2014年(平成26年)4月中旬に「大原の里10名山」金毘羅山を登山し、咲き始めたヒカゲツツジ(日陰躑躅)の淡い色合いなどを楽しみました。
現代において、金比羅山と誤表記されやすい金毘羅山は、大原の江文神社さんの裏山で、古くは「江文山」とも称しました。
「誤表記」とするのは現代における観点であり、江戸時代後期頃の紀行文や絵図では「金比羅山」の表記も見られます。
大原戸寺町や井手町を起点として金毘羅山を登り、静市静原町まで桜を眺めながら歩いた話は前回の記事に。
今回はその続きのようなものです。
前提として、上の記事に目を通していただくと、本記事の歴史的な話は分かりやすいでしょう。
あれから約1週間後、4月も下旬の話。
ヒカゲツツジの開花も進んでいるかと思い、再度、金毘羅山を訪れました。
先日は江文神社さんから登りましたが、この日は大原と静原を分ける江文峠の上から取り付きます。
目次
京都市左京区 金毘羅山を登山
琴平新宮社の新緑
金毘羅山の南中腹、琴平新宮社さんの新緑。
1週間で青葉茂り緑が濃くなりました。
1911年(明治44年)の『京都府愛宕郡村志』における「静市野村志」には、
「琴平神社」
字靜原 小字堂ノ峰祭神 大己貴命 崇徳天皇
無格社社傳には崇徳天皇讃岐國にて崩御の後兵衞佐局か天皇の御遺旨により御遺物を集め京都に歸り此地を相し安仁年中創立せしものなりとあり未た如何を知らす境内四百坪民有地第一種
『京都府愛宕郡村志』
と見え、讃岐の「こんぴらさん」同様、こちらも崇徳天皇ゆかりであることが伝わります。
兵衛佐局は崇徳天皇(崇徳院、崇徳上皇)の寵愛を受けた女房で、保元の乱で讃岐に配流された崇徳上皇に同行しました。
『京都府愛宕郡村志』によると、境内末社として兵衛佐局を祭神とする「奥ノ宮」も祀られていたようですね。
ただし、「未た如何を知らす(いまだ如何を知らず)」としていますので、この由緒が歴史的事実を正しく伝えているかは分かりません。
「安仁年中」は仁安の誤りだろうとは考えられます(「仁安年中」であれば、1166年~1169年)。
また、現在は「新宮社」(若宮)を称していらっしゃるので、讃岐より分霊の扱いでしょうか(再建時に「新宮」を称するようになった?)。
私が調査のため頻繁に訪れていた頃は、熱心な信者さんがよく参拝にいらしてました(もう書いても構わないでしょうが、その方はいつも般若心経を唱えていらっしゃいました)。
少し付け加えておきます。
崇徳天皇から寵愛を受けたとされる兵衛佐局や阿波内侍は金毘羅山(江文山)と関わりがありますが、中宮(皇后)の皇嘉門院(藤原聖子)はどうでしょうか。
後に天台座主となる慈円は若かりし日に江文山の江文寺で百日間参籠し、比叡山無動寺で千日入堂の荒行を果たした後、江文山に戻り、若くして隠居しています。
もっとも、兄である九条兼実の強い意向で、その隠居生活も長くは続かず、有力寺院の別当などを歴任し、後白河法皇の護持僧となりますが……。
この慈円や九条兼実の異母姉が皇嘉門院で、父である藤原忠通や、異母弟である九条兼実の後見を受け、保元の乱以降も立場を保ち続けました。
慈円らを介して、皇嘉門院も江文山と何かしら関わりがあったかもしれません。
また、『平家物語』灌頂巻における後白河院(後白河法皇)の文治2年4月「大原御幸」は物語上の創作ではないかと考えられていましたが、史料の見直しが進み、同年同月に江文寺や来迎院へ御幸したらしいと云々。
後に廃れましたが、この当時の江文寺は比叡山と関わりが深い有力寺院だったと考えられます。
ロッククライミングゲレンデ分岐
江文神社さん(江文峠)、ロッククライミングゲレンデ、金毘羅山の岐れに設置された新しい道標。
ロッククライミングゲレンデへの道のりに、紫色のミツバツツジのお花が見えていますね。
ヒカゲツツジが咲く山道
金毘羅山の岩場に咲くヒカゲツツジ(日陰躑躅)。
淡いクリーム色のお花がみずみずしく、明るさを放つかのような鮮やかさには「サワテラシ」の別称も頷けます。
