八ヶ峰 五波峠から登山 新緑の若丹国境尾根 福井・京都

2013年(平成25年)6月の話。
この日はAさんと若狭丹波国境(若丹国境)の八ヶ峰を登山。
八ヶ峰(はちがみね)には過去に何度も登っており、個人的に思い出深い山です。

山中にはギンリョウソウ、タニウツギ、ヤマツツジ、トチノキ、ヤブデマリ、ハクウンボクなどのお花が咲いていましたが、今にも雨が降り出しそうなお天気だったこともあり、写真はほとんど撮影していません。
記事本文も簡潔にまとめています。

五波峠の新緑 若狭国、丹波国 若丹国境尾根 2013年6月
この日は五波峠を起点とし、八ヶ峰まで縦走しました。
五波峠は芦生の三国峠(近江若狭丹波国境の三国岳)から頭巾山方面へと連なる若丹国境尾根の鞍部となります。

若丹国境尾根は三国峠を東端に発し、~野田畑峠~杉尾坂~権蔵坂~五波峠~八ヶ峰~知井坂~西畑越~堀越峠~横尾峠~頭巾山~尼来峠~尼公峠~永谷坂~三国岳(若狭丹後丹波国境)と連なる長大な尾根で、全行程を一度で完全縦走した方を知りません。
京都周辺の国境尾根や分水嶺尾根は、昔は難路だったものの、整備が進んだり、藪が失せた影響で、近年は歩きやすくなったコースが増えていますが、目を向ける方は限られているようです。

追記。
などと書いておいたら、後年、若丹国境尾根が「名田庄トレイル」「名田庄トレイルランニングレース」として整備されて驚きました。
興味を持つ方々が増えて、私としても嬉しいです。
追記終わり。

遊車道ビレッジライン 福井県名田庄村、京都府美山町の府県境 2013年6月
京都府美山町(現南丹市)と福井県名田庄村(現おおい町)を結ぶ遊車道ビレッジライン。
林道五波染ヶ谷線。

美山町、名田庄村……、今となっては懐かしい行政区分。
合併で名田庄村が失われる直前にも、知見から知井坂を経て八ヶ峰を登り、染ヶ谷から名田庄村の中心部へと下り、そのままJR小浜線の小浜駅まで歩きました。
その夜は山中で土砂降りとなり、旧スキー場跡の廃屋のあたりで雨宿りした後、雨上がりの山頂付近で幕営したように記憶しています。
夜明けの峠上から眺めた美しい雲海は今でも忘れることができません。

私が生まれる前の話なので、実際に見たわけではありませんが、八ヶ峰のスキー場は1973年(昭和48年)頃まで営業していたらしい。
その頃は知井小学校と併設して美山町立の八ヶ峰中学校もあった(現在は南丹市立美山中学校に統合)。
2005年(平成17年)の晩秋(初冬)の時点では、旧スキー場跡にかろうじて廃屋が残っていました。

新緑まぶしい八ヶ峰 森林浴の森100選 水源の森百選 2013年6月
八ヶ峰は林野庁により「森林浴の森100選」や「水源の森百選」に選定された美しい森林を有しています。

五波峠より東には広大な芦生研究林が広がりますが、ブナやカエデの新緑や紅葉を手軽に楽しめる八ヶ峰も人気があります。
おかげさまで初夏の八ヶ峰で森林浴を楽しむことができました。
ありがとうございました。

八ヶ峰の山頂 丹波高地 京都福井府県境 2013年6月
八ヶ峰の山頂。読みは「はちがみね」。標高800.1m(→800.0m)。
昔と比べると木が伸びてしまいましたが、今でも広い展望を誇る見晴らしの良い山です。
本記事の初稿公開時、二等三角点「八ヶ峰」の標高成果は800.1mでしたが、翌2014年(平成26年)4月に800.2mと改定され、2025年(令和7年)4月に800.0mと改定されました。

1906年(明治39年)の『日本山嶽志』(日本山岳志)では、丹波高原に属する「八峰」の別称を「蜂峰」としていますが、その描写を見るかぎり、当地を指すか疑わしい。
『日本山嶽志』では「八峰」とは別に「八ヶ峰」を紹介しており、そちらは明確に当地。
1877年(明治10年)の『滋賀縣管内地理書』(滋賀県管内地理書)などに山名が見える「鉢ヶ嶽」は、「若狹國(中略)甘木峠鉢ヶ嶽ハ丹波ノ國界ニ在リ三國獄ハ近江丹波ノ境上ニ屹立セリ」の並びから見て、おそらく八ヶ峰を指す(この当時は嶺南地域も滋賀県に属していた)。

