少し前のホタル(蛍)の記事 でも軽く触れましたが、2016年(平成28年)5月14日に京都市左京区岩倉でツキノワグマ(野生の熊)が目撃されています。
目撃されたのは岩倉長谷町でも「坂原(さかばら)」と呼ばれる岩倉北東端の地域で、「瓢箪崩山(ひょうたんくずれやま)」の西麓にあたります。
そのため、このクマは瓢箪崩山か、その周辺の山域で活動していると見られていますが、目撃されてから2週間以上が経っているため、すでに移動している可能性も高いです。
目次
京都を南下するツキノワグマ
坂原の西側は岩倉村松町の最北部、岩倉盆地の北端で、静市と岩倉を分ける「箕ノ裏ヶ岳(みのうらがたけ)」の南麓にあたります。
岩倉村松町側から見て、その箕ノ裏ヶ岳を北に越えた向こうは静市静原町に、繁見坂を西に越えた向こうは静市野中町にあたり、その野中の市原駅付近でも5月12日にクマが目撃されています。
静市で目撃されたクマと、直後に岩倉で目撃されたクマが同一かは不明ですが、もし、同じ個体・群体であれば、箕ノ裏ヶ岳を越えたことになります。
近年、江文峠や金毘羅山の周辺も含め、静原のあたりにツキノワグマが出没するようになり、数年前には捕獲もされています。
私が子どもの頃は比叡山まで熊が南下することはないだろうと言われていましたが、さまざまな要因から比叡山地や北山の浅い山域に姿を現すようになり、大原や静原、岩倉あたりの山々にまで生息範囲を広げているようです。
今回の岩倉における目撃例は3頭連れだったとの話もあり、瓢箪崩山や箕ノ裏ヶ岳など、付近の山を歩くハイカーの方はご注意ください。
5月14日に瓢箪崩山の西麓でクマが目撃されたと聞き、その少し前に箕ノ裏ヶ岳を歩いた日に見た「あるもの」を思い出します。
それがどうしても気になり、少し時間が空いた17日の午後に箕ノ裏ヶ岳を登ってきました。
箕ノ裏ヶ岳は岩倉盆地の北縁にあたり、東縁の瓢箪崩山と並び、岩倉盆地を盆地たらしめている里山と言えるでしょう。
すでに失われつつある山名ですが、元来、西縁の山域は、岩倉盆地側から見て「紫雲ヶ嶽」(紫雲ヶ岳)、あるいは「紫雲嶽」(紫雲岳)などと呼ばれていました(表記揺れ多数)。
これは岩倉の大雲寺さんに由来する山名だと考えられ、古い絵図には山名が見えます。
「石藏大雲寺 院號實相院」
(中略)
傳云、此寺草創の初洛北の天に旦暮に必紫雲の聳る所あり。衆人これを無レ不レ怪。依レ之勅使を遣て見せしめ玉ふ處に、當寺後山峯なり。勅使奇異の思をなす。忽然として白髪の老尼現じて告云、此所は觀世音菩薩降臨の靈地也。又使を勸て山上に到るに、其所異香四方に薰じ、寂靜たる靈地なり、使卽窺みる處に忽然として管絃の音調をなす。
(中略)
「紫雲嶽(シウンガタケ)」
云二後山峯一
「紫雲洞」
在二同所一『山州名跡志』
正徳元年(1711年)の『山州名跡志』に「紫雲嶽は大雲寺の後ろの山峰をいう」と見えます。
また、紫雲を生じる紫雲洞がある(と考えられていた)ことも伝わりますね。
こういった、めでたい紫雲や五雲(五色五朶の雲)が山に立つ型の縁起や説話は珍しいものではありません。
いずれも本質的には道教の影響を強く受けており、前漢代とされる易占書『焦氏易林』履之「漸」に「黃帝紫雲 聖且神明 光見福祥 告我无殃」とあります。
また、『南史』宋本紀中第二の太祖文皇帝紀に「景平初。有黑龍見西方。五色雲隨之。二年。江陵城上有紫雲。望氣者。皆以爲帝王之符。當在西方。」といったエピソードが見えます。
この太祖文皇帝は南朝宋(劉宋)の文帝、劉義隆。
仙境のシンボルとしての慶雲は諸誌で語られ、崑崙山があるとされた西方と結びつきました。
