2014年(平成26年)4月中旬の話。
この日は戸寺(京都市左京区大原戸寺町)を起点として、京都北山の金毘羅山(江文山)をハイキング。
京都一周トレイル道標「北山24」からトレイルコースを経て、道すがら東海自然歩道を合わせ、大原と静原を分ける江文峠方面へ向かいます。
歴史的な関わりが深い金毘羅山と翠黛山の歴史を紹介する都合で、記事のタイトルに翠黛山を含んでいますが、この日の山行としては金毘羅山を登ったのみ。
なお、インターネット上では京都の金毘羅山を「金比羅山」と表記する記事が目立ちますが、現行の地理院地図では「金毘羅山」の表記です。
目次
高野川に架かる元井手橋
この流域では大原川とも称しますが、高野川に架かる元井出橋を渡ります。
すでに色あせ、散りが進んでいましたが、高野川の桜並木は上流域でもなかなかの美しさ。
上の写真は高野川の右岸寄り、上流から対岸の下流方面を望んでおり、後方に見えている連なりは比叡山の北尾根です。
左で目立つのは水井山(阿弥陀ヶ峯)の山肩で、山頂は見えていません。
その右、中央の遠方が横高山(釈迦ヶ岳)。
かつて、大原の井手は京都府唯一のゴレツミズゴケ産地でしたが、開発により失われてしまいました。
周辺の山々の沢は美しく、それこそ昔は多くの植物が観察できたのでしょう。
江文峠の東、井出(左京区大原井出町)のあたりから金毘羅山を望む。
日陰で分かりにくいですが、左に旧参道の大きな鳥居とサクラ、後方にはこれから向かう金毘羅山が見えています。
右端で目立つピークが金毘羅山の東峰(最高峰)。
一般的に、地図上で山名が表示され、金毘羅山の山頂と見なされるのは西峰(三角点峰)ですが、この撮影地点からは西峰のピークそのものは望むことができません。
また、東西二峰が座するとはいえ、両峰の直線距離はせいぜい0.2km未満にすぎず、たとえば、比叡山や桑谷山、青葉山のような双耳峰という印象は受けません。
遠目には細かなピーク(コブ)の多い山だという印象を受けるでしょう。
江文峠へ向かう京都一周トレイルコースから外れ、江文神社さん方面の道を選びます。
江文神社さんと江文峠、大原戸寺との分岐点となる雑木林の中に、かつて、「左 金ひら くらま道」「右 小原 やせ ひゑひ山道」と刻まれた古い石の道標があったそうですが、1965年(昭和40年)の前後に盗まれてしまったそうです。
この道標は文化5年(1808年)のもので、江戸時代後期には「金ひら」(金毘羅)と扱われていたことが察せられます。
失われたのは私が生まれる前の話ですので、もちろん、私も実物は見ていませんが、左が西の江文峠・鞍馬方面、右が東の大原・八瀬方面ですので、南向きを正面として立てていたのでしょう。
江文山が金毘羅山と呼ばれるようになった時期の研究において、重要な価値がある石碑だっただけに、失われたのは惜しい話です。
どうやら、この手の「石」コレクタのような方がいらっしゃって、他所でも同じような事件が起きていたとか。
「江文山が金毘羅山と呼ばれるようになった時期」の件で、『筑紫紀行圖誌』(筑紫紀行図誌)から引いた話を掲載していましたが、本題から外れて長くなりそうなので、記事下部の「余談・追記」に分けました。
江文神社から金毘羅山(江文山)を登山
この日は江文峠からではなく、江文神社さんの裏手から山に取り付きました。
金毘羅山(こんぴらやま、こんぴらさん)は古くは「江文山(えぶみやま)」を称しており、近世に至るまでその呼称が一般的でした。
「江文山」
在二大原井出村一『山城名勝志』
「江文山」の山名は多くの史料に見えますが、一例として正徳元年(1711年)の『山城名勝志』から引いておきます。
古い絵図では金毘羅山の周辺を指して「小鹽山」(小塩山)とも表示されていますが、金毘羅山の地名は見えません。
ここでいう「小塩山(おしおやま)」は西山の同名の山ではなく、金毘羅山の北に連なる山、つまり、現代における翠黛山(すいたいさん)や、周辺山域を指しています。
1909年(明治42年)測図、1912年(大正元年)発行の正式二万分一地形図「大原」では、現在の標高点577m峰ではなく、その南東の約540m小ピークを「小鹽山(翠黛山)」としており、まず、「小塩山」の山名を優先的に表示していました。
それが、後に「小鹽山」が消え、「翠黛山」のみとなり、山名も現在の標高点577m峰に表示されるように。
歴史的な経緯、成り立ちの問題もあり、翠黛山の山頂がどこであるかに大した意味はありません。
翠黛山と小塩山の山名と由来 『平家物語』
少し補足しておきます。
上でも述べたように、古くは大原の翠黛山も「小塩山」を称していました。
