2013年(平成25年)11月、京都の山々では紅葉・黄葉が進む時期。
斧堂跡から晩秋の風景を撮影するため、この日は比叡山を登山しました。
解体作業が進む大観覧車「イーゴス108」などを比叡山の山上から遠望撮影した話は上の記事に。
今回はその続きです。
今年は訪れる時期がやや遅かったこともあり、標高の高い地点では、私が好きなオオモミジやウリハダカエデなどの紅葉はすでに盛りを過ぎていました。
目次
比叡山 斧堂跡(和労堂跡)の紅葉
比叡山の斧堂跡(和労堂跡)から皆子山や峰床山など京都北山の山々や、眼下に大原を望む。
撮影地点から京都府最高峰の皆子山(京都市左京区、滋賀県大津市)まで15km。
やや分かりにくいですが、杉ノ峠の紅白鉄塔も写っていますね。
眼下に見えているのは大原でも南西寄りの地域です。
オオモミジは落葉が進んでいましたが、ツツジが二度咲きしていました。
この場所には惹かれるものがあり、毎年のように同じ構図で撮影を続けています。
和労堂とは足休めの場、いわば休憩所の意ですが、現代において、その跡地の周辺が「つつじヶ丘」として整備されたり、京都一周トレイルコース道標「北山4」の展望地として開けているのもなにかの縁というものでしょう。
比叡山の参拝道にはこういった和労堂が何ヶ所も存在しており、童堂とも呼ばれたり、あるいは、俗に「宿り(やどり)」とも呼ばれていたようです。
滋賀県側の本坂(表坂)の道中には、かつて、「要の宿(かなめのやどり)」と呼ばれる、とくに有名な和労堂がありました。
1926年(大正15年)の『京の夢』によると、「唐崎の松は扇の要にて漕きゆく舟は墨繪なりけり」の歌碑が(その当時は)要堂の傍に建っていたらしい。
本坂から眺めると、「唐崎の松」が琵琶湖の「扇の要」にあたり、近江の風景が墨絵のように感じられたのでしょう。
現代において、この歌は紀貫之が詠んだとする説が知られていますが(伝貫之歌)、『京の夢』や、1921年(大正10年)の『天台宗大觀』(天台宗大観)では、天台座主であった慈円(慈鎮和尚)が詠んだ歌としており、よく知られる歌でありながら、実のところ、作者や典拠が定かではありません。
伝教大師最澄が詠んだ歌とする書までありますが、歌風や詞から見て、紀貫之の時代の歌、つまり、古今和歌集の時代の歌とするには苦しいかなとは。
私が知るかぎりでは、と前置きしておきますが、和歌に「すみゑ(墨絵)」が詠まれるのは平安時代末期頃からではないでしょうか。
鎌倉時代後期の『夫木和歌抄』(夫木集)に、冷泉為相による「からさきの松乃一木をやとりにてとやまにかよふ時鳥かな」(から崎の松のひと木をやどりにて外山に通うほととぎすかな)の夏歌が収載されます。
初夏の比叡山は渡り鳥のホトトギスや、野鳥が作ったと見立てた「時鳥の落し文」(昆虫のオトシブミが丸めて巻いた葉)の名所でもありました。
比叡山 四明岳の展望・眺望
「イーゴス108」の最後の姿を望む
比叡山から解体された「イーゴス108」、伊吹山、琵琶湖、沖島、多景島などを望む。
撮影地点から滋賀県最高峰の伊吹山(滋賀県米原市)まで65.3km。
せっかくなので、伊吹山、多景島も含めた構図の写真も掲載しておきます。
大観覧車「イーゴス108」、これが最後の写真となりそうです。
瀬田川や石山の周辺を俯瞰
比叡山から瀬田川、室生山地東部、高見山地東部の山々を望む。
撮影地点から局ヶ岳(三重県松阪市)まで81.0km。
「伊勢の槍」ともたとえられる急峻な山容を誇る局ヶ岳ですが、比叡山からいつでも望めるわけではありません。
「伊賀富士」尼ヶ岳、大洞山が明瞭に見通せる日であっても、その南に対峙する三峰山は見えにくいのが常ですが、この日も同様でした。
距離としては局ヶ岳のほうが遠くに所在するのに不思議なものです。
トレイルコース、四明岳からの景色を楽しんだ後は、混雑する延暦寺さんを避け、比叡山人工スキー場跡(蛇ヶ池運動場跡)から西山峠、松尾坂を経て八瀬へと下山します。
昼夜問わず、下りはこのコースを利用することが多く。
比叡山人工スキー場跡~西山峠~松尾坂~八瀬
