長命寺の紫陽花 太郎坊権現祠から近江富士を展望 近江八幡

先日はササユリの見物がてら大阪府枚方市の津田山(国見山)を登りましたが、今回は梅雨時の晴れ間に滋賀県近江八幡市の津田山(姨綺耶山、奥島山)と、その周辺峰を登山。

近江八幡市でも琵琶湖に接した津田山(つだやま)は、その南に連なる長命寺山(ちょうめいじやま)や、北の御所山や笠鉾山、王浜山(おうのはまやま)(おのはまやま)など、さらに伊崎不動さんで知られる伊崎山を北端として大きな山塊を成しています。
現在でこそ陸続きですが、半島状に突き出たこの丘陵地帯は、かつては琵琶湖に浮かぶ大きな島(奥島、あるいは奥津島とも)と見なされていました。
淡水湖の島嶼としては日本で唯一の有人島として知られる沖島も、広域的には同じ山域と見なせるでしょう [1]
私は昔から湖東でも長命寺さんから沖島にかけての風景を気に入っており、毎年のように当地を訪れています。
白洲正子さんの『近江山河抄』の中で「近江の中でどこが一番美しいかと聞かれたら、私は長命寺のあたりと答えるであろう」と称賛された地にふさわしい、山岳と湖水の景観を今もなお残します。

長命寺港の風景・夜景

この日は長命寺港を起点として山上の長命寺さんにお参りし、その後、長命寺山から津田山を縦走しました。
近江八幡市は地域区分としては湖東にあたりますが、長命寺山や津田山は「近江湖南アルプス自然休養林・奥島地区」に含まれており、山としての区分に悩むところです。

琵琶湖 長命寺港の風景、夜景 近江八幡市 2016年6月
長命寺港の風景、夜景。琵琶湖岸から鏡山と三上山を望む。

上山前にも長命寺港から三上山を眺めましたが、付近で工事していらっしゃったこともあり、早々に長命寺さんへ向かうことに。
下山後、京都に戻る前に撮影したのが上の写真です。
写真は(かなり)明るく撮影していますが、すでに日没後であたりは暗く、湖港の岸壁には猫さんが集まっていました。

長命寺を登拝

808段の石段道

長命寺の参詣道 808段の石段道 近江八幡市 2016年6月
長命寺さんの参詣道。長い808段の石段道。

長命寺さんは長命寺山の中腹に所在していますが、今となっては車で容易に上れるため、わざわざ初夏の時期を選んで下から歩いて登拝する方は少ないようです。
上(お寺さん)でお会いした方々に、「下から見えたの?(歩いて登ってきたの?)」と問われたので、「そうです」と肯定すると驚いていらっしゃいました。

長い長い石段を登ることじたいはともかく、お寺さんの参道に多い竹藪からヤブカ(ヒトスジシマカ)が湧いてくるのではないかと恐れていましたが、幸いにも蚊に襲われることはなく。
これから本格的に暑い季節を迎えると、すぐにヤブカだらけの道のりと化すでしょう。

西国三十三所 第三十一番札所 姨綺耶山 長命寺 2016年6月
西国三十三所 第三十一番札所 姨綺耶山 長命寺。山門。滋賀県近江八幡市。

この山門をくぐれば本堂まであと少し。
山門下の左手(西)に駐車場があり、車でここまで上れます。

「姨綺耶山」は長命寺さんの山号ですが、それが長命寺山や津田山の山名を複雑にしています。
その話は機会があれば次回以降に。

長命寺の三重塔

長命寺 三重塔 重要文化財 滋賀県近江八幡市 2016年6月
長命寺さんの三重塔。重要文化財。

15時30分頃に長命寺さんに着きましたが、西国三十三所の札所だけあって、長命寺さんの境内は多くの参詣者さんでにぎわっていました。
本堂を過ぎ、三仏堂前の広場も南向きが開けた展望地ですが、そちらのベンチは人が増えてきたこともあり、私はお気に入りのスポットへ。

「長命寺本堂(特別保護建造物)」
蒲生郡奥島ノ山腹ニ在リ
崇峻天皇元年聖徳太子ノ開基ニ係ル
本尊ハ千手觀音ニシテ西國三十三所札所ノ一タリ
境内廣カラスト雖モ堂塔坊舎多ク湖面ノ展望ニ富メリ
『滋賀縣寫真帖』