現代的な知識だと、大原の山なのだから、小塩山ではなく、たとえば「大原山」を称すれば良いのではないか、と思われるかもしれません。
少しややこしいですが、大原は古くは「小原(おはら)」とも称しており、洛西の地が「大原野」(現在の京都市西京区大原野)を称していました。
上で話に出した失われし道標でも、「右 小原 やせ ひゑひ山道」と「小原」を示しています(「やせ」=八瀬、「ひゑひ山道」=比叡山道)。
対して、京都西山の小塩山は大原野の上の山で、周辺の山域は「大原野山」とも呼ばれていました。
景勝の地としての歴史もあり、大原と小塩は地名に共通点が多いのが興味深いところです。
また、鴨長明の『方丈記』に見える「むなしく大原山の雲にふして」の「大原山」は、いわゆる大原の山を指すのではなく、洛西の地を指すのではないかとする指摘もあります。
長明は日野山(現在の京都市伏見区日野)に庵を結んで隠棲する前、都の中心から離れ、「大原山」で隠居したとされます。
夜に蝶が飛ぶのかなどと、後世、議論の的となった、松尾芭蕉の高弟(蕉門十哲)、内藤丈草による「大原や蝶の出て舞ふ朧月」の俳句に見える「大原」も、解釈本によっては「京都西山」としており、大原についての混同が見られます。
もっとも、「大原の怪美人」と称された小塙徳子を敬愛していることもあり、この句に限れば、洛北の大原だろうというごく一般的な解釈を私は支持しますが(この件は記事下部の「余談・追記」で補足しています)。
1911年(明治44年)の『京都府愛宕郡村志』の「大原村志」に、
「小鹽山」
大原の西北の山を小鹽山と稱す是は大原野に小鹽山あり此も大原といふに此稱を設けしものなるべし『京都府愛宕郡村志』
と見えます。
「大原の西北の山を小塩山と称する」「これは大原野に小塩山があり、これも大原というからこの称(小塩山)を設けたものだろう」としていますので、小塩山については、どちらが先かといえば、大原野の小塩山が先にあり、大原側があやかったようです。
大原野の小塩山は今も山名を残しますが、大原の小塩山がその名を捨て、『平家物語』灌頂巻 [1]の「大原御幸」(小原御幸)に見える「翠黛の山」に由来する翠黛山を残したのは、そのあたりが原因でしょうか。
江戸時代前期、天和2年(1682年)の旅路を記した、八瀬や大原、静原周辺の紀行文『北肉魚山行記』に、「大原の内、川の東を大原山と言う、川の西を小塩山と言う」「寂光院の山上に女院の石塔婆があり、かの山は翠黛、この樹は緑蘿の垣と言って土地の人は教えたそうだが、事知り顔で笑覧を覚えると、これは平家物語の文章で必ずしも決まった場所にあるわけではない、これは全て眺望の体を記したものだ」といった話が見えます。
つまり、大原の人は「翠黛」を具体的な山名だと考えているようだが、「翠黛の山」や「緑蘿の垣」とは、あくまでも『平家物語』の文章を引いたもので、寂光院周辺の景色を述べた描写に過ぎない、と否定的です。
しかしながら、江戸時代には、特定の山を指して「翠黛」と呼ぶ方々がいたことは伝わります。
『北肉魚山行記』では、その寂光院の裏山、つまり、現在の翠黛山を含む、大原の西の山域を「小塩山」としています。
大原や小塩山の件は上の記事の「雑記」にも詳しい。
金毘羅大権現 金毘羅山東峰
この時期の金毘羅山といえば、黄色いツツジ……、そう、ヒカゲツツジ(日陰躑躅)です。
やや早いかなと感じましたが、咲き始めのみずみずしさが私好みです。
上の写真の左奥、東峰でお祀りされる金毘羅大権現さんの大鳥居が写っていますね。
金毘羅山は讃岐(香川県)の「こんぴらさん」同様、崇徳院(崇徳上皇)ゆかりの地でもあり、崇徳院の寵愛を受けたとされる阿波内侍ゆかりの地でもあります。
保元の乱で崇徳院が讃岐に配流され、京都に戻ることなく長寛2年(1164年)に崩御した後、阿波内侍は永万元年(1165年)に寂光院に入り、証道比丘尼として、崇徳院の菩提を弔いながら終生を過ごしました。
いわゆる「大原女」のモデルとなり、「しば漬」の由来にも関わるという説も伝わりますが、彼女らについて語ると長くなるため、こちらでは控えておきます。
私は崇徳天皇や、周囲の人間について熱心に学んでいた時期があり、その頃はとくによく金毘羅山を登っていました。
また、平家の滅亡後、文治元年(1185年)には平清盛の娘である建礼門院(平徳子)が寂光院に入り、真如覚比丘尼として、壇ノ浦に消えた平家一門や安徳天皇の菩提を弔いながら終生を過ごしましたが、かつて、阿波内侍は宮中で建礼門院に仕えており、その縁で建礼門院は寂光院に入ったともされます [2]。
これはあくまでも物語ですが、『平家物語』の終盤で、寂光院の建礼門院を後白河院(後白河法皇)がお忍びで訪ねるのが、上で取り上げた「大原御幸」の回です(「御幸」は法皇の行幸)。
