本題とは無関係ですが、先日、ハイキングの後に御室の仁和寺さんに立ち寄ったら、すでに境内のミツバツツジが開花していました。
2月上旬の京都でミツバツツジが咲くなんて……と驚いてしまい、他の方にもお話を伺ってみると、山によってはちらほら咲いているのを見掛けるとのこと。
晩秋の低山でツツジが二度咲きするのは珍しくありませんが、それとは開花のプロセスが異なります。
1月下旬に激しい寒波に見舞われたとはいえ、今年は春が早そうです。
さておき、その2016年(平成28年)1月寒波の後、深く積雪した滋賀県彦根市の佐和山(佐和山城跡の山)を登山した日の話。
余談として、彦根城の雪景色も少しだけ。
石田三成や井伊直政ゆかりの佐和山や、その山麓の神社仏閣の話は前回の記事に。
今回はその続きです。
目次
雪の彦根城 2016年1月寒波
佐和山城の本丸跡にあたる佐和山の山頂から見える彦根城の「白い」天守が気になります。
彦根城は彦根山(金亀山)に築かれた平山城で、遠目にも小高い丘の印象を受けます。
「金亀」は「こんき」と読みますが、金亀山は彦根山の異称です。
雪の彦根城にも惹かれるものがあり、予定にはなかったものの、佐和山から下山後、その足で彦根山へ向かうことに。
西麓の龍潭寺さんから南へ向かい、佐和山会館から佐和山を見上げ、佐和山城跡とお別れを。
西にJRの線路をまたぎ、道なりに南西へ歩けば「船町東」の交差点が見え、さらに「船町」の交差点を経て、彦根城の佐和口、表門へ。
佐和山会館から彦根城表門の受付まで、せいぜい1.5km程度の道のりで、コースさえ把握していれば大した距離ではありません。
金亀城の由来 雪の現存天守
雪の彦根城天守。ひこにゃんと現存天守閣。2016年1月の寒波。
彦根城が建つ彦根山(金亀山)の標高は約130m。
彦根城は金亀城とも称しました。
「金龜城の名稱」
元正天皇、養老四年、彥根山に、彥根、門甲の二の寺を建てられ、堂閣を營むで其處へ觀音の像を安置された、此像は公卿補任に、聖武天皇の神龜三年、參議正三位藤原朝臣房前、月日、授刀長官、兼近江若狭按察使となる房前の守護佛であつた、長さ一寸八分の靈像で、黃金の龜の上に乗つてゐるものだから、終には彥根山を金龜山と云ふやうになつた、然るに、其後、彥根城の築城と同時に寺は他へ移されたけれど、多年呼び慣れてゐるものだから、彥根城も金龜山の名にちなむで金龜城と稱へたもので、此城の公稱ではないのである。『彦根城頭より俯瞰すれば』
(私による現代仮名遣いへの直し)
「金亀城の名称」
元正天皇の養老4年(720年)、彦根山に彦根寺と門甲寺の2寺を建てられ、堂閣を営んでそこへ観音像を安置された。
この像は、『公卿補任』 [1]に「聖武天皇の神亀3年(726年) 参議正三位藤原朝臣房前 月日授刀長官。兼近江若狭按察使」とある房前の守護仏であった、長さ1寸8分の霊像で、黄金の亀の上に乗っているものだから、ついには彦根山を金亀山と言うようになった。
しかるに、その後、彦根城の築城と同時に寺は他へ移されたけれど、多年呼び慣れているものだから、彦根城も金亀山の名にちなんで金亀城と称えたもので、この城の公称ではないのである。
1925年(大正14年)の『彦根城頭より俯瞰すれば』 [2]では、黄金の亀の上に乗る観音像を安置したのが、彦根山を金亀山と呼ぶ由来としています。
(縁起が歴史的事実であるかは別問題ですが、)どちらが先かといえば、まず山を金亀山と呼んでいたのが先で、それゆえに城も金亀城と呼ばれていました。
広く親しまれていたことは確かですが、あくまでも俗称・異称の類であり、公称(正式名称)ではないことが伝わります。
藤原房前は不比等の子、つまり、鎌足の孫で、いわゆる藤原四兄弟の次男。藤原北家の祖(藤原北卿)。
東山道巡察使や近江国・若狭国按察使 [3]として、湖東の地とも関わりがあったようです。
「彦根城の築城と同時に寺は他へ移された」先については、彦根寺は、彦根城の北西、馬場(ばんば)の北野寺さんとなり、もうひとつの「金亀山」である門甲寺は、栄町の聞光寺さんとなりました。
彦根寺ではなく石上寺ではないかとする説も見受けられますが、大正6年(1917年)の『彦根案内』に「彦根山の西北長尾山即ち現今の観音堂と称する附近に丈余の白巌在り燦として日月の光輝を湖上に反映し漁業の妨害をなす事夥しきより土民之を地下に埋め其上に仏寺を営み石上寺と名づけたりと古書に見えたれども其年代等を詳かにせず」といった話が見え、この「白岩を埋めてその上に建てた石上寺」と混同しているのではないかと思われます(石上寺は石上寺で、彦根寺とは別に所在したようです)。