1910年(明治43年)の『滋賀縣寫真帖』(滋賀県写真帖)でも、「湖面の展望に富めり」、つまり、琵琶湖に対する展望を特筆しています。
歌詞に長命寺が見える、いわゆる「琵琶湖周航の歌」の6番歌詞碑も2011年(平成23年)に建立されました。

この時代の長命寺さんでは、女性の乳房を模した白い布片を仏像にぶら下げて祈願するという、やや風変りな奉納が行われていたようです。
よだれかけを奉納する乳薬師として、現代の長命寺さんでも同様に信仰されていますが、京都の日野など、他地域の乳薬師では過去にどのような奉納が行われていたのかなど、個人的に興味を惹かれました。
記事下部の雑記で少し補足しておきます。

長命寺 太郎坊権現祠とアジサイ

太郎坊権現祠の下 長命寺の境内 2016年6月
太郎坊権現祠の下。長命寺さんの境内。

長命寺さんの境内、西の奥に天狗の太郎坊さんがお祀りされています。
2010年(平成22年)か2011年(平成23年)頃に写真のあたりを工事なさっていたような気がしますが、すでに記憶が曖昧です。
写真で手前は本堂へ、右の階段道は太郎坊権現祠へ、左の道は緊急用道路で、参詣者用の車道や駐車場に接続します。

太郎坊さんの祠や拝殿、あるいは下の緊急用道路のあたりは見晴らしが良く、長命寺山でも屈指の展望地となっていますが、気付かずに下山なさる方が多いのが惜しいです。
看板の周辺に多くのアジサイが写っていますが、上の写真では分かりにくいでしょうか。

長命寺のアジサイ(紫陽花) 滋賀県近江八幡市 2016年6月
長命寺さんのアジサイ(紫陽花)。

長命寺さんは紫陽花寺としても知られます。
遅い年は6月下旬に見頃を迎えていましたが、他所と同様、当地でも近年は花期が早まっているように見えます。
本堂周辺はまだまだこれからでしたが、太郎坊権現祠周辺のアジサイは開花が進んでいました。
写真では右下の隅、足元には多くのドクダミも写っています。

太郎坊権現の由来

太郎坊権現祠 長命寺 滋賀県近江八幡市 2016年6月
大天狗を祀る太郎坊権現祠(太郎坊権現社)。拝殿。標高約250m~。滋賀県近江八幡市。

湖東や湖南は雨乞信仰(近江の竜王信仰)で知られますが、東近江地域は大天狗の太郎坊さんに対する信仰も篤い土地柄です。
その信仰の中心と言えるのが東近江市の太郎坊宮(赤神山)で、私は独特の威容を誇る赤神山や、その周辺山域も好んで歩いています。
昨年(2015年)は紅葉はじめの時期に赤神山や箕作山を登りましたが、その日の話は時間が足りず積み記事のまま。

太郎坊さんといえば、京都に住む私にとっては愛宕山の大天狗です。
祠の由緒書きには、普門坊という異僧が佛法護持のため魔王の形を現した、これを祀るために祠を建て太郎坊権現を勧請した、京都愛宕山よりの飛来石がある、といった話が記されています。
この話に限らず、一般的に魔王(大天狗)は特別な力を持つ高僧や身分が高い人などが転じた姿と考えられていました。
たとえば、それこそ愛宕山の太郎坊は、弘法大師の高弟である、高雄山神護寺の真済という高僧が転じた姿だなどと、江戸時代の京都では広く信じられていたようです。

「長命寺」
長命寺の山は、中庄村の西南に在。
長命寺山高さ十二町餘あり。八丁許上に、長命寺あり。山下を長命寺村と云。
「天狗社」
此山の西の峯に有。長命寺の【縁起】に曰、太郎坊の祠あり。
一山鎮護の靈神也、その來由を尋るに、後奈良院御在位の頃、當寺に普門坊と云異僧あり。
(中略)
佛法繁昌伽藍鎮護の爲に、大天狗となり玉ひき。是によつて祠を建て、太郎坊權現と仰ぎ奉る。
『近江國輿地志略』(寒川辰清)