比叡山空中ケーブル 高祖谷駅跡
「比叡山空中ケーブル」の高祖谷駅跡。高祖谷の読みは「こうそだに」。
満目蕭然たる光景ですが、廃墟を好む方々の間では有名なスポットですね。
私は比叡山のマイナなコースもおおむね歩いているつもりですが、さすがに、比叡山空中ケーブル(旧ロープウエー)の高祖谷駅跡から延暦寺駅跡まで廃線跡を支柱跡に沿って直接的にたどるコースは歩いたことがありません。
かつて、太平洋戦争のさなかに廃線となるまでは、西塔へ向かうゴンドラが空を行き来しており、容易に谷を跨ぐことができましたが、今となってはそうはいきません。
深い藪の中、大きく谷を下り、さらに登り返すことを考えると、いかに藪漕ぎばかりしていた私でも足を踏み入れる気が起きませんが、いつぞや、比叡山でお会いした方が、昔、あの廃線跡を歩いたことがある、ひどく苦戦したとおっしゃっていて、世の中にはすごい方がいらっしゃるものだと。
高祖谷駅跡の紅葉
比叡山の廃墟として知られる高祖谷駅跡の遺構越しに紅葉を望む。
「比叡山空中ケーブル」高祖谷駅跡の紅葉。
こちらは登山道から見た景色。
日本天台宗では、中国天台宗の天台大師(智者大師)智顗を高祖となさっています。
もちろん、日本の天台宗における宗祖は伝教大師最澄です。
唐代の注釈書『止觀輔行傳弘決』(止観輔行伝弘決)によると、天台山に入った智顗(ちぎ)が最初に建てたのが修禅寺で、後に入唐した最澄も、その当時、天台山修禅寺の座主であった道邃(どうすい)から教えを受けています。
「天台」だけではなく、「修禅」も日本の天台宗で重視されていたようで、比叡山のどこかに「修禅嶽」なる山が所在したようですが、(私には)正確な所在地が分かりません。
西塔から横川に通じる、いわゆる「峰道」は、本来は「西塔修禅ヶ峯道」の略称ですので、西塔の先の、おそらく横川の付近だとは考えられます。
西山峠の上 展望地の風景 高祖谷駅跡の下
ススキ広がる比叡山から眼下に京都盆地、岩倉盆地、遠くに愛宕山などを望む。西山峠の上。
撮影地点から北摂の剣尾山(大阪府豊能郡能勢町)まで39.2km。
日没の1時間ほど前に撮影した写真です。
やや霞んでおり、低い空には雲も多く、これでは沈む夕日は撮影できないだろうと見切りをつけ、早めに下山することに。
ところが、山中の木々の合間には真っ赤な夕日の姿が覗いており、少し惜しいことをしたかなとも思いましたが、いかんせん風が冷たく。
2021年(令和3年)、追記。
本記事を公開してそれなりの年月が過ぎました。
そろそろ構わないかなと思い、記録がてら、正確な話を残しておきます。
実は、この日、当地で京都の風景を撮影していたら、後から若い外国人女性さんが登っていらっしゃり、私の横にのんびり腰かけて景色をお眺めに。
そろそろ日没も近い時間帯、しかも軽装……、息も切らさずノーストックで駆け上っていらっしゃった……、この場所に妙に慣れてらっしゃるような……、どの国のご出身だろう……、などと次々に疑問が湧きますが、そこはあえて何も聞かないのが山での嗜み。
しばらくの間、一緒に景色を楽しみましたが、やはり、私がいると向こうさんも気になるのでは……、あるいは、ここはこの方のお気に入りの場所なのでは……、などと考えてしまい、夕景は諦め、少し早めに立ち去ったのでした(私のことを気になさるような素振りはお見せにならなかったですが)。
なかなか不思議な体験でしたが、このことを記事に書くと、それを読んだ方が興味本位で訪れるかもしれないと思い、当時は伏せていたのでした。
追記終わり。
2022年(令和4年)1月、再追記と訂正。
当時の私的な山行記録が出てきたので、改めて確認してみたら、上は「正確な話」ではなかったです。
この方とは過去に夕暮れ時の当地近辺で何度かお会いしていました。
どうも、この時間帯に、松尾坂のコースを利用して比叡山を登っていらっしゃる方のようです。
記事本文でも書きましたが、私は「昼夜問わず、下りはこのコースを利用することが多い」ので、お会いする機会があったのでしょう。