箕ノ裏ヶ岳ハイキング 京都市左京区
箕ノ裏ヶ岳の山名について
箕ノ裏ヶ岳(箕裏け嶽)の山名標と道標。
ここでの「ヶ」は連体助詞(格助詞)でしょうから、平仮名であれば「が」の表記が望ましい。
箕ノ裏ヶ岳は静市静原町と岩倉村松町の境に所在する標高432.3峰で、古くは「藤ヶ森(ふじがもり)」とも称しました(→「測地成果2024」により、432.1mと改定)。
初期の地形図では「箕ノ裏ヶ嶽(藤ヶ森)」と両山名を併記していますが、現行の地理院地図では「箕ノ裏ヶ岳」の表記のみです。
地形図からはその山名が失われてしまいましたが、今も三角点の点名に「藤ケ森」の名前を残します。
追記。
明治時代に三角点が設置された当初の「点の記」にも目を通しましたが、この山については「俗稱 藤ヶ森」としており、むしろ、「箕ノ裏ヶ岳」の山名が見えません。
三角点設置時の所在地は「京都府愛宕郡静市野村大字静原字蔭山ノ内藤ノ森」(→京都市左京区静市静原町天ケ谷)で、当時の所有者は静原側。
「大字静原」「字蔭山」の内「藤ノ森」、小字の内にさらに地名がある(小名)、やや珍しいケースでしょうか。
標石を設置するにあたり、静原から資材を運んだことが伝わります。
どうやら、「藤ヶ森」は静原側における山名あるいは地名のようです。
「蓑裏嶽」
大字岩倉に屬し本村の西北に屹立し高百七十九間周廻一里二十三町山脈左右に分かれ東に走るものは長谷諸山に連り北境を繞り西に走るものは静市野村と山嶺を以て界を爲す樹木多し
『京都府愛宕郡村志』
1911年(明治44年)の『京都府愛宕郡村志』の「岩倉村志」を見るかぎり、「箕ノ裏ヶ岳」は岩倉側における呼称でしょう。
また、「みの」の字も「箕ノ」であったり「蓑」であったり一定しません。
「ノ」は地名における添えがなだと考えられます。
追記終わり。
さらに追記。
1921年(大正10年)の『鞍馬圖記』(鞍馬図記)に、静原と岩倉の間に山として「藤ヶ森」の姿が描かれています。
他地域の小名について学ぶ機会がありましたが、ある山域の中で、固有の山名を小名とするケースはとくに珍しくないようでした。
やはり、静原側からは「藤ノ森」や「藤ヶ森」と呼ばれていた可能性が高いと考えます。
三角点(山頂)の所在地は静原で、三角点の設置作業も静原側からアプローチしているものの、「静市野村志」に静市野村の山として名前が挙がらず、「岩倉村志」で岩倉に属する山としている点を見るかぎり、岩倉側で重視される山だったのかもしれません。
正確な経緯は分かりませんが、やがて、「藤ヶ森」の名は失われていったのでしょう。
山頂のほぼ正北、静原川に架かる「藤ヶ森橋」に名残があります。
「藤ノ森」や「藤ヶ森」の称じたいは各地で見られるもので、たとえば、伏見深草の藤森神社さんはよく知られています。
また、船岡山の東麓にも北区紫野西藤ノ森町と東藤ノ森町の地名がありますが、紫野にも「藤ノ森」があったのでしょうか。
『方丈記』にも「春は藤波を見る。紫雲のごとくにして西方に匂ふ。」と西方浄土(極楽浄土)を意識した表現が見えますが、「紫」と「藤」の関係は個人的に興味を惹かれます。
浄土観の見立て表現として、紫雲ヶ嶽と藤ヶ森は一対だった可能性はないでしょうか。
追記終わり。
静原神社御旅所からアプローチ
箕ノ裏ヶ岳には、西の市原、北の静原、南の岩倉、どの地域からでも取り付くことができますが、この日は静原神社さんの御旅所を起点とします。
この日、静原側でお会いした方も、岩倉側でお会いした方も、この付近でクマが出たといった話はされず、あまり広まっていないようでした。
