2015年(平成27年)3月の話。
この日はAさんと鈴鹿山脈南部の縦走路を登山。
三重県亀山市の石水渓側から安楽川を遡り、船石谷、コスギ谷を詰め、舟石と大岩の間、滋賀県甲賀市との県境尾根に乗るまでは難路となりましたが、登り切った先は見晴らしの良い展望地。
春らしい霞んだ空で、遠くまで見渡すことはできないものの、眼下に広がる伊勢平野、迫力ある仙ヶ岳の姿を間近に眺め、ここに至るまでの疲れも吹き飛びます。
そのまま鈴鹿山脈の主稜線である県境尾根を北へ縦走し、大岩(標高点756m峰)を経て、この日の目的地である御所平へ向かいます。
石水渓側から大岩を登頂した話は前回の記事に。今回はその続きです。
目次
家老平の風景 ガンサ
大岩からミズナシへ至る道中、俗に「家老平」とも呼ばれる草原地帯を通ります。
山上に広がる「家老平」の景色。鈴鹿山脈。
前回の記事でも申し上げましたが、滋賀県側は小太郎谷の源頭にあたるため、「家老平」ではなく「小太郎谷源頭」と呼ぶ方もいらっしゃいます。
尾根の反対側、三重県側はガンサ谷の源頭にあたるため、付近のガレ場は俗に「ガンサ」とも呼ばれています。
南西を向いて撮影しており、小太郎谷の源頭域を跨いで向こうに見える山のうち、左寄りのピークが「舟石」と「大岩」、右寄りのピークが「ベンケイ」。
背が低い笹原ですが、すでにシカさんのパラダイスと化しており、シカも食べないアセビとシカのフンばかりが目立ちます。
これは田村川を挟んで対峙する能登ヶ峰の「鹿の楽園」と似たようなものでしょう。
「家老平」の呼称は史料に見える古い地名を当地に比定したものですが、当地が家老平であるという確かな決め手には欠けるようです。
もっとも、このあたりが開けた山上の草原であることは確かであり、事実はどうであれ、そのように見立てても差し支えないでしょう。
「史料に見える古い地名」については後述します。
家老平~ミズナシの縦走路
青空の下、鈴鹿山脈南部、家老平の縦走路(小太郎谷の頭、ガンサ谷の頭)を歩くAさん。
どの写真を見てもアセビだらけですが、いずれも未開花でした。
前回の記事に掲載した南向きの写真と異なり、上の写真は北西を向いて撮影しています。
後方はミズナシの稜線で、次は左奥に見えている小ピークに向かって登ります。
家老平からは直登の道のりとなり、高さにして約110~120mほど登ればミズナシの南西の小ピークに飛び出ます。
県境尾根の縦走路は直角に折れ曲がり、鈴鹿山脈南部の尾根としては珍しく、この小ピークからヨコネまではなだらかで広い尾根が続きます。
この高原を総称して広く「御所平」と呼び、とくにミズナシ(標高点832m)の北東0.3kmの約850m小ピークを指して、山としての「御所平」の山頂と見なしています。
そのため、南西端にあたる小ピークを指して、分かりやすく、「御所平南端」と呼ぶ方もいらっしゃるようです。
この日、歩いたコースにおいて、とくに素晴らしい好展望地と感じたのがミズナシ南西の小ピークです。
有名峰とは言えませんが、この付近を「鈴鹿山脈で最も好きな場所」に挙げる方がいらっしゃるのも頷ける、静かな雰囲気の秘境です。
ミズナシ付近の展望・眺望
伊勢平野・伊勢湾 方面
雪が残るミズナシ南西の小ピークから伊勢平野、伊勢湾、野登山を望む。
左に野登山、右下に長坂の頭。
雨乞岳や御在所岳を望む
ミズナシ南西の小ピークから御所平、雨乞岳、御在所岳、仙ヶ岳など鈴鹿山脈中南部の山々を望む。
主な山 | 距離 | 標高 | 山頂所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
雨乞岳 | 8.8km | 1237.7m | 滋賀県東近江市 滋賀県甲賀市 | |
御在所岳 三角点峰 (御在所山) | 9.6km | 1209.4m | 滋賀県東近江市 三重県三重郡菰野町 | 最高峰は1212m |
鎌ヶ岳 | 7.9km | 1161m | 三重県三重郡菰野町 滋賀県甲賀市 | |
