『南海の栞』では、新和歌浦に至る風景を「一歩一景断磯の下島嶼点々奇松多く真に是神仙の楽土たり」(一歩一景、断磯の下、島しょ点々、奇松多く、真にこれ神仙の楽土たり)と評しています。
近年の文筆家は「断磯」を使用しませんが、唐代には用例がある漢詩由来の表現。
新和歌浦土地株式会社時代には同社が経営する「仙集館」なる旅館もありました(萬波さんの前身らしい)。
この仙集館については、1919年(大正8年)の『名所案内 新和歌浦と和歌浦』に「山上に凌宵閣、温淸齊、觀漁庵と名付る家屋を建て~」「美術館を設け~」などと見えます。

これはあくまでも観光における宣伝文句でしょうが、「和歌浦御案内」には「玉出島の名も相応しく」とも見え、この当時、和歌浦の伝承に見える「玉津嶋」や「玉津嶋山」を当地に見立てていたように思われます(玉出島=玉津島)。
玉出島を「満珠(みつたま)干珠(ほすたま)」で飾っていますので、和歌浦で玉津島神社さんと共にお祀りされる鹽竃神社さん(塩竈神社)の祭神や由緒から見て、海幸山幸の神話や、浦島太郎の物語も意識しているのでしょう。
これは他の記事でも少し触れていますが、浦島太郎のベースとなる話(丹後の浦島子)では、元は竜宮城ではなく海中にある蓬山(蓬莱島)を訪れる設定となっています。
そこで亀姫なる天上仙家の神女、「昴星(すばる)」の7人の童子、「畢星(あめふり)」の8人の童子に迎えられます。
現代ではそのように考える方はあまりいらっしゃらないようですが、近世から近代にかけて、(長寿の)浦島太郎や(鶴や亀や竜や神仙や仙童仙女が住む)蓬莱山は縁起物としてかなり好まれていました。
和歌浦の鶴立島・亀遊岩は古くより名前が見え、たとえば、元文4年(1739年)頃に成立したとされる『和歌浦物語』では、鶴立島は今は海中の山ではないのになぜ島なのか、といった話や、畠の中の小高い所なので「鶴立丘」とも呼ばれていた、といった話などが見えます。

『新和歌ノ浦を中心とせる名所圖繪』
https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/002239432.html
「吉田初三郎式鳥瞰図データベース」(国際日本文化研究センター)

附図である『新和歌ノ浦を中心とせる名所圖繪』を題としていますが、標題は『和歌浦名所 交通案内鳥瞰圖』です。

『観光の和歌山』
https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005529896.html
「吉田初三郎式鳥瞰図データベース」(国際日本文化研究センター)

でそれぞれ閲覧できます(画像の無断転載はできないので、ご注意ください)。

いわゆる「新吉野」と謳われた桜の名所は高津子山の山頂から尾根伝いを指すのかと考えていましたが、「玉守稲荷」なる神社さんを中心として、どうも山腹のコース沿いに並木が植樹されたようにも見えます。
やや所在地が異なる印象も受けますが、この玉守稲荷は、萬波稲荷と呼ばれる現在の稲荷神社さんでしょうか。
「玉守」は玉津島(玉出島)を守るの意か、そうでないのか。

ただし、これらの絵図に限らず、初三郎の鳥瞰図は必ずしも正確に描かれているわけではありません。
他の記事でも過去に何度か取り上げていますが、初三郎の鳥瞰図は所在の正確性にこだわらず、主題となる名所を強調して描く大胆な手法を用いており、それを車窓からの景色と重ねたものか、とくに鉄道を主体とした観光業界では好まれていました。
名所見崎(名所見峠とも)、通天峡(別称を紅葉谷)、松茸山、迎幸台、錢塘山(銭塘山)、明光台、凉女滝(涼女滝)、靈狐谷(霊狐谷)、それに新和歌浦廓、これは南海遊園に置かれた検番・花街ですが……、さらに海水浴場や蓬莱島など、最盛期の新和歌浦や南海遊園、高津子山はかなり栄えていたことが伝わり、(それらの名所が実際に成立していたか分かりませんが、)こういったパノラマ図を眺めているだけでも胸が躍ります。
興味深いのは「銭塘山」の山名で、これは海嘯現象(潮津波)で知られる中国の銭塘江に由来するのでしょうか。
もちろん、大正時代の日本でも、銭塘の大潮の存在や、銭塘を詠んだ漢詩、あるいは『水滸伝』の場面も知られていましたので、片男波と和歌川を銭塘江と見立てた可能性もあります(私が申し上げるまでもないでしょうが、感潮河川である和歌川は時間帯によって川の流れが変化します)。
「新吉野」はもちろん奈良の吉野山にあやかったのでしょうが、よく名前が挙がる「新天橋」は丹後の天橋立にあやかったようですね。
追記終わり。