よそ者が必要以上に騒ぎ立てるのは、その地で生活なさる方にとっては迷惑な話でしょう。
古くは「天皇社」を称した静原神社さんの御旅所。京都市左京区。
御旅所の山(杜)を「天皇社山」と呼びます。
天皇社山の上(奥)は「薬王坂」(奴坂)(ヤッコー坂)で、薬王坂を越えれば鞍馬。
後白河法皇が鞍馬の奥から比叡山の横川へ逃れる「険難(の山道)」として、『平家物語』の「山門御幸」で「篠の峯薬王坂」の地名が見えます。
この薬王坂は御旅所の東側に回り込めば取り付けます。
御旅所から静原街道(府道40号下鴨静原大原線)を東に進めば静原の中心地へ、さらに江文峠を越えて大原へ。
静原街道を南西に進めば市原へ。市原からは北に鞍馬・貴船、南に木野、西に上賀茂など。
京都の桜。静原街道(府道40号下鴨静原大原線)の桜並木。右後方は竜王岳。
「静原宣言」看板とソメイヨシノの後方に覗いているのが箕ノ裏ヶ岳(の端)。
上の写真は今年4月に撮影したもので、今回の記事の本題とは関係ありません。
過去の金毘羅山(江文山)の記事でも少し紹介していますが、静原街道は桜並木の名所でもあります。
付近の静原川の桜と同様、あまり知名度が高いとは言えず、盛りであっても見物する方は少ないようです。
箕ノ裏ヶ岳の山容。静原神社御旅所の南、静原川の付近から撮影。
撮影地点から南に見えるのが箕ノ裏ヶ岳です。
なだらかな山姿で、山麓と山頂の比高もせいぜい250m未満の山ですが、写真では左(東)の稜線伝いに周り込む必要があるため、登頂は少し時間を要します。
上の写真のみ2014年(平成26年)に撮影しています。
この警告標は京都北山の多くの山の上山口で見掛けるようになりましたが、人里に近い山にも増えています。
大文字山の白川側(新田側)取付にも同様のものが見えますが、コースそのものがマイナなため、ご存じの方は少ないでしょう。
静原と岩倉を分ける坂原峠
静原と岩倉を分ける坂原峠から北へ下れば静市静原町、南へ下れば岩倉村松町、西に登れば箕ノ裏ヶ岳へ。
やや分かりにくいですが、静原墓地の脇に見える山道を東に登れば、御城谷(オショ谷)の頭から寒谷峠(さぶたにとうげ)を経て瓢箪崩山へ。
この途中で四等三角点300.1m(点名「五郎谷」)の尾根に乗れます(坂原峠から墓地の脇の山道を登り、北~北西に折れる尾根を辿れば三角点「五郎谷(ごろうだに)」を踏めます)(→「測地成果2024」により、300.0mと改定)。
とくにピークハントが目的の山行ではありませんが、ひとまず山頂を目指します。
坂原峠側から登頂する場合、山頂直下の道(東側)が少し険しく、足を滑らせないように注意しましょう。
ハイキングコースには地元の子どもらによる「山の自然をこわさないで」「自然を大切にしよう」といった標示が多く見られます。
箕ノ裏ヶ岳は「ある植物」の自生地として知られますが、間違ってもハイカーの手でそれが失われることがないよう心がけたいものです。
私が見回りできる回数にも限界があります。
(本件で私は公的な調査に協力しており、ここでは曖昧な書き方しかできません。)
箕ノ裏ヶ岳を登頂
箕ノ裏ヶ岳の山頂。三等三角点432.1m。点名「藤ケ森」。京都市左京区。
少し前に箕ノ裏ヶ岳を登った日に山中深くで見た「謎の白い毛」。
先に申し上げた「あるもの」です。
まとまって散乱しており、とくに長いもので約10cm未満の長さがありましたが、これがなんだったのか気になっています。
そもそも、本当に毛なのかどうかもよく分かりません(たとえば人工物の可能性も)。