宮越山 (水沢岳) | 6.4km | 1029.3m | 三重県四日市市 滋賀県甲賀市 | |
仙ヶ岳 | 2.3km | 961m | 三重県鈴鹿市 三重県亀山市 滋賀県甲賀市 | |
横谷山 | 3.6km | 873m | 滋賀県甲賀市 | |
高円山 | 4.5km | 941m | 滋賀県甲賀市 | 標高の値は 10mDEMによる |
山としての「御所平」の山頂は木立の向こうです。
ミズナシはその左手前ですが、上の写真ではやや分かりにくいでしょうか。
鈴鹿山脈中部(中核部)の山々でも、やはり、雨乞岳の雪の深さは格別ですね。
湖東平野 方面 能登ヶ峰「鹿の楽園」と綿向山
ミズナシ南西の小ピークから綿向山、能登ヶ峰「鹿の楽園」、湖東平野を望む。
主な山 | 距離 | 標高 | 山頂所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
繖山 (観音寺山) | 30.1km | 432.6m | 滋賀県東近江市 滋賀県近江八幡市 | 最高点は約440m |
水無山 | 8.2km | 990m | 滋賀県蒲生郡日野町 | 標高の値は 10mDEMによる |
綿向山 | 8.4km | 1110m | 滋賀県甲賀市 滋賀県蒲生郡日野町 |
綿向山はもちろん、ミズナシから水無山を眺める構図です。
綿向山と水無山の間に見える崩落地は「文三ハゲ」ですね。
左手前で目立つ激しく崩落した尾根が能登ヶ峰の「鹿の楽園」周辺ですが、能登ヶ峰の山頂そのものは左端で見切れています。
東側から眺めると切れ込んだ鞍部の状況がよく分かりますね。
遠くには近江盆地でも湖東平野にあたる地域、繖山(観音寺山)や、その手前に箕作山が重なって見えていますが、霞んでいるため、左奥に見えるはずの琵琶湖は分かりません。
この日はせいぜい30km~先の低山を遠望するのが限界でした。
甲賀や信楽高原 方面
ミズナシの南西の小ピークから鈴鹿山脈南端部、甲賀、信楽高原を望む。
主な山 | 距離 | 標高 | 山頂所在地 |
---|---|---|---|
三ツ頭 | 9.7km | 774m | 三重県亀山市 滋賀県甲賀市 |
那須ヶ原山 | 10.0km | 799.6m | 滋賀県甲賀市 (三重県亀山市) |
油日岳 | 11.5km | 693m | 滋賀県甲賀市 三重県伊賀市 |
霊山 | 17.2km | 765.5m | 三重県伊賀市 |
高旗山 | 30.8km | 709.8m | 滋賀県甲賀市 三重県伊賀市 |
笹ヶ岳 | 28.6km | 738.5m | 滋賀県甲賀市 |
鈴鹿峠と安楽峠の山間集落、甲賀市土山町黒川のあたり、鉄工所などが眼下に見えています。
左端には鈴鹿峠方面、その向こうに那須ヶ原山など鈴鹿山脈南端部の連なり。
甲賀の向こうには高旗山や笹ヶ岳など信楽高原の山々も見えていますが、それより遠くは霞んで見えません。
ミズナシの南西の小ピーク周辺からの眺めはなかなかのもので、鈴鹿山脈の他の高峰に匹敵するものがあり、名残惜しいものがありましたが、先を急ぎます。
この小ピークからミズナシを越え、この日の目的地である御所平へ向かいます。
ミズナシから少し下り、高さにして40mほど登り返せば、ようやく御所平の山頂です。
御所平を登頂
御所平の山頂(滋賀県甲賀市、三重県亀山市)から仙ヶ岳を間近に望む。
やはりアセビが目立ちますが、御所平の山頂域も広々とした草原地帯です。
いよいよ仙ヶ岳や野登山が近くに迫ってきましたが、帰路を考えると、さすがに仙ヶ岳まで向かう余裕はありません。
ちょうどお昼時、Aさんからお茶をいただきながら、御所平でのんびり過ごすことにします。
家老平と異なり、このあたりはシカのフンも少なく、腰掛ける場所には困りません。
稜線上にもかかわらず、風も入りにくく、寒さも感じず、快適な環境と言えます。
御所平や家老平の由来
『勢陽五鈴遺響』より織田信雄説