享保19年(1733年)に大成した『近江國輿地志略』にも同様の話が取り上げられています。
上は1915年(大正4年)の大日本地誌大系刊行会版から引いています。
「後奈良院御在位の頃」ですので、室町幕府の将軍は足利義晴・義輝の時代、普門坊さんは室町時代後期(戦国期)のお坊さんですね。

(湖東における)太郎坊については、次回の記事の余談でも補足しています。

太郎坊権現祠の展望

琵琶湖の長命寺港と近江富士を望む

太郎坊権現祠の展望 琵琶湖の長命寺港(津田の入江)、近江富士、金勝アルプスを望む
太郎坊権現祠の展望。琵琶湖の長命寺港、近江富士、金勝アルプスを望む。

主な山距離標高山頂所在地備考
飯道山24.6km664.0m滋賀県甲賀市
阿星山21.8km693.0m滋賀県湖南市
滋賀県栗東市
金勝寺山22.9km610m滋賀県栗東市標高の値は
10mDEMによる
竜王山22.4km604.6m滋賀県栗東市金勝アルプス
鏡山
(西の竜王山)
10.7km384.5m滋賀県蒲生郡竜王町
滋賀県野洲市
菩提寺山
(竜王山)(桜山)
14.6km353.2m滋賀県湖南市
滋賀県野洲市
甲西富士
三上山12.7km432m滋賀県野洲市近江富士

長命寺山の南西腹に所在するため、北向きや東向きの展望は期待できませんが、拝殿の前は南向きに開けた好展望地です。
眼下には長命寺港や、いわゆる「津田の入江」に至る湾岸部を一望でき、その向こうに広がる田園風景や「近江富士」三上山、湖南の山々が美しく。
古歌にも詠まれる「津田の入江」は、かつては深く鶴翼山(八幡山)の内まで細江が食い込んでいましたが、干拓により往時とは地形が変化しています。
写真の左端には近江八幡運動公園の球場なども写っていますが、とくに示していません。

続いて視点を左へ。南東向き。

鶴翼山(八幡山)を眼前に

長命寺・太郎坊権現祠から鶴翼山(八幡山)、鈴鹿南部を望む 2016年6月
長命寺さんの太郎坊権現祠から鶴翼山(八幡山)、鈴鹿南部を望む。

主な山距離標高山頂所在地備考
鶴翼山
(八幡山)
2.7km271.7m滋賀県近江八幡市最高点は約280m
那須ヶ原山38.4km799.5m滋賀県甲賀市
(三重県亀山市)

近江八幡の象徴とも言える鶴翼山の姿が木々の合間に覗いていました。
この山は俗に「八幡山」とも呼ばれますが、地理院地図では「鶴翼山」の呼称を優先しています。
鶴翼山越しに雪野山(龍王山)の一部や、さらに遠方には鈴鹿山脈でも最南部の稜線が見えていますが、広角的な視野では那須ヶ原山以外のピークは特定が難しく。

視点を近江富士に戻して、その右へ。南西向き。

湖南方面と醍醐山地や鷲峰山を遠望

長命寺・太郎坊権現祠から琵琶湖、岡山、湖南アルプス、鷲峰山、醍醐山地を遠望
長命寺さんの太郎坊権現祠から琵琶湖、岡山、湖南アルプス、鷲峰山、醍醐山地を遠望する。

主な山距離標高山頂所在地備考
太神山28.2km599.6m滋賀県大津市
矢筈ヶ岳29.4km562m滋賀県大津市
空鉢峰
(鷲峰山)
39.5km682m京都府相楽郡和束町
大峰山37.3km506.3m京都府綴喜郡宇治田原町最高点は約510m
岩間山30.3km443m滋賀県大津市
京都府宇治市
大平山28.8km464m滋賀県大津市
京都府京都市伏見区
千頭岳
(東千頭岳)
29.1km600m京都府京都市伏見区
滋賀県大津市
西千頭岳
(千頭岳三角点峰)
29.3km601.8m京都府京都市伏見区醍醐山地最高峰
岡山3.1km187.5m滋賀県近江八幡市