いつも同じコースを利用なさってるようでしたので、「このことを記事に書くと、それを読んだ方が興味本位で訪れるかもしれないと思い、当時は伏せていた」のでした。
記憶はしっかりしているほうだと思っていましたが、さすがに8年前のことともなると、細部が誤ってますね。
今もお元気でしたら嬉しいです。
追記終わり。
西山(比叡山西山)(西山峠の上) 標高559m
西山峠から西山の山頂まで足を延ばし、お参りしてから下山します。
地形図に見える標高点559mを指しますが、現地には山名や標高点を示す標はありません。
なだらかな尾根の上に残る古い墓所であり、登山の対象となる地ではないのでしょう。
…などと書いておいたら、後年、「西山 559m」と記した、ちょっとした目印的なものが設置されたそうです(→すぐに失われたとか?)。
本記事の初稿を公開した時点では、ほぼ失われたも同然な山名で、少なくとも標高点559mを「西山」とする記事はインターネット上の一般的な検索エンジンでは1件もヒットしなかったように記憶していますが、また広まったようですね。
追記
高祖谷山と御所谷山
上記の「正確な話」(という名目の思い出話)のついでに追記しておきますと、1911年(明治44年)の『京都府愛宕郡村志』の「八瀬村志」に「高祖谷山」なる山名が見え、「叡山西面の一山なり高約千五百尺樹木多く渓流一條八瀬川に入る」としています。
京都府水防計画によると、高祖谷駅の西の深く険しい谷筋を「高祖谷川」としており、周辺にピークらしいピークが見当たりませんが、高祖谷山はどこを指しているのでしょうか。
約千五百尺の高さは約450mですが、これは大雑把な値でしょうから、あまりあてにはなりません。
興味が湧いた方は、過去の記録を調べてみたり、地形図と照らし合わせて考えてみてください。
「八瀬村志」では、八瀬村の山として、比叡山と高祖谷山以外に「御所谷山」の山名を挙げており、これは「叡山西面の一山なり其麓に天満宮社あり此所より横川に登路有り」としています。
「麓の天満宮社」は現在の八瀬天満宮さんを指しますが、御所谷山の具体的なピークがどこであるかは分かりません。
八瀬天満宮さんの少し北、京都バス「登山口」停留所から黒谷青龍寺さんに通じる、いわゆる「黒谷越」の登山道があり、そのコースの北東の谷を「黒谷」(大黒谷)、南西の谷を「八丁谷」(八町谷)と呼びます。
この八丁谷を詰めていくと、やがて南向きに遡上することになり、西山峠の東に出ます。
御所谷については、八瀬天満宮さんの裏の山手に「御所谷碑」 が建っています。
篆額(碑額)を揮毫した晃親王は山階宮晃親王で、撰文の作者である宇田淵(ふかし)は勤王家として知られる宇田栗園(りつえん)ですね。
「御所谷」の称が南朝ゆかりである(と考えられていた)ことが窺えます。
晃親王の孫にあたる山階芳麿はとくに鳥類を好んだ動物学者(理学博士)で、山階鳥類研究所の創設者。
今回の記事では訪れていませんが、「天然紀念物 比叡山鳥類蕃殖地」(天然記念物 比叡山鳥類繁殖地)の石碑が、比叡山空中ケーブルの延暦寺駅跡の近くにありますね。
「大黒」や「八町」は八瀬村の森林として名前が伝わっており、上の記事で少し取り上げています。
記事本文で触れた「修禅嶽」の「修禅」は、現代では「修仙」と置き換わったのでは? といった話は上の記事に。
関連記事 2013年11月 さようなら「イーゴス108」
すべて同日の山行記録です。併せてご覧ください。
- 比叡山から解体進む大観覧車「イーゴス108」と琵琶湖を撮影
- 高祖谷駅跡(比叡山空中ケーブル)、斧堂跡の紅葉 西山559m
比叡山 西山(地理院 標準地図)
「四明岳(シメイガタケ)(しめいがたけ)」
標高838m
「西山」(比叡山西山)
標高559m
京都市左京区
西山(標高点559m)の南の鞍部が西山峠で、峠から南の尾根道を取れば高祖谷駅跡の横を経て、比叡山人工スキー場跡(蛇ヶ池跡)に出ます。
西山峠から西に松尾坂を下れば叡山電鉄さんの八瀬比叡山口駅へ下山できます。
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