2016年(平成28年)1月下旬に日本列島を襲った強い寒波の影響で、滋賀県の北部でも深く雪が積もりました。
以前から、積雪した佐和山遊園(佐和山美術館)の姿を写真に収めておきたいと考えていたこともあり、さっそく彦根市へ。
当初は鳥居本から鈴鹿山脈北西端部の低山を登山するつもりでしたが、急に気が変わり、近くにハイキングコースがある佐和山城跡を軽く雪山歩きすることに。
佐和山をスノーハイクした話は前回の記事に。
前回の記事でも触れていますが、現状、佐和山に団体で入山する場合は申請が必要です。
「団体」の定義が2人以上であるか、4人以上であるか、はたまた8人以上であるか、そのあたりのことはソロハイカーの私には分かりかねます。
ご注意を。
目次
佐和山の由来考
今回はその続きで、佐和山から眺めた彦根の雪景色について。
彦根の東部に所在する佐和山は見晴らしの良い好展望の山で、眼下に湖東平野や彦根の街並み、それに琵琶湖や湖北の山などを見渡すことができます。
近江佐和山は交通(街道)の要所でもあり、織田信長が丹羽長秀に、あるいは豊臣秀吉が石田三成に任せた地だけのことはあります。
源頼朝に仕えた佐々木定綱(太郎判官定綱)の六男とされる佐保六郎時綱が、東山道の要所たる犬上郡の当地に本拠を置き、古佐保村や佐保山と称したものが、後に古佐和村や佐和山と改められた、あるいは転訛(転化)したとされますが、古くより佐波山や澤山の表記も見られますので、佐保山説も歴史的事実であるかは分かりません。
佐保山説にしたがうと、室町時代、寛正~応仁年間には佐々木氏六角家の支配下に置かれていたようで、その頃に佐保山城が築かれたとされます。
彦根城遠景
雪の彦根城天守を遠望する。佐和山城跡(佐和山山頂)から撮影。
石田三成の居城跡から井伊家の居城を遠望します。
関ヶ原の戦い後、三成に替わって「徳川四天王」井伊直政が佐和山城に入城しましたが、直政は山沿いの佐和山から琵琶湖沿いの地に居城を移したいと考えていたようです。
直政自身は佐和山城に入って2年でこの世を去りましたが、その没後、井伊家の居城として彦根山(金亀山)に築かれたのが彦根城です。
佐和山から下山後、彦根城を登城し、国宝天守を間近から撮影しました。
先ほどの写真と同じ方角から撮影していることがお分かりでしょうか。
両者の見えている姿を見比べてみてください。
来年(2017年)のNHK大河ドラマで井伊直虎が取り上げられます。
次郎法師(直虎)は戦国時代では数少ない女性領主(女地頭)として知られており [1]、女性を主役とした大河ドラマを定期的に制作したいNHKさんから題材に選ばれたのでしょう。
これに伴い、そろそろ井伊家ゆかりの彦根でも何かしらのアピールが始まるかと思いましたが、彦根駅にはイケメンな三成さんのポスターが掲示されており、とくに来年の大河ドラマは意識していらっしゃらないようでした。
井伊家が彦根を治めたのは直虎の没後の話ですから、彦根からすると関係ないと思われているのかもしれませんね。
ただ、直虎が後見した直政は彦根藩井伊家の祖ですから、まったく縁もゆかりも無いとまでは言えません。
私は井伊直虎を取り上げた小説、梓澤要さんの『女にこそあれ次郎法師』の愛読者で、昔からSNS上で勝手に宣伝していましたが、まさか直虎さんが大河ドラマになる日が来るとは思いもよらず。
そういった習慣を持ち合わせていないため、自分でドラマを視聴する機会は訪れないでしょうが……。
滋賀県彦根市 佐和山城跡の展望・眺望
彦根城、琵琶湖
雪積もる彦根城(彦根山)、琵琶湖、近江八幡の沖島の遠景。佐和山城跡から撮影。
彦根城天守の遠方、琵琶湖の対岸には蓬莱山の山影が、同様に、津田山(奥島山)の遠方には比叡山の山影がうっすら写っていますが、まず分かりません。
写真で見るかぎり、能登川町の琵琶湖畔まで雪が積もっていますね。
繖山(観音寺山)より南は積雪量が極端に減り、繖山より北は積雪する、というのが雪降る湖東の定番ですが、この日もその例に漏れず。
彦根駅周辺
雪積もる彦根駅の周辺、湖東平野、荒神山を佐和山城跡から望む。