念のために追記。
「銭塘山」の呼称は、片男波と和歌川を「銭塘の大潮」に見立てたものだろうと「個人的には」考えていますが、あくまでも推測です。
史料上で確認できないことは断定できません。
どの呼称にせよ、南海遊園や高津子山の名所を設定なさった方は、ある種の知識を深く有した方だったことが窺えます。
そういえば、他の方が和歌浦漁港越しに章魚頭姿山(高津子山)の山姿を撮影なさったお写真を拝見して驚きましたが、いつの間にやら、山麓付近の山中に金色の大仏像が建立されてますね……。
開発に伴い、新和歌浦は「名所」が後付けで設定されていったと考えられますが、黄金仏もそういった歴史の一部となりえるのでしょうか。
追記終わり。

章魚頭姿山、蛸頭子山、高津子山の読みと仮名遣い対応表

対象漢字表記振り仮名仮名遣い備考
紀伊續風土記蛸頭子タコヅコ江戸時代後期の編纂
紀州藩による藩纂地誌
二万分一地形圖「和歌浦」章魚頭姿山タコヅシ山歴史的仮名遣い1915年(大正4年)発行
参謀本部陸軍部測量局
和歌浦名勝案内蛸頭山たこづしやま歴史的仮名遣い1922年(大正11年)発行
山名から「子」が省かれている
和歌浦名所 交通案内鳥瞰圖高津子山たかつこやま1925年(大正14年)発行
日本案内記 近畿篇 下高津子山たかつしやま1933年(昭和8年)発行
最新の地理院地図章魚頭姿山たこずし山現代仮名遣い国土地理院成果(日本国)

古い紀州弁が当山の読みに与えた影響は不明。
ただし、方言の音変化は発音の問題であり、仮名の表記とは無関係。

章魚頭姿山(蛸頭子山)の山名由来考

『紀伊續風土記』では「蛸頭子」の由来は示されておらず、『紀伊の名所 上巻』では「蛸坊主のような山」とはしていますが、それが山名の由来であるとまでは書かれていません。
「蛸坊主」には、いわゆる蛸だけではなく、(あまり良い使われ方ではありませんが、)坊主頭の人を指す意味もあります。
たんなる口碑であるのか、典拠となる史料が実在するのか分かりかねますが、一般的に「章魚頭姿山」の山名は蛸の姿に由来するとされているようです。
私自身、その説も否定はしませんが、「頭」の「姿」の字から、坊主頭も連想してしまいます。
「蛸頭子」を「章魚頭姿」に置き換えた人は誰で、どのような目的があったのでしょうか。

これはどこに限った話ではありませんが、江戸時代には日本各地の里山で伐採による荒廃林が増えました。
いわゆる「禿山」「兀山」系の山名の由来ともなっています。

森林基本図に見る章魚頭姿山

https://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/070600/jyouhou_teikyou/d00157452_d/fil/QC60.pdf (pdfファイル)
森林基本図(海草振興局管内)

和歌山県 森林・林業局 林業振興課が公開する森林基本図より。
現状、インターネット上で確認できる章魚頭姿山の地図としては最も詳細だと考えられます。
森林基本図で地理院地図と異なる山名を採用しているケースもありますが、章魚頭姿山については森林基本図でも章魚頭姿山の山名を採用しています。