寂光院さんは金毘羅山や翠黛山の山麓に所在します。
京都大原 寂光院 (寂光院の歴史)
http://www.jakkoin.jp/rekishi/
上は寂光院さんの公式サイトのリンクですが、参考に。
寂光院さんでは阿波内侍を第2代住持、建礼門院を第3代住持と位置付けていらっしゃいます。
裏手の山中に阿波内侍らの墓(供養塔)と伝わる古い墓所が今も残りますが、建礼門院は高倉天皇の皇后ですので、明治政府により御陵(皇后陵)と治定された地(大原西陵)に分かれました。
リンク先でも豊臣秀頼と淀君について触れていますが、先に引いた『北肉魚山行記』でも、江戸時代前期当時の御堂は、豊臣秀頼公の母公である浅井備前守息女の二世安楽 [3]のために秀頼公が再興したものだ、といった話が見えます。
『平家物語』灌頂巻の「大原御幸」を、記事下部の「余談・追記」に掲載しておきますので、興味がある方はそちらをどうぞ。
「翠黛」の意味もあまり知られていないようなので、併せて解説しておきます。
金毘羅山(金毘羅大権現)のヒカゲツツジと鳥居。
先ほどの写真の撮影地点から一歩下がるとこのような感じです。
金毘羅大権現さんの展望地や、東峰と西峰の間の展望地からは、眼下眼前に大原の風景、比叡山、遠くには京都盆地、生駒山、大阪まで見渡すことができますが、この日は遠くの空はやや霞んでおり、京都盆地はともかく、大阪方面はさっぱり見えません。
いずれ、金毘羅山からも「あべのハルカス」を明瞭に撮影したいと考えていますが、秋冬の空気が澄んだ日は別の山へ向かうことが多く、なかなかその機会が訪れません。
追記しておきますと、後日、金毘羅山から条件よく大阪方面を遠望できました。
その日の話は上の記事で。
東峰と西峰の間にある神代文字の碑文についても詳しく。
合わせて、崇徳天皇と金毘羅大権現の話や、あるいは江文神社さんと江文寺、江文山の関係についても触れています。
当地に金毘羅大権現がお祀りされるのは、修験の行場だったことと無縁ではありませんが、なかなか説明が難しく。
話を戻します。
タムシバの花
京都北山ではコブシよりタムシバが優勢なようです。
大文字山の深い谷間にコブシが残っていますが、私が見たところでは稀です。
ヒカゲツツジの花
日陰に咲くヒカゲツツジのお花。
この日は他にミツバツツジやアセビなどのお花も見ることができました。
金毘羅山と翠黛山、その北に連なる焼杉山を総称して「大原三山」などと呼び、金毘羅山と合わせて縦走する方が多いですが、時間の都合もあり、この日は金毘羅山を歩くだけに留めておきます。
翠黛山でもヒカゲツツジが見られますが、近年、数を減らしている印象を受けます。
静原街道の桜並木
夕日を浴びる静原の桜並木。府道40号下鴨静原大原線。後方は瓢箪崩山方面。
下りは静原側へと下山しました。やや難路ですので、詳しくは紹介しません。
京都市内の中心部と比較すると、大原や静原ではサクラの花期が遅れる傾向にありますが、さすがにこちらでも散りが進んでおり、今年のソメイヨシノはこれで見納めとなりました。
上の写真、大原で撮影した写真より霞んだ空の色となっています。
後方に見えているのは、江文峠の南西、あるいは瓢箪崩山の北西、地形図に見える約460mの小ピーク ですが、この地点から見ると、尾根上の名もなきピークとは思えないほど目立っていますね。
瓢箪崩山の山中にもヒカゲツツジが咲きますが、その絶対数は少なく、いずれは失われる可能性があります。
金毘羅山や、この山のヒカゲツツジの話はこれで終わりではありません。
続きは上の記事に。
崇徳天皇を祭神とする琴平新宮社さんについても少し取り上げています。
余談・追記
江文峠にツキノワグマ(熊)
注意喚起。
2014年(平成26年)4月26日に江文峠でツキノワグマ(クマ、熊)が目撃されています。
峠の北にあたる金毘羅山や、あるいは峠の南にあたる瓢箪崩山や箕ノ裏ヶ岳を登る方はご注意を。
近年、大原や静原界隈でもツキノワグマの目撃例が増えているのが気がかりです。
ヒカゲツツジが京都府の準絶滅危惧種に指定
やはりといいますか、 『京都府レッドデータブック2015』で、新たにヒカゲツツジが準絶滅危惧種の指定を受けました。
減少の要因として、「近年、園芸目的の採集が見られる」(盗掘)と指摘されています。
本記事を公表した立場上、定期的に見回りは続けますが、長いサイクルで見ると維持は困難かもしれません。
私が生まれる前の金毘羅山は、希少なラン科植物の自生地でもあったのです(が、すでに当地からは根絶しています)。
『筑紫紀行図誌』に見る大原金比羅 平野ヶ嶽はどこ?