主な山 | 距離 | 標高 | 山頂所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
阿星山 | 39.6km | 693.0m | 滋賀県湖南市 滋賀県栗東市 | |
三上山 | 33.1km | 432m | 滋賀県野洲市 | 近江富士 |
鶴翼山 (八幡山) | 22.7km | 271.7m | 滋賀県近江八幡市 | 最高点は約280m |
津田山 (奥島山) | 21.9km | 424.5m | 滋賀県近江八幡市 | 現地道標では「姨綺耶山」 |
尾山 (宝来ヶ嶽) | 20.1km | 220.2m | 滋賀県近江八幡市 | 点名「沖之島村」 |
箕作山 | 19.0km | 372m | 滋賀県近江八幡市 滋賀県東近江市 | |
繖山 (観音寺山) | 17.6km | 432.6m | 滋賀県東近江市 滋賀県近江八幡市 | 最高点は約440m |
荒神山 | 8.3km | 284m | 滋賀県彦根市 |
多くの戦国大名、戦国武将が眺めたであろう景色が広がります。
観音寺山(繖山)には六角家の居城が、その近くの安土山(目賀田山)には織田信長の居城がありました。
彦根駅(JR、近江鉄道)は写真の中央やや左寄り。平和堂アル・プラザさんの位置で……。
あの駅の東口から歩いて佐和山まで登ってきました。
遠くの山々は霞んで見えにくく、肉眼では「近江富士」三上山を確認するのが限界でした。
鈴鹿山脈
雪の佐和山城跡から鈴鹿山脈の釈迦ヶ岳、御在所岳、青竜山を遠望する。
主な山 | 距離 | 標高 | 山頂所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
釈迦ヶ岳 | 28.4km | 1091.9m | 三重県三重郡菰野町 滋賀県東近江市 | |
猫岳 | 28.5km | 1058m | 三重県三重郡菰野町 滋賀県東近江市 | |
御在所岳 三角点峰 (御在所山) | 31.8km | 1209.4m | 滋賀県東近江市 三重県三重郡菰野町 | 最高峰は1212m |
銚子ヶ口 | 26.7km | 1076.8m | 滋賀県東近江市 | |
日本コバ | 20.8km | 934.2m | 滋賀県東近江市 | |
押立山 | 16.0km | 771.7m | 滋賀県東近江市 | |
青竜山 | 7.9km | 333.3m | 滋賀県犬上郡多賀町 |
現地で眺めた際、御在所岳(御在所山)の左のピークは国見岳だろうと考えていましたが、帰宅後に調べてみたら、どうやら国見岳の後方にロープウエイ山上公園駅のピークも重なっているようです。
どうせならレーダ雨量計(ドーム)が見えているかどうか確認しておけばよかったですね。
手前に見える青竜山は標高の値が3並びの山。
霊仙山や御池岳などと同様、御池信仰(雨乞い)の山でもあり、近江の信仰を知るうえでも重要です。
「青竜」は「さんずい」を付けた「清滝」に通じており、清瀧権現(善女龍王)は雨乞いの龍神です。
雪積もる本丸跡(山頂)
他の方とお話ししていたこともあり、思いのほか長居してしまいましたが、佐和山ともお別れです。
上山前は青空が広がっていましたが、山頂に滞在している間に雲が増えてしまいました。
最後に定番とも言える伊吹山を撮影しておきましょう。
白い伊吹山を遠望
佐和山城跡から積雪した伊吹山、フジテックさんのエレベータ研究塔を遠望する。
主な山、建造物 | 距離 | 標高 (地上高) | 山頂所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
虎子山 | 24.7km | 1183.2m | 岐阜県揖斐郡揖斐川町 (滋賀県米原市) | |
伊吹山 | 19.7km | 1377.3m | 滋賀県米原市 | 滋賀県最高峰 |
フジテック研究塔 | 2.2km | (170m) | 滋賀県彦根市 | エレベータ研究塔 |