章魚頭姿山や雑賀崎周辺の文化財

章魚頭姿山の頂上部には5世紀頃とされる円墳(埋蔵文化財「高津子山古墳」)があり、過去に円筒埴輪や須恵器が出土していますが、すでに主体部は消滅して失われています。
雑賀崎の西端には古くから鷹巣の奇巌(上人窟)として知られる名所旧蹟があり、「鷹の巣」は1959年(昭和34年)に県の文化財(天然記念物)の指定を受けていますが、古い地形図ではその裏山(雑賀埼灯台の裏山)を「鷹巢山」(鷹巣山)としています。
「鷹巣山」と書いて「たかのすやま」と読むと考えられますが、「タカノス」「タカス」の音と、「タカズシ」「タコズシ」の音に何かしら関係があるかもしれません。
たとえば、観光地としても知られる京都の「高雄(たかお)」は古くは「鷹尾」とも書き、「鷹峯(たかがみね、たかみね)」は「高岑」に通じていました。
あるいは、生駒山地の南西端付近に所在する大阪府柏原市の「高尾山」は、1932年(昭和7年)の『近畿の山と谷』などの描写を見るかぎり、古くは「鷹ノ巣山」と呼ばれていたようです。
また、信州のように、空高くあがる「凧(たこ)」を俗に「鷹(たか)」と呼んでいた地域もあります。
現代において、鷹巣山はちょっと違った理由で有名になってしまいましたが、上人窟(教如窟)は石山合戦で織田信長と最後まで争った本願寺光寿(教如上人)ゆかりの地とされ、雑賀崎には雑賀孫一(雑賀孫市)が城を築いたとも伝わります。
雑賀庄を舞台に織田軍による紀州征伐を描いた某作品で「高津子山」の山名が見えますが、戦国時代に高津子山の称は確認できません。

これは章魚頭姿山と直接的な関係はありませんが、合わせて触れておきますと、雑賀崎の突出した北端(北西端)、「トンガの鼻」や「台場の鼻」と呼ばれる岬の先端部に埋蔵文化財「雑賀崎台場跡」があります。
俗に「カゴバ」の台場遺跡とも呼ばれており、調査が進む前から、江戸時代末期頃の砲台跡ではないかと伝えられていました。
詳細は不明ながら、2007年度(平成19年度)の調査で18世紀後半以降(江戸時代後期以降)の遺構が発掘されており、後年の調査でも19世紀半ば以降(江戸時代末期頃)の染付碗などが出土しています。
砲台に関する何らかの施設だろうと考えられており、2010年(平成22年)には「雑賀崎台場」として県の文化財(史跡)の指定を受けました。
古い地形図には、岬の付け根のあたりに「雷松」と示されていますが、地元では「どんどろ松」と呼んだとか。
雑賀崎の北東には南海和歌山港線の(かつては)終着駅だった水軒駅が所在しましたが、2002年(平成14年)に廃止されました。

なお、NPO法人「和歌の浦万葉薪能の会」さんが、「高津子山を桜の山に」 事業として、章魚頭姿山(高津子山)の整備活動をなさっています。
今でも見晴らしが良いのは、こういった活動 のおかげでしょうね。

追記しておきますと、私に感化されて桜の季節に章魚頭姿山(高津子山)を遠くから訪れたとおっしゃる方もいらして、これは私としても嬉しいかぎりです。

余談・追記

高津子山にまつわる歌

雜歌
詠天
天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隠所見
右一首柿本朝臣人麻呂之歌集出
『萬葉集』

『萬葉集』(万葉集)七の巻の巻頭を飾る、「天(あめ)を詠める」歌。
一般的に「天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ」の訓読が知られています。
「天」を海に、「雲」を波に、「月」を船に、「星」を林に見立てる壮大なスケールの景色を描いた叙景歌です。
夜空に雲が波立って、月の船が星の林に漕ぎ隠れてゆく、この「漕ぎ隠る」は詠み人の心情を表す心詞とされます。
星より明るい月が、星々の中に「隠れる」のは無理がありますね(月だけ雲の中に隠れたとも解釈できますが)。