金毘羅山の展望
金毘羅山から同じ大原三山の焼杉山や比良の蓬莱山を望む。
撮影地点から蓬莱山(滋賀県大津市)まで12.3km。
大した距離ではないとはいえ、蓬莱山は山頂の施設まではっきり見えていました。
この蓬莱山に遮られるため、金毘羅山から白山を望むことはできません。
しかし、冬場の空気が澄んだ日であれば、遥か遠くに所在する、ある高峰の姿が……。
そのうち、私以外にも気付く方が現れるかも(笑
主な山 | 距離 | 標高 | 山頂所在地 |
---|---|---|---|
水井山 (阿弥陀ヶ峯) | 3.6km | 793.8m | 京都市左京区 滋賀県大津市 |
横高山 (釈迦ヶ岳) | 3.8km | 767m | 京都市左京区 滋賀県大津市 |
大黒山 | 5.1km | 728m | 滋賀県大津市 京都市左京区 |
大比叡 | 6.3km | 848.0m | 滋賀県大津市 京都市左京区 |
四明岳 | 6.2km | 838m | 京都市左京区 |
金毘羅大権現さんの展望地から撮影しています。
近い距離であるにもかかわらず、比叡山はやや霞んだ見え方でした。
眼下に見えているのは、大原でも南部寄りの戸寺(大原戸寺町)のあたりです。
黒谷(大黒谷)の上の大黒山については上の記事が詳しい。
琴平神社さんでもお祀りされる大己貴命(大国主神)は大黒天と習合していました。
前回の記事でも少し触れましたが、金毘羅山からは遠くに京都を一望できます。
夜景もなかなかの美しさですが、たとえば、とくに有名な大文字山や東山山頂公園(将軍塚)などと比較した場合、アクセスに不利があり、街までの距離も遠くなるため、現状では無名なスポットの域を出ません。
金毘羅山から京都盆地、生駒山、遠くにうっすら大阪方面を望む。
主な山 | 距離 | 標高 | 山頂所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
小塩山 | 23.5km | 642m | 京都市西京区 | |
ポンポン山 (加茂勢山) | 26.4km | 678.7m | 京都市西京区 大阪府高槻市 | |
天王山 | 26.8km | 270m | 京都府乙訓郡大山崎町 | |
生駒山 | 50.2km | 641.9m | 奈良県生駒市 (大阪府東大阪市) | 生駒山地最高峰 |
こちらは、よく知られる神代文字の石碑(コンクリート柱)が建つ展望地(東峰と西峰の間の展望地)から撮影しています。
あいにく、生駒山や遠くの低い空は霞んでいましたが、これでも今春ではましな部類でしょう。
上の写真では分からないと思いますが、天王山の右にはうっすらあのビルの姿も……。
金毘羅山から霞む「あべのハルカス」を望む。
撮影地点から超高層ビル「あべのハルカス」(大阪市阿倍野区)まで58.9km。
参考までにトリミングした写真を。
写っているとは申し上げても、目を凝らしてようやく分かるかどうか程度のものです。
あくまでも参考程度に。方角の目安としていただければ幸いです。
この日は大文字山から「あべのハルカス」の姿がうっすら見えていたと聞いていますが、大文字山からハルカスまでの距離(約50km)と比較すると、金毘羅山からハルカスまでの距離(約60km)は、やはり遠く感じてしまいます。
追記。
1ヶ月後に金毘羅山を再々訪し、明瞭に「あべのハルカス」だと分かる写真を撮影できました。
その話は上の記事に。
三壺大神(三壷大神)について
三壺大神さん。金毘羅山は東峰(最高峰)の山頂でお祀りされます。火壺(日壺)、雨壺、風壺。
写真に写る標柱の「壺」(壷)の字を「宝」と読み誤ったのでしょうか、「三宝大神」と紹介する記事等も見受けられますが、歴史的に見ても「三壺大神」です。
今となっては荒れてはいるものの、三壺大神さんは古くより当地でお祀りされていました。
「どこが金毘羅山の山頂か?」と問われたら、ここ東峰(最高峰)ですが、記事下部の地図では分かりやすいように、地形図上で山名が表示される西峰(三角点峰)を座標の中心に設定しています。