岡山の向こうには守山や草津方面の街並みも見えています。
鷲峰山の手前に重なるように湖南アルプス堂山が見えていますが、上の写真では分かりにくいですね。
こうして遠くの山の上から眺めてみると、間に瀬田川(宇治川)が流れているとはいえ、宇治川ラインに近い醍醐山地、田上山地、鷲峰山系あたりは広域的な繋がりが深いことが窺えます。
とくに示していませんが、岡山の右(西)に連なる小さな山は頭山です。

紫陽花や展望も楽しみ、いよいよ長命寺山から津田山へ。
長命寺さんの境内は登山道と接していますが、有刺鉄線や柵で遮られるため、直接、長命寺さんから裏山には入れません。
長命寺さんから参詣者用の車道を少し下り、ガードレールの脇から岐れ、近江湖南アルプス自然休養林・奥島山国有林のハイキングコースから長命寺山に取り付きます。

長くなってきたので記事を分けます。

ササユリ(笹百合) 津田山(奥島山) 近江八幡市 2016年6月

津田山(奥島山、姨綺耶山)と長命寺山を登山 滋賀 近江八幡

2016.06.16

続きは上の記事に。

雑記

乳薬師 『日本名勝写生紀行』に見る長命寺

記事本文の補足です。

長命寺詣 那可瑳波
(前略)
日あたりのよい、春の長命寺の長い石段を、何階となく上つて行く。振り返つて見下ろすと、青い湖が見え、船つき場が見え、棧橋が見え、松が崎の松が見え、白帆が見え、蒸汽の汽笛がきこえ、比良か叡山が見え、黄ろい烟からぼうつと三上山鏡山の方が見える。長い石段の途中では、幾人となく、春の巡禮、三十三ヶ所詣での男女に逢つた。階段の兩側には、椿も櫻も咲いている、杉もある、竹も多い、青い水と、黄ろい菜畑と、江州の山々は霞んで、此所に御詠歌を聞くことが、嘗て、壺坂や初瀨で、出會つた時よりも、よい氣持がした。而して、若い巡禮に、是から美濃路へは、なんぼ程ありますか、と聞かれた時、自分は京都よりも、大和よりも、近江だという詞が、好きになつた。自分も中仙道を、伊吹の裾を左に、春から初夏へかけて、やつて行きたいやうな氣持ちがした。其の巡禮は、石段を下へ、自分は、鉦の音の聞える御堂の方へ、上つてゆく。

こゝの觀音は、藤原末期の作だといふ事で、秘佛になつてゐる。木彫で、二尺九寸の像であるさうだ。今はお厨子の前にお前立という佛が見られるばかりだ。
遍路の納屋で、かなり忙しさうな若い役僧に、自分の端書へも、スタンプを一二枚賴んだ。「八千年や柳に長き命寺」と、いう額が上がつてゐて、この時、夫婦連の巡禮が鉦をたゝいて詠歌を勤めてゐた、南無大慈大悲の觀世音菩薩、南無釋迦牟尼佛と唱へてゐた。
この御堂の脇に、自分は、尠からず胸を躍らせた佛があつた。紅殻色の手摺の裡に、かなり大い佛體は、黒くなつて見えるが、細く長き眼は、白く光つて、生けるお人のやうに思つた、法華寺の十一面觀音のやうな感じがして、此の佛の前に立つた時。頭髪はお釋迦様の様に巻いてあるが、手に錫杖を持つてをられるのと、袈裟のやうな物をかけて居られるのとで、自分は地蔵菩薩であるのだと思つて見たが、姿勢端巖とという感じがした。
が、
自分の胸を躍らせたのは、其のお姿よりも、其の周圍に、樹の實のやうに下つてゐる、乳房の形を、圓い、白い布片でくるんだものが、鈴なりになつてゐるのに氣付いたからであつた。自分は、先年、寶生へ詣つた時、それと同じ乳房を貰つて、歸つてきて、今に秘蔵してゐるのと、同型であつた奇遇に、感じたことである。
京や大和邊では、乳に就ての祈願は、多くは繪馬に描いたものゝやうに思つてゐるのが、乳房の恰好を、形にこしらへて、あげてあるのを見て、自分は此處で、乳の祈願といふ畫題で、一枚描いて見る氣になつた。
(中略)
自分は、いつも琵琶湖を汽車から見る時、菜種の咲く頃、想像してゐた水國の春を、今度ばかりは、十分に見物した。而して此の津田村といふ所を、同好の友に、紹介したいと思ふのであつた。