「江文山が金毘羅山と呼ばれるようになった時期」の件で補足しておきます。
素言子を号した江戸の絵師、素言による天明6年(1786年)の『筑紫紀行圖誌』(筑紫紀行図誌)に、比叡山からの眺めとして「如意ヶ嶽 大原金比羅 鞍馬山 其外 丹波 丹後 若狭の山々見ゆる 東坂本の方より 江州 伊吹山三上山 竹生島 平野ヶ嶽 志賀 唐崎一望にして絶景」と見えます。
「鞍」のくずし字は読み取りにくいですが、おそらく鞍馬山で正しい。
前後の並びから、この「大原金比羅」は山名を指していると考えられます。
タイトルでは分かりにくいですが、『筑紫紀行圖誌』は江戸から九州まで往復した旅路の紀行文。
比叡山から丹後の山はごくごく一部しか見えない、なんならほぼ見えないと申し上げても構いませんが、昔の人の感覚では丹波の果てと混同されていたのでしょう。
如意ヶ嶽、鞍馬山、伊吹山、三上山、竹生島、いずれも信仰の対象となり、修験道や天狗と関わる有名な山々や、あるいは唐崎といった、よく知られる名所と並んで「大原金比羅」が挙げられるのは興味深いです。
以下は本題と無関係な余談。
『筑紫紀行圖誌』に山名が見える平野ヶ嶽は、成立経緯が複雑な『蕗原拾葉續』(蕗原拾葉続)における中山道の道中里程記に、「武佐 西宿村、上田村、南ニかゝみ山、西ニ平野ヶ嶽、小山ノ城、熊口村、横關村、橫關川、舟渡し、西横關村、善光寺川」と見えますが、どの山でしょうね。
橫関川は現在の日野川で、武佐、西宿、上田、熊口(おそらく馬淵村)、横関(東横関)、日野川、西横関、善光寺川の並びは正確に見えますので、山も一定の信用はできそうですが、熊口と馬淵を見るかぎり、表記揺れがある可能性も捨てきれません。
石の博物誌として名高い『雲根志』の「水晶」にも、他の有名な近江の水晶の産地と並び、「平野嶽」の山名が見え、おそらく同じ山を指すと考えられます。
これらの平野ヶ嶽がすべて同じ山だと仮定した場合、三上山や鏡山ではなく、武佐宿のあたりから西方に見えることになり、かなり候補が限られるでしょう。
あくまでも私見ですが、平野ヶ嶽は平野山と同義で、比良山(ひらのやま)の可能性があると考えています。
ただし、『筑紫紀行圖誌』に掲載される絵図では比良山を「比良」としています(が、この絵図では「比叡山」と「比良」の間に「如意山」が描かれており、もし、如意山が如意ヶ岳や大文字山を指すのであれば、位置取りについては正確ではありません)。
また、『日本地誌略字解』の「近江國」では、比良(ヒラ)とは別に、三上山、平野(ヒラノ)、安土山の地名が並んでおり、これを見るかぎりでは、野洲と安土の間に「平野」の地名があるのかもしれません。
まつもとにて
去来
初雪や四五里へだてゝひらの嶽『俳諧勧進牒』
松尾芭蕉の高弟(蕉門十哲)、向井去来の俳句に見える「ひらの嶽」も、句意から比良山を指すとされます。
「まつもと」は芭蕉ゆかりの義仲寺さんに近い大津の松本で、4~5里=約16~20km。
松本は芭蕉一門には馴染みある地であり、芭蕉を追悼した定光坊實永(実永)(三井寺の僧)による「松本や二度の雪見る翁塚」の句なども残ります。
また、興味深いことに、この大津市松本にも「平野」の地名があり、平野神社さんなどが所在します。
「大原の怪美人」小塙徳子と「大原や蝶の出て舞ふ朧月」
「大原や蝶の出て舞ふ朧月」の件で補足しておきます。
小塙德子(小塙徳子)は大原三千院の門前で「四季茶屋」を開いた女主人。
徳女を号し、書画や短歌、俳句も嗜んだ文人的な才女で、世に「句仏上人」と呼ばれた彰如上人(大谷光演)から「怪物」と命名され、中外日報で知られる真渓涙骨からも高く評価されました。
戦前の女性としては珍しく、提灯を片手に、夜の独り散歩が好きだったらしきことが伝わり、個人的なシンパシを覚えます。
「深夜」
(前略)
人間に出會ふのが何となく面倒なので、散歩に出るのも夜更けてからの方が多い。そして句材や、感想の片々を丹念に拾ひ集めて來る。何の收穫が無いにしても山峡の深夜を漫歩くことは私にとつて最上の樂しみである。
(中略)
ある俳人が「蝶の出て舞ふ朧月」の句は事實か想像か、との問題を持ち込んで來たことがあつたが、そんなことは論じるまでもない。朧夜の大原を、たつた一歩歩いて見ればすぐ解る。
(後略)
『山居』
1935年(昭和10年)の歌文集『山居』に収録される「深夜」を題とした随筆より。
実際に夜の大原を歩いたこともないのに、「蝶の出て~」の句について論じているのだろうと徳子は皮肉っています。
「文辞は婉曲(遠回し)であるが、鋭い理智をひらめかす」と評された彼女らしい名文でしょう。
本文に振り仮名は振られていませんが、「漫歩く」の読みは「すゞろありく」(すずろありく)や「すゞろあるく」(すずろあるく)で、現代では母音交替とされる「そぞろあるく」が好まれやすく、なかなか難しいケース。
「八瀨大原 三千院と寂光院」
(前略)
三千院の門前には、これは又あたりに家とてもなき閑寂の眞唯中に、うら若き女性の唯一人主人となりて、見るから瀟洒な茶屋をしつらひ、四疊半ばかりの座敷には釜の湯さへたぎらせ、傍の文臺には色紙短册まで備へて遊客に歌を請ひ繪を求め、みづからも「一ツ家に女一人や秋時雨」など物して取すましてあるのを見た、風流にしても以而非物(いせもの)にしても心にくき仕業である、女性の名は德子、茶屋の名は、夏は靑葉の茶屋、秋は紅葉の茶屋冬は椿の茶屋と申すとある、はて京なればこそ都なればこそ。『趣味の旅 古社寺をたづねて』
