金糞岳から竹生島を眺望 伊吹山地 岐阜・滋賀 ハルカスは?

2014年(平成26年)7月の話。
この日は午後からAさんと伊吹山地に属する金糞岳(かなくそだけ)を登山。
製鉄、あるいは製銅由来の山名でしょうか、風変りな名前の山として知られています。
同じ滋賀県下であれば、比良山地にも金糞峠や金糞滝の地名があり、そちらは製鉄鉱滓(精錬金属カス)(溶解金属カス)のカナクソ(金糞)(金屎)由来とされますが、往時の峠付近の色合いをカナクソの赤褐色に例えたもので、その名残とする説も見えます(が、戦後、峠付近の景観が大きく変化したことにより、今はその面影はありません)。
本記事で取り上げる、岐阜県と滋賀県の県境に所在する金糞岳の山名も、一般的に製鉄鉱滓のカナクソに由来するとされますが、史料上の根拠が乏しく、今となっては断定するのは難しいかもしれません。
伊吹山を跨ぎ、岐阜県側にも滋賀県側にも、製鉄、あるいは製銅を示唆する伝承や地名が見受けられるのは確かです。

金糞岳の標高は1317mで、これは滋賀県では伊吹山に次いで高い山、つまり、県下の第2位峰です。
そのことに加え、私たちは京都から向かうこともあり、どうしても金糞岳といえば滋賀県の山と見なしがちです。
しかしながら、この山は、伊吹山から虎子山、ブンゲン(射能山)、新穂山(大萱山)、金糞岳、土蔵岳、やがては三国岳(近江越前美濃国境)へと連なる長大な近江美濃国境尾根(伊吹山地)の一部でもあり、滋賀県の山というだけではなく、もちろん、岐阜県の山でもあります。
滋賀県側から見ると湖北の山、岐阜県側から見ると西美濃の山と言えるでしょう。

鳥越峠の北から金糞岳を登山 岐阜県揖斐郡揖斐川町

鳥越峠の北、「金糞登山道」 登山口 岐阜県 2014年7月
揖斐川町と長浜市を分ける鳥越峠の北、岐阜県側にあたる「金糞登山道」登山口。

足元に生える植物を観察するAさん。
背負っていらっしゃるのは、”MYOG”(Make your on gear)、つまり自作のパックです。
はっきりとは伺わなかったものの、スーパーエアテックスKDを用いたものでしょうか。

何を眺めていらっしゃるのでしょうか。

金糞岳の花と蝶

オカトラノオ(丘虎の尾)の花 金糞岳 2014年7月
オカトラノオ(丘虎の尾)のお花ですね。岐阜県。

フシグロセンノウ(節黒仙翁)の花 金糞岳 2014年7月
フシグロセンノウ(節黒仙翁)のお花。岐阜県、滋賀県。

かつては「逢坂花」とも呼ばれていたそうですが、今となっては昔の話で、現代においては逢坂山で見るのは難しそうです。
比叡山には自生していますので、昔はたしかに逢坂にも咲いていたのでしょう。

アサギマダラとヨツバヒヨドリ(四葉鵯)の花 金糞岳 2014年7月
私が好きな蝶であるアサギマダラとヨツバヒヨドリ(四葉鵯)のお花。

「旅する蝶」アサギマダラ 金糞岳 岐阜県 滋賀県 2014年7月
岐阜県と滋賀県の県境付近で見た「旅する蝶」アサギマダラ。

ソバナ、ヤマアジサイ(エゾアジサイ)、ノリウツギ、クサアジサイ、トリアシショウマ、アザミの仲間、ヤマジノホトトギスなどのお花も咲いていました。

風が入らず、暑く蒸し蒸ししていたこともあり、急な登りに疲れましたが、高山キャンプ場~白谷口(追分)~小森口~連状口~小朝の頭から来る中津尾根コースと合流し、主稜線に乗ってしまえば、相変わらず登り一辺倒なものの、あとは歩きやすい尾根道。
火の見櫓ではなく、おなじみ、滋賀県立大学さんの観察塔(調査塔)を横目にブナ帯を進みます。

金糞岳を登頂 滋賀県で2番目に高い山

金糞岳の山頂 滋賀県で2番目に高い山 長浜市、揖斐川町
金糞岳の山頂。標高点1317m峰。滋賀県では2番目に高い山です。
写真に写る石柱には「金糞岳 標高一三一四米 明治百年記念開発」と見え、明治百年、つまり、1968年(昭和43年)当時の標高は1314mだったことが窺えます。
もちろん、私たちが生まれる前の話ではありますが、この年、日本各地で明治百年記念事業が実施されました。