『日本名勝寫生紀行 第五巻 東海道下の巻』
(原文まま)(「尠からず」は「少なからず」)

1912年(大正元年)に発行された『日本名勝寫生紀行 第5巻』(日本名勝写生紀行)より。
筆者の「那可瑳波(なかざわ)」は、明治時代から昭和期にかけて活動した画家、中澤弘光で、「長命寺詣」の章は中澤による紀行文です。
長命寺を詣でた中澤は、仏像の周囲に「樹の実のように下っている、乳房の形を、円い、白い布片でくるんだものが、鈴なりになっているのに気付き」、それが自分が秘蔵しているものと同じ型であったことを奇遇と感じて、「乳の祈願」の画題で、1枚、描いてみる気になったと見えます。
『日本名勝寫生紀行』には収められていませんが、同年の第6回文展(文部省美術展覧会)に審査員として出品した「乳の祈願」の画を拝見するかぎり、確かに「鈴なり」に白い乳房がぶら下がっています。
中澤は地蔵菩薩像に対する信仰だと考えたようですが、現代においては長命寺さんの薬師如来像に対して同様の信仰が見られ、乳房の代わりに涎掛けを奉納し、母子の無病息災などを願う乳薬師様として信仰を集めています。
ただし、中澤の「乳の祈願」に描かれる仏様は、『日本名勝寫生紀行』の描写そのままですので、現在の薬師如来像や、本尊の御前立とは明らかに異ります。
描かれている御姿では、向かって左の手は施無畏印の仏像にも思えますが、そのあたりの事情は分かりかねます。

乳房を描いて奉納した絵馬は、昔は京都や奈良でも見られたのでしょう、この紀行文には、「京や大和辺では、乳についての祈願は、多くは絵馬に描いたもののように思っている(ので驚いた)」など、他にも興味深い描写が見受けられますが、「この津田村という所を、同好の友に、紹介したいと思うのであった」で〆ている点も、個人的には嬉しく思います。

上記の件で追記しておきます。
1943年(昭和18年)の『京都神佛願懸重實記』(京都神仏願懸重実記)に、

「日野薬師」
昔から乳の薬師として產婦の乳のない人、又乳の餘る人がお詣りする薬師様で、以前は布で乳形を造りそれを小繪馬にして御禮奉納してあるものも澤山あつた。
『京都記録叢書 第三巻 京都神佛願懸重實記』

と見え、京都近郊の「乳薬師」としてはとくに有名であろう、日野薬師(法界寺さん)でも、過去には似たような奉納が行われていたようです。
「以前は」ですので、戦時中には過去の風習と見なされていたと考えられます。
そもそも中澤は寶生(宝生寺)で「貰って帰ってきて、秘蔵していた」わけですので、長命寺さんに限った話ではありませんね。

同じ日野でも、伯耆国日野郡(→鳥取県日野郡)の地誌・郷土史である1910年(明治43年)の『日野山櫻』(日野山桜)に、

小河内
乳岩神
備後往還の道のべに女の乳形に似たる岩あり之れを乳岩神と崇む
傍に淸風なる一亭あり
婦女乳汁の足らざる時或は乳房の痛み等に靈驗あらたかにて木綿などにて乳形を造り是を以て參詣し平癒を祈るもの多し
是も細媛命の遺跡なりと言へり
『日野山櫻』

と見え、近江や京都だけではなく、かつては他地域でも行われていたことが伝わります。
小河内村ですので、現在の鳥取県日野郡日野町小河内(日野郡日野町の小河内集落)ですね。
細媛命は欠史八代にあたる孝霊天皇の皇后で、日野の地で福姫を出産したとされ、産前産後にまつわる伝説も多いことから、乳形と結び付けられたのでしょう。

「乳房の絵馬」については、1942年(昭和17年)の『日本民俗圖誌 第二冊 祭祀篇』(日本民俗図誌)に、「工作的エマ」の例として、「下は三河(愛知縣)岡崎の六地藏堂に奉納されたもので、綿を白布でくるみ、乳房の形としたものである」の解説文とともに、両乳房の形を張り付けた板の画が掲載されています。
この種の絵馬は現代でも見られますね。