1926年(大正15年)の『趣味の旅 古社寺をたづねて』(趣味の旅 古社寺をたづねて)に名前が見える、茶屋の若き女主人「徳子」は、おそらく小塙徳子その人。
大原の地で「徳子」の名は建礼門院と重なり、とくに印象深かったのでしょう。
「以而非(いせ)」は「似而非(えせ)」と同義でしょうが、現代的な文章ではあまり用いませんね。
「四季茶屋」は季節に合わせ、夏は「青葉の茶屋」、秋は「紅葉の茶屋」、冬は「椿の茶屋」と称したようで、なかなか洒落ています(春は桜でしょうか?)。
『趣味の旅 古社寺をたづねて』の著者、齋藤隆三(斎藤隆三)は東京帝国大学文科大学出身の史学者、美術史家、郷土史家。
三千院前の「四季ノ茶屋」(四季の茶屋)や名高い「お徳さん」の話は、大正末期から昭和にかけての諸誌に見られます。
小塙徳子については、いずれ独立した記事としたい(が、いつになるか分かりません)。
現代ではほとんど知る者なし。
大原御幸(小原御幸) 『平家物語』灌頂巻(潅頂巻)より
大原御幸
カヽリシ程ニ法皇ハ文治二年ノ春ノ比建禮門院ノ大原ノ閑居ノ御住居御覧セマホシウ思シ召セラケレ共二月三月ノ程ハ風烈ク餘寒モ未盡セス
峯ノ白雪消ヤラテ谷ノツラヽモ打解ス春過夏來テ北祭モ過シカハ法皇夜ヲ籠テ大原ノ奥ヘ御幸ナル
忍ノ御幸ナリケレ共供奉ノ人々ニハ徳大寺華山院土御門以下公卿六人殿上人八人北面少々候ケリ
鞍馬通リノ御幸ナレハカノ清原深養父カ補随落寺小野皇太后宮ノ舊跡叡覧有テ其ヨリ御輿ニメサレケル
遠山ニカヽル白雲ハ散ニシ花ノカタミ也
青葉ニミユル梢ニハ春ノ名残ソオシマルヽ
比ハ卯月廿日余ノ事ナレハ夏草ノシケミカ末ヲ分イラセ給ホトニ初タル御幸ナレハ御覧シ孤タル方モナク人跡絶タルホトモ思食ヤラレテ哀也
西ノ山ノ麓ニ一宇ノ御堂アリ
即寂光院是也
フルウ作ナセル泉水木立ヨシアルサマノ所也
イラカ破テハキリフタンノ香ヲタキ扉ヲチテハ月常住ノ燈ヲカヽク
トモカヤウノ所ヲヤ申ヘキ
庭ノ若草茂リアヒ青柳イトヲミタリツヽ池ノウキ草波ニタヽヨヒ錦ヲサラスナトアヤマタル
中嶋ノ松ニカヽレル藤波ノウラ紫ニサケル色青葉マシリノヲソ櫻初花ヨリモメツラシク岸ノ山吹サキミタレ八重立雲ノ絶マヨリ山時鳥ノ一聲モ君ノ御幸ヲ待カホナリ
法皇是ヲエイラン有テカウソ遊サレケル
池水ニ汀ノ櫻チリシキテナミノ花コソサカリナリケレ
フリニケル岩ノ絶間ヨリオチクル水ノ音サヘコヘヒヨシ有所ナリ
緑蘿ノ垣翠黛ノ山畫ニカク共筆モ及難シ
(後略)
『平家物語』灌頂巻 「小原御幸」より
『平家物語』は複数の系統、多くの刊本がありますが、一例として、いわゆる語り本系の古活字版のうち、江戸時代初期~前期と推定される版本から転載しておきます。
他のどの「漢字片仮名交じり本」とも内容が異なる珍しい版とされますが、原文まま。
この版本では、目次で「小原御幸」としていながら、本文は「大原御幸」としています。
遅桜が咲く大原の山里の美しい情景描写。
「緑蘿の垣、翠黛の山、画に書くとも筆も及び難し」、緑の蔦が絡まる垣、青く(あるいは緑に)霞んで見える山、寂しい土地ながら、絵に描こうとしても筆が及び難い(上手く描けない)と絶賛しています。
大原の翠黛山の呼称じたいは『平家物語』の「翠黛の山」に由来しますが、中国において、翠黛(すいたい)は昔の女性(とくに妓女)が顔料で施した眉墨の色、黛色深青を表しています。
盛唐期の杜甫による「陪諸貴公子丈八溝携妓納涼晩際遇雨」詩二首に「燕姬翠黛愁」の一節があり、これは雨が激しく降ってきて、燕の歌姫も翠黛が愁う(眉をひそめる)場面。
多作ゆえか、唐代中期の白居易は、とくに知られる「西湖留别」詩の一節「翠黛不須留五馬」 [4]以外にも、「武丘寺路宴留別諸妓」詩 [5]の一節「欲語離情翠黛低」など、おそらく最も「翠黛」を用いた詩人となりました。
白居易と同時代の李紳による「入淮至盱眙」詩の一節「山凝翠黛孤峰回」、これは青く霞んで見える山を翠黛と形容した表現です [6]。
日本にもこれらの唐詩(漢詩)が持ち込まれ、美人の眉や、青く霞んで見える山の表現として用いられるようになったと考えられます [7]。
神仙とも重なって、とくに白居易(白楽天)は日本でも異常ともいえるほど好まれており、平安文学にも多大な影響を与えました。
たとえば、『紫式部日記』には、中宮彰子 [8]が『文集』(白氏文集)や『楽府』(新楽府)といった白居易作に興味津々なので、(紫式部自身はすでに漢籍に対する興味は失っていたようですが、)こっそり教えていたといった話が見えます。
「こっそり教えていた」のは、左衛門の内侍という女性 [9]に「甚(いみじ)うなむ才(ざえ)がる」(いみじうなむ才がる)(ひどく才能をひけらかしている)と陰口を叩かれ、女性でありながら漢文も読み書きできることについて、あれこれ言われるのをわずらわしいと感じていたからです。
あるいは、『枕草子』にも、御所に雪が高く積もった日、中宮定子 [10]から「香炉峰の雪いかならん」(香炉峰の雪はどのようなものでしょう)と問われた清少納言が、定子の意図を察し、白居易の詩にならって、(外の雪景色が見えるように)御簾を高く上げてみせたら、定子はお笑いになられた(喜んだ)、といった話があります。