北野寺さんの行者像の台座に室町時代の墨書銘と彦根寺の文字も確認されており、彦根城が築かれる以前の彦根山に彦根寺が所在したのは確かでしょう。
景勝地としての彦根城は、1928年(昭和3年)の「近江推薦十二勝」では「金亀城」として、1949年(昭和24年)の「琵琶湖八景」では「月明・彦根の古城」として選定されています。
凍結する彦根城の内堀 ひこにゃん雪像
兜の角が再現できていないのはご愛嬌。
「赤備え」を模した? 赤い色も雪だけでは表現できませんね(笑
…と、撮影時には思いましたが、改めて彦根駅西口の井伊直政像を見るかぎり、この雪像の脇立のほうが正しいのかもしれません。
彦根城の展望・眺望 滋賀県彦根市
積雪する伊吹山を彦根城天守前展望台から望む
彦根城天守前展望台から積雪する伊吹山、彦根球場、玄宮園を望む。
撮影地点から滋賀県最高峰の伊吹山まで20.1km。
眼下には彦根城の玄宮園が、その後方に彦根球場や総合運動場が、さらに遠方には伊吹山が写っていますが、湖北や伊吹山地の連なりは霞んで見えにくく。
私が彦根に到着したお昼頃には青空が広がっていましたが、あれから2時間、遠くの空はすっかり白んでしまいました。
佐和山城跡を彦根城天守前から望む
彦根城天守前から佐和山城跡、佐和山遊園、鈴鹿北西端の山々を望む。
主な山 | 距離 | 標高 | 山頂所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
八葉山 | 7.1km | 601m | 滋賀県米原市 滋賀県彦根市 | |
向山 (武奈山) | 6.2km | 659.9m | 滋賀県米原市 | |
イワス (原石山) | 6.1km | 639m | 滋賀県彦根市 滋賀県犬上郡多賀町 | |
鍋尻山 | 10.3km | 838.2m | 滋賀県犬上郡多賀町 | |
向山 (芹川南) | 8.6km | 670m | 滋賀県犬上郡多賀町 | 標高の値は 10mDEMによる |
アミダ峰 | 8.1km | 645m | 滋賀県犬上郡多賀町 | |
佐和山 | 1.6km | 232.6m | 滋賀県彦根市 |
彦根城から東向きを一望。
前回の記事で佐和山(佐和山城跡)から彦根城の国宝天守を撮影した写真を掲載しましたが、今回は逆の構図です。
佐和山の南麓には佐和山遊園(佐和山美術館)の金閣が、その左手前には県道518号彦根城線の赤い跨線橋が目立ちます。
右には彦根駅の周辺が写っています。
遠くに霊仙山の西南稜がちらっと覗いていますが、さすがに他の山とは雪の白さが異なります。
もっとも、伊吹山も霊仙山も深く積雪したのは短期間だったようですが……。
やや離れた山の上から眺めるかぎり、今冬は御池岳や雨乞岳のほうが残雪が多いようです(などと書いていましたが、2月11日に京都北山から眺めてみると、伊吹山と霊仙山も雪が積もり直したようでした)。
近江富士を彦根城時報鐘から遠望
彦根城の時報鐘(鐘楼)越しに「近江富士」三上山と繖山(観音寺山)を遠望する。
主な山 | 距離 | 標高 | 山頂所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
繖山 (観音寺山) | 16.4km | 432.6m | 滋賀県東近江市 滋賀県近江八幡市 | 最高点は約440m |
三上山 | 31.7km | 432m | 滋賀県野洲市 | 近江富士 |
繖山や三上山は天守前からも見えますが、鐘越しに近江富士を眺めるのも悪くありません。
彦根城は見晴らしが良く、西や北西には琵琶湖や多景島、遠くに湖西の山々を、南や南西には彦根の街並みや湖東平野の広がりを一望できます。
急ぎ足でしたが、そろそろ彦根城ともお別れです。
天守から表門の受付まで下ってきたら、ちょうど、ひこにゃん登場ショーの15時の回が博物館で始まる直前でした。
もうすぐ始まるので見ていきませんかと、係の女性から勧誘されましたが、このショーは過去に何度か見ていることもあり、今回は見送ります。
どういう形態で行われたか分かりませんが、屋外だとひこにゃんさんも寒そう……。