他の歌にまつわる過去の記事でも同じことを申し上げましたが、『萬葉集』ではあくまでも「柿本朝臣人麻呂之歌集出」としており、いわゆる「人麻呂作歌」ではありません。
後世の『拾遺和歌集』では「空の海に雲の波たち月の舟星のはやしにこぎかへるみゆ」の詠み人を人麿としていますが、肝心の結びが異なります。
そのあたりの経緯は今に伝わりませんが、歌聖と称された人麻呂が詠んだと考える方も多いようです。
和歌山の県立星林高校さんの校名は、この歌の「星の林」に由来しており、万葉歌碑も当地に建立されています。

「月の舟」は、万葉の時代の人々が夜空に浮かぶ月(三日月か、あるいは半月的な形状の月とされますが、月が出ている時間帯と歌意の兼ね合いが難しい)を見上げて船にたとえたものとされますが、言葉どおり月の船と解釈なさる方々は、『竹取物語』(かぐや姫の物語)と関連付けたりなさっているようですね。
あるいは七夕に関わる歌との解釈もあります。
万葉の歌人たちも好み、大きな影響を受けたと考えられる中国の漢籍には、月を直接的に舟にたとえた表現が見当たりません(歴代の注釈書や解釈本では、長く、典拠不明とされてきました)。
中国では「月の桂」や「桂の舟」の賦や詩が詠まれており、おそらく、桂を間に挟み、「月の舟」は七夕と関連して日本で独自に発展した漢詩的表現ではないかと考えられています。
京都では「月の桂」と「桂の川(桂川)」を掛けた歌が詠まれ、後世に至るまで好まれていました。

メモ。
国産飛行船(日本式飛行船、山田式飛行船)の開発者として知られる山田猪三郎は幕末期の和歌山出身。
1894年(明治27年)には東京の大崎で気球製作所を創業し、気球の研究に着手。
陸軍兵器本廠や技術審査部の命を受け繋留気球(日本式繋留気球)や飛行船を製作し、日本における「空中飛行」の発展に寄与しました。
その没後、和歌山市にゆかりある人物として、1929年(昭和4年)、章魚頭姿山(高津子山)の遊歩道に顕彰碑が建立されました。
1934年(昭和9年)の『紀州鄕土藝術家小傳 續篇』(紀州郷土芸術家小伝 続篇)に「大正二年四月八日歿す、新和歌浦に碑あり。」と見えます。


気球製作所の創業年は本記事の1894年(明治27年)が正しい。
公式サイト にも記載あり。

あしべ節 『和歌山県俚謡集』より

「あしべ節」
和歌浦にはヨー。アー名所がござるアラヒテノシヨ。御座れ芦邊に田鶴もゐる。ヨイヨイヨイヨイヨイヤサ。

あしべ茶屋からヨー。アー紀三井寺見れば、アラヒテノシヨ。曳きもよせたい花霞。花霞。ヨイヨイヨイヨイヨイヤサ。

月が出たヨー。アー紀三井寺に、アラヒテノシヨ。君に見せたい月が出た。月が出た。ヨイヨイヨイヨイヨイヤサ。

月は朧にヨー。アー塩竈けむるアラヒテノシヨ。今宵逢ふ瀨も玉津島。玉津島。ヨイヨイヨイヨイヨイヤサ。

思ひ三つ橋ヨー。アー渡れば妹背アラヒテノシヨ。添つて千歳の下り松。下り松。ヨイヨイヨイヨイヨイヤサ。あしべよいとこヨー。

いこら連れてもてヨー。アー相合傘でアラヒテノシヨ。而もしつほり不老橋。不老橋。ヨイヨイヨイヨイヨイヤサ。

五十五萬石ヨー。アー葵の御紋アラヒテノシヨ。見たか御威勢の和歌祭。和歌祭。ヨイヨイヨイヨイヨイヤサ。
(中略)
月は高津子ヨー。アー花新吉野。アラヒテノシヨ雪に思ひをつのらせる。つのらせる。ヨイヨイヨイヨイヨイヤサ。
(後略)
『鄕土研究 第二輯 和歌山縣俚謠集』