正徳元年(1711年)の『山州名跡志』には、
井出村
(中略)
「江文明神社」
(中略)
「火壺 雨壺 風壺」
同所後山上ニ在
上古ヨリ此号ヲナシ自然ノ三穴ニシテ石ノ蓋アリ
風ヲ止メ雨ヲ乞フニハ此所經ヲ納入テ行法ヲナスニ願所必ズ験アリ
此所魔所ナリトテ土人怖為也『山州名跡志』
と見え、同誌を受けた宝暦4年(1754年)の『山城名跡巡行志』にも、
井出村
(中略)
「江文明神」
(中略)
「江文山」
神祠ノ後ニ在「日壺 雨壺 風壺」
同山ノ上ニ在
石穴ノ形 壺ニ似 土民此所ニ詣テ雨請晴願風ヲ祈ル 必ス応有
此所魔所トテ恐ヲ為『山城名跡巡行志』
と見えます。
「雨を請い、晴れを願い、風止めを祈る」と願いが叶う神様とされています。
『山州名跡志』では「石の蓋付の三穴に経を納め入れて行法をなす」としており、ある種の経塚としての性質も持っていたようです。
「行法をなす」を単純に考えれば、雨乞いをしたのは仏者や行者のようにも思えますが、『山城名跡巡行志』では土地の住民が詣でて祈った、としています。
これを「神」と見るのであれば、江文寺の毘沙門天信仰であったり、修験道との関わりが深くなった(江文寺跡の推定地には不動堂が置かれました)とされる金毘羅山(江文山)としては珍しく、より土着的な信仰のようです。
江文神社さんの「古代より背後にそびえる江文山(今の金毘羅山)の頂上の朝日の一番早く照る処に御祀りされて居りました神々を、平安時代の後期に此処に、住人達が御殿を創建して御鎮座を願ったので有る」「中央の御正殿には倉稲魂神(穀霊神)向って右の御殿には級長津彦神(風・水神)向って左の御殿には軻遇突智神(火の神)を御祀りして」といった、現在の由緒を拝見するかぎり、級長津彦神(シナツヒコ)と軻遇突智神(カグツチ)を三壺大神と重ねていらっしゃると考えられ、おそらく山頂の三壺大神さんを元宮の地と見なしていらっしゃるのでしょう。
1979年(昭和54年)発行の『京都市の地名』では、江文神社さんについて、「創建は明らかではないが、もと天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の造化三神を祀ったと伝えられる江文山(山城名勝志)の、麓社として建立された神社と考えられる」としています。
追記しておきますと、後年、三壺大神さんに立派な祠が再建されました。
もし、三壺大神さんが大原郷八ヶ村の氏神たる江文神社さんの元宮とも考えられているのであれば、今もなおお参りなさる方々が多いことも頷けます。
三壺大神さんは何と重ねて考えられていたか? という話も上の記事で。
神代文字(阿比留文字)の碑文や、当地における数々の伝承についても、やや詳しく取り上げています。
注意喚起。
2014年4月26日に江文峠でツキノワグマ(クマ、熊)が目撃されています。
峠の北にあたる金毘羅山や、あるいは峠の南にあたる瓢箪崩山や箕ノ裏ヶ岳を登る方は注意してください。
追記
ヒカゲツツジが京都府の準絶滅危惧種に指定
『京都府レッドデータブック2015』で、新たにヒカゲツツジが準絶滅危惧種の指定を受けました。
減少の要因として、「近年、園芸目的の採集が見られる」(盗掘)と指摘されています。
関連記事 2014年4月 春の金毘羅山ハイキング
すべて同時期の山行記録です。併せてご覧ください。
- 金毘羅山 江文山と翠黛山(小塩山) ヒカゲツツジ 大原の桜
- 京都北山 金毘羅山の三壺大神とヒカゲツツジ 大原の里10名山
金毘羅山 三角点峰(地理院 標準地図)
「金毘羅山(コンピラヤマ)(こんぴらやま)」
別称として「江文山(エブミヤマ)(えぶみやま)」
西峰(三角点峰) 標高572.3m(三等三角点「根王」)
東峰(最高峰) 標高約580m
京都市左京区
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