これは白居易による「重題」詩 [11]に「香爐峰雪撥簾看」の一節があり、その「香炉峰の雪は簾を撥げて看る」を登場人物はもちろん、読み手も知っていることを前提としたやり取りです。
それを見ていた他の女房らは、自分たちも漢詩は知っているけれど、その光景を再現しようとするとは思いもよらなかったと清少納言の機知に感心します [12]。
少し長くなりましたが、何を伝えたいかといえば、昔の日本における文学や歌は、その典拠となる漢籍や漢詩の知識を前提としているため、現代では由来が分かりにくい場合もある、ということです。
文日堂評
孤雲
白氏文集は大目に和歌の神『誹風柳多留 卅九篇』(柳樽)
帝意を帯び、日本を訪れた白居易が、出会った漁翁(漁師)に得意の漢詩を披露するも、漁翁は同じテーマの和歌で返した、漁翁の正体は住吉明神であり、舞楽を披露した後、他の神々と共に神風を起こし、白居易は日本へ上陸できずに退散する、といった筋書の謡曲『白楽天』を踏まえた、文化4年(1807年)頃の狂句(川柳)。
評者(点者)の「文日堂」は当時の代表的選者であった礫川。
この謡曲『白楽天』は、それまで神聖視されていた白居易を、「我が国(日本)で初めて重んぜざるの意を示した」作品とされます。
ただし、白居易が作った詩も、漁翁が返した歌も、謡曲の作者が他の歌を本歌として作った歌と考えられており、あくまでも創作に過ぎません。
白居易を無条件に賛美する風潮は薄れていきますが、日本で漢詩そのものの人気が衰えることはなく、李白や杜甫が好まれるようになります。
話を「大原御幸」に戻し、「翠黛の山」以外も少しばかり解説というか補足しておきますと、清原深養父の名を挙げていますので、「補随落寺」は深養父が創建した「補陀洛寺」(補陀落寺)を指しています。
やや経緯が複雑で、分かっていない(伝わっていない)こともありますが、おそらく、小野小町ゆかりとされる静原の小町寺さんと関わりがあると考えられています。
「思食ヤラレテ」は「食」が「飯」、つまり「思し召しやられて」。
後白河院による「池水に汀の桜散り敷きて波の花こそ盛りなりけれ」の御製歌は、あくまでも物語のうえでは寂光院で詠まれたという扱いに過ぎず、
みこにおはしましける時鳥羽殿に渡らせ給へりける頃池上花といへる心をよませ給うける
院御製
いけみづに汀の櫻ちりしきて浪の花こそさかりなりけれ『千載和歌集』
平安時代末期に編纂された『千載和歌集』(千載集)では鳥羽離宮(の歌会)で詠まれた歌として収載されています。
やや事情が複雑ですが、歌の詞書は撰者の藤原俊成によるものです。
これが後に「大原御幸」の場面で取り上げられ、寂光院で詠まれた歌として世に広まりました。
したがって、寂光院で詠まれたとするのは『平家物語』灌頂巻による創作物語(フィクション)であり、歴史的事実とはいえません。
こういった経緯から、文治2年(1186年)4月の「大原御幸」じたい、長年、創作だろうと見なされてきましたが、史料研究が進み、同年同月に江文寺や補陀洛寺、来迎院へ御幸したとされる記録が確認されたと云々。
ただし、寂光院を訪れたかは……。
河合谷山と江文山 神踏山と柄踏山
記事本文でも引いた、1911年(明治44年)の『京都府愛宕郡村志』の「静市野村志」に、
「河合谷山」
村の東静原部落にあり周回一里三十四町嶺上より四分し其南は本村に屬す登路二里險なり渓流の一條静原川に入る「江文山」
河合谷山の南にあり周回四町其西北本村に屬す「静原川」
村の東北河合谷山より出て渓谷の水を合し西南に流れ野中小字打合に至り鞍馬川に合す『京都府愛宕郡村志』
と見え、どうやら、江文山の北に「河合谷山」なる山も所在したようです。
この「河合谷山」が翠黛山や焼杉山の静原側における呼称なのか、あるいは天ヶ岳など別の山を指しているのかは分かりません。
社伝によると、「静原楢小川」の上流、「河合谷意美和良川」が静原神社さんの元の鎮座地とされますが、これは静原川の上流、現代における東又川と西又川の合流点あたりを指すと考えられています(「河合」の名がそれを示しています)。
「(河合谷山の)嶺上より四分し其南は本村に属す」「登路二里(=約7.8km)」「(静原川は)村の東北河合谷山より出て」の描写や、地形的に見て、河合谷山は現代における天ヶ岳を指すようにも思われます(ただし、これは私見です)。
これは天ヶ岳の記事でも軽く触れていますが、天ヶ岳の北は大原百井、東は大原小出石、西は鞍馬、南は静市静原と、昔は4つの村を分ける山でした。
追記しておきます。
古い地図には、天ヶ岳と思わしき静原川の源頭の山に「神踏山」(神踏山)と山名が表示されています。
1905年(明治38年)の『大日本地誌 第四巻 近畿』に山名が見え、翠黛山や燒杉山(焼杉山)、金比羅山とは別の山として名前を連ねており、北麓は安曇川の源だとしていますので、『大日本地誌』における神踏山は天ヶ岳を指すと断定しても差し支えないでしょう。
「踏」は江文の「文」とも読みが通じており、何かしら関わりがあるかもしれません。
「神が踏む」という行為に意味があるのか、漢字の音訓に意味があるのか、興味深いところです。
静原神社さんの祭神は伊弉諾尊(イザナギ)と瓊瓊杵尊(ニニギ)であり、天孫降臨から「神が踏む」を頂いた可能性もあります。
そもそも、天ヶ岳の「天」とは?