滋賀県で最も高い山と、滋賀県で最も高い建造物が写っています。
今冬はなかなか伊吹山に雪が見えず、遠目にも寂しい印象を受けましたが、この日は深く積雪していました。
ただ、それでも雪が多い年の厳冬期と比べれば少ないように感じます。
西の丸を経て東山ハイキングコースを龍潭寺さんへ下山します。
西の丸(塩櫓)からの眺め
積雪する佐和山城・西の丸(塩櫓)から鈴鹿北西端の山々と摺針峠周辺を望む。
主な山 | 距離 | 標高 | 山頂所在地 |
---|---|---|---|
八葉山 | 5.5km | 601m | 滋賀県米原市 滋賀県彦根市 |
向山 (武奈山) | 4.7km | 659.9m | 滋賀県米原市 |
京都の如意ヶ岳(大文字山)から遠望できる向山(武奈山)の紅白の送電鉄塔が写っていますね。
この鉄塔が京都市内(の山)から見えると考えると驚異的です。
左端が中山道・摺針峠の周辺で、ちょっとした理由があり、いずれ、それなりに空気が澄んだ日に訪れたいと考えています。
そもそも、この日は鳥居本周辺の低山か摺針峠をスノーハイクする予定でしたが、結果的に佐和山城と彦根城を訪れることに。
佐和山西麓の社寺
雪の龍潭寺
佐和山の山頂と、その山麓にあたる龍潭寺さんの比高はせいぜい150m未満で、いかに深く積雪していたとはいえ、下山に大した時間は要しません。
井伊直政が佐和山城主となるにあたり、井伊家の元々の菩提寺だった遠江の龍潭寺を佐和山の山麓に招いたのが彦根の龍潭寺です。
石田三成銅像
龍潭寺さんは佐和山・東山ハイキングコースの登山口にあたります。
コースの脇に三成の銅像と、群霊を慰霊する佐和山観音さんがおわします。
関ヶ原の戦いで三成を捕縛した田中吉政の後裔が、龍潭寺で戦後三百年祭を営み、石田氏の霊を慰めたといった話が見えますので、それにちなむのでしょう。
当時の新聞記事によると、上記の件とは別に、1906年(明治39年)10月にも関ヶ原の地で「関原戦役三百年紀念祭」が行われたようですが、関ヶ原の戦いは慶長5年(1600年)の出来事ですので、こちらは正確に300年後というわけではないようですね。
1907年(明治40年)5月には京都の大徳寺塔頭、三玄院にある古墓が発掘され、おそらく三成の墓であろうということになり、好事家の間で三成ブームのようなものが生じ、この時も没後三百年祭が行われたそうです。
また、彦根藩の第13代藩主である井伊直中が、三成以下戦死者の群霊を弔うため、清涼寺の住職に供養を命じ、文化5年(1808年)に佐和山の山腹に「石田群霊碑」を建てたといった話も見えます。
おそらく没後二百年的な祭事だったのでしょう。
この「石田群霊碑」も現存しますが、あまり知られていないようです。
雪の井伊神社
佐和山の西麓には井伊家ゆかりの神社さんやお寺さんが数多く所在します。
これは井伊家が当初は彦根城ではなく佐和山城を居城としたことによります。
雪の清涼寺(と島左近)
写真の後方に写っているのが佐和山です。
佐和山はお寺さんの境内地であり、団体で登山する場合は清涼寺さん(か龍潭寺さん)の許可を受ける必要があります。
清涼寺は井伊直孝が父・直政の墓所として創建したお寺で、以降、彦根藩井伊家の墓所 [2]となりました。
境内敷地が異様に広いと感じましたが、元は三成の家臣として名高い島左近(清興)の屋敷跡なのだとか。
島左近は嶋左近とも表記し、古くより非常に人気がある武将です。
三成の評価を下げる描写が見られる史料や物語であっても、多くのケースで島左近は持ち上げられています。
それを示す一例として、
三成に過ぎたるものが二つある 島の左近と佐和山の城
あるいは、
三成に過ぎたるものが二つある 島の左近と百間の橋
の俗歌が彦根市中で知られていましたが、後者は忘れられつつあるようです。
「百間の橋」(百間橋)(古くは異体字で「百閒橋」とも)は、佐和山城の西部まで広がっていた松原内湖に架かっていた橋です。
戦時中に松原内湖の干拓事業が活発化し、後者の存在も戦後には廃れていったと考えられます。