「御所平」や「家老平」とは、なかなかユニークな山名、地名ですが、由来には諸説あるようです。
一例として、こちらでは江戸時代後期に成立した『勢陽五鈴遺響』による織田信雄由来説を取り上げておきます。
同誌における「鶏足山野登寺」の段では、野登寺(野登山)の山奥には仙ヶ嶽(仙ヶ岳)があるといった話や、上野村からの登山コースなどについて述べた後、その延長として「御所平」についても触れています。
筆者の個人的な感情も相まって、この段は他と比較しても詳細かつ臨場感あふれる内容となっています。
「鶏足山野登寺」
(前略)
大杉谷御池山又此山脉ニ續キテ御所カ壙ト云フアリ
多氣國司信意經廻ノ地コノ山溪ノ間蹔ク幽棲ス
木造殿ト稱シ故ニ御所壙ト云フ樵夫ノ傳ナリ
此處ニ至ルハ池山村ヨリ山經アリ
『勢陽五鈴遺響』
「平」には「壙」の漢字をあて、「ヒラ」と振り仮名を振っていますが、「壙」には「広い野原」の意味もあります。
「多気国司信意」は父である織田信長の政略により北畠家の当主となっていた北畠信意(信長の次男、後の織田信雄)を指しており、樵夫(きこり)の間で伝わる話によると、信意が経廻(滞在)した地だから「御所平」と呼んだそうです。
織田期には戦国大名に転じていた北畠家は元は公家で、北畠家の当主や、その諸流の当主は「御所」を称していました。
そういった尊号として「御所」(御所殿)を称する公家の居住地(居館や邸宅)も「御所」と呼ばれます。
信意は北畠家の諸流である「木造御所」木造具政(北畠晴具の子)の娘を継室としており、信意の重臣には木造具政、長政の親子や、滝川雄利(出自は木造家で、滝川一益の娘婿、あるいは養子など諸説あり)など、木造家の一門が多く。
「信意が蹔く(しばらく)幽棲した地だから『御所平』」という由来は歴史に詳しい方でないと分かりにくいものの、それらを踏まえると少しは分かりやすいでしょうか。
ここから転じ、いわゆる「本能寺の変」に際し、信意が逃げ隠れた地が「御所平」であるとする説も見受けられますが、江戸時代前期の『勢州軍記』に、「本能寺の変後、北畠中将(信意)は鈴鹿郡坂下(現在の亀山市関町坂下)に出陣、近江国蒲生郡日野で孤立した蒲生賢秀と氏郷の親子を救援するため、(鈴鹿峠を越え、)甲賀郡土山(現在の甲賀市土山町)に陣を移した」といった話が見えるように、「信意は逃げた」と考えていた人ばかりではなく、俗説の域を出ないでしょう。
「~という話が~により伝わっている」からといって、それが必ずしも歴史的な事実を正しく伝えているとは限らない点に留意する必要があります。
『勢陽五鈴遺響』では、続いて、山麓の池山村より御所谷を経て「御所平」に至るまでの登山コースや、道中の谷や山、見える景色などについて詳しく述べていますが、かなり長いので中略します。
(中略)
一ノ谷ト名ノ老樹鬱茂シテ甚多シ
樵夫云信意ノ植ラル所ナリト傳ヘリ
此處ヨリ二三谷ト云ヲ經テ雑樹葱鬱タリ
稍ク攀登リテ家老カ壙小姓カ壙ト云地アリ
『勢陽五鈴遺響』
信意ゆかりの一の谷、それに、二の谷、三の谷を経てよじ登っていくと「家老平」「小姓平」と呼ばれる地に着くとあり、これを現在の「家老平」に比定しているようです。
これらの谷が現在のどの谷を指しているのか判然とせず、そのため、家老平の地も推定でしょうが、池山からのコース取りや、周囲の描写を見るかぎり、そう遠くはないでしょう。
巽位ニ熊尾山聳タリ
北ハ此處ニ至リテ小伎須山ノ界ナリ
是ヨリ直ニ登リテ御所ノ舊墟封彊ノ威儀ヲ現ニ存セリ
石壁散在シ蒔沙アリ萱原平坦ノ地ニシテ北ニ望テ平ナリ
『勢陽五鈴遺響』
さらに続き、「家老平」「小姓平」の巽(南東)には熊尾山なる山がそびえていて、北は小伎須山なる山との境界なり、と見えます。
「小伎須」については、後に「小伎須村」の地名も挙げており、小岐須の地名(現在の鈴鹿市小岐須町)や、宮指路岳の北に所在する小岐須峠から見て、小岐須を指すと考えても問題ないでしょう。
「家老平」「小姓平」よりさらに登ると御所の旧墟が現存するとあり、その地を「御所平」としています。