追記終わり。
さらに追記しておきます。
天保国絵図 山城国図
https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000284
国立公文書館 デジタルアーカイブ
元禄国絵図 山城国図
https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000222
国立公文書館 デジタルアーカイブ
これらの絵図では、江文山を「柄踏山」、江文神社を「柄踏明神」(柄踏明神)と表示しており、やはり、神踏山の「踏」は「文」に通じているのかもしれません。
「柄踏」は「エブミ」の当て字に過ぎないのか、「柄」に意味があるのでしょうか。
神の品格を指す「神柄(かむから)」という言葉がありますが、「神と柄」の関係は?
修禅嶽はどこ? 修仙谷川
これは本題と関係ありません(しいて申し上げれば、本記事の冒頭に掲載している写真と関係があります)が、戸寺の南東、相輪摚の北、水井山か横高山、あるいは大黒山あたりと推定される山に対し、上の国絵図では「修禅嶽」と表示しています。
現代の日本ではかなり珍しい仏塔となった「ソウリントウ」は、「相輪橖」の表記が一般的なようですが、延暦寺西塔のものは相輪「摚」や相輪「樘」の表記が好まれたようです。
この相輪摚は、釈迦堂の北の香炉岡と呼ばれる山、これも貴重な弥勒石仏の奥の山上に現存しており、現在の地理院地図からは消えていますが、かつては地形図に「相輪棠」などと表示されていました。
1890年(明治23年)の『叡峯相輪樘銘詳解』(ここでも、外題では「叡峯相輪樘銘詳解」、内題では「叡峰相輪摚銘詳解」)によると、弘仁11年(820年)に建立したのが始まりとされますので、かなり古い時代の仏塔といえるでしょう。
その後、大規模な改鋳が施され、1917年(大正6年)に国から重要文化財の指定を受けました。
修禅嶽の呼称は、「大嶽四明洞」(四明岳)(四明ヶ嶽)(四明ノ峰)と同様、天台宗と関わりが深い、中国の天台山修禅寺ゆかりと考えられますが、いつの間にやら地図から姿を消し、今となっては知るハイカーもいません。
唐代の注釈書『止觀輔行傳弘決』(止観輔行伝弘決)によると、天台山に入った中国天台宗の智顗が最初に建てたのが修禅寺で、後に還学生として入唐した最澄も、その当時、修禅寺の座主であった道邃から教えを受けています。
明治時代の小学校用の地方誌読本に、八瀬から横川に至る登路の北に「修禅嶽小野山」が連なる描写が見受けられますので、修禅嶽は小野山ではありません。
これにしたがえば、修禅嶽は水井山か横高山となりそうです(が、その描写が正しいとは限りません)。
明和4年(1767年)の『山門三塔坂本惣繪圖』(山門三塔坂本惣絵図)の第2鋪に「西塔修禅ヶ峯道」が描かれています。
これは西塔から横川に通じる、いわゆる「峰道」で、その先には「小比叡明神社」や「横川 不二門」が描かれており、小比叡明神社の上には「阿弥陀峯」「小比叡峯」「波母山(寒嵐嶽)」といった山名も見えますが、山としての修禅嶽や修禅ヶ峰の姿は見当たりません。
序に天保4年(1833年)とある『御山のしをり 上巻』(御山の志を里 上巻)(比叡山延暦寺小案内記)に「阿弥陀峯は(横川の)不二門の正面にある」「又小比叡の峯とも波母山ともいう」と見え、山門三塔坂本惣絵図と異なり、阿弥陀峯と小比叡の峯や波母山を同一視しています。
「不二門の正面」であることや、横川の駐車場にある案内図に描かれる山景と実景を照らし合わせるかぎり、(それらにしたがえば、)阿弥陀ヶ峯は水井山を指すと考えられます。
東塔の本尊は薬師如来、西塔の本尊は釈迦如来、横川の本尊は阿弥陀如来ですので、横川寄りの水井山を阿弥陀ヶ峯とするのは妥当に思えます(が、不思議なことに、水井山に設置される三等三角点の点名が「釈迦岳」です)。
追記。
すっかり見落としていましたが、京都府水防計画や京都市土砂災害ハザードマップの附図に「修仙谷川」が描かれています。
国土交通省河川局による河川名も「修仙谷川」ですが、「修仙」と「修禅」が表記揺れの範疇であれば、この修仙谷の上が修禅嶽(修仙嶽)でしょう。
谷の左又を詰めれば横高山、右又を詰めれば大黒山ですので、やはりこのあたりの山域と見て差し支えなさそうです。
京都府水防計画の附図では、修仙谷川の南に丹住谷川、その南に猪谷川(図によっては猪ノ谷川)が描かれています。
修仙谷川について調査する過程で知りましたが、八瀬には「雌鳥山」の地名があった、らしい。