1936年(昭和11年)に和歌山県女子師範学校・和歌山県立日方高等女学校が発行した『鄕土研究 第二輯 和歌山縣俚謠集』(和歌山県俚謡集)より。
諸言に「この俚謠集は、本校生徒出身各地方の俚謠を集めたものであります。」とありますが、「俚謡」はよりローカルな俗謡・民謡です。
「芦辺(あしべ)に田鶴もいる」、これは和歌浦を詠んだ山部赤人の反歌(長歌に添えた短歌)に由来しますが、「あしべ茶屋から」としていますので、かつて、三断橋の近くに所在した料亭「芦辺屋(あしべ屋)」も関わるのでしょうか。
それ以前から原型となる唄が存在したのか分かりかねますが、ここでは「高津子」や「新吉野」などと見えますので、この当時の唄は南海遊園が開かれて以降(大正時代末期以降)の作だと考えられます。
「月は高津子、花は新吉野」と、やはり、「月」を引き合いに出していますね。
(夏や秋の)月見、(春の)花見ときて、「(冬の)雪見に思いを募らせる」。

現代における「あしべ節」は詞が変容しましたが、戦後、絶えかけていたものを、古老の記憶を頼りに再生したものだとか。
『和歌山県俚謡集』は当時の女学生さんや関係者さんらによる貴重なフィールドワークの成果ですが、非売品の扱いで一般に頒布されることはなく、広まらなかったのが惜しいところですね。
現状、この系統の「あしべ節」、つまり、詞に高津子山の名前が見える「あしべ節」は地元の方々からも忘れ去られているようですので、本記事の余談として公開しておきます。

伊賀国の高津子山

現代では完全に失われた山名のようですが、かつて、伊賀国(三重県)にも高津子山を称する山があったと知りました。
こちらは内陸の山ですので、蛸が転じたとは考えにくいです。
詳細を調査中。現状、読みも不明。
かつての名賀郡上津村か阿保村、矢持村の周辺(→青山町)、現代における伊賀市伊勢路か奥鹿野あたりの山(と書きましたが、後述するように、伊賀市柏尾の可能性が高そうです)。

メモ的に書いておきます。
古地図によると、高津子山は伊勢国と伊賀国を分ける青山峠の西南西、奥鹿野の西、福川(地名)の北、弥八峠の北西、おそらく柏尾川と推定される一ノセ川(いちのせ川)の流れより南に山姿が描かれています。
弥八峠は諸木の東、塩見峠の北に描かれており、これに従えば、弥八峠を現代における布引峠の別称・旧称とするのは誤りだと考えられます。
布引山地に属しているのは確かですが、国境線上ではなく、高津子山は明確に伊賀国側に所在します。

青山峠はかつての参宮街道(初瀬街道)の峠越の要所。
斎王(斎宮)ゆかりとされる「堺屋」の古名も残ります。
当地がどうであるかは分かりませんが、「高津」の地名は高所の「津」(湊、港、船着き場)、あるいは川の上流の「津」を指すとする指摘があります。
転じて古代の飛行場(空港)を示しているというオカルトも(繰り返し申し上げておきますが、当地の話ではありません)。
青山は木津川の源流域でもあり、上津や高尾の地名もあります。

和歌山県日高郡には日高川支流の高津尾川が流れており、源頭域の高津尾川村や、流域の高津尾村は明治の町村制施行で船着村となり、後に合併で中津村となりました(現在は日高川町)。
愛媛県新居浜市に高津の地名がありますが、こちらは地勢的に河川の上流域とは見なせず(むしろ河口域)、気になり由来を調べてみると、宇高村と沢津村が合併して高津村が成立したのが始まりでした。
このように、地名の起こりも様々ですので、何事であれ、根拠なく断定できません。