『勢陽五鈴遺響』が編纂された当時は石壁が散在していたようですね。
割愛しますが、この先、さらに仙ヶ嶽への縦走路に続けていますので、これらの描写を見るかぎり、「御所平」についても、現在の御所平あたりを指すと見て良さそうです。
なお、『勢陽五鈴遺響』では、信意が御所平に隠棲した伝承について懐疑的な見方をしていますが、過去に家老平の比定地からは刀の鍔などの遺物が出土しており、それが信意ゆかりかは別として、なにかしらの山城や砦が山中に築かれた可能性があります。
近江や若狭、京都北山における惟喬親王の伝説など、身分が高い人物が山中に隠棲する伝説(隠者伝)は日本各地で見られますが、鈴鹿郡においては北畠信意(織田信雄)であるところが興味深いです。
織田信雄はどちらかと言えば過小な扱いを受けているように思いますが、早々に絶えた三法師(秀信)の家や、信孝の家と異なり、信雄の家系は大名織田家として幕末まで存続していますので、武家の観点においてはそれだけでも特筆すべきものでしょう。
『新東鑑』や『大坂軍記』(難波戦記)に見る織田信雄像
序文に安永2年(1773年)とある『新東鑑』では、大坂の陣の直前に、当初は大坂城に入っていた常真(織田信雄)が、大野治長らの謀事から片桐且元を救う場面が見られます。
豊臣秀頼の母、淀殿(淀君)は信長の妹の子ですから、信雄と淀殿は「いとこ」の間柄。
『新東鑑』において、「常真老は、もとより愚蒙暗弱なりといえども、総見院殿の息にて、諸人貴重する」などと、(総見院殿=織田信長の子息だから大切に扱われているのだと)お飾り扱いを受けて周囲から侮られていますが、そう思わせておいて、お話の中では機転も利き、弁も立つ、そして、立場が危なくなるやいなや、さっさと自分だけ大坂から船で退去して戦に巻き込まれないという要領のよさ、さすがに戦国の世を生き抜いた信雄らしい描かれ方で、江戸時代中期頃における信雄観の一端が垣間見えます。
明治時代に出版された『繪入實録 大坂軍記』(絵入実録 大坂軍記) [1]では、近い場面で、やはり大坂城に入っていた織田有楽斎(長益)(信雄の叔父)が「同苗常信(信雄)は博学有徳の者なり世を逃れて閑居致せしが今幸と当地に有」「且元を討つと討ざるとの義は是を召して問給へ」と淀殿に助言し、淀殿に召し出された信雄は堂々とした態度で弁舌を振るって且元を救っています。
同苗(同姓の一門)からの評価とはいえ、ここでは「博学有徳の者」など、信雄をきわめて持ち上げています。
繰り返し申し上げておきますが、これらは後世においてどのように見なされていたか、物語でどのように扱われていたかの話であって、歴史的な事実とは別問題です。
「世を逃れて閑居いたせし」の描写を見るかぎり、やはり、ある種の隠者としての性質を与えられていたようには思われます。
長くなってきたので記事を分けます。
続きは上の記事に。
関連記事 2015年3月 鈴鹿山脈南部 御所平を周遊
すべて同日の山行記録です。併せてご覧ください。
- 鈴鹿南部 大岩(756m峰)を船石谷、コスギ谷から登山 亀山市
- 大岩~家老平~残雪の御所平を縦走 鈴鹿山脈南部 亀山・甲賀
- 鈴鹿山脈 御所平~ミズナシ~舟石~臼杵ヶ岳 三重・滋賀
御所平(地理院 標準地図)
「ミズナシ」
標高832m
「御所平(ゴショダイラ、ゴショガヒラ)(ごしょだいら、ごしょがひら)」
標高約850m
滋賀県甲賀市、三重県亀山市
脚注
- 江戸時代前期に成立し、その後、増補を重ねた『大坂軍記』や『難波戦記』は類本や異本が多数ありますが、ここでは明治時代に広く流布していた内容に近いと考えられる本から引用。芝定四郎が編集した『繪入實録 大坂軍記』は表題では「大阪軍記」。目次では「大坂軍記」。近い時代に中桐れいが翻刻した『繪本難波戰記』(絵本難波戦記)なども出版されましたが、描写は同じです。[↩]
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