知井村ニ八ケ峯ト稱スル高嶺アリテ重畳タル群峰ヲ凌キ其山巓ニ至レハ丹波丹後山城近江若狹越前加賀能登ノ八ケ國ヲ望ムヘシ故ニ此ノ名アリ

『北桑田郡誌』

それが事実であるかは別として、1894年(明治27年)の『北桑田郡誌』に、八ヶ峰の山名は8つの国を望めることに由来するとあり、これは神戸の摩耶山が「八州嶺」を称するのと同様です。
同様の説は諸誌に見えますが、山頂から見通せる国については、但馬国を加えているものなど、史料・地誌により微妙に異なり、一定しません。

摩耶山から舞洲の煙突、此花大橋、天保山大橋、天保山大観覧車などを遠望 2014年9月

摩耶山 掬星台からハルカスを遠望 八州嶺 トワイライトハイク

2014.10.23

「八州嶺」摩耶山と同様、八ヶ峰も実際には八ヶ国以上の山々を見晴らせますので、8の数字はもののたとえでしょう。
奇しくも八ヶ峰は標高800mの山です(が、昔はメートル法ではありません)。

二等三角点「八ヶ峰」の「点の記」を見てみると、三角点設置点(山頂)の所有者について、明治時代に設置時の「点の記」では知見村(旧村名八原村)の民有柴草山としていますが、直近の「点の記」でも知見区有林(共有林)のままですね。
(山頂域は、)古くは丹波に属したのでしょうか。
八原は知井坂の京都府側(丹波国側)の集落で、八ヶ峰とは「八」の字に共通点があります。
八の「峰」(山頂)、八の「原」(山麓)で対になっているのでしょうか。

知井村

土俗傳説

知見の起源

知は血と音訓相通ず。往昔は血見と書けり。何れの時なるか知れずといへども、丹波と若狭との國境上下數里の峻坂にて大戰闘のありし時、流血坂路を蔽へり、よりてこゝを知坂と稱し血河こゝを流下せるによりて血見坂の名出で、射矢集中の地こそ矢原にして今八原と書く。戰士の宿泊せし地は小字大泊の名に遺り、知坂の中腹に駒立と呼ぶ所あるは此の時大將の駿馬を留めて指揮をなせしに起り、若狹に知三村あるも亦血見村の遺跡なりといふ。地名傳説もこゝまで懇切に附會せらるれば、多少の値あるべし。

『京都府北桑田郡誌』

知見や知坂(知井坂)、八原の由来について、1923年(大正12年)の『京都府北桑田郡誌』には上のように見えます。
この説にしたがえば、八原は矢原に通じることになりますが、『京都府北桑田郡誌』でも「地名傳説もこゝまで懇切に附會せらるれば、多少の値あるべし」(地名伝説もここまで懇切に附会せらるれば、多少の値あるべし)としており、地名の由来や伝説の類は附会(こじつけ)が多いことは編纂した人も十分に理解しています。
それでも、これだけあれこれ懇切にこじつけるなら、多少は価値もあるだろう、と締めくくっており、あくまでも土地の俗伝ながら、一考の余地はあるでしょう。
これは1904年(明治37年)の『京都府北桑田郡誌』には見えない話であり、後年の版で追記されたことにも留意。

「血坂」の表記じたいは古くから若狭側でも見られるもので、元禄年間、おそらく元禄6年(1693年)頃に成立したとされる『若狹郡縣誌』(若狭郡県志)や、それを引いた1915年(大正4年)の『知三村誌』にも記載があります。
『若狹郡縣誌』を参考にしたと思わしき、小浜藩の藩纂地誌『若狹國志』(若狭国志)も同様。
ただし、「血」の由来は、丹波側の『京都府北桑田郡誌』とは大きく異なるものです(が、話が長くなりすぎるので、ここまで)。

八ヶ峰から「若狭富士」青葉山、丹後半島、若狭湾、冠島、沓島を望む 2013年6月
八ヶ峰から「若狭富士」青葉山、丹後半島の山々、若狭湾、冠島、沓島を望む。
撮影地点から青葉山(青葉山東峰)(福井県大飯郡高浜町)まで23.4km。
丹後半島の権現山(京都府与謝郡伊根町、京丹後市)まで58.9km。

ひどくどんよりした空模様ですが、それなりに遠くまで見えていました。
こう見ると丹後半島まで近く感じますね。

八ヶ峰(地理院 標準地図)

クリック(タップ)で「八ヶ峰」周辺の地図を表示

「八ヶ峰(ハチガミネ)(はちがみね)」
標高800.0m(二等三角点「八ヶ峰」)
福井県大飯郡おおい町、京都府南丹市

お知らせ
本記事における三角点の標高値は、国土地理院により2025年(令和7年)4月1日に実施された「令和7年度 全国の標高成果の改定」(「測地成果2024」に改定)に対応しています。

ABOUTこの記事をかいた人

Maro@きょうのまなざし

京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!