時間的な余裕があれば、西に連なる白倉岳(白倉ノ頭)(西峰)(三角点1270.7m)まで足を延ばすつもりでしたが、すでに17時。
さすがに白倉岳は諦め、のんびりお茶をいただくことにします。
山中とは異なり、山頂は涼しく快適で、避暑にうってつけ。
Aさんからいただいたスパイシーなお茶もひときわ美味しく感じます。
幸い、アブやヤブカなどの虫も見当たりません。

金糞岳の別称・旧称は?

1932年(昭和7年)の『近畿の山と谷』 (初版)には、

金糞ヶ岳(一三一四m)

 近江東淺井郡、美濃揖斐郡に跨る山である。あまり登山者は寄付かないと見えて、私達一行が出掛けた時などは、村の人や山稼の者が、何しに行くかとうるさく尋ねる。
(中略)
 土地の人は此山を「ノタ」と稱し、金糞と尋ねても知らぬ者が多かつた。非常に雪の深い山で、西に面した八合目邊には毎年梅雨時迄雪が殘る。
(中略)
頂上は廣々とした現狀を呈し深い笹に蔽はれて居る。南へ廣大な高臺を張出した様子は比良の蓬萊に酷似して居る。此上に堆積する雪田をノタの殘雪と稱せられ、山麓地方の目標となるものだ。
(中略)
 其他の登路では西股東股に挾まれた尾根筋を登つて白倉ノ頭(一二七〇m)に達し、東の鞍部を越えて頂上へ出るもの、
(後略)

『近畿の山と谷』

とあり、どうやら、地元では「ノタ」と呼ばれていたことが察せられます。
現代においても藪深く雪深い山ですが、昔は梅雨時まで雪が残っていたようで、これにはさすがに驚きます。

『近畿の山と谷』では金糞岳に滋賀県側からアプローチしていますので、「ノタ」と称した土地の人は滋賀県側の住民だと考えられます。
そこで、滋賀県側の地誌、1901年(明治34年)の『滋賀県東浅井郡誌』に目を通すと、金糞岳やノタは確認できませんが、

上草野村

千石谷山霜谷山深谷山ハ大字高山ニアル山脈中ノ高峯ニシテ東北部ニアリ
延谷山虻谷山花房山ハ大字高山ノ西北部ニアル山脈中ノ高峯ナリ
以上諸山ハ何レモ嶮峻ニシテ雜木繁茂セリ
奥山ハ大字高山ノ北部伊香郡ニ連續セル山ノ總稱ニシテ上草野村下草野村(西主計ヲ除ク)七尾村四ヶ字(保樂寺北池南池佐野)及伊香郡北富永村ノ馬上高時村ノ三字(高野石道小山)共有民林ナリ

『滋賀県東浅井郡誌』

などと、千石谷山、霜谷山、深谷山、延谷山、虻谷山、花房山、それに奥山といった山々の名前が連なります。
これらは金糞岳や、その周辺峰と関わりがあると考えられ、たとえば、花房山は花房コースに名前を残していますし、草野川の源流、東俣谷川の本流たる白谷の源頭域は深谷です。
白倉岳の二等三角点の点名が「深谷1」で、白倉岳の南稜(花房コース)に所在する、現代では俗に「奥山」と呼ばれる三等三角点1056.5mの点名が「深谷2」。
それに、千石谷配水池や霜谷橋といった現代の施設や構築物にも名前が見えます。
『滋賀県東浅井郡誌』の絵図では、揖斐郡との県境や伊香郡との郡境に「奥山」と表示していますので、どうやら、金糞岳と固有の山名では呼んでおらず、この頃は、この深い山域の共有山を全て「奥山」と総称していたようです。
土地の人でなければ、いったい誰が「金糞岳」と呼んでいたのでしょうね。

次に、岐阜県側の地誌に目を通すと、1924年(大正13年)の『揖斐郡志』に「金糞嶽 一三一四米突 坂内村」と見えます。
金糞岳が属した池田郡川上村(→池田郡坂内村→揖斐郡坂内村)の範囲はきわめて広く、金糞岳から土蔵山、それに、いわゆる夜叉ヶ池の三国岳まで含んでいます(三周ヶ岳は隣村)。
「川上」は金糞岳の山頂の北に所在する四等三角点1277.2mの点名にも採用されます。
滋賀県にも、鳥越峠の南尾根、あるいは天吉寺山の北尾根、カナ山(三角点985.8m峰)のすぐ南に夜叉ヶ妹池がありますね。
夜叉ヶ妹池は長浜市と米原市の市境より僅かに外れて米原市の曲谷側に所在します(甲津原ではありません)。
そういえば、木之本町の金居原、横山岳の山中にも夜叉ヶ池や夜叉ヶ妹池が……。