雪の彦根ともお別れ
ハクチョウ
内堀と異なり中堀は凍っていなかったものの、水の上は冷たいのでしょうか、大半の水鳥さんは雪の上にたたずんでいました。
コクチョウ(黒鳥)さんは距離が遠く、この日は撮影していません。
彦根駅
銅像の左奥に見えているのが佐和山です。
近江・佐和山城主としては石田三成が知られますが、関ヶ原の戦い後、「徳川四天王」井伊直政が佐和山城に入りました。
彦根藩井伊家の居城たる彦根城が彦根山(金亀山)に築城されたのは直政の没後です。
かつての佐和山城跡、現代の彦根駅、そして直政が収まる構図は感慨深いものがあります。
彦根駅(JR、近江鉄道)まで戻ってきたら、すっかり青空に……。
夕方まで滞在できれば遠くまで見えやすくなったかもしれませんが、時間の都合もあります。
佐和山会館の前には佐和山城らしき模型がありましたが、彦根駅には彦根城のミニチュアが。
銅像の前で若い女性が大きな雪だるま的なものを作って遊んでいらっしゃいました。
なだらかな山姿ながらも目立ちますから、知っていれば佐和山を見落とすことはないでしょう。
午後の気温が高い時間帯ということもあり、私が彦根に滞在した約3時間の間に彦根の街では雪掻きや雪解けが進みました。
この日は駆け足気味の彦根ハイク、彦根散策でしたが、また彦根や周辺の山々も登りたいものです。
余談
ひこにゃんはなぜネコか? 「豪徳寺の猫塚」説より
井伊家と猫の関わりについては、世田谷の豪徳寺さんに伝わる伝説がとくによく知られています。
「豪德寺の猫塚」
世田ヶ谷の豪德寺は往昔吉良家の菩提寺であつたが、吉良滅亡後は托鉢僧を出して寺を維持するまでになつた、住職は一疋の猫を我子の如く愛して居た、或日其猫に向つて人に物言ふ如くおまへは畜生であれ此の寺に育てられたものじやが寺運を榮へさせてくれと語り聽かせた、所が二三日經つた夕立の日ひよつこりと一人の武士が雨宿りを求めたのが緣となり、住職の法話に歸依して同寺の擅徒となつた、其寄進で本堂が改修され、寺領が給せらるゝといふ有樣でトン──拍手で寺は榮へてきた、其武士といふのは井伊直孝であつた、直孝は住職に語つた余が雨宿りを何處に求めやうかとしてゐる時に、門の側に居た猫がしきりに余をまねくので、つい知らず──御坊の厄介となつたと、住職も猫の所爲の不思儀に感じ、其後猫を飼ふて居たソコで猫塚を建てゝ之を祠った、井伊家の猫と一緒に今でも七つ八つの猫塚が殘つて居る。『東京府荏原郡誌』
(※「トン──」「知らず──」は原文では縦書き「くの字」点)
(※「擅徒」「不思儀」等の表記は原文まま)
1924年(大正13年)の『東京府荏原郡誌』には上のように見えます。
江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』に猫の話は見えません。
『東京府荏原郡誌』がいう吉良家は、世田谷を本拠とした武蔵吉良氏を指しますが、蒔田(まいた)と改姓して家そのものは存続していますので(赤穂事件で三河吉良氏が改易・断絶した後に、蒔田から吉良へ復姓)、滅亡云々のくだりは所領との混同が見られます。
井伊直孝は井伊直政の次男で、経緯が複雑ですが、彦根藩井伊家の当主となりました。
この伝説が歴史的事実であるかは別として、住職が可愛がっていた猫に招かれて直孝が雨宿りしたのがきっかけで、井伊家と豪徳寺の間に縁ができたと。
私は過去に真田幸村戦没の地である安居神社さんで「猫に招かれた」経験があり、この伝説には親しみのようなものを感じています。
『東京府荏原郡誌』ではネコの毛色までは指定していませんが、現在は白い招き猫と見るのが通説のようですね。
「猫の報恩譚」系の説話・伝説として、京都の称念寺さん(猫寺)にも似たような話が伝わり、こちらは松平家のお姫様との話(猫姫伝説)となっています。
江戸時代頃に「寺で飼われていた猫が恩返しする」話が多数生じたのは、経典や仏像をネズミなどの害から守るため、寺院でネコを飼っていたから、らしい。
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彦根城天守前 展望地(地理院 標準地図)
「彦根城(ヒコネジョウ)(ひこねじょう)」山としては「金亀山」あるいは「彦根山」
標高約135m
滋賀県彦根市
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