岩倉にツキノワグマが現れたという話を聞き、なぜかこの「白い毛」のことを思い出し、今回、再訪してみましたが、すでに跡形も無く消えていました。
山頂からは西に繁見坂を経て、その南の尼吹山方面へ縦走できますが、この日は坂原峠までピストンで引き返し、岩倉村松町側へ下山しました。
箕ノ裏ヶ岳の山頂から村松へ下山するだけであれば、わざわざ坂原峠まで引き返す必要はなく、途中の分岐から下ることもできます。
ただし、下の写真の石仏を拝みたいのであれば、このコースを選ぶ必要があります。
岩倉村松町へ下山
用心深く注意を払っていましたが、あたりにケモノ臭やフン(糞)といった熊の痕跡は見当たらず。
ツキノワグマが山を越えるとして、どういったコースを取るのか、そもそもハイキングコースを人間と同じように駆けるのかどうかすら知りません。
岩倉側へ下山してみると、箕ノ裏ヶ岳の登山口にあたる短い橋(上の写真では最奥)が崩落しており、「橋崩落のため通行止」となっていました。
左京土木事務所の方々がいらっしゃったので、付近で目撃されたクマについてお尋ねしてみましたが、まったくご存じないようでした。
私は「通行止」の橋を通していただけましたが、建前としては箕ノ裏ヶ岳方面の道は通行できず(このことは口頭で確認済)、状況によっては坂原峠(静原墓地)から岩倉方面への下山路は迂回する必要があります。
追記。
この橋はすでに復旧しています。
さらに追記。
あれから5年以上の歳月が流れ、そろそろ時効かなと思うので、記録がてら、当時のやり取りを掲載しておきます。
「崩落」とは申し上げても、縁部が少し崩れている程度で、徒歩で通行する分にはとくに問題なさそうでしたが、対岸に土木事務所の方々がいらっしゃったので声をかけてみることに。
私「ここ渡ってもいいですか」
職員さん「(顔を見合わせて)渡れない」
私「? この程度なら問題なく渡れますよね」
職員さん「聞かれたら渡れないとしか言えない」
私「でもここを渡らないと私は帰れないのですが」
職員さん「私らは何も聞いてないし見てないから」
私「(ああなるほど、もし事故が起きたらあとで責任問題になるから渡ってもいいとは言えないが、見て見ぬふりしてる間に勝手に渡れということですね)」
あちらさんとしては、そもそも最初から黙って通り過ぎて欲しかったのでしょう。
それまでの対応とは異なり、橋を渡ったあとは気さくに会話に応じてくださいました。
念のために申し上げておきますが、この件は私に全責任があり、職員さんに責任はありません。
箕ノ裏ヶ岳の山野草・お花
少しだけですが、この日、箕ノ裏ヶ岳で撮影した植物・お花の写真も。
里山では草の花が減り、木の花が彩る季節ですが、植林や松が占める箕ノ裏ヶ岳の山中で目立つお花は少なく。
この両種の分布は完全に重なっているため、前回の記事でも取り上げたミヤコツツジが出る可能性があると見ていますが、何年か調査した範囲内では見付けることができません。
花色の濃いモチツツジはちらほら見掛けますが、ガク(萼)や花柄から判断するかぎり、ミヤコツツジではなくモチツツジのようです。
山中にはオカタツナミソウ、ミズタビラコ、トキワハゼ、タニギキョウなどがまとまった植物群落を作っていました。
とくにオカタツナミソウは数多く群生していましたが、他のタツナミソウ属は出ないようです。
箕ノ裏ヶ岳のコゴメウツギ(小米空木)。葉で察せられますが、バラ科の植物。
私の山友だちさんが比叡山麓のあたりでスイカズラが咲く場所がないか探していらっしゃったので、もしかすると岩倉に咲いているのではないかと少し調べてみましたが、この日は見付けることができず。