金糞岳から大阪のハルカスが見える? 近畿地方最遠の地

話は大きく変わります。
遠望、展望について興味をお持ちであればご存じの方もいらっしゃるでしょう。
金糞岳は「滋賀県、近畿地方から『あべのハルカス』を望む最遠望地点」 です。
→「滋賀県から『あべのハルカス』を遠望 最遠は?」

最遠の地ではありますが、金糞岳の山頂周辺は深い藪に覆われており、無雪期に「山頂から」琵琶湖方面(ひいては大阪方面)の展望は期待できません。
近江美濃国境は近畿地方でも屈指の豪雪地帯であり、雪が積もれば、(計算上では、)山頂から「あべのハルカス」を望むことも可能でしょうが、厳冬期の同山域は悪天候の日が続きがちなため、現地を訪れることもままなりません。
残雪期ともなると、次は春霞の影響を受けやすくなってしまいます。

では、どこからであれば、無雪期でも見える可能性があるのでしょうか。
山頂から約0.15kmほど西に下った地点から琵琶湖方面が開けており、(櫓を組むなど、視線の高さを上げる特別な手段を用いないのであれば、)ここが、現状、無雪期における滋賀県から「あべのハルカス」の最遠望候補地点となっています。
また、事実上、岐阜県からの最遠望候補地点でもあります。

金糞岳から琵琶湖や竹生島を眺望

金糞岳の西からの展望 琵琶湖、竹生島、湖北方面 2014年7月
金糞岳の西から琵琶湖、竹生島、湖北方面を眺望。計算上では遥か彼方にハルカスが……。

7月としてはましな条件とはいえ、遠くまで見えるような日ではなく。
この構図では正面(中央)の遠方に「あべのハルカス」の姿が見える可能性があります。
ただし、金糞岳から「あべのハルカス」は直線距離にして125.3kmも離れているうえ、湖北の山は雲が出やすく、また、湿度が高い地域、大気汚染の影響を受ける都市圏を幾度も越える必要があり、個人的には日中の撮影は困難をきわめるものと見ています。あくまでも参考程度に。
当山で「タカの渡り」を観察、記録なさる方々であれば望む機会もあるかもしれません。

ところで、上の写真の右端に、琵琶湖に浮かぶ竹生島の島影がうっすらと写っています。
撮影地点から竹生島の三角点まで22.5kmといったところでしょうか。
金糞岳のほうが伊吹山より背が高かったのに、伊吹山の神さまに首を切り落とされ、高さが逆転してしまった、その切り落とされた頭が飛んで行った先が竹生島である、といったお話があります。
このような「山の背くらべ」のお話は日本全国の各地で見ることができ、たとえば、京都の愛宕山と比叡山、鳥取の伯耆大山と因幡鷲峰山などが知られています。

実のところ、一般的に知られる金糞岳と伊吹山の背くらべの話は微妙に誤りというか、断定できない箇所があるので、より正確な話を記事下部の余談に追記しておきます。

シモツケソウ 金糞岳の山頂付近に咲く

シモツケソウ(下野草)の花 金糞岳 伊吹山地 2014年7月
シモツケソウ(下野草)のお花も咲いていました。金糞岳。岐阜県、滋賀県。

この日、朝のうち、米原では夏の青空が広がっていたらしく、出発前、京都でも盆地を囲む山々がくっきり鮮やかに見えていましたが、午後になり気温も上がり、私たちが長浜に到着する頃には伊吹山の上には雲が……。
金糞登山道から取り付き、大朝の頭(標高点1075m)を通過する頃には、振り返った先に見える伊吹山の頭の先は、すっかり雲の中に隠れてしまいました。

これは続いて金糞岳にも雲が流れてくるだろうという見込みどおり、お茶をいただいている間にこちらもガスの中、遠くの山並みが見えなくなってしまいました。
気温も下がり、上から1枚羽織らないとやや肌寒く感じます。
もっとも、煙っているのは山頂域だけであろうことは容易に推測できます。
下山を開始すると、案の定、すぐにガスから抜け出すことができました。