紀伊国日高郡(和歌山県日高郡)の蛸頭山

日高郡の話ついでに書いておきますが、みなべ町(南部)にも「蛸頭山」があったらしい。
『紀伊續風土記』の日高郡南部荘(や牟婁郡芳養荘)には山名が見えませんが、

埴田村
蛸頭山村ノ東方ヲ繞リ延キテ海中ニ入リ突起シテ鹿嶋山ヲナス
『紀伊國日高郡 南部地誌略』

と、1882年(明治15年)の『紀伊國日高郡 南部地誌略』(紀伊国日高郡 南部地誌略)に山名が見えます。
「鹿嶋山」は南部湾の沖合に浮かぶ鹿島(かしま)ですね。
東吉田村でも蛸頭山の西に集落がある云々と見え、やや距離が離れているようにも思えますが、これも埴田(はねた)村の蛸頭山でしょう。
また、1923年(大正12年)の『和歌山縣日高郡誌』(和歌山県日高郡誌)にも「南部町の東隅蛸頭山」とあります。
「埴田村の東方を繞(めぐ)り延(ひ)きて海中に~」「南部町の東隅」から見て、おそらく、蛸頭山は田辺市(芳養町・中芳養)との境に所在する高津山(標高172m)を指すと考えられますが、章魚頭姿山(高津子山)と共通する点が多いですね。
これは「タコヅ(タコズ)」から「タカツ」への変化でしょうか。
それとも、(タコとタカは)そもそも同義なのでしょうか。

和歌山県の海沿いには、高坪山、高通山など、高○山の山名が多いのも興味深いところです。
あくまでも可能性の問題ですが、それらの高○山が、過去に蛸○山とも表記されていたとすれば、なにかしら意義を見出せるかもしれません。
紀伊水道を跨ぎ、紀伊国と阿波国は地名に共通点が多いとの指摘もありますので、機会があれば、徳島県側の地名も調査してみたいものです。

伊賀国(三重県)の高津子山について追記

江戸時代中期の宝暦13年(1763年)に大成した『三國地誌』(三国地誌)に、

伊賀國 伊賀郡
山川
高津子山
柏尾村
『三國地誌 巻之七十三』

と見え、1888年(明治21年)の補訂本では、これに「高津子山 高大約百八拾丈」の頭注が付されています。
高さを指すと推定される「高大約百八拾丈」は約540m~ですが、柏尾村の標高からすると、この値は疑わしく、あくまでも参考程度です。
また、1880年(明治13年)の『三重管内博物誌 九 伊賀全國四郡並物産地誌畧』(三重管内博物誌 巻9)にも、

伊賀郡 村里
柏尾
高津子山 同処ニアリ
『三重管内博物誌 九 伊賀全國四郡並物産地誌畧』

と見え、伊賀国(三重県)の高津子山は、どうやら伊賀郡柏尾村(→伊賀郡阿保村→名賀郡阿保村→名賀郡青山町→伊賀市柏尾)に属したようです。
桐ケ丘(桐ヶ丘)や周辺道路が開発されたこともあり、これ以上の特定は私には難しいかもしれません。
柏尾ではなく、隣接する福川と奥鹿野の境には四等三角点543.1m(点名「広田」)の山が所在します(が、それが関係すると申し上げるわけではありません)。

『三國地誌』や『三重管内博物誌』には、現代では失われたと思わしきローカルな山名がきわめて多く掲載されており、さすがに山が多い地域の地誌・博物誌だなと感心します。

章魚頭姿山(地理院 標準地図)

クリック(タップ)で「章魚頭姿山」周辺の地図を表示
「章魚頭姿山(タコズシヤマ)(たこずしやま)」
別称を「高津子山」「蛸頭子山」
標高136.6m(二等三角点「出島」)
和歌山県和歌山市

『紀伊の名所』の描写を見るかぎり、章魚頭姿山の西に所在する標高点83m峰の周辺が「小蛸頭子山」かもしれません。

2 件のコメント

  • こんにちは
    和歌山の者です。
    ずっと高津子山と聞いていたので、昔は(今も)違う名前の山だとは知りませんでした。
    いろいろな文献や他の地方の事との関連性などなど、とても興味深く読ませていただきました。

    初めてここのサイトを知って読ませていただきましたが、他の記事も面白そうですので、追々読ませていただきますね。

    • こんばんは。
      コメントありがとうございます。
      メモ的に書き綴っているに過ぎない記事ばかりですが、なにかしら興味を持つきっかけとしていただければ幸いです。
      本記事で取り上げる山について、和歌山にお住まいの方々にとってはあくまでも高津子山であることは重々承知していますが、国土地理院の表記を優先せざるをえない場面もあります。
      (たこずし山といった)別の呼び名もあるよ、といった形で広まると嬉しいです。

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    Maro@きょうのまなざし

    京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!