中澤弘光の「西国三十三所巡礼画巻」に見る長命寺

「西国三十三所巡礼画巻」より「長命寺」

「西国三十三所巡礼画巻」より「長命寺」
(著作権保護期間満了)
出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」(https://rnavi.ndl.go.jp/imagebank/)

中澤弘光は1925年(大正14年)に「西国三十三所巡礼画巻」を発表しており、もちろん、長命寺の画も収めています。
遠方に見える鋭い山容の山はどこでしょうね。

念のために申し上げておきますが、中澤は1964年(昭和39年)9月に他界しており、2018年(平成30年)の著作権法改正前に著作権の保護期間が満了しています。

琵琶湖周航の歌? 琵琶湖週航の歌?

これも記事本文の補足です。

第三高等學校
(前略)
琵琶湖週航の歌 (小口太郎作歌)
(中略)
六、西國十番長命寺 汚れの現世遠くさりて 黄金の波にいざ漕がん 語れ我が友熱き心
(後略)
『全國上級學校大觀』

1938年(昭和13年)の『全國上級學校大觀』(全国上級学校大観)より。
琵琶湖一周の風景を詠んだ「琵琶湖周航の歌」は、1917年(大正6年)に旧制第三高等学校(京都大学の前身のひとつ)のボート部員により歌われたのが始まり。
三高の寮歌として定着し、昭和期には歌謡曲として流行した影響もあり、滋賀県民からも広く好まれる郷土歌となりました。
『全國上級學校大觀』では「琵琶湖周航」ではなく「琵琶湖週航」としていますが、明治時代から昭和の戦前期の書を眺めていると、「周航」の意で「週航」を使用する例は多く、そのようにも表記したようです。
同様に、当時は「世界一周」も「世界一週」とする例が(かなり)見受けられます。
たとえば、田村虎蔵が作曲、池辺義象が作歌した「世界一週唱歌」も「一週」。

「琵琶湖周航の歌」における6番の歌詞で、「西国十番長命寺」と見えますが、長命寺は第十番札所ではなく第三十一番札所であり、これは誤りです。
三十一番であることは承知していながら、歌いやすさを優先して十番としたとされます。
「十番」とした作詞者が、三高の小口太郎であることは知られていましたが、作曲者については曖昧な時期が長く、『全國上級學校大觀』では「小口太郎作歌」とのみしています。
後の調査で、『大日本地名辭書』(大日本地名辞書)の編者である吉田東伍の次男、吉田千秋が作曲した「ひつじぐさ」のメロディを転用したことが明らかになり、現在では吉田千秋の作曲(原曲)、小口太郎の作詞とします。
1935年(昭和10年)の『第三高等學校辯論部部史』(第三高等学校弁論部部史)によると、小口太郎は三高の弁論部にも所属していたようですね。
吉田千秋は新潟県出身、1895年(明治28年)生まれ、1919年(大正8年)没。
小口太郎は長野県出身、1897年(明治30年)生まれ、1924年(大正13年)没。
「琵琶湖周航の歌」は、聞き知ったメロディを三高生が借りただけですので、両者に面識はありません。
吉田千秋も小口太郎も若くしてこの世を去りましたが、彼らが残した歌は今もなお愛され続けています。

関連記事 2016年6月 「沖つ島山」奥島丘陵を縦走

すべて同日の山行記録です。併せてご覧ください。

長命寺山(地理院 標準地図)

クリック(タップ)で「長命寺山」周辺の地図を表示
「長命寺山(チョウメイジヤマ)(ちょうめいじやま)」 標高333m
滋賀県近江八幡市

※長命寺山や津田山は地域区分としては湖東にあたりますが、「近江湖南アルプス自然休養林・奥島地区」に含まれるため、便宜上、「湖南の山」タグを付けています。

脚注

  1. 同じく琵琶湖に浮かぶ竹生島も有人島と誤解されがちですが、現在の竹生島は夜間無人島ですので、常在有人島ではありません。[]

ABOUTこの記事をかいた人

Maro@きょうのまなざし

京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!