急な登りとひきかえ、下りは登山口まで40分未満。
帰りに立ち寄った連状口の展望台からは、西に白倉岳の南稜(花房コース)の連なり……、ゴロウ頭(標高点1075m)、奥山(三等三角点1056.5m)の向こうに沈む夕日の姿や、それに、眼下にはうっすら照らされる琵琶湖も見えていました。
撮影はAさんにお任せし、私は琵琶湖と夕日を眺めつつ、金糞岳との別れを惜しみます。
私好みの静かな奥山、近江美濃国境の山々の良さを再確認できた1日でした。

余談・追記

伊吹山と浅井岳の背くらべ 『帝王編年記』(歴代編年集成)

室町時代(南北朝期)に成立した『帝王編年記』(歴代編年集成)における、元正天皇の治世、養老7年(723年)の条に、

伊吹岳与浅井岳競長高

又云霜速比古命之男多々美比古命是謂夷服岳神也女比佐志比女命是夷服岳神之姉在於久恵峯也次浅井比咩命是夷服神之姪在浅井罡也是夷服岳与浅井岳相競長高浅井罡一夜増高夷服岳怒拔刀釼殺浅井比賣々々之頚堕江中而成江嶋名竹生嶋其頭乎

『帝王編年記』

※「浅井罡」は浅井岡、「釼」は剣。漢字表記は写本による。

と見え、これが伊吹山と金糞岳の背くらべ話の「元ネタ」です。
元正天皇の治世を記録した『続日本紀』や『扶桑略記』には見えず、『帝王編年記』は元正天皇の治世と近い時代に編纂された『近江国風土記』(佚書)から引いたと考えられています。
この話を伝えた古老は余呉湖の羽衣伝説も伝えており、語り部的な存在だったのでしょう。
風土記については、享保19年(1733年)に大成した『近江國輿地志略』(近江国輿地志略)に「近江の【風土記】今人間になし。わづかに淺井の一郡脫簡帋六葉ばかり水戸の館庫にあり。漸淺井一郡の境界及竹生島の事すこしくしるせり。其餘の神社・佛宇・山川・行路等の事なし。」と見え、江戸時代中期頃には「水戸の館庫」(もちろん、彰考館でしょう)に一部が残っていたようです。
現存しませんが、その内容は『帝王編年記』と共通するかもしれません。

『帝王編年記』によると、夷服岳(伊吹山)の神様と、その姪(妹の誤りではないかとも考えられています)である浅井岡(浅井岳)に在する神様との間で、お互いの山の高さを競う出来事が起きましたが、浅井岡は一夜にして高さが増した。
「ずる」をしたと考えたのでしょうか、これに怒った伊吹山の神様が、浅井岳に在する神様の首を剣ではねてしまい、その頭が江(琵琶湖)の中に落ちて、やがて江の嶋となった。
竹生嶋(竹生島)と名付いたのは、その頭だろうと。
ここではあくまでも「浅井岡」や「浅井岳」としており、この描写だけでは浅井岳が現代におけるどの山を指すか分かりませんが、おそらく金糞岳を指すのだろうと比定したのが、今によく知られるお話です。
かつて、金糞岳は滋賀県東浅井郡(上草野村)に属しており、さらに古くは近江国浅井郡(高山村)に属していました。
また、伊吹山の神様には姉もいて、そちらは久恵峯(久恵峰)なる山に在する神様だと見えますが、この「久恵峰」は、中山道を跨いで伊吹山と対峙する、鈴鹿山脈北端域の霊仙山を指すとする説もあります。
しかしながら、浅井岳にせよ、久恵峰にせよ、どの山を指すかは断定できません。
たとえば、小谷山(浅井氏居城の小谷城跡の山)も、俗に「浅井の山」と呼ばれていました(が、もちろん、『帝王編年記』が編纂された時代にそのように呼ばれていたとは考えにくいです)。
伊吹山と競い合うからにはそれなりの高さがあるはずと考えると、やはり、金糞岳がふさわしいようにも思われますね。

金糞岳(地理院 標準地図)

クリック(タップ)で「金糞岳」周辺の地図を表示
「金糞岳(カナクソダケ、キンプンダケ)(かなくそだけ、きんぷんだけ)」
標高1317m
岐阜県揖斐郡揖斐川町、滋賀県長浜市

ABOUTこの記事をかいた人

Maro@きょうのまなざし

京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!