愛宕郡八瀬村字雌鳥山の地名は官報や『京都府愛宕郡村志』の「八瀬村志」で確認できる。
追記終わり。
関連記事 2014年4月 春の金毘羅山ハイキング
すべて同時期の山行記録です。併せてご覧ください。
- 金毘羅山 江文山と翠黛山(小塩山) ヒカゲツツジ 大原の桜
- 京都北山 金毘羅山の三壺大神とヒカゲツツジ 大原の里10名山
金毘羅山 三角点峰(地理院 標準地図)
「金毘羅山(コンピラヤマ)(こんぴらやま)」
別称として「江文山(エブミヤマ)(えぶみやま)」
西峰(三角点峰) 標高572.3m(三等三角点「根王」)
東峰(最高峰) 標高約580m
京都市左京区
脚注
- 『平家物語』には諸本が存在しますが、いわゆる「語り本」系のうち、覚一検校(明石覚一)がまとめた「覚一本」と呼ばれる系統では、建礼門院のその後を伝える「灌頂巻(かんじょうのまき)」が独立し、その平家琵琶の曲節に重きが置かれました。覚一検校は足利尊氏の縁者で、尊氏の従兄弟とも甥ともされますが定かではありません。[↩]
- ただし、阿波内侍の存在を確認できる公的な史料や日記類は残されておらず、『平家物語』や『源平盛衰記』に名前が見えるのみです。阿波内侍を信西(藤原通憲)と紀伊二位(藤原朝子)の娘とする説や、あるいは信西の孫(藤原貞憲の娘)とする説も史学的な根拠は乏しく、『尊卑分脈』でも断定できません。『平家物語』灌頂巻の成立に関わる人物が、名前を出せない他の人物を「阿波内侍」に託したのではないかとも考えられています。永万元年(1165年)に寂光院に入ったとされる阿波内侍が、久寿2年(1155年)に生まれ、承安元年(1171年)に入内した徳子に仕えていたとするには年齢的に?[↩]
- 「浅井備前守息女」はもちろん淀殿(淀君)。浅井長政とお市の方の子、茶々。秀頼と淀殿は多くの寺社に寄進しており、その点は後世でも評価されていました。「二世安楽」は、この世からあの世にわたる安楽。現世(今生)と来世(後生)の両世で安楽を得る。[↩]
- 「五馬」は五頭立ての馬車の乗車が認められている州刺史や郡太守を指す。友人知人や住民から惜しまれながら、赴任地を去る杭州刺史の白居易、「翠黛」も私を引き留める必要はないといった惜別の意。ここでの「翠黛」は、その直前の歌姫や妓女らとの送別の宴からの流れから、「翠黛」だけで美女を指すとする解釈が一般的だと考えていましたが、どうも山を指すとする解釈もあるようです。[↩]
- 『全唐詩』巻447。「女墳湖北武丘西」詩の一節で「武」を「一作虎」とする。武丘寺(武丘報恩寺)は虎丘寺。また、張籍の「蘇州江岸留別楽天」を題とする同じ詩で「一作白居易詩」とする。『全唐詩』巻385。張籍は白居易と親しく交わった詩人。[↩]
- 『全唐詩』巻480。似た表現に「翠微」があります。劉長卿の「題虎丘寺」詩と劉禹錫の「虎丘寺路宴」詩に「林際翠微路」の一節があります。それぞれ『全唐詩』巻150と巻355。[↩]
- 柳眉との関係からでしょうか、「翠黛」は後に柳の表現にも転じました。『西遊記』の「第二十七回 屍魔三戯唐三蔵 聖僧恨逐美猴王」の回に「柳眉積翠黛」の一節あり。また、黛(眉墨)と螺(螺髻=もとどりを束ねてほら貝のような形をした髪形、主に童子が結う)で「黛螺(たいら)」といいますが、「黛」や「螺髻」も山の青さを指す言葉となりました。[↩]
- 藤原彰子。一条天皇の中宮。上東門院。藤原道長の娘。後一条天皇、後朱雀天皇の母。紫式部や和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔といった名だたる女房が仕えました。[↩]
- 『紫式部日記』では「左衛門の内侍」が誰であるとは明示していませんが、橘隆子とされます。[↩]
- 藤原定子。一条天皇の中宮から、後に皇后宮。藤原道隆の娘。彰子とは父方の従姉妹。『枕草子』を読むかぎり、聡明で親しみやすい性格だったようですが、若くして崩御しました。[↩]
- 「香爐峰下新卜山居草堂初成偶題東壁」詩に「重ねて題す」。「香爐峰」は廬山にある香炉峰。[↩]
- そう聞くと、清少納言の自画自賛エピソードのようにも思われますが、この段に限らず、『枕草子』は私が仕える定子様は凄いという記録でもありますので、(好意的に解釈すれば、)この段も、漢詩から引いて、清少納言に外の景色を見たいと伝えた、あるいは試した定子の利発さを描いたものと考えられます。[↩]
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