昔は用水路のあぜ道に数多く咲いていたようですが、最近は京都市内の都市近郊部ではあまり見掛けません。
箕ノ裏ヶ岳を訪れる直前に京田辺市の山を登った日は何度か見ました。
繁殖力も強い植物で、この時期、何気なく山手を散策していると頻繁に目にしますが、わざわざ意識して探すと見付けにくい植物です。
以上、2016年5月の話。
追記
近隣地域クマ目撃例 鞍馬・八瀬・上高野
その後の近隣地域におけるツキノワグマの目撃例について。
2016年6月4日 左京区鞍馬二ノ瀬町
2016年6月4日 左京区静市野中町
2016年6月19日 左京区上高野西明寺山
2016年6月23日 左京区鞍馬本町
2016年6月24日 左京区上高野西明寺山
上高野西明寺山は瓢箪崩山の南端の山域です。
2016年7月3日 左京区鞍馬本町
2016年7月20日 左京区八瀬花尻町
八瀬花尻町の個体は瓢箪崩山の北東麓(国道367号)で目撃されています。
この前後に大原でも何度か目撃されていますが関連性は不明。
2016年8月23日 左京区鞍馬本町
2016年8月26日 左京区静市静原町
8月26日には箕ノ裏ヶ岳の北麓(静原街道)で目撃されています。
岩倉周辺の個体とは別件の可能性が高いと考えられますが、2016年6月21日には私にとって馴染みがある如意ヶ岳の南、逢坂山の北にあたる小関越でもクマが目撃されています。
東山・山科・大津界隈では過去最南の目撃例ではないかと考えられます。
上賀茂・西賀茂・鷹峯でもクマの目撃例が
左京区静市からさらに西進南下したのか、ついに北区上賀茂でもクマが目撃されるようになりました。
もともと、静市野中で目撃例が出た時点で、大して離れていない上賀茂地域に姿を現すのも時間の問題だろうと考えていましたが、京都新聞さんによると、2018年(平成30年)には「頻繁に」住宅街近くでも目撃されるようになったとの報道が。
クマ目撃、京都市内で相次ぐ 大学や住宅街近く : 京都新聞
https://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20180719000081(リンク切れ)
静市市原から神山を越えた上賀茂や、さらに西賀茂にあたる船山の周辺、あるいは鷹峯の小学校・西陣杉坂線付近などで目撃されています。
ただし、別の記事でも取り上げたように、以前より京見峠の周辺でもツキノワグマが目撃されていますので、そちらの個体が釈迦谷山や船山を経て東進南下した可能性もあります。
ツキノワグマの移動速度は速く、小さな規模の集落を通過することもあり、また、およそ縄張りと呼べる範囲もきわめて広いため、全てが同じ個体や群れかもしれませんが、私には分かりません。
修学院の市街地にクマが出没
2019年(令和元年)10月、比叡山の山麓にあたる修学院の街中でクマが目撃されたとの報道が。
市街地でクマ出没、警察が警戒 児童ら登校見合わせ、京都 : 京都新聞
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/32351(リンク切れ)
いわゆる市街地に相当する地域にまで姿を現すようになり、ハイカーのみならず、今後は一般的な生活を送る市民にも影響が出るかもしれません。
箕ノ裏ヶ岳(地理院 標準地図)
「箕ノ裏ヶ岳(ミノウラガタケ)(みのうらがたけ)」 別称として「藤ヶ森」
標高432.1m(三等三角点「藤ケ森」)
京都市左京区
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