この俗歌については、たとえば、國史叢書(国史叢書)版の『古今武家盛衰記』(近代武家盛衰記)では、
治部少に過ぎたるものが二つあり 島左近に佐和山の城
としており、一定しません。
『古今武家盛衰記』は異本、類本が非常に多い点に留意する必要がありますが、他の版本や原本でどのような扱いを受けているかは知りません。
作者も不詳であり、江戸時代後期に多くの版本が出回りました。
その一方で、國史叢書版の『石田軍記』のように、島左近の評価を大きく下げる軍記物もあります。
『石田軍記』における島左近は、関ヶ原の戦いにおいて、藤堂高虎の家臣を相手に奮戦する嫡子の新吉(信勝)を見捨て、助けようともせず自分だけ落ちて行った卑怯者の扱いを受けており、さんざんな書かれようです。
『古今武家盛衰記』における島左近は、戦場で獅子奮迅の活躍を見せ、最後は新吉が討たれたことに気付かず落ち延びています。
『石田軍記』の作者や成立年代は不詳ながら、六角義郷なる人物が「前管領六角右兵衛督義郷」として登場しますので、「佐々木の嫡流六角少将義郷」が登場する『関原軍記大成』や、あるいは浅井久政を亮政の実子ではなく、実は佐々木(六角)氏綱の子とし、浅井長政を佐々木氏綱の孫とする『浅井日記』などと同様、(内容が疑わしいとされる)『江源武鑑』や、その作者による史観の影響を受けていると考えられます。
1922年(大正11年)の『近江蒲生郡志』では、『浅井日記』や『異本関原軍記』も『江源武鑑』と同じ作者による偽書だとしており、こういった軍記物は、あくまでも創作の物語である点に留意が必要です。
他誌と描写や扱いが異なりますが、『古今武家盛衰記』にも「六角右兵衛督義郷」の伝があります。
また、島左近は尾張柳生でもとくに名高き剣豪、柳生連也斎(七郎兵衛厳包)の外祖父(母の父)ともされます。
一般的に島左近は大和国出身とされ、三成に仕える前は筒井家に仕えており、柳生家とも縁があったのでしょう。
島家を絶やさないためか、連也斎(厳包)は若年時に、兄の如流斎(茂左衛門利方)は晩年に島姓を称していました。
修行の妨げになると女性を遠ざけたため、連也斎(厳包)には妻子がおらず、遺言により遺骨も海に撒かれ、柳生家の墓所には入らず墓碑もありません。
関ヶ原で討ち死にしたとされる島左近の最期には諸説ありますが、私が暮らす京都市の立本寺さんにも墓所があります。
そして、その立本寺さんの西方には、島左近の娘を妻とした柳生如雲斎(兵庫助利厳)、つまり、連也斎(厳包)の父が、「柳庵」なる草庵を結んで晩年を過ごした妙心寺塔頭の麟祥院さんがあり、如雲斎(利厳)も当地に葬られたとされます。
連也斎(厳包)も位牌のみ麟祥院さんに預かるとも聞きますが、それらが事実であるかは分かりかねます。
雪の長林稲荷大明神
お稲荷さんの赤い鳥居やキツネさんも雪を被っています。
清凉寺さんと異なり、やや分かりにくいですが、やはり後方に佐和山が写っています。
清涼寺さんの鎮守社として勧請されましたが、神仏分離で分けられたようです。
往時は佐和山城でも八千代稲荷なるお稲荷さんがお祀りされていたそうですが、そちらは龍潭寺末寺の慈眼院に遷されたといった話が見えます。
これは現代における佐和町の慈眼院さんで、養花院を前身としており、井伊直孝の代に龍潭寺の末寺とされたらしい。
雪の佐和山会館
佐和山会館から佐和山城跡を望む。「佐和山一夜城」碑。長林稲荷さんの南。
この広場のあたりは佐和山を眺めるに適しています。
佐和山会館の外には城の模型が飾られていました。
どうやら過去に佐和山一夜城復元プロジェクトなる催しが行われたようです。
整理の都合で記事を分けます。
続きは上の記事に。
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佐和山城跡(地理院 標準地図)
「佐和山(サワヤマ)(さわやま)」標高232.6m(三等三角点「石ヶ崎」)
滋